中原中也(1907-1937)の生涯略歴

[Topへ]

中原中也(1907-1937)の生涯略歴

少年期

 山口県山口市湯田温泉(ゆだおんせん)といえば、現在は温泉繁華街とも言われる温泉観光の名所であるが、中原中也は1907年(明治40年)にこの地に生まれた。父は柏村(かしわむら)謙助であり、母はもと吉敷毛利家(よしきもうりけ)の家臣であった中原家の出である中原フク。福の叔父である中原政熊は、湯田で開業医(湯田医院)をしていたが、かれはフクを養女として、さらに柏村謙助を婿に迎え、やがて家を継がせるつもりだったようだ(?)。政熊は彼の妻コマと共にカトリック信者であり、これが中原中也に何らかの影響を及ぼしている可能性がある。長男の中也が誕生した時、父親は陸軍軍医として旅順に行っていて居なかったが、誕生した中也はまだ中原とは名乗らずに、柏村中也という名称であった。結婚して7年目の長男と言うこともあり、中也は川で泳がせて貰えないなど、自由に遊べないくらい丁寧に育てられすぎたようだ。

 一家は転勤する父親に従って、まずは1907年のうちにフクと中也も旅順に向かい、その後、1909年には広島に移り、その地で1910年に次男の亜郎(あろう)が誕生した。1911年には三男恰三(こうぞう)が誕生し、中也は広島で幼稚園に入った。1912年に金沢に転居し、その地で四男思郎(しろう)が誕生。しかし1914年に父親が朝鮮に向かうことになると、母と3人の息子は、山口に戻ることになった。この年4月には中也は小学校に入学。神童と讃えられるほどの優れものだった。

 翌年1915年の始め、こともあろうによく遊んだ弟亜郎(あろう)が病死すると、その悲しみの中から初めて詩が誕生したという。これは本人の回想である「詩的履歴書」に記されている。この1915年(大正4年)は、夏には父親が帰省し、その際届けられた養子縁組によって、一家は柏村から中原姓になった。これで晴れて中原中也となる。翌年には五男呉郎が誕生するなど、中原中也の兄弟は多かった。亜郎(あろう)の死は、決して二人っきりの兄弟が死に別れたのでは無いが、通常の子供以上に繊細だったものか、心を痛めてしばしば墓参りに出かけていたという。1917年には父が湯田医院を継ぎ、この病院は後に中原医院となった。

 1918年には六男の拾郎(じゅうろう)まで誕生したが、中也は小学校を山口師範学校附属小学校へ転校して、そこで中学受験を目差す。ところが、ここで文学好きの教生である後藤信一の感化を受けたものか、新体詩を作ってみたり、1920年には投稿した短歌が入選を果たすなど、詩的なものにうつつを抜かすようになった。この年4月に県立山口中学校に12番の成績で入学したが、次第に読書にのめり込んで、学業は転げ落ちていく。

 父親はヤクザ者の?文学から中也を引き離そうとする。自分の昔の苦労を思い、息子には優秀な成績で学業を全うする路を強要し、そのために中也が反発するというお決まりの構図が、人類史上にまたしても繰り返されることになったのである。(また随分大げさな。)1621年には井尻民男という男が中也の家庭教師として住み込みはじめたが、さらなる親への反発もあって、2年進級時には中也の成績は120番にまで後退した。まあ、私に言わせれば、常に成績優秀で学業を全うするような反抗心の欠けらもないような屑野郎に、ろくな奴など居ないのである。(また勝手なことを。)この年5月、祖父の政熊(66歳)が亡くなった。葬儀はキリスト教の教会で行われる。まったくもって、はいからさんである。中也はこの年のうちに、弁論部に入部している。

上京へ

 ご両親は心配した。1621年の夏休みには山口中学校の教頭の家に預けられたり、1922年には家庭教師が村重政夫に変わったり、私が中也だったとしても、反発を強め、殺されても学業など全うしたくないと決意するような環境に置かれていた。5月には友人たちと「末黒野(すぐろの)」という歌集を刊行し、その中に「温泉集」として28首の短歌を収めている。15歳の短歌である。二句だけ引用してみようか。

怒りたるあとの怒よ仁丹の
  二三十個をカリカリと噛む

川辺(かわのべ)の水の溜(たまり)にげんごらう
  砂とたはむるその静けさよ

 この年の夏には、大分にある浄土真宗の寺、西光寺に修行にださせられて、帰宅後しばらく「南無阿弥陀仏」とつぶやくような状態に陥ってしまったという(あるいは洗脳か?。12月にもう一度寺へ出かけている。その間、6月には「将来の芸術」という題目で弁論大会に出場し、11月にも「第一義に於ける生方」という題で出場するなど、部活にこそ生き甲斐を見いだしている。

 しかしとうとう1923年、大正12年3月、見事に中学三学年を落第してしまったのである。私の信じるところ、落第というのはうっかりするものではない。明確な意志と決意をもって、精神の全霊を傾けて学生時代にはなされるべきものである。つまりは故意に行うものである。しかし、ご両親は恥じ入って、彼を京都立命館中学校大三学年に転校させた。ようやく両親から離れて清々した中也は、京都に下宿、この時の心境を「詩的履歴書」の中で、

「文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校する。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり」

と述べている。おそらく真実は、両親と教育環境への反発と、文学的傾向が無頓着に結びつき、学生特有の反抗心を引き起こしたというあたりが真相かと思われるが、この記述は、煩悶の詳細を割愛したものとして、特にその後半部分は、その当時の感情を率直に述べたものであると思われる。

 しかしある時古本屋で高橋新吉(たかはししんきち)(1901-1987)「ダダイスト新吉の詩」という詩集を購入したことから、強烈な感銘を受けてしまった。このダダイスト運動に多大な影響を被った中也は、自分の詩作を大いに羽ばたかせうるダダの取り込みを開始。ダダイスト達の詩を読みあさり、後には自分でもダダイスト中也と名乗ってみたりしている。そしてもう一つ、年末に長谷川泰子(やすこ)(1904-1993)と知り合ってしまったのである。彼女は女優になるために表現座に入っていた。

 翌年1924年、中学の第4学年に進級した彼は、国語の答案に詩を書いた事によって学校の講師から詩人の富永太郎(とみながたろう)(1901-1925)を紹介された。彼の家の近くに引っ越して、ランボー、ヴェルレーヌといったフランスの詩について影響を受ける。この頃には同棲していた長谷川泰子も一緒である。彼女は楽団を首になったところを中也の所に転がり込んだようである。中也よりは3歳年上であり、後に長谷川泰子の語っているところでは、同棲しておいて、無理矢理体を奪われたような書き方をしているようだが、私はその本自体は読んだことはない。読んだことはないが、女優として上京して中也を棄てて小林秀雄の元に走るバイタリティーとその積極性を考える時、彼女の語り自体が演じられたもの(生粋の女優)である可能性は否定できない。また中也のノートで「ノート1924」と呼ばれるものは、この年に使用が始まっている。一方年末には富永との関係も幾分冷え込こみ、富永は東京に帰京してしまった。この頃中也は小説や戯曲などを模索している。

東京での活動

 それでも富永に刺激を受けた中也は、大都会東京で詩人として立つことを夢見たものか、1925年、文学史上、治安維持法が発布され著作物の発禁が強化されるこの年、泰子と共に上京し下宿を始めた。しかし早稲田高等学院は資格が無く、日大大学予科は遅刻のために受験に失敗しつつ、4月に富永の紹介で宿命の友人か、あるいは敵か、(そのような関係を一般的にはライバルと呼ぶのだが)、小林秀雄(1902-1983)を紹介された。中也は小林から金を借りると、一時故郷に戻って予備校に通う許可を両親からもぎ取って、ふたたび東京に現れた。小林秀雄の家の近くに移り住んで友情を深めるが、泰子のこころが秀雄になびいたものか、泰子は小林秀雄のところに移り住んでしまったのである。この時のことは小林秀雄の回想するところの、

「中原と会つて間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合ふ事によつても協力する)、奇怪な三角関係が出来上り、やがて彼女と私は同棲した。この忌はしい出来事が、私と中原との間を目茶々々にした。」

つまり移り住んでおきながら、三人は秀雄の言うところの「奇妙な三角関係」を続けたようであるが、中也は内心大いに傷ついたのではないかと推察される。おまけに11月には富永太郎がわずか24歳で死んでしまった。しかし大きな収穫もあった。年末か翌年初め、宮沢賢治の詩集「春と修羅」を購入し感化を被ったからである。

 「山羊の歌」に収められた詩は1924年春から1930年春までの詩を収めたと中也は回想しているが、1926年の5月から8月にかけて模索された「朝の歌」というソネットが、詩で生きていくことを決意した作品だとも言われる。

 

「『朝の歌』にてほぼ方針立つ。方針は立ったが、たった十四行書くために、こんなに手数がかかるのではとがっかりす。」

 この年には他にも「むなしさ」や「臨終」といった山羊の歌に収められている詩が幾つも書かれているが、せっかく入学した日本大学予科文科は、9月に家に断りもなく止めてしまった。その代わり当時の外国語養成学校であったアテネ・フランセへ通い始めている。この頃、一枚10円もする自分の写真を撮りに出かけ、お馴染みの帽子をつけた写真がそれにあたるが、私には他のスーツを着た写真の方が、本物らしく感じられ、好感が持てる。(そんなことはどうでもいいことだ。)

 1927年には河上徹太郎(かわかみてつたろう)や作曲家の諸井三郎(もろいさぶろう)と知り合った。「ノート少年時」と呼ばれるノートは27年に使用が始まっている。

 1928年の3月には小林秀雄の紹介により、大岡昇平と知り合い、5月には三郎の音楽団体「スルヤ」の演奏会で諸井佐武烽フ作曲による「臨終」「朝の歌」が初演された。しかしその5月に51歳の父、謙助が亡くなった。喪主にも関わらず帰省しなかったのは、母親の意向であるとも(?)。一方小林秀雄と長谷川泰子は別れている。分かれた後も中也と泰子は時々会うのだが、決して寄りを戻すことはなかった。後に芸術家の高田博厚のアトリエで、けんかしたり、取っ組み合いで中也が負け気味だったりという逸話も残されている。この年は、重要な親友となった安原喜弘(よしひろ)と知り合い、関口隆克(せきぐちたかかつ)、石田五郎(いしだごろう)などと共同で生活を始めるなどしている。

 1929年4月に詩の同人誌、「白痴群(はくちぐん)」を刊行し、大岡昇平、河上徹太郎他と協同戦線を張った中也だが、この同人誌は翌年6月の廃刊までに6号まで出され、「寒い夜の自画像」「修羅街輓歌」「妹よ」など「山羊の歌」の中心をなす作品が収められている。

「常に興味と嫌忌の交錯した気持を感じないで彼の話を聞いていることは出来なかった。この印象は実に特異なもので、彼を知らない人には伝え得ないものだ。恐らく彼とつき合って心から楽しかったものはないだろうし、しかも彼の話が全然面白くない者は、芸術を論じるに足りぬ人間であろう、こういうと得手勝手な話になるが、然し彼自身の方がもっと得手勝手なのである。」(河上徹太郎)

「中原中也の肉体は小さかつたけれども重たく不透明だつた。それはあたりの色をも変色させるやうな毒気をもつてゐたやうに思はれる。」(草野心平)

などの回想にもあるように、彼は心地よさよりも不快感を与えかねない毒を持った人物という側面を持っていたようだ。1929年の4月には呑んだ帰りに、ある家の軒灯を石を投げて壊して、15日間留置所に入れられたりしている。5月には不可解な関係の長谷川泰子と京都へ旅行に出かけた。この別れたはずのふたりが、取っ組み合ったことを回想する高田博厚は、この旅行の後に知り合っているから、京都旅行の後の話である。ヴェルレーヌの翻訳などを始め、同時に「ノート翻訳詩」の使用を開始している。

 1930年、4月には白痴群(はくちぐん)はあっさり廃刊となってしまった。要するに皆さん仕事があるから的な遣り方で、中也一人が同人誌に命を懸けていたので、旨く行かなくなってしまったのである。一人中也のみが詩を記した最終巻には、よく知られた詩「よごれちまった悲しみに」も収められている。中也は詩「玩具の賦 昇平に」を書いて、おもちゃで遊ぶことも出来ない者を糾弾した。5月にはスルヤの発表会で「帰京」「失せし希望」(内海誓一郎、作曲)「老いたる者をして」(諸井三郎、作曲)が発表された。中也は、東京外国語学校に入学するため、23歳にして中央大学予科に編入学。フランス行きを夢見ていたようである。この年、今日音楽評論家の吉田秀和にフランス語を教えたりもしている。また11月には泰子が別の男と生んだ子供の名付け親にもなっている。

 翌年31年に東京外国語学校専修科仏語部に入学し、今度は真面目に通ってみせた。また弟の死により一時実家に帰省している。

詩人として

 1932年、フランス語の個人授業を始めつつ、「山羊の歌」を編集し予約を募るが、わずか10名ほどしかなく、母からの仕送り300円で印刷したが、金銭難で製本まで辿り着けなかった。仕方がないので安原喜弘にこれを預けておく。9月には祖母のスエが亡くなっている。結婚願望が高まって、求婚をするが2度ほど断られ、神経衰弱を心配した知人が中也の母親に手紙を送ったりしている。

 1933年に学校を修了した彼は、「山羊の歌」の刊行のために狂奔するが思うように進まず、年末遠縁の上野孝子と湯田温泉に戻って結婚。東京に上って活動を再開するが、上京した田舎者の妻は大いに都会にとまどったようである。年末には「ランボオ詩集(学生時代の詩)」が出版される。

 1934年(昭和9年)、詩の発表と共にランボーの韻文詩の翻訳を開始。ランボオ全集の企画に参加したが、この出版企画は途中で頓挫した。10月に長男の文也が誕生した後、草野心平(くさのしんぺい)と知り合い、12月に「山羊の歌」(装丁は高村光太郎)が文圃堂からようやく刊行された。限定200部、うち市販150部である。また草野を通じて檀一雄(だんかずお)さらに太宰治と知り合う。太宰治が中心になって檀一雄や中原中也も参加して創刊された文学誌「青い花」は、しかし創刊号のみで廃刊になってしまった。荻久保にある「おかめ」というおでん屋で檀一雄、草野心平、太宰治と乱闘騒ぎを起こしたり、別の時に逃げ帰ってしまった太宰治の家に上がり込んで騒ぎ立てて、檀一雄につまみだされてみたり、自らを引き金として修羅場を演出したのが原因かも知れない。太宰治は第2巻に積極的だったが、他の人達はすこぶる消極的になってしまったという。さて、「山羊の歌」の出版後山口に帰省して、文也と対面、そのまま翌年3月まで湯田温泉に留まっている。

 その間1935年の2月に祖母のコマが亡くなったが、中也自身も吐血を起こしている。3月の終わりに単身で東京に戻った彼は、8月には妻と息子を連れて最上京し、香なりの詩を製作している。

 1936年は動物園やサーカスに息子を引き連れて、同人誌や雑誌を中心に詩作を続け、また日本放送協会(NHKはその日本語の頭文字で、英語とは無縁の略語である)に入社しようとして面接に出かけたが、外を見ていられる受付が遣りたいと世間ズレした態度によって見事に落ちたりしてた。しかし11月長男文也が亡くなると、あまりの衝撃から悲嘆病に掛かってしまう。手帳に文也の短い一生を連ねつつ連ねつつ、神経が衰弱した。12月には次男愛雅(よしまさ)が誕生し、次第に詩作を発表するが、幻聴などが現れ、翌年1月から2月にかけて中村古峡療養所に入院している。おっ母さんが、心配して入れたようだ。ここでのノートは「千葉寺雑記」「療養日誌」として残されているが、この頃の手紙には、私のは「悲しみぼけ」ですと記している。

 中也は退院後、あの小林秀雄の居る鎌倉に転居し、旧交を回復。しばしば教会を訪れ、山口に戻る決心をする。9月には「ランボオ詩集」が野田書店から刊行され、清書が完成した「在りし日の歌」を小林秀雄に託すが、10月に結核性脳膜炎を発症して22日になくなっている。次男の愛雅は後を追うように翌年亡くなり、その1938年に「在りし日の歌」が創元社から刊行された。残された詩の数は350を超える。

2008/04/11
2009/03/20改訂

[上層へ] [Topへ]