『大和物語』111段~120段(現代語訳)

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111段 ふち瀬を誰に問ひて渡らむ

 大膳職(だいぜんしょく)[宮内省所属で饗宴などの饗応の食事を整える職]の長官である橘公平(たちばなのきんひら)の娘たちは、「あがたの井戸」と呼ばれるところに住んでいた。

 そのうち、長女に当たる人は、后の宮(きさいのみや)[醍醐天皇の中宮である藤原穏子(おんし・やすこ)]のもとに、「少将の御(ご)」という通り名で仕えていた。三女に当たる人は、今の備後国[広島県東部]の守(かみ)[長官]である源信明(みなもとのさねあきら)が、まだ若かった頃、はじめての恋人にしたのだった。やがて二人の関係が終わりを迎え、男が通ってこなくなった時、詠み贈った和歌。

この世には
  かくてもやみぬ わかれ路の
    淵瀬をたれに 問ひてわたらむ
          橘公平の三女

[この世では
   こうして終わりを迎えましたけれど
  いのちの別れ路にあるという川
    初恋の人に導かれて渡るというあの川を
   誰に尋ねて渡れば良いのでしょうか]

[死後、はじめての恋人に手を引かれて、三途の川を渡るという俗信にもとずく。116段の亡くなる際の和歌と呼応する。]

112段 雨もよにはたよにもあらじな

 おなじ橘公平の三女が、兵衛尉(ひょうえのじょう)という役職にあった「もろただ」という男と恋仲になって、ある時、贈った和歌。風が吹いて、雨が降る日のことであった。

こち風は
   今日ひぐらしに 吹くめれど
 雨もよにはた よにもあらじな
          橘公平の三女

[雨を呼ぶという東風は
   今日、日がな一日 吹いているようですけれど
  雨も夜になればきっと……
    夜にはきっとなくなるでしょうから
      (そうしてきっとあなたは来てくれる……)]

113段 井手の山吹

 前段の「兵衛尉もろただ」が、その橘公平の三女と疎遠になってから、祭の舞人に指名されて出かけていった。そこに三女たちが見物に来ていたのだった。やがて、帰ってから、三女が「もろただ」に和歌を贈るには。

むかし着て
  なれしをすれる ころも手を
    あなめづらしと よそに見しかな
          橘公平の三女

[むかし見慣れていたはずの
   あなたの摺衣(すりごろも)の服の袖を
  あら素敵だなんて
    他人のように眺めたのでした]

[「着てなれし」には「着慣れた服」の意味に「わたしのところに来慣れた」「だから見慣れた」の意味を掛ける。「あなめづらし」には「目に辛い」つまり、まだ恋しさが残っているので辛いという意味を掛け合せる。]

 やがて「兵衛尉もろただ」は、山吹につけて和歌を寄こした。

もろともに
  井出の里こそ 恋しけれ
    ひとりをり憂き 山吹の花
          兵衛尉もろただ

[一緒にいた
   井手の里が 恋しいです
     ひとりでいて 折るのはゆうつな
   山吹の花よ]

[井手の里は京都府井出町(いでちょう)にあった山吹と蛙の名所。「井手の里」は「居て」つまり「ふたり居た井手の里こそ恋しい」という文脈短縮的な掛詞。「ひとりをり憂き」も「ひとりで居(お)り、折るのはゆうつな」という文脈短縮的な掛詞。きわめて教科書的なので、これほど叙情的な段の背後に、和歌の教科書的な意図がひそかに息づいてもいる様子。(大和物語全体の傾向からここでもそう感じられるくらいの意味。)]

[一首目の着物に対するものとして、「もろともに居手」に共寝の印象が、「ひとり織り憂き」に、自分だけが着る着物のイメージが込められているか。]

 これに対する女からの返しは知らないが、こちらは、まだ男が通っていた頃に三女が贈った和歌。

大空も
  たゞならぬかな 神無月
    われのみ下に しぐると思へば
          橘公平の三女

[空の様子も
   普通ではありませんでした
  しぐれの降る十月
    私だけが空の下で
   しぐれのように泣いていると思ったら]

 これもおなじ三女の和歌。

あふことの
  なみの下草 み隠れて
    しづこゝろなく ねこそなかるれ
          橘公平の三女 (新古今集)

[逢うことが叶わない
  波の下の水草は 身を隠しながら
    穏やかな心をなくして
  根もないように乱れて
    音をあげて泣いています]

114段 袖をしも貸さざりしかど

 桂の皇女(かつらのみこ)[宇多天皇皇女の孚子内親王(ふしないしんのう)]が、七夕の頃、人目を忍んで男と会って、その男に贈るには、

袖をしも 貸さゞりしかど
  七夕の あかぬわかれに
    ひちにけるかな
          孚子内親王

[着物を七夕に
   貸したわけでは ありませんが
  七夕のように わずかに逢っては別れてしまう
    あなたのために わたしの袖が濡れています]

[このあたり袖、寝、露、涙などの関連が多段にわたるが、この和歌は直接的には113段の「ころも手」の関連で呼び込まれ、116段へと引き継がれる。このあたりの段構成はちょっと神がかっている。]

115段 今もかかれる露のはかなさ

 右大臣[藤原忠平の次男、藤原師輔(ふじわらのもろすけ)]が、蔵人頭(くろうどのとう)の職にあった時、「少弐のめのと」[未詳。少弐命婦(しょうにのみょうぶ)とも。勅撰和歌集に和歌あり]という女性に贈った和歌。

秋の夜を
  待てと頼めし 言の葉に
    今もかゝれる 露のはかなさ
         藤原師輔 (続後撰集)

[やがて来るだろう秋の夜を
   待てくださったらと 期待を掛けたあなたの言葉に
     こうして秋が来た今 報われないで降るのは
   はかないなみだの露なのです]

女の返歌は、

秋もこず
   露もおかねど 言の葉は
 我がためにこそ 色かはりけれ

[女性の和歌の意味]
 この女性の返歌、「秋になって、露が降りた訳でもありませんが」という表の意味に、「飽きた訳でもなく、逢った訳でもありませんが」、わたしにとってあなたの言葉は色褪せましたと説明されますが、二句目を「逢った」の意図で受け取ると、逢えない恋にすがる男の和歌の返歌としては、分りきっていて、不自然なことになります。そもそも男の和歌が、露をなみだの意図で使用しているのですから、それを受けて返すこそすぐれた返歌というものです。
 それ以前に、このあたりの一連の段は露を袖のなみだの印象で捉えているのが明白な訳で、これは「恋のなみだに泣き濡れる」の意図と捉えるのが、ナチュラルな解釈かと思われます。それで意味としては、


  飽きたわけでも(嫌いになった訳でも)
   泣き濡れたわけ(恋しくなった訳でも)でもありません
    ただあなたへの約束の言葉は
     わたしにとって色が変わってしまいました
      (あるいは色褪せてしまいました)

くらいのものでしょうか。ただ男性の「秋の夜」には「飽きる」の意図はないと、解説などにはありますが、はたしてそうでしょうか。あるいは女性は、「今の男に飽きたなら」のような言葉を掛けていたという気配が籠もります。いずれなかなかに解釈の難しい和歌で、今は上の意図として過ぎ去るしか無いようです。

116段 長けくも頼みけるかな

 橘公平(たちばなのきんひら)の娘[おそらく前に出た三女]が死ぬときに、

長けくも 頼みけるかな
  世の中を 袖になみだの
    かゝる身をもて

[ずっと長い間
   頼みに思ってきました この世の中を
  袖に涙の掛るような このような身の上のままで]

[「長けく」は「長いこと」。「けし」は「~の状態にある」の意味を担う。「も」は詠嘆の意図とか書籍にあり。ただ「長い間」とはニュアンスが違うようにも思われるがとりあえず暫定的現代語訳。単独の段としては「悲しい思いばかりで生きてきました」となり、他の段との関連では「ずっとあなたを思って生きてきましたとなる。]

117段 君まつ虫

 桂の皇女[][宇多天皇皇女の孚子内親王(ふしないしんのう)]が、源嘉種(みなもとのよしたね)に、

露しげみ
   草のたもとを まくらにて
 君まつ虫の ねをのみぞなく
          孚子内親王 (新勅撰集)

[涙の露があまりしきりなので
   まるで草のような袂を 枕にしながら
  あなたを待ちます 松虫のように
    声を上げてわたしは泣いています]

118段

 閑院のおおいきみ[以前の「南院の今君」とは別の源宗于(みなもとのむねゆき)の娘か。別の説もあり]と呼ばれる女性が、

むかしより
  思ふこゝろは ありそ海(み)の
    浜のまさごは 数も知られず
          源宗于の娘 (続古今集)

[昔から
   あなたを思うこころが有りまして
     それは荒磯(あらいそ)の海にある
  浜の砂粒の数が
    数えられないほどの思いなのです]

119段 鳥よりほかの声はせざりき

 前段とおなじ女に、陸奥国(みちのくに)の守(かみ)[国の長官]をつとめ、今は亡くなった藤原真興(ふじわらのさねき)が詠み贈った和歌。病が重症になって、症状がゆるんだ頃のことだった。

からくして
   惜しみとめたる いのちもて
  逢ふことをさへ やまむとやする
          藤原真興 (信明集)

[苦しみを越えて
   つなぎ止めた この命で
  逢おうとする事さえも
    あなたは止そうとするのですか]

女の返し、

もろともに
   いざとは言はで 死出の山
  などかはひとり 越えむとはせし
          源宗于の娘 (後撰集)

一緒になって
   さあ行こうとも言わないで
  死者の向かう山を
    なんでまあ一人で
      越えようとしたのですか]

 しかし、男が出向いた夜も、逢えない事情があったのか、女とは逢えず、帰った翌朝に男から、

あかつきは
  鳴くゆふつけの わび声に
    おとらぬ音(ね)をぞ なきてかへりし
          藤原真興 (信明集)

[夜明けには
   鳴くにわとりの わびしい声に
     負けない声で わたしは泣いて帰りましたよ]

女の返し、

あかつきの
  寝覚めの耳に 聞きしかど
    鳥よりほかの 声はせざりき
          源宗于の娘 (信明集 伊勢集)

[夜明けの
   眠りから覚めた声で 聞いていましたが
     鳥以外の 声なんか聞こえませんでしたよ]

[源信明の和歌集に入っているのは、真興の名前が似ているので間違われたものと思われる。]

120段 つひに咲きける梅の花

解説込み版

 太政大臣である藤原忠平(ふじわらのただひら)(880-949)は、大臣になってから随分経つのに、枇杷(びわ)の大臣と呼ばれる藤原仲平(なかひら)(875-945)[二人とも藤原基経の同母息子]は、なかなか大臣になれないでいて、ついに為られた祝賀に、藤原忠平は梅を髪に挿して、

遅くとく
  つひに咲きける 梅の花
    たが植ゑおきし 種にかあるらむ
          藤原忠平 (新古今集)

[遅く早く
   ついに咲きました 梅の花は
     誰が植えておいた 種なのでしょうか]

と詠んだ。
 その日の様子を、和歌と共に手紙に記して、斎宮である柔子内親王(じゅうしないしんのう)[宇多天皇の皇女]に差し上げる時に、藤原定方(さだかた)の娘である能子が、これに和歌を加えて、

いかでかく
  年きりもせぬ 種もがな
    荒れゆく庭の 影と頼まむ
          能子 (後撰集)

[どうかしてこのような
   実をつけないような年のない
     種があればよいのに
  荒れてゆくこの庭を
    照らす頼りとしたいから]

 このように願った甲斐があって、藤原実頼(さねより)(900-970)[上の藤原忠平の長男]が通ってくるようになったので、能子は子宝に恵まれ、一族が繁栄することとなった。そんな時、斎宮から、

花ざかり
  春は見に来む 年きりも
    せずという種は 生ひぬとか聞く
          柔子内親王 (後撰集)

[花ざかりの
   春には見に行こう
     実を結ばないことが
  ないという種が
    生えたと聞いたからには]

2018/01/27
2018/11/11 改訂

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