在中将こと在原業平(ありわらのなりひら)(825-880)は、二条の后宮(にじょうのきさいのみや)[藤原高子(たかいこ)(842-910)]がまだ天皇に嫁いでいない頃、求婚している時に、「ひじき」という物を送って、和歌を添えた。
思ひあらば
むぐらの宿に 寝もしなむ
ひじき物には 袖をしつゝも
在原業平
といったが、返しの和歌は分らない。
さてその二条の后宮が、天皇の子を産んで、「春宮の女御(とうぐうのにょうご)」と呼ばれるようになって、大原野神社にお参りに出かけたとき、多くの貴族たちがそれに従った。そこに在中将もいて、后の乗る車の影の当たりに立っていた。神社で多くの人が、后から贈り物をされた後で、車の後ろから、自分の来ていた着物を、彼に与えたのだった。在中将は受け取るままに、
大原や
小塩の山も 今日こそは
神代のことを おもひ出づらめ
在原業平 (古今集)
と、密かに言った。后は昔のことを思い出されて、しみじみとされたという。
また在中将が、宮中に仕えていた頃、御息所(みやすんどころ)[天皇の妻としての侍女]より「忘れ草」を「これは何ですか」と言って与えられたので、中将は、
忘れ草
生ふる野べとは 見るらめど
こはしのぶなり のちも頼まむ
在原業平 (続古今集)
と詠んだ。おなじ草の名前を、「しのぶ草」とも「わすれ草」とも言うので、1それによってこう詠んだのだった。
在中将に、后の宮から菊が欲しいといわれたので、贈ったついでに、
植ゑし植ゑば
秋なき時や 咲かざらむ
花こそ散らめ 根さへ枯れめや
在原業平 (古今集)
と和歌を付けて送った。
在中将のもとに、ある人が「飾りちまき」を送ってきた時の返事に、
あやめ刈り
君は沼にぞ まどひける
われは野にいでゝ かるぞわびしき
在原業平
と添えて、雉を送ったという。
清和天皇(せいわてんのう)(在位857-876)の時、弁の御息所(べんのみやすんどころ)[詳細不明]という、天皇に仕える女性がいたが、天皇が出家してから、一人でいたのを、在中将が忍んで通っていた。
やがて、在中将が病気になって、重症になったとき、本妻もあり、二人は密かに通じていた事もあり、見舞いに行くことも出来ず、忍んで手紙を出す毎日だった。しかし、手紙を送らない日があるうちに、病気がたいへん重くなって、ついにその日が来てしまう。在中将のところから、
つれ/”\と
いとゞ心の わびしきに
今日はとはずて 暮してむとや
在中将
と和歌が届けられた。「弱っている」と心配して、激しく泣いて、ようやく返事をしようとする時に、「亡くなりました」と連絡があって、とても悲しんだという。
中将は死ぬことが、目前に迫ったときに、
つひにゆく
道とはかねて 聞きしかど
きのふ今日とは 思はざりしを
在原業平 (古今集)
と詠んで亡くなったのだった。
在原業平が、物見に出かけた時、女の乗った由緒あるような車があったので、下簾(したすだれ)の隙間から、この女の顔を眺めて、言葉を交わした。帰ってから、翌朝女に和歌を贈る。
見ずもあらず
見もせぬ人の 恋しきは
あやなく今日や ながめ暮さむ
在原業平 (古今集)
女からの返しに、
見る見ずも
たれと知りてか 恋ひらるゝ
おぼつかなみの 今日のながめや
男が、妻の着物を借りて、新しい妻の元へ出向き、着古した後に送り返すときに、「雉(きじ)・雁(かり)・鴨(かも)」を土産に加えた時に、もとの妻が、
いなやきじ
人にならせる かりごろも
わが身にふれば 憂きかもぞつく
仁明天皇(にんみょうてんのう)(在位833-850)の時代、良少将[=良岑宗貞(よしみねのむねさだ)。出家後の名称を遍昭(へんじょう)。二十一段、二十二段のそれとは別人]が、通っていた女の元に「今宵必ず」と言って、来なかったことがあった。その時女が、
人ごゝろ
うしみつ今は 頼まじよ
(拾遺集)
と上の句を送ると、男は驚いて、
夢に見ゆとや ねぞすぎにける
良岑宗貞 (拾遺集)
と返したのは、寝過ごしてしまったからである。
そんな良少将だが、仕えていた帝が亡くなったときに、誰にも知られず消えてしまった。出家して僧になったのか、後を追って自殺したのかも分らないので、妻のひとりが、泊瀬の御寺の導師(どうし)に相談して、涙を流すとき、実は良少将は端で聞いていて、走り出しそうになったそうである。翌朝になると、妻の泣いた後は、血で濡れていて、まさに「血の涙」を流していたのだった。
そうして世の中が、亡き天皇の喪が明けた時でさえ、彼は、
みな人は
花のころもに なりぬなり
苔のたもとよ かはきだにせよ
良岑宗貞\遍昭 (古今集)
と和歌を詠んだのだが、それによって、どうやら法師になったことだけは、人々に知られることとなった。亡き仁明天皇の妃である、五条の后(きさい)の宮が、ようやく探し当てたとき、「恥ずかしくも生きながらえています」という返事とともに、
かぎりなき
雲ゐのよそに 分かるとも
人にこゝろを おくらさめやは
良岑宗貞\遍昭 (古今集)
という和歌を返した彼だったが、もう一度連絡を取ろうとしたら、またどこかへと消え失せているのだった。
さらには、小野小町(おののこまち)が、清水寺に参拝したとき、経を読む声から良少将に似ていたので、
岩のうへに
旅寝をすれば いと寒し
苔のころもを 我にかさなむ
小野小町 (後撰集)
と詠んで、探りを入れてみたら、
世をそむく
苔のころもは ただひとへ
重ねばうとし いざふたり寝む
良岑宗貞\遍昭 (後撰集)
と返ってきたので、さてはと思って逢おうとすると、また消え失せてしまった。
そんな良少将も、後には僧正(そうじょう)の位を得る高僧になって、出家する前の子供もまた、僧にするくらいだったが、
折りつれば 手ぶさにけがる
たてながら 三世のほとけに
花たてまつる
良岑宗貞\遍昭 (後撰集)
という歌を詠んだのもまた彼であった。
さて、出家させられた子供の方[同じく遍昭の子である、素性法師の兄にあたる、由性のこと]は、自らの願いではなかったので、都に出て女遊びをしてたが、ある女性のもとに通って、そこの家族にばれて、遠ざけられてしまったことがあった。
その家族が法事に来たとき、彼はかつての恋人の元に、こっそり、
白雲の
やどる峰にぞ おくれぬる
思ひのほかに ある世なりけり
由性
と送ったことがあったが、彼も後には僧都(そうず)の位を持つ高僧となったのであった。
むかし内舎人(うどねり)の職にある人が、大和国に下ったとき、女性が可愛らしい子供を抱いていたので、呼び寄せて、「大きくなったら迎えに来るから、私の妻にさせなさい」と言って、形見の物を置いていった。
男は忘れてしまったが、幼い子はそれを忘れずに七、八年が過ぎた時、また男が大和に出向くと、井戸のあたりに水をくんでいた女が、こう言うのだった……
[そこで文章が途切れているが、これは執筆途中ではなくて、わざと物語の途中のように終わらせる、「切断形式(せつだんけいしき)」によるもので、本来はここが『大和物語』の最後であったと考えられている。]
藤原伊衡(ふじわらのこれひら) (876-939)[歌人だけでなく、公式な酒合戦で優勝したほどの酒豪としても知られる]が、中将だったころ、風邪を引いたら、兵衛の命婦(ひょうえのみょうぶ)が薬としての酒や肴を下さったので、
青柳の 糸ならねども
春風の 吹けばかたよる
わが身なりけり
藤原伊衡
とお礼を歌うと、
いさゝめに
吹く風にやは なびくべき
野分すぐしゝ 君にやはあらぬ
兵衛の命婦
と返歌があった。
今の左大臣である藤原実頼(さねより)(900-970)が、まだ少将だったころ、式部卿の宮に常にあったが、その宮に大和(やまと)という女性が仕えていた。実頼が語りかければ、恋に生きる女性であったので、うれしく感じていたが、常に逢うことは叶わなかったので、大和が、
人知れぬ
こゝろのうちに もゆる火は
煙(けぶり)もたゝで くゆりこそすれ
大和 (続後撰集)
と詠めば、実頼の返しに、
富士の嶺の
絶えぬ思ひも あるものを
くゆるはつらき こゝろなりけり
藤原実頼 (続後撰集)
しばらく逢えなかった頃、女は何を思ったか、みずから左衛門(さえもん)の陣に牛車をやって、そこを通る役人を留めては、「少将の君にお話があります」と繰り返すのだった。とうとう、実頼の耳に届いて、興あることに思われたので、床を設けて彼女を引き入れて、「どうしてこのようなことを」と尋ねれば、女の答えて「あまり来られないのので」
[ここでも、途中で物語が途切れている。ある諸本には書き入れがあって、「後撰歌あつよしのみこの家にやまとゝ云人に 左大臣 今更に思ひいでじとしのぶるをこひしきにこそわすれわびぬれ」と紹介されている。]
亭子の帝こと宇多天皇(うだてんのう)(在位887-897)が、滋賀県大津市にある石山寺につねに参詣していたので、近江国(おうみのくに)の負担が重くなって国は滅びるであろうと、国守が言ったのが天皇の耳に入った。
これを聞くと、天皇は他に負担させて、石山寺に参詣したので、自分の言葉が天皇の耳に入ったことを恐れた国守が、琵琶湖の打出浜(うちでのはま)に、すばらしい滞在のための仮屋を設けて、恐れ多いので自分は隠れて、大友黒主(おおとものくろぬし)だけが、仮屋で天皇を待つのだった。
そこに来た天皇が、「なんのためにここに居るのだ」と尋ねると、
さゝら浪
まもなく岸を あらふめり
なぎさ清くは 君とまれとか
大友黒主 (新千載集)
と詠んだので、帝も感心して立ち寄られたのだった。
良岑宗貞(よしみねのむねさだ)の少将が、五条のあたりで、雨宿りのために立ち寄った荒れた屋敷に立ち寄ると、
よもぎ生ひて
荒れたる宿を うぐひすの
人来と鳴くや たれとか待たむ
と、悪くない姿の女性が和歌を詠んでいるので、
来たれども
言ひし馴れねば うぐひすの
君に告げよと 教へてぞ鳴く
良岑宗貞\遍昭
と返して、雨宿りを求めて、屋敷に上がって、最後には簾(すだれ)のなかに入って、女と一夜を共にした。ただ粗末な屋敷で、少将をもてなすほどのものもないので、彼女の親は、庭の菜を蒸し物にして、それに梅の花を飾って、女の手で、
君がため
ころものすそを 濡らしつゝ
春の野にいでゝ 摘める若菜ぞ
と書いて差し出した。それから少将はそこに通うようになったが、あの食事くらい素敵なものはなかったと、後に回想するのだった。なぜなら、仕えていた帝が亡くなられたので、少将も出家して法師になってしまったからである。ある時、もとの女に、
霜雪の
ふる屋のもとに ひとり寝の
うつぶし染めの あさのけさなり
良岑宗貞\遍昭
(をはり)
2018/02/14