何を読んでみても、何を聞いてみても、
もはや世の中の見定めはつかぬ。
私は詩を読み、詩を書くだけのことだ。
だつてそれだけが、私にとつては「充実」なのだから。
――そんなの古いよ、といふ人がある。
しかしさういふ人が格別新しいことをしてゐるわけでもなく、
それに、詩人は詩を書いてゐれば、
それは、それでいいのだと考ふべきものはある。
とはいへそれだけでは、自分でも何か物足りない。
その気持は今や、ひどく身近かに感じられるのだが、
さればといつてその正体が、シカと掴[本当は別の漢字を使用]めたこともない。
私はそれを、好加減に推量したりはしまい。
それがハツキリ分る時まで、現に可能な「充実」にとどまらう。
それまで私は、此処(ここ)を動くまい。それまで私は、此処を動かぬ。
われわれのゐる所は暗い、真ッ暗闇だ。
われわれはもはや希望を持つてはゐない、持たうがものはないのだ。
さて希望を失つた人間の考へが、どんなものだか君は知つてるか?
それははや考へとさへ謂[い]へない、ただゴミゴミとしたものなんだ。
私は古き代の、英国[イギリス]の春をかんがへる、春の訪れをかんがへる。
私は中世独逸[ドイツ]の、旅行の様子をかんがへる、旅行家の貌(かほ)をかんがへる。
私は十八世紀フランスの、文人同志の、田園の寓居[ぐうきょ]への訪問をかんがへる。
さんさんと降りそそぐ陽光の中で、戸口に近く据えられた食卓のことをかんがへる。
私は死んでいつた人々のことをかんがへる、――(嘗[かつ]ては彼等も地上にゐたんだ)。
私は私の小学時代のことをかんがへる、その校庭の、雨の日のことをかんがへる。
それらは、思ひ出した瞬間突嗟[とっさ]になつかしく、
しかし、あんまりすぐ消えてゆく。
今晩は、また雨だ。小笠原沖には、低気圧があるんださうな。
小笠原沖も、鹿児島半島も、行つたことがあるやうな気がする。
世界の何処[どこ]だつて、行つたことがあるやうな気がする。
地勢[ちせい]と産物くらゐを聞けば、何処だつてみんな分るやうな気がする。
さあさあ僕は、詩集を読まう。フランスの詩は、なかなかいいよ。
鋭敏で、確実で、親しみがあつて、とても、当今日本の雑誌の牽強附会[けんきょうふかい]の、陳列みたいなものぢやない。それで心の全部が充されぬまでも、サツパリとした、カタルシスなら遂行されて、ほのぼのと、心の明るむ喜びはある。
[寓居(ぐうきょ)]
・仮の住まい。また自分の家を謙譲して言うこともある。
[地勢(ちせい)]
・土地の有様。表面の起伏の様子など。
[牽強附会・牽強付会(けんきょうふかい)]
・自分の都合に言いように強引に理屈をこじつけること。由来はちょっと調べただけでは不明だった。
2009/03/23