初夏の夜 (中原中也)

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初夏の夜

また今年(こんねん)も夏が来て、
夜は、蒸気で出来た白熊が、
沼をわたつてやつてくる。
――色々のことがあつたんです。
色々のことをして来たものです。
嬉しいことも、あつたのですが、
回想されては、すべてがかなしい
鉄製の、軋音(あつおん)さながら
なべては夕暮迫るけはひに
幼年も、老年も、青年も壮年も、
共々に余りに可憐な声をばあげて、
薄暮の中で舞ふ蛾の下で
はかなくも可憐な顎(あご)をしてゐるのです。
されば今夜(こんや)六月の良夜(あたらよ)なりとはいへ、
遠いい物音が、心地よく風に送られて来るとはいへ、
なにがなし悲しい思ひであるのは、
消えたばかしの鉄橋の響音、
大河(おおかは)の、その鉄橋の上方に、空はぼんやりと石盤色であるのです。

2009/03/04

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