三条の右大臣[藤原定方(さだかた)(873-932)]が、中将だった頃の話。賀茂の祭の勅使に任命されて出向いた際、かつては通っていたが、近頃は途絶えていた女のところに、「このような用事で出かけます。扇が必要なのを、いそがしくて忘れてしまいました。一つ送って欲しいのですが」と連絡をした。
心配りのある女性なので、良いものを送ってくれるだろうと思っていると、色などもたいそう素晴らしい扇の、良い香りのするものを送ってきたが、ひっくり返した扇の裏の、端の方に和歌が記されていた。
ゆゝしとて
忌むとも今は かひもあらじ
憂きをばこれに 思ひ寄せてむ
(拾遺集)
[(扇を送るのは
秋の風ならぬ 飽きの風に捨てられる
なんて言われて 恋人同士には不吉なものですが)
不吉であると
忌み嫌っても今は 恋人同士でもありませんから
なんの甲斐もありません
せめて捨てられた辛い思いを
これに委ねて送ります]
とあったので、しみじみとした想いに囚われて、定方の返し、
ゆゝしとて 忌みけるものを
わがために なしといはぬは
たがつらきなり
藤原定方
[恋人には 不吉であると
忌み嫌うべきはずのものを
あなたはもはや 私にお貸しできません
そうは言ってはくださならいのは
はたして本当につれないのは誰なのでしょうか]
今は亡き権中納言(ごんちゅうなごん)[藤原敦忠(あつただ)(906-943)]が、左大臣の娘[藤原忠平(ただひら)(880-949)の娘。ただし異説あり]に言い寄った頃、その年の十二月の末日に、
もの思ふと
月日のゆくも 知らぬまに
今年は今日に はてぬとか聞く
藤原敦忠
[あなたのことを思って
月日の過ぎるのも 分らないくらいでしたが
もう今年は今日で
終わってしまうと聞きました]
と詠まれた。また、このようにも、
いかにして
かく思ふてふ ことをだに
人づてならで 君に聞かせむ
藤原敦忠 (後撰集)
[どうにかして
このように思っているという 事だけでもせめて
使いの人を通じてではなく
あなたに聞かせたいのだけれど
(あなたはあってはくださらない)]
などと詠みに詠んで、ついに一夜を共にした朝に、
今日そへに
暮れざらめやはと 思へども
たへぬは人の こゝろなりけり
藤原敦忠 (後撰集)
[今日もまた
やがては暮れるとは 分っていますが
日が絶えるまで絶えられないものは
恋人に逢えるのを待つ
人のこころなのですね]
同じ権中納言(ごんちゅうなごん)が、斎宮の皇女[醍醐天皇皇女の雅子内親王(がし・まさこないしんのう)]に、長らく思いを寄せていたが、ついに今日明日にも逢おうという時に、内親王は伊勢の斎宮(さいぐう)となって、逢うことが叶わなかった。「口にする甲斐もないほど残念だ」と思って、詠んで差し上げるには。
伊勢の海の
ちひろの浜に ひろふとも
今はかひなく おもほゆるかな
藤原敦忠 (後撰集)
[神々の御利益がありそうな
伊勢の海に 広がる浜で拾っても
今はなんの甲斐もないように思われます
この恋の貝殻は]
[あるいは貝は「恋忘れ貝」の意味で、恋を忘れるために、霊験(れいげん)あらたかなはずの伊勢の海で、貝殻を拾っても、その伊勢の海は斎宮になったあなたを思い起こさせるものだから、今となってはなんの甲斐もなく、かえってあなたを思い出してしまいます。の意図か。]
今は亡き中務の宮(なかつかさのみや)[醍醐天皇皇子の代明親王(よしあきらしんのう)]の北の方[藤原定方の娘]が亡くなってから、幼い子供たちを引きつれて、妻の親であった三条の右大臣[藤原定方]の屋敷に住んでいた。
喪も明ければ、ずっと独り身では過ごしてはいられないので、亡き北の方の妹にあたる九の君を、妻として貰おうと思っていたのを、「なにが差し支えがあろうか、それはよい」と親兄弟も思っていた。しかしどうしたことだろうか、藤原師尹(もろただ・もろまさ)[藤原忠平の息子]がまだ侍従だったころ、手紙を九の君に渡しているという噂が聞こえてきた。
それで、中務の宮は不愉快だと思ったからであろうか、もとの屋敷に帰られてしまった。その時に、三条の御息所(みやすんどころ)[定方の長女で、醍醐天皇の女御である藤原能子(のうし・よしこ)。ただし他説在りか]のところから、
なき人の
巣守(すもり)にだにも なるべきを
いまはとかへる 今日のかなしさ
[亡くなった北の方に代わって
ずっと残って巣を守ってくださるべきだと思っていたのに
今はこれまでと、卵が孵って飛び立つみたいに
帰ってしまわれた、今日が悲しい]
[「巣守」は孵るべき卵が孵らずに、孵化した小鳥たちが巣を去った後も、巣を守るように残された卵のこと。「かへる」は「宮が帰る」と「卵が孵る」の掛詞。「巣守」の縁語にもなる。]
とあったので、中務の宮の返し。
巣守にと
おもふこゝろは とゞむれど
かひあるべくも なしとこそ聞け
代明親王
[巣守のように
ありたいと願うこころだけは まだそちらに残してありますが
実際にその卵をあたためても
なんの甲斐もないのだと聞きましたので]
[「かひ」は卵(かひ)と甲斐(かひ)の掛詞。巣守の卵を温めても孵らないという知識を踏まえている。93段の「かひ」が「貝(かひ)」との掛詞だが、もとは固い殻のついたものを指し、語源はおなじらしい。]
同じく、三条の右大臣の娘、三条の御息所の話。醍醐天皇が亡くなられ後、式部卿の宮[。宇多天皇皇子の敦実親王(あつみしんのう)。以前に出てきた式部卿の宮は敦慶親王で、やはり宇多天皇皇子だが別人]が通って来ていたのが、どうしたことか来なくなってしまった頃。
斎宮(さいぐう)[これも宇多天皇皇女の孚子内親王で、93段の斎宮は別人]からの手紙の返事に、御息所は、式部卿の宮が来られないことなどを記し、最後に、
白山に
降りにし雪の あと絶えて
今はこし路の 人も通はず
三条の御息所 (後撰集)
[(加賀にある)白山に
降り積もった雪で 道跡も絶えて
今は越路には 人も通いません]
[「降りにし」には「古りにし」で以前の女、古された女の意図が掛詞。「こし路」も「白山のある越の路」に「来し路」で相手の訪れの意図が掛詞。三条の御息所と斎宮のストーリーは120段にもあり。原文の結び「御返りあれど本になしとあり」は120段の「御返し斎宮よりありけり。忘れにけり」と呼応か。]
094段のいきさつを経て、九の君は侍従の君[藤原忠平息子の藤原師尹]と結婚させてしまった。その頃、095段にあるように、三条の御息所のところに式部卿の宮が来られなくなってしまったので、左大臣である藤原実頼(さねより)[藤原忠平息子、師尹の異母兄]が、まだ右衛門督(うえもんのかみ)だった頃、三条の御息所に手紙を差し上げた。
すなわち「侍従の君が婿に選ばれた」と聞いて、藤原実頼が御息所に、
浪の立つ
かたも知らねど わたつみの
うらやましくも おもほゆるかな
藤原実頼
[人の思いの寄せる
方向も潟(かた)も分りませんが
(わたつみの浦ではないけれど)
それにしても うらやましく思われてなりません]
[藤原実頼は御息所に好意を寄せていて、95段で御息所がフラれたのを知って、94段の弟からの弟の結婚をうらやましがりながら、御息所に仕掛けたもの。その結果だかどうだか、御息所と結ばれて、120段に続く。このあたりの段形成はきわめて凝っている。そうして和歌はどれも「片思い」の領域で統一されている。]
太政大臣である藤原忠平(ただひら)(880-049)[つまり94-96段の関係者の父親の登場となる]の妻である北の方が亡くなって、一周忌になったので、法事の準備を進めていた頃。
月がとてもうつくしかったので、縁側に出ていらっしゃって、しみじみと様々なことを思いながら、
かくれにし
月はめぐりて いでくれど
影にも人は 見えずぞありける
藤原忠平 (続後撰集)
[欠けて隠れていた
月は再び巡り満ちて のぼってきましたが
その光に照らし出されていた面影の人は
その光の中にも 見いだすことは出来ませんでした]
その太政大臣[藤原忠平]が、左大臣である藤原実頼(さねより)[つまり自分の長男]の母である菅原の君[宇多天皇の皇女]が亡くなったとき。
喪が明けた頃、宇多法皇の取りなしが、醍醐天皇にあって、階級より上の服の色の着用を許された。それで忠平は、すばらしい「蘇枋重ね(すおうがさね)」の服を着て、醍醐天皇の皇后[穏子(おんし)、忠平の妹にあたる]のもとに参上して、「院のありがたい便りによって、こうして服の色を許されました」などとお伝えする。そして、和歌を詠まれた。
ぬぐをのみ
悲しと思ひし なき人の
かたみの色は またもありけり
藤原忠平
[亡き人をしのぶあまりに
脱ぐことばかりが悲しいと 思っていた喪服ですが
こうしてまた亡き人を思い出す
形見のような服の色を
またこうして着ているのでした]
といって泣いたそうである。
[「菅原の君」は宇多院の娘にあたり、母親が菅原道真の娘だったため、こう呼ばれているともされる。したがって皇族で、「蘇枋重ね」の服を着ることが出来た。それでその服を自分も許されて着てみると、喪服の代わりにこれからは、この色が亡き人をしのぶよすがとなるだろうといって、忠平は泣いたのである。ところで、97段と98段の、亡くなった藤原忠平の妻は、以前の段の、藤原師尹と藤原実頼の異なる母を、それぞれ紹介するという構成になっているらしい。]
宇多法皇のお供に、太政大臣である藤原忠平(ただひら)が大井川に行った時、紅葉が小倉の山に美しいので、「かならず天皇に行幸(みゆき)をおすすめしよう」といって、
小倉山
峰のもみぢ葉 こゝろあらば
いまひとたびの みゆき待たなむ
藤原忠平 (拾遺集)
[小倉山の
峰のもみじ葉よ もしお前に心があるならば
この後もう一度おとずれる
天皇の行幸(みゆき)を散らずに待って欲しい]
と詠まれて、帰ってから醍醐天皇に勧められたので、大井の行幸(みゆき)ということが始まったそうである。
大井に、藤原季縄(すえなわ)の少将が住んでいた頃、醍醐天皇が、花の見頃には行きたいと言っていたが、すっかり忘れている様子なので、
散りぬれば くやしきものを
大井川 岸の山吹 今日さかりなり
藤原季縄
[散ってしまえば
さぞかし悔しい思いをするくらい
大井川の 岸の山吹が
今こそさかりを迎えております]
と詠んだ。それに感じられて、天皇は急いでおいでになったそうだ。
2017/12/28
2018/11/06 改訂