むかし、津の国[摂津国。兵庫県東部から大阪府北西部にかけて]に住む女があった。それに求婚する男が二人あった。一人はおなじ国に住む男で、姓(しょう)[氏名、名字くらい]は菟原(うばら)といった。もう一人は和泉の国[大阪府南部にあたる]の人だった。姓は血沼(ちぬ)という男だった。
そうして、その男たちは、年齢、顔、容姿、人柄の程度が、まるで同じようであった。「愛情の深い方とこそ結ばれよう」と女は思うが、愛情の程度は、まるで同じようであった。日が暮れれば、二人ともやって来て、贈り物をする時は、まるで同じように贈ってくる。どちらが勝っていると言うことも出来ない。女は思い悩むのだった。
この人たちの愛情が浅いものであれば、どちらにも逢わないことにするのだけれど、こちらの男もあちらの男も、長い月日を家の門のところに来て、あらゆる愛情を示してくれるので、逢わないことにすることも出来なかった。
この男からも、あちらの男からも、同じように贈ってくる物たちは、(相手が決められないので、)受け取ることはなかったが、それでもいろいろ品を変えて、持ってきては立っているのだった。女の親があって、(これを見かねて、)
「このように、見ているのも苦しくなるほど、長い時間を過ごして、それぞれが互いの嘆きを、どうすることも出来ないでいるのも不憫だ。一人と一人が結ばれれば、もう一人の思いは絶えるというのに。」
[心情はともかく現状の決着は付くので、見ているのも苦しくなるような状況は終わるのにという意味。一方に決めたら、もう一方の思いは絶えるのが道理なのだから、それから逃避すべきではないという、親としての諭す意図も込められている]
と言うが、女は、
「自分でも分っているけれど、あの人たちの思いがまるで同じ様なので、悩んでしまうのです。それなら、どうしたらいいのでしょう」
と答えるのだったが、その時ちょうど、彼女たちは、生田川(いくたがわ)[兵庫県神戸市を流れる川]のほとりに、テントを張って遊びに来ていた。それで、娘に求婚する男たちを呼び出して、親が言うには、
「どちらも、愛情の程度が同じようであるから、うちの未熟な娘も思い煩ってしまったのです。今日どのような形であれ、どちらかに定めてしまいましょう。一方には遠いところから来てくれる人がいる。もう一方はこの地の人ながら、その懸命な思いは限りなく深い。こちらもそちらも、申し訳ないくらいの愛情です。」
と告げる時、二人は非常に喜ぶのだった。
「お伝えしようと思うことについてですが、(二人で)この川に浮き泳いでいる水鳥を射てください。それをうまく射当てた人に、娘を差し上げましょう」
と言うので、それに従って射る時に、一人は水鳥の頭の方を射貫く。もう一人は尾の方を射貫く。その時、どちらが勝者とも定められないのに、娘は思いわずらって、
すみわびぬ
わが身投げてむ 津の国の
生田の川は 名のみなりけり
[生きるのさえ辛いから
この身を投げてしまおう 津の国の
生きるという名の生田川は
名前ばかりに過ぎなかったのだから]
[どちらかの相手に定めることが出来ない自らの、最後のより所として水鳥を射るという他力本願にすがりついたのに、それすら生きるための方針を示さず、どちらも選ばせないという、わたしを悩みの果てに死に至らしめるこの川。その名称は名前ばかりだったという意味。いわば、射られた水鳥は女性自らを暗示していて、共に射貫かれた相手であるからこそ、女性は死なざるを得なかったのであり、女性の心情は故意にはぐらかされて、ちょっと読むとキャラクターすら存在しないくらいに感じられるが、その心情は丁寧に紐解いていくと、次第に浮かび上がってくる。それが分ると、前半部分が究極的には女性の心情とその死をテーマにして、描かれたものであることが、黄泉のせせらぎの、かすかに聞こえてくるようになる。すると、女性の和歌が置かれている理由も分ってくるというものです。]
娘はそう和歌を詠んで、このテントは川に臨んで設けられていたので、ざぶりと飛び込んでしまった。親が慌て騒いで、大声を上げるときに、この求婚していた男二人も、同じところに飛び込んだ。一人は娘の足を掴まえて、もう一人は手を掴まえて、そのまま死んでしまった。
その時、親はたいへん騒いで、死体を取り上げて、大声で泣きながら埋葬をするのだった。男たちの親もやって来た。この娘の墓の傍らに、やはり墓を作って埋葬する時に、津の国の男の親が言うには、
「おなじ国の我が息子をこそ、おなじ所に埋葬すべきだ。異なる国の人が、どうしてこの国の土を穢して良いものか」
といって埋葬を妨げる時に、和泉の男の親は、和泉の国の土を舟で運んできて、ここに持ち運んで、その土によってついに埋葬を済ませてしまうのだった。だから女の墓を真ん中にして、左と右にそれぞれ、男の墓は今でもあるという。
このような事が昔あったのを、すべて絵に描いて、今は亡き后の宮(きさいのみや)[宇多天皇の皇后、藤原温子(おんし・よしこ)(872-907)]にある人が贈った時に、この昔話をもとに、皆が集まって、亡くなった男女に代わって、和歌を詠みあった。まず伊勢(いせ)の御息所[女流歌人。三十六歌仙の一人。大和物語001段に登場する]が、男の心になって、
[はじめに、一連の和歌の流れを説明しておくと、はじめの三首は水に飛び込んだ際の和歌で、抜けた女性のたましいを、男二人が求めるというもの。四首目の「つかのまも」から六首目の「あふことの」までは、たましいと出会った際、男が「一緒に居ようと約束しました」といい、もう一人が「思いを比べようとしたが、勝敗も無くこうして果てました」と告げる。
これは同時に前半の物語を和歌によって状況説明したものにもなっていて、女性の和歌も生きていた頃の思いと、それから今の思いを総括して「あふことの」の和歌を詠んでいる。いわば生きていた頃の自分の和歌をそこで詠んで見せたような印象で、別に生前の状況へ舞いもどっている訳ではない。
最後の四首は、いわば魂だけとなった三人の心情を表明していて、いわば物語内での今の心情を歌ったもの。ここで一方の男は「選ばれなくても一緒にいられれば」(最後の和歌)と詠い、もう一方は「一緒にいるのはうれしいがどうして私を選ばなかったのか」と詠い、その心情に食い違いが見られるのが、結局はたましいだけになっても、穏やかに三人並んでは過ごせず、血みどろの後半部へと連なっていく伏線にもなっている。]
かげとのみ
水のしたにて あひ見れど
魂(たま)なきからは かひなかりけり
[ただ姿ばかりは
水の底で 互いに見たけれど
たましいのない亡骸では それも甲斐のないことでした]
女に成り代わって、女一の皇女[均子(きんし・ひとしきこ)内親王]、
かぎりなく
深くしづめる わが魂(たま)は
浮きたる人に 見えむものかは
[限りなく
深いところまで沈んでしまった わたしの心は
はたして思いの浅い人に 見えることがあるでしょうか]
[前の和歌を踏まえて、抜け落ちたたましいは、限りなく水の深いところまで、愁いに沈んで、浮いている人には見つけられるでしょうか。また、思いの浅い人には、同じ領域までこれるでしょうか。といった意味。つまりはじめの和歌は、男が飛び込んだ女を捕まえた時の和歌で、抜け落ちた女の魂は底の方で、自分の遺体を掴みながらむなしくなる男たちを眺めながら、詠んだような趣向。]
また后の宮が、(男の心で、)
いづこにか 魂をもとめむ
わたつみの こゝかしことも
おもほえなくに
[いったいどこに たましいを求めたら良いのだろう
広い水のなかの こちらともあちらとも
思われないのだけれど]
[肉体を離れた女の魂が、深く沈んだ私の心は、水面近くで肉体を掴んでいる人にはもう見えません。同時に、同じくらいの思いでないと、もはや私のところにはたどり着けません。と詠んだのに答えたもの。一連の昔話から、その沈んだ魂の本質は、「憂うつ」などではなく「愛情」の重さや深さと、その憂いであることが悟られる。
当初、女の和歌は中間にあって前後の別々の男と贈答を交わしつつ、時系列を下るように考えていたが、この歌会の冒頭部分はむしろ、男二人が「魂がない」と空しがって、それに女が答え、また男二人が「どこにいるのだろう」と探し出すという作劇になっている様子。これは、生前の男たちが、まるで同じように愛を示すという流れを継承してもいる。死にながらなお二人は、同じように和歌で思いを表明しているという趣向。
変にリアルにこだわっているところは、先に飛び込んだ女性の方が魂が抜けて、まだ男たちの魂が肉体に留まっている状態を踏まえているようなところ。]
続いて兵衛の命婦(ひょうえのみょうぶ)[藤原高経の娘]が、
つかのまも
もろともにとぞ 契りける
あふとは人に 見えぬものから
[たとえわずかな間でも
たとえ塚の中であっても 一緒にいようと
約束しました
逢っているとは人には
たとえ見えないものだとしても]
[男たちが、彼女の魂はどこだろうと詠いながら、その魂を求めて、見いだした時の和歌になる。次の『かちまけも』と共に男の和歌だが、ここで二人の男は分化して、それぞれがそれぞれの和歌を詠んでるように思われる。続いて女の返歌が置かれるが、それは生きている頃の女の和歌に置き換えられる。ただし、フォーカスが移ったというのではなく、生きていた頃の自分の和歌を借りて、一つ前の和歌に答えるような印象。
ところで、大刀で渡り合う物語後半は、塚(つか)と刀の柄(つか)、つまり握る部分の掛け合わせがあるのだろうか、そうだとするならば、この和歌の「つかのまも」さらに次の和歌の「勝負が付いていない」という意図は、後半への暗示にもなっているのかも知れず。]
糸所の別当(いとどころのべっとう)[春澄善縄の娘、古今和歌集に一首収める歌人、春澄洽子(はるすみのあまねいこ)]が、
かちまけも
なくてや果てむ 君により
思ひくらぶの 山はこゆとも
[勝ち負けも
無いままに果てるのか あなたのために
思いを比べるという くらぶ山を越えはしたものの]
[この和歌の趣旨を踏まえると、異質に思われる後半部分の内容が、前半の逸話部分で水鳥を射て勝敗を決するという誓いを、立ててしまった(思いを比べる山は越えてしまった)ものの、勝敗が決さないまま果ててしまったために、必然的に引き起こされた怪奇であるようにも思えてくる。あるいは「生田川」の名称には「生きる」とは別の意図があって、あるいはこの川は誓いを立てる川として知られていて、誓いは果たされなければならないとう伝説や俗信でもあったのだろうか。そうであるならば、水鳥を射るという行為にも、あるいは水鳥そのものにも、特別な意図があるようにも思えてくるが、残念ながらこれもまた、私の領域を越えてしまうようです。]
生きていた頃の女となって、[ここから和歌の詠み手が消えるのは、フォーカスが歌会から離れ、前半を引き継いだ三人の思いがクローズアップされてくるという方針]
あふことの
かたみに恋ふる なよ竹の
たちわづらふと 聞くぞ悲しき
[天秤の棒みたい
逢うことの一方が恋しいと決められない
そんな竹の棒が どちらに傾くことも出来ないでいる
それで選ばれるべき二人も 逢うことが難しいものだから
いつまでも立ちわずらっている
そんな話を聞くことは 悲しいことではありませんか]
[おそらく、相手の男たちが煩っているのが悲しいというだけでなく、天秤の両側にいる男二人と、どちらにもなびけない天秤である自分、すべての境遇をひっくるめて、最後に客体化して、そのような話を聞くのは悲しいことではないでしょうか。とまとめたもの。ただ、一連の和歌の中で、この和歌だけが単独の和歌として、結晶化されすぎていて、いにしえの名歌でも持ち出した様子。それがもとの生田川のストーリーと結びついたものかどうかは不明だが、伝承の中でこなれてきたような優れた和歌になっている。]
[ところで「つかのま」に刀の柄(つか)の意図が込められて、次の和歌の「かちまけ」「思ひくらぶ」の戦を暗示するような和歌へといたっているのだとすれば、「なよ竹のたちわづらふ」には、最後の部分の「くれ竹」それから「大刀」の意図が込められているのかも知れない。つまり大刀がわずらっていて、思いをくらべる山を越えても、かちまけが付かないでいるという意図である。]
また、
身を投げて
あはむと人に 契らねど
うき身は水に 影をならべつ
[川に身を投げて
逢おうと約束をした訳ではないけれど
憂いに満ちた私たちは水の上に浮いて
姿をならべているのです]
[和歌の前に「また」とだけあるが、和歌の内容から、死んだ後の和歌であることが分るから、「また生きたりしをりの女になりて」ではなく、「また女になりて」の略であると分る。
ただし丁寧に眺めると、生前の和歌より進んで、飛び込んでまだ肉体が水に浮いて、男たちがそれを掴んで、実際に姿を並べている状況を詠んでいるようで、もうひとつ後の女性の和歌が、「うかりけるわがみなそこ」と詠んでいるのが、たましいだけの現状を詠んだものだとすると、生前の和歌と同様回想的な和歌になっていもいる。
その状況を踏まえて歌会のはじめの和歌に戻ると、たましいは抜け落ちていて、またいろいろと考えたくなってくるが、いずれにせよ、かなり周到に配備された和歌たちであることが思い知られる。]
また、もう一人の男になって、
おなじえに
すむはうれしき なかなれど
などわれとのみ 契らざりけむ
[おなじ江に、おなじ縁を持って
こうして(たましいだけとなって)住み続けられるのは
しあわせな間柄ではあるけれど
どうして私とだけ
約束を交わしてくれなかったのでしょうか]
[ここからは、現状の、つまり三つならびの塚となった状態での和歌と言えるか。おなじ「え」には、入り江の意図と、「おなじ縁」の意図が込められているが、わざわざ歌会に「皆絵に書きて」と解説したからには、「おなじ絵」という意図も込められているように思われる。]
女からの返しとして、
うかりける わが水底(みなそこ)を
おほかたは かゝる契りの
なからましかば
[憂いに満ちた
わたしたちの水底よ
はじめから このような約束など
なかったならよかったのに]
また一方の男として、
われとのみ 契らずながら
おなじえに すむはうれしき
みぎはとぞ思ふ
[私とだけ
約束を交わしたのではないとしても
おなじ縁を持って おなじ江に住むのは
うれしいような水際の この身の上だとは思います]
さて、この和歌を詠んだ男は、呉竹(くれたけ)の節々の長いものを切って(柵にして)、狩衣(かりぎぬ)[もと狩用の着物で普段着くらい]、はかま、烏帽子(えぼし)、帯を入れ、また弓、背負の矢入れ、太刀(たち)などを入れて、埋葬を行った。もう一人の男は、おろそかな所のある親だったのだろうか、そのようなものは入れずに埋葬した。これらの塚の名称を、今では「乙女塚(おとめづか)」と呼ぶのだった。
ある旅人が、この塚のそばに宿を借りた時、人が争う音がするので、いぶかしく思って、従者に見に行かせたけれど、「争うような様子はありません」と帰ってくるので、不思議だと思いながら眠ってしまう。すると夢であろうか、血にまみれた男が、目の前にひざまずいて、
「わたしは、仇(かたき)に責められて、劣勢に立たされています。腰に付けているもの[つまり太刀]を、しばらくお貸し願いたい。憎らしいものへの復讐をしたいものですから。」
と言うので、恐ろしいとは思ったが貸してやった。
目が覚めてから、夢だったろうかとも思ったが、太刀は実際に貸してやったらしくそこにない。ほどなく聞いていると、非常に、先ほどのように、争う音がしてくるのだった。
しばらくあって、先ほどの男が来て、大変うれしそうに、
「あなたのおかげで、年来憎んでいた者を撃ち殺すことが出来ました。これからは末永く、あなたの守護霊としてお仕えしましょう」
といって、物語のはじめから語り出すのだった。
とても気味が悪いことだとは思いながらも、めずらしい話なのでたずね聞くうちに、いつしか夜が明ければ、誰もいなくなっていた。朝になってから見に行くと、例の塚のもとには血が流れているのだった。また貸した太刀にも、血が付いているのだった。
気味が悪く耳を背けたくなるような話ではあるが、以上、この旅人が話した通りのことである。
津の国の難波(なにわ)のあたりに、夫婦が暮していたが、悪い家柄の人でもなかったが落ちぶれて、生活が出来なくなってきたので、男は妻を都へ「宮仕え」をするように勧め、自らは生活を立て直してまた逢おうと言うのだった。
そうして女は都へ出たが、心細さに夫を思って、
ひとりして
いかにせましと わびつれば
そよとも前の 荻(をぎ)ぞこたふる
[ひとりになって
どうしたらよいかと 途方にくれていますと
そうねどうしたらよいのでしょう
とでも言うように そよそよと前の
荻が答えるばかりでした]
と嘆くのだった。
都で仕えるうちに、服装も整って、生活も潤ったが、親しい人もなく、夫のことを知ることも出来ないでいた。やがて時は流れ、ついに彼女は都の貴族に認められて、彼の妻となってしまった。
それでも前の夫のことが心配で、「お祓いがてらに難波で観光を」と言って、かつての夫のところへ向かうと、もとの家すらなくなっている。夫も見つけられないで、従者にも本当のことは打ち明けられないし、共の者は「日も暮れるので帰りましょう」とうながす。「もうすこし」と躊躇していると、車の前に葦(あし)を商う貧しい男が通った。
それが夫に似ているので、「あの男を呼んで、あの葦を買いたいから」というと、従者はいぶかしがりながらも、男を呼び寄せると、それが夫だった。妻はどうにか夫に、過大な葦の代価を取らせようとするが、従者に反対される。そのうち、夫の方が妻に気づいて、自らの境遇に恥じ入って、葦を捨てて逃げて、家に飛び込んで、かまどの裏に縮こまってしまったのだった。
妻が「つれてきなさい」というので、従者はひと騒ぎに彼を捜し求めた。見つけて「贈り物を与えようというのに、愚かな男だ」と連れ出そうとするときに、男は手紙を書いて、これを彼女に届けよという。
いぶかしいと思ったが、手紙を持っていく。開いてみると、
君なくて
あしかりけりと 思ふにも
いとゞ難波の 浦ぞすみ憂き
[あなたがいなくて
葦を狩ながらも 辛いと思うことばかり
本当に難波の浦は 住むのが憂うつです]
[下句にさらに別の意図があるような
気配もするのだけれどさっぱり不明]
と記してあるので、あまりの悲しさに、かつての妻は声を上げて泣いてしまうのだった。さて返しはどうしたのだろうか、それは分らない。
彼女は贈り物に手紙を添えて、送り返した。そのあとはどうなったであろうか、それは分らない。
あしからじ
とてこそ人の わかれけめ
なにか難波の 浦もすみ憂き
[悪いことではない
(葦なんか刈るような結末は迎えない)
といってこそ あなたは別れることを決めたのに
なにを今さら難波の浦が
住むのが辛いなんて言われたところで……]
むかし大和(やまと)の国、葛城(かつらぎ)の郡(こほり)[奈良県西部]に住んでいた男と女があった。この女は、顔も姿も美しいなりをしていた。
長年思い合って住み通っていたが[男が女の家に通う通い婚、だからこそ女側の家が悪くなると体裁が悪くなった]、女の家が大変悪くなったので[直後の新妻の「富みたる女」から、「貧しくなった」と捉えやすいが、ただ悪くなったと述べているだけで、たとえば悪いうわさが立ったり、犯罪者を出したとかでも成り立つ。貧富について述べれば、男が「おほきみ」であると最後にあるので、純粋に貧しくなったからというより、女の家が落ちぶれて、外聞が悪いからというのが本意かと思われる]、この悪くなったことを(自らの立場上)思い煩って、限りなく愛してはいたが、(自らにふさわしい)新しい妻を作ることにした。この新しい妻は、(自らと釣り合う)裕福な女性には違いなかった。ことさら愛している訳でもないが、女の元に通えばたいそう尽くしてくれるし、服装やアクセサリーも大変上品にしているのだった。
[物語の最後の「この男はおほきみなりけり」というひと言は、おまけに添えられたものではなく、少なくとも作者はこのひと言を利用して、この開始部分の状況説明が解き明かされるように執筆をしていることが、上の現代語訳からも分るのではないだろうか。同時に、「おほきみ」であればこそ、最後に新妻が見せた醜態が、我慢ならないものに思われた。これによってまた、女性のいちずな愛のエピソードと思われた内容に、体面を気にした男が、本当の愛に惹かれるエピソードという糸が絡みつき、物語を繊細で魅力的なものにしてもいる。最後の一文にはそれだけの意図が込められているのであって、例えば元になったエピソードにあらかじめその表現があったとしても、作者はそれを積極的に利用して、この段へと物語を昇華させている。]
このように、きらびやかな女のところに通い慣れて、元の女のところに来ると、女はひどくみすぼらしく控えている。このように新しい女の所へ出かけても、妬む素振りも見せないので、大変心を動かされた。でも女は心の中では、限りなく妬ましく、晴れない気持ちであるのを、耐え忍んでいたのである。
「今日はここに泊まろう」と男が思っている夜でも、ことさらに「そろそろあちらに」[妬みを心に抑えているから、もう行ってよという女性心理を見事に描いている。それがたぎる思いとなって、非現実的現象となるという流れ]と言うので、男は自分が他の女の所に行くのを妬みもせずに[男は事件が起きるまで彼女の心理に気づかない]、あるいは他の男がいるのではないか。そうでも無ければ、自分を恨むことだってあるはずだなどと、あれこれと考えるのだった。
それで、新しい女の元に行くと見せて、庭木の影に隠れて、「男が来るか」と見ていると、女は縁側に佇んで、月明かりが大変美しいのに任せて、髪の毛を梳かしたり[他の身だしなみに関することもしたり]している。夜が更けるまで寝ないで、ひどく嘆いて月を眺めているので、「男を待つのだな」と思って見ていると、召使いに向かって言うのだった。
風吹けば
沖つしら波 たつた山
夜半にや君が ひとり越ゆらむ
[風が吹けば
沖には白波がたちます たつた山を
こんな夜更けにあなたは ひとりで越えるのでしょうか]
と詠むので、「自分の身を思ってのことなのか」と思うと、愛しさがこみ上げてくるのだった。新しい妻の家は、竜田山を越えていく道にあったのである。
そして、さらに見ていると、この女は泣き出して、その場に伏せって、金属製の器に水を入れて、胸に付けるのだった。「どういうことだ、何をするつもりだ」と思ってさらに見る。するとこの水は、熱湯になって沸騰したのだった。その熱湯を捨てて、また水を入れる……
胸が一杯になって、男は走り出て、「どんな気持ちを抱えたら、このようなことになるのか」と言うやいなや、彼女を抱きしめてそのまま一夜を共にするのだった。そうしてもう他には行かないで、ずっと彼女の元にいるのだった。
こうして、多くの月日を過ごしたが、男がふと思うには。「何でもない顔をしながら、女の愛情というものは、切羽詰まったものであった。新しい妻も、こうして行かないのを、いったいどう思っていることか」と心配になって、新しい妻のもとに出かけたのであった。
しばらく行かなかったので、男は遠慮がちに外に立っていた。そうしてのぞき見れば、自分と一緒の時は良く見えたが、一人の時は身なりを構わないような服を着て、大きな櫛を額髪(ひたいがみ)に挿したままである。そうして、自分で御飯をよそりまくっている。
なんでひどいと思って、帰ってきてしまい、それきり行かなくなってしまったという。この男は、大君(おおきみ)の立場であった。
昔、奈良の天皇[奈良時代のある天皇、むしろこれ以後の段すべて平城天皇を指すか?]に仕えていた宮女があった。顔もすがたもすばらしく奇麗で、男達が求婚し、貴族たちも求婚してもなびかなかった。その理由は、天皇をかぎりなく愛しい者と思っていたからである。
ある時、天皇が彼女をお召しになった。けれどもその後は、続けて召さなかったので、限りなく悲しい思いに彼女は囚われたのだった。[普通の物語とか小説なら、筆記を割くべきヶ所を、きわめて簡素に切り抜けて済ませるというのも、しばしば行われる傾向ではある。ゴシップ的というのとは、いわば正反対の筆記ものではあるものを。]
昼も夜も、心にかけて忘れられず、彼女は恋しさと、わびしさにさいなまれるのだった。天皇はお召しになったとはいえ、特別な事とも思われなかった様子。さすがに、つねに天皇の顔を見ない訳にはいかなかったので、彼女はこの世に生きていられない気持ちがして、夜ひそかに抜け出して、猿沢池(さるさわのいけ)[奈良市興福寺のかたわらにあった池]に身を投げてしまった。
このように身投げをしてからも、天皇はお気づきにさえなられなかったものを、話のついでにある人が申し上げたので、ようやくお聞きになった。たいへん哀れに思われて、猿沢の池のほとりに行幸(みゆき・ぎょうこう)[天皇が臣下の者たちを引き連れて出向く、旅をすること]なされて、そこで人々に和歌を詠ませるのだった。[遊びでなく、供養の意味を兼ねて。]
その時、柿本人麻呂が、
わぎもこが
ねくたれ髪を 猿沢の
池の玉藻と 見るぞかなしき
柿本人麻呂 (拾遺集)
[わたしのあの子が
寝ているうちに乱れた髪の毛を
今は猿沢の池の
なびく藻として見るのが悲しい]
と詠んだので、天皇が、
猿沢の 池もつらしな
わぎもこが 玉藻かづかば
水ぞひなまし
[猿沢の池も恨めしいこと
わたしのあの子が水に潜って
玉藻をかぶっているというのなら
水も涙を流しきって
涸れてしまえばよかったのに
まるで知らないふりをするように
なみなみと水をたたえているよ]
[もとより、彼女が飛び込んだら、水が涸れて助ければよいのに、というのは表層的な意図で、「すでに死んで玉藻として見るのが悲しい」という柿本人麻呂の和歌に答えるものとしては、彼女の亡くなったのを悲しんで、涙を流しきって枯れてしまうべきはずなのに、なみなみと水をたたえているこの池はつれない、冷淡だというような意図がある。
その先の思いは、物語の方がフォローしていて、つまりは天皇は、彼女の愛情に気づきもしなかった、そうして彼女が死んでも、すぐ気づいて悲しくて泣くどころか、誰かから聞くまで知りもしなかった、そんな自分を猿沢の池に見立てて、「さるさわの池もつらしな」と詠んでいるのである。]
と詠んで、墓を作らせてお帰りになられたそうである。
2018/02/06
2019/01/06 改訂