前段と同じ奈良の天皇[奈良時代のある天皇]が、竜田川の紅葉が見事なのを眺めている時、柿本人麻呂が、
たつた川
もみぢ葉流る 神なびの
みむろの山に しぐれ降るらし
柿本人麻呂 (古今集、拾遺集)
と詠めば、奈良の天皇が、
たつた川
もみぢみだれて 流るめり
わたらば錦 なかや絶えなむ
同じ奈良の天皇は、狩が好きだったので、東北の磐手(いわて)から贈られた鷹を、狩用の手鷹(てたか)として飼い慣して、「いわて」と呼んでいた。
これを、鷹狩りの経験のある大納言に預けたところ、どうしたことか、鷹を取り逃がしてしまった。狂乱の体で探し回るが、見つからない、数日過ぎて誤魔化しきれないので、ついに天皇に申し上げると、なんの返事もない。
もう一度言うが返事がない。自分が自分でないような恐怖に震えながら、「鷹がいなくなってしまったのです。どうしたら良いか、おっしゃってください」と繰り返すと、奈良の天皇はただ、
いはで思ふぞ 言ふにまされる
[言わずに思っていることは、口にして言うのに増さっている。に「いはで」つまり鷹の磐手の事を思うことは、という意味を掛けたもの。何の言葉も発しないこと、それが俺の答えだ。という意図で、「指示を下さい」と言う部下に、「言うことは何も無い」と上司が答えたようなもので、現代なら首切りか左遷の言葉かもしれず。]
とだけ言って、他にはなにも答えなかった。あまりにも深く、残念に思われたからだろう。世間の人は、これにあれこれと上の句を加えて、和歌にしたが、実際は下の句だけを詠んだのだった。
奈良の天皇[ここでは平城天皇(へいぜいてんのう)を指す]が在位していた頃は、嵯峨天皇(さがてんのう)(786-842)はまだ皇太子あったが、あるとき平城天皇に、
みな人の
その香にめづる ふぢばかま
君のみためと 手折(たを)りたる今日
嵯峨天皇
平城天皇の返し、
折る人の
心にかよふ ふぢばかま
むべ色ことに にほひたりけり
平城天皇 (続後拾遺集)
大和の国に住んでいた娘で、たいそうきれいな人に、都から来た男がちらと見て、あまり美しいので、盗み出して抱きかかえて、馬に乗せて逃げた。女はひどく恐ろしいと思った。日が暮れると、竜田山のあたりに宿を借り、泥よけを敷物の代わりに敷いて、無理やり抱いたので、女は恐怖に襲われたのだった。
むなしさに囚われて、男がなにを言っても返事もしないで泣いているので、男が、
たがみそぎ
ゆふつけ鳥か からころも
たつたの山に をりはへて泣く
(古今集)
と言うと、女は、
たつた川
岩根をさして ゆく水の
ゆくへも知らぬ わがごとや泣く
と詠んで、自殺してしまった。男はすさんだ気持ちに囚われて、女を抱きかかえて泣いたという。
むかし、大納言が美しい娘を持っていた。帝の嫁にと思っていたところ、大納言のもとで働く内舎人(うどねり)の一人だった男が、この娘に惚れて、恋にやつれて病気のようになってしまった。
とうとう「どうしても言いたいことが」と娘を呼び出して、「どうしたのでしょう」と出向いてきたところを、用意していた馬に乗せて、抱きかかえて奪い去ってしまった。
そのまま、安積山[福島県浅香郡にある]まで逃げ延びて、住まいをつくって、女を住まわせて年月を暮したが、とうとう身ごもってしまった。
そこで、男のいない間に、山の井戸に写った自分の姿を眺めると、かつての姿とも思われない、恐ろしげな姿だったので、女は恥ずかしさにさいなまれ、
安積山
影さへ見ゆる 山の井の
あさくは人を 思ふものかは
(万葉集)
と読んで死んでしまった。帰ってきた男は、途方に暮れて、この和歌を見て、和歌の思いを胸に、女のそばで死んだという。遠い昔話である。
信濃の国更科(さらしな)[長野県更級郡]に男が住んでいた。若いうちに親が死んだので、叔母が親のようにしてくれていたが、彼の妻には憂鬱なものに思われて、腰が曲がっているのを憎らしく思い、悪口を言うので、男も昔のようには叔母を慕わなくなっていた。
たいへん年老いて、折れ曲がっているのを、憎たらしく思って、早く死ねば良いと思って、悪口を言いながら、「持って行って深い山にでも捨ててよ」と夫を責めるので、とうとう夫もそれしかないと思うようになってしまった。
月明かりの夜、「おばさん、お寺で法会があるから見せましょう」と呼び出すので、喜んで背負われていくと、麓から山へ登って、高い峰の降りてこれない処に置いて、男は逃げ帰ってしまった。叔母が呼び止めたが、返事もせずに家に帰ってくると、妻が腹を立てている時は、自分も腹を立ててしまったが、長年親のように育ててくれたので、非常に悲しみが湧いてきた。
この山の頂から、月も限りなく赤々と登っているのを眺めて、一晩中寝ることも出来ず、悲しみにふけっていれば、このように和歌を詠んだ。
わがこゝろ
なぐさめかねつ さらしなや
をばすて山に 照る月を見て
(古今集)
と詠んで、また出かけて、叔母を連れて戻ってきたのである。それ以来、この山を姥捨山と言う。「なぐさめがたし」という時、姥捨山が引き合いに出されるのは、このためである。
下野国[栃木県あたり]に男と女が住んでいた。長年住んでいる間に、男は、新しい妻を設けて、心も移り変わり、二人の住んでいた家にあったものを、新しい妻の処へすべて持ち去ってしまう。女はつらい気持ちで、そのままにまかせていた。ゴミほどのものも残さずに持ち去って、残りは馬槽(うまぶね)[馬の餌入れ、まぐさ入れ]だけになってしまったのを、男の従者である「まかじ」という名の童が取りに来たので、「お前ももうここには来ないだろうね」と尋ねると、「主人がいなくてもきっと来ますよ」と答えるので、「主人に伝えて、手紙じゃ詠まないから、口で直に」と言って、
舟もいぬ
まかぢも見えじ 今日よりは
うき世の中を いかでわたらむ
と伝えると、従者は男に伝える。ほどなく、持ち去った物をそっくり運び返して、もとのように、それ以来他の女に浮気することも無く、もとの女と暮したという。
大和の国に男と女が住んでいた。長い年月を共に暮していたのだが、どうしたことか、新しい女を作ってしまった。さらに、二人の住まいに連れてきて、壁を隔てて隣に住まわせ、自分の方には決して来ない。
元の女はつらいと思ったが、口に出しては妬まずにいた。秋の夜長に、目を覚まして聞くと、鹿が鳴いている。黙って聞いていると、壁の向こうから男が、「聞いていますか、西のお隣さん」と言うので、「何がよ」と答えると、「鹿の鳴いているのを聞きましたか」と言うので、「聞いてます」と答える。「どんな風に聞いているの」の言ってくるので、女の答えるには、
我もしか
なきてぞ人に 恋ひられし
今こそよそに 声をのみ聞け
(新古今集)
と和歌で返すと、男の情が戻って、新しい女を送り返して、元のように二人で暮したという。
染殿の内侍(そめどののないし)と呼ばれた女性がいた。それに源能有(みなもとのよしあり)(845-897)[文徳天皇の第一皇子だが、母の身分により臣籍降下]が、時々通っていた。器用な女性だったので、衣服の仕立てを頼んだりしていたが、ある時、模様の多くある絹織物を多く持って行くと、女が「雲と鶴の柄にしましょうか」と尋ねる。
しかし男は答えないので、「仕えることも出来ませんよ。ちゃんと命じてくださらないと」と女が言うと、源能有は、
雲鳥の
あやの色をも おもほえず
人をあひ見で 年の経ぬれば
源能有 (続後拾遺集)
と答えたという。
おなじ染殿の内侍(そめどののないし)のもとへ、在中将(ざいちゅうじょう)こと在原業平(ありわらのなりひら)(825-880)が通っていた時、内侍から在中将のもとに、
秋萩を
色どる風の 吹きぬれば
人のこゝろも うたがはれけり
染殿の内侍 (後撰集)
と詠んだので、在中将は、
秋の野を
色どる風は 吹きぬとも
こゝろはかれじ 草葉(くさば)ならねば
在原業平 (後撰集)
と答えた。
やがて通わなくなってから、在中将のもとから着物が届けられて、「洗ってくれる人すら居なくて困っています、どうかお願いします」とあったので、染殿の内侍は、
「あなたの心によってそうなったんじゃないのかしら。
大幣(おほぬさ)に
なりぬる人の 悲しきは
よるせともなく しかぞなくなる」
染殿の内侍
と言ってやった。すると中将の返し。
ながるとも なにとか見えむ
手に取りて 引きけむ人ぞ
幣と知るらむ
在原業平
2018/02/14