秋を呼ぶ雨 (中原中也)

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秋を呼ぶ雨

畳の上に、灰は撒[ま]き散らされてあつたのです。
僕はその中に、蹲[うずく]まつたり、坐つたり、寝ころんだりしてゐたのです。
秋を告げる雨は、夜明け前に降り出して、
窓が白む頃、鶏の声はそのどしやぶりの中に起つたのです。

僕は遠い海の上で、警笛を鳴らしてゐる船を思ひ出したりするのでした。
その煙突は白く、太くつて、傾いてゐて、
ふてぶてしくもまた、可憐[かれん]なものに思へるのでした。
沖の方の空は、煙つてゐて見えないで。

僕はもうへとへとなつて、何一つしようともしませんでした。
純心な恋物語を読みながら、僕は自分に訊[たず]ねるのでした、
もしかばかりの愛を享[う]けたら、自分も再び元気になるだらうか?

かばかりの女の純情を享けたならば、自分にもまた希望は返つて来るだらうか?
然し……と僕は思ふのでした、おまへはもう女の愛にも動きはしまい、
おまへはもう、此の世のたよりなさに、いやといふ程やつつけられて了[しま]つたのだ!

弾力も何も失くなつたこのやうな思ひは、
それを告白してみたところで、つまらないものでした。
それを告白したからとて、さつぱりするといふやうなこともない、
それ程までに自分の生存はもう、けがらはしいものになつてゐたのです。

それが嘗[かつ]て欺かれたことの、私に残した灰燼[かいじん]のせゐだと決つたところで、
僕はその欺かれたことを、思ひ出しても、はや憤りさへしなかつたのです。
僕はたゞ淋しさと怖れとを胸に抱いて、
灰の撒き散らされた薄明の部屋の中にゐるのでした。

そしてたゞ時々一寸[ちょっと]、こんなことを思ひ出すのでした。
それにしてもやさしくて、理不尽でだけはない自分の心には、
雨だつて、もう少しは怡[たの]しく響いたつてよからう…………

それなのに、自分の心は、索然と最後の壁の無味を甞[な]め、
死なうかと考へてみることもなく、いやはやなんとも
隠鬱[いんうつ]なその日その日を、糊塗[こと]してゐるにすぎないのでした。

トタンは雨に洗はれて、裏店の逞[たくま]しいおかみを想はせたりしました。
それは酸つぱく、つるつるとして、尤[もっと]も、意地悪でだけはないのでした。
雨はそのおかみのうちの、箒[ほうき]のやうに、だらだらと降続きました。
雨はだらだらと、だらだらと、だらだらと降続きました。

瓦は不平さうでありました、含まれるだけの雨を含んで、
それは怒り易い老地主の、不平にも似てをりました。
それにしてもそれは、持つて廻つた趣味なぞよりは、
傷み果てた私の心には、却[かえっ]て健康なものとして映るのでした。

もはや人の癇癖[かんぺき]なぞにも、まるで平気である程に僕は伸び朽ちてゐたのです。
尤も、嘘だけは癪[しゃく]に障[さわ]るのでしたが…………
人の性向を撰択するなぞといふことももう、
早朝のビル街のやうに、何か兇悪な逞しさとのみ思へるのでした。

――僕は伸びきつた、ゴムの話をしたのです。
だらだらと降る、微温の朝の雨の話を。
ひえびえと合羽[かっぱ]に降り、甲板(デツキ)に降る雨の話なら、
せめてもまだ、爽々[すがすが]しい思ひを抱かせるのに、なぞ思ひながら。

何処[どこ]まで続くのでせう、この長い一本道は。
嘗[かつ]てはそれを、少しづつ片附けてゆくといふことは楽しみでした。
今や麦稈真田(ばつかんさなだ)を編むといふそのやうな楽しみも
残つてはゐない程、疲れてしまつてゐるのです。

眠れば悪夢をばかりみて、
もしそれを同情してくれる人があるとしても、
その人に、済まないと感ずるくらゐなものでした。
だつて、自分で諦めきつてゐるその一本道…………。

つまり、あらゆる道徳(モラリテ)の影は、消えちまつてゐたのです。
墓石のやうに灰色に、雨をいくらでも吸ふその石のやうに、
だらだらとだらだらと、降続くこの不幸は、
もうやむものとも思へない、秋告げるこの朝の雨のやうに降るのでした。

僕の心が、あの精悍[せいかん]な人々を見ないやうにと、
そのやうな祈念[きねん]をしながら、僕は傘さして雨の中を歩いてゐた。

言葉の意味

[隠鬱(いんうつ)]
・陰気でうっとうしいこと。気分が晴れないこと。

[糊塗(こと)]
・誤魔化すための処置をする。曖昧に取り繕っておくこと。

[癇癖(かんぺき)]
・神経質で怒りっぽい性質。そのようにして怒り出すこと。癇癪(かんしゃく)と同じ。

[麦稈真田(ばっかんさなだ)]
・「麦藁真田(むぎわらさなだ)」とも言う。麦わらを漂泊してから平らに潰して、真田紐のようにして編んだもの。麦わら帽子がよくそんな織られ方をする。

[真田紐(さなだひも)]
・真田幸村の刀の柄を巻いたという逸話がある、絹や木綿などを縦糸と横糸によって、幅の狭い平ら織りにした紐のこと。

[モラリテ]
・英語のモラリティ(道徳性)にあたる、フランス語。

[精悍(せいかん)]
・[史記から取られた言葉]気性が研ぎ澄まされていて勇敢であること。動作が鋭敏で逞しい様子。

2009/03/23

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