先の帝である醍醐天皇の時代、卯月(うづき)[陰暦4月]の一日目に、うぐいすが鳴かない理由を読めと、醍醐天皇が命じるので、源公忠(みなもとのきんただ)が詠むには、
春はたゞ
昨日ばかりを うぐひすの
かぎれるごとも 鳴かぬ今日かな
源公忠(公忠集)
[春はただ
昨日までであると ウグイスが
まさか暦を読んで
鳴かない今日なのでしょうか]
そう詠んだのでした。
同じく醍醐天皇の時、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)(859?-925?)をお召しになって、月のたいへん美しい夜、管弦などのあそびをなさって、「月を弓張という事があるが、それはどのような心からか。その理由を和歌で詠んでみよ」と言われるので、躬恒は階段の下に控えて、天皇に仰せになるには、
照る月を
弓はりとしも 言ふことは
山べをさして 入ればなりけり
凡河内躬恒
[その照る月を
弓張月とも言う理由は
山を狙って 射るような姿で
沈んでいくからでしょう]
さらに、歌の褒美に着物を貰って、その着物のことを、
白雲の
このかたにしも おりゐるは
天つ風こそ 吹きてきつらし
凡河内躬恒
[白雲が
山のこちらの方に下りて見えるのは
天から風が吹き寄せたからだろう
そうして白雲のような素敵な着物が
わたしの肩に下りて来たのは
天のようなお方のめぐみが、
風のように吹いて来たからには違いありません]
おなじく醍醐天皇が、月が美しいので、密かに妻たちの住むあたりを、散歩なさったとき、源公忠がお供をしていた。ある部屋から、濃い紅色の着物を着た、とても清らかな女が出てきて、ひどく泣き出した。
天皇が公忠をそばに寄らせて、様子をうかがわさせると、髪を振り乱して大いに泣いている。「どうして泣くのだ」と言っても、答えもしない。天皇もたいへん不思議に思っている様子だった。そこで公忠が、
思ふらむ
こゝろのうちは 知らねども
泣くを見るこそ 悲しかりけれ
源公忠
[思っているであろう
その心のうちは分らないけれど
泣くのを見るのこそ
悲しいものですね]
と詠んだので、天皇もしみじみとこの和歌を褒めたそうである。
先の醍醐天皇の時、宮中のある部屋に、可愛らしい少女がいた。それを帝が見止めて、ひそかにお呼びになった。このことを誰にも知られないように、時々お呼びになるのだった。そうして、このように詠んだ。
あかでのみ 経(ふ)ればなるべし
あはぬ夜も あふ夜も人を
あはれとぞ思ふ
醍醐天皇
[飽き足りない思いで過ぎればだろうか
逢わない夜も逢う夜もお前を
愛おしく思うよ]
と詠んで差し上げれば、少女の心にも、とても深い思いに感じられたので、我慢出来ないで友達に、「こんな風におっしゃってくださったの」と話してしまったら、少女の主人にあたる御息所(みやすんどころ)[天皇の妻の一人にあたる]の耳に入って、少女を追い出してしまったらしい。ひどいことであった。
三条の右大臣[藤原定方(さねかた)]の娘が、堤の中納言[藤原兼輔(かねすけ)]と逢い始めた頃は、男は内蔵寮(くらりょう)の助(すけ)の役職にあって、宮中に通っていた。女の方は、また逢おうという気持ちになれなかったのだろうか。彼に心を掛けるようにも見えなかった。男もまた、宮中に仕えていたので、常には女のものとには居られなかった頃、けれども女の方から、
焚きものゝ
くゆる心は ありしかど
ひとりはたえて 寝られざりけり
藤原定方の娘 (新拾遺集)
[焚き物にするお香の
けむりのようなおぼつかない
後悔のこころはあるけれど
今は香炉は絶えてしまい
一人ではねむることも出来ません]
と和歌を贈った。兼輔は和歌の巧みであるので、優れた返歌があっただろうけれど、それは知らないので、ここには書かない。
(前段に続いて)また男が、「この頃いそがしくて行けません。このように駆け回っている中でも、どうして来ないのだろうと、あなたが思っているかと、限りなく心配しています」と伝えてきたので、女の和歌に、
さわぐなる
うちにも物は 思ふなり
我がつれ/”\を なにゝたとへむ
藤原定方の娘
[いそがしい
うちにあっても恋しいと 思うものならば
わたしの持て余すような毎日を
なんて表現したらよいかしら]
志賀の山越を越える道にある「いはえ」という所に、今は亡き兵部卿の宮[陽成天皇第一皇子、元良親王]が、別荘を大変立派にお建てになって、時々いらっしゃった。こっそりここにいらっしゃって、志賀寺に詣でる婦人たちを眺めていることもあった。あたりの様子も素晴らしく、家もとてもすばらしいものだった。
としこ[藤原千兼の妻]が、志賀寺に詣でるついでに、この家に立ち寄って、景観と別荘を眺めて感じ入り、和歌を書き記した。
かりにのみ
来る君待つと ふりいでつゝ
なくしが山は 秋ぞかなしき
としこ (新勅撰集)
[狩りをするような時だけ
仮にやってくるだけのあなたを待って
鹿が鳴くみたいに、声を出して泣いてしまう
そんな志賀山は、特に秋が悲しく思われます
まるで恋愛において、飽きが悲しいように]
[全部の意味を記すとくどくなりますが、ここではまとめてしまいましょう。やはり二重の意味をもっていて、ひとつは「としこが飽きられたもと恋人の兵部卿の宮を待つ」という趣向ですが、もうひとつは「としこが今はなき兵部卿の宮をしのぶ」というものです。]
「こやくしくそ」と呼ばれる男が、女のもとに通って、その後送ってきた、
かくれ沼(ぬ)の
底のした草 み隠れて
知られぬ恋は くるしかりけり
(新千載集 枇杷左大臣の和歌として)
[草に隠れた沼の
さらに底の水草が 身を隠すような
相手に知られない恋は 苦しいものですね]
すると女の返し、
み隠れに
隠るばかりの した草は
長からじとも 思ほゆるかな
(新千載集)
[身を水に隠すように
隠れまくっているような水草では
身の丈が短いものですから
恋しさも短いのではないかと
思われますが]
この「こやくし」という人は、長さがとても低かったという。
[東歌的な諧謔性を持った段で、表の意味は「沼の下草に隠れるようにする恋は苦しい」「そんな隠れるような恋なんて長く続かない」というものですが、それよりも露骨に現れてくるのは、「あなたのシンボルってちっちゃすぎ」という女性の皮肉、あるいは冗談であるという……大和物語においては珍しい部類の段になっています。
ただ気になるのは、137段と139段という色好みなる兵部卿の宮のエピソードに挟み込まれている点で、あるいはこれは何か隠された意味が、存在するようにも思われなくもありませんよね……]
先の醍醐天皇の時、承香殿(じょうきょうでん)に住む女御[天皇の妻の一人、ここでは源和子(みなもとのわし・かずこ)]のもとに、「中納言の君」[未詳]と呼ばれる人がお仕えしていた。そこに、今は亡き兵部卿の宮[元良親王]がまだ若く、恋に生きていた頃、承香殿の近くに住んでいたので、趣味の分るような人々がいると聞いて、出向いて話をするのだった。
そんな頃、この中納言の君と、こっそり共に寝るようになった。時々共寝をしていたが、やがて宮はほとんど訪ねて来なくなってしまった。その頃女が和歌を詠んで贈った。
人をとく
あくた川てふ 津の国の
なにはたがはぬ 君にぞありける
中納言の君 (拾遺集)
[人を早くも飽きたなんて
芥川(あくたがわ)という
津の国の難波にある川の
名前と何も変わらないような
あなたなのでした]
こうして、食事も咽を通らず、泣きながら病気のように恋い慕っていたが、ある時、承香殿の前の松に、雪が降り掛っているのを折って、このように和歌を詠んで差し上げた。
来ぬ人を
まつの葉に降る しら雪の
消えこそかへれ あはぬ思ひに
中納言の君 (後撰集)
[来ない人を待ちます
その松の葉に降る白雪さえも
溶けて消え去ってしまいそう
あなたに逢えない
わたしの思いの火によって]
と詠んで、「けっして、この雪を落とさないで」と使いに言って、松の枝と和歌とを元良親王に贈ったという。
今は亡き兵部卿の宮[元良親王]が、昇大納言[源昇(みなもとののぼる)]の娘のもとに通っていた頃。いつもの寝床ではなく、廂の間に仮の寝床を設けて、そこで一夜を共にして帰られた後、しばらく訪れないで、「あの廂の間に敷いた寝床は、そのままありますか。それとも片づけてしまいましたか」と尋ねてきたので、その返事に、
敷きかへず
ありしながらに 草枕
塵(ちり)のみぞゐる はらふ人なみ
源昇の娘
[敷き替えもせずに
あの日のままに 草の枕には
塵(ちり)ばかりが溜まっていくようです
あなたがいなくては 払う人もいないので]
すると返歌に、
草枕
塵はらひには からころも
たもとゆたかに 裁つを待てかし
元良親王
[草の枕の
塵を払うのは わたしが唐風の
袖を立派に 仕立ててあなたのもとへ
行くまでまっていてくださいな]
とあったので、また女から、
からころも
裁つを待つ間の ほどこそは
我がしきたへの 塵もつもらめ
源昇の娘
[あなたが唐風の
着物を仕立てる あいだにはきっと
わたしの敷きかえずにいる
寝床の塵もつもってしまうでしょうね]
と返されたので、元良親王は女の元にやって来きたのだった。
また別の時に、「宇治に狩りをしに行く」という親王への返事として、
み狩する
栗駒山(くりこまやま)の 鹿よりも
ひとり寝(ぬ)る身ぞ わびしかりける
源昇の娘
[狩をするときの
栗駒山の鹿の身の上よりも
ひとりで寝ている
わたしの身の上の方が
わびしい命ではないかしら]
[ようやく気がついたことですが、この兵部卿の宮、90段106段107段やこのあたりの段の「色好み」のヒーロー的な意味のほかに、137段の別荘から婦人たちを眺めるとか、わざわざかわったところで一夜を共にするこの段のエピソードなど、具体的な性向が描かれてもいるようです。あるいは138段もその関連かも知れません。ただ、それが必ずしもゴシップ的であるというよりは、誰でもあるくらいのそれぞれの性向を、彼においては具体的に描いているというような印象で、つまり作者にとってより近い、思い入れの深い人物であったような気配はします。
ただ、平中の扱い方を見てみると、そうではなくて、この兵部卿の宮においても、当時知られたまとまった物語があって、それを参照したということなのかも知れませんが、当然ながらわたしには分りかねます。はい。]
2018/02/02
2018/11/23 改訂