『大和物語』061段~070段(現代語訳)

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061段 なごりの藤

 亭子院[譲位した後の宇多天皇の御所]に、御息所[ここでは妻くらいの意]が多く部屋を設けて住んでいたが、数年して河原院(かわらのいん)[もと源融(みなもとのとおる)の館をもらい受けて改造したもの]を風情豊かに作られた時に、京極の御息所[藤原時平の娘、藤原褒子(ほうし・よしこ)]だけの部屋を設けて、院はそちらに移ってしまわれた。それは春のことであった。

 もとのまま残された妻たちは、とてもさみしい想いに囚われたのだった。上位の貴族たちが通ってこられて、亭子院の藤の花がみごとに咲いているのを、それぞれに「花の盛りすらご覧にならないで(院は移ってしまわれた)」などの言葉を交わしながら、庭園を眺め歩いていると、藤の枝に手紙が結びつけてあった。開いてみると、

世の中の
  あさき瀬にのみ なりゆけば
 昨日のふじの 花とこそ見れ

[古今集の和歌にあるように
    わたしにとっての世の中は 昨日の深い思いさえも
   今日は浅瀬のようになってしまったので
     盛を迎えたこの藤を見てさえも
       かつての盛りの花のことばかりが思われます]

[古今集の「世の中よなにか常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる」を踏まえ、亭子院の寵愛が他に移ってしまったことを嘆くもの。「きのふのふし」に「淵」と「藤」を掛ける。「昨日のふじの花とこそ見れ」には、複雑な思いが込められていて、便宜上付けられた上の現代語訳ほど単純な心情ではない。]

と詠まれていたので、貴族たちはそれを見て、すばらしい和歌だと心を動かされたが、どの女性が詠んだ和歌とも分らなかった。そこで、貴族のひとりが、

藤の花
   色のあさくも 見ゆるかな
 うつろひにける なごりなるべし

[そう思って見ると
   藤の花は 色が浅いようにも見えてきます
  これはあるいは すでに色褪せた状態に
    移ってしまわれた後の 名残の藤なのでしょう]

[「うつろひにける」は「色褪せる」と「(院が)移られる」の意味を掛けたもの。一つ目の和歌に対して、思い足らずな、貴族の他人事的な観察のようにも響くが、必ずしもそうではない。
 散文で藤の花が盛りを迎えた時の和歌であることが定められることによって、このようにすばらしく眺められる藤も、そう思ってじっと眺めると、少し色褪せたようにも感じられる。このすばらしい藤はすでに、盛りが移り変わってしまった後の、名残なのだろうか。つまり、そう思って眺めると、ここにいる美しい妻たちもまた、すでに浅瀬に移り変わってしまった後の、心情に隙間の感じられる、色褪せたような寂しさが感じられる。そんな思いが込められている。
 にも関わらず、「なるほど、よく見れば色褪せてますね」くらいの安っぽい印象が、少なくとも一首目より強く感じられ、妻たちが読んだらきっと誤解するには違いないと思われるのは、「なごりなるべし」に代表されるように、着想を洗練させるほどの情熱に、やや掛けるためで、それを一首目より下手と取るか、最終的に他人事の観察と取るか。執筆者はどこまで思い入れて描き出しているのか。尽きない興味が、なごりのように残されるような段ではある。]

062段 昔の人になにを言ひけむ

 のうさんの君[未詳]という女性は、浄蔵(じょうぞう)[天台宗の僧。三善清行(みよしきよゆき)の息子で、宇多法皇の弟子でもある。加持祈祷の逸話で知られる]とは、、他に比べる物がないくらい愛情を交わし合う仲だった。かならずと約束して、互いの思いはみな言い合える仲だったので、のうさんの君が、

思ふてふ
   こゝろはことに ありけるを
 むかしの人に なにを言ひけむ
          のうさんの君

[誰かを思うという
   こころはこんなに 違うものだったと
     わたしは知りました
  それなら昔の誰かに
    いったい何を言っていたのでしょう
      (みんな愛とは違うものだったのですね)]

と言って寄こしたので、浄蔵大徳[徳のある僧]の返歌。

ゆくすゑの
  宿世を知らぬ こゝろには
 君にかぎりの 身とぞいひける
          浄蔵大徳

[未来の
   宿命を知らないのが 人の心ですから
     きっとあなただけのわたしだと
   同じように言ったのでしょう]

[女性側が、「何を言っていたのでしょう」というのは、具体的に言っていたことを指すのではなく、「愛という言葉はこんなに違っていた」の強調。「わたしったら今までどうやって生きてたのでしょう」といって、「あなたの今が本当の生きてた」を悟らせるのとおなじニュアンス。浄蔵は、それをわざと、「何を言っていたの」を、具体的に語った内容にして返したもの。しかも、わざと高僧を気取ったポーズを取って、格言風に言い返している。
 そしてこのシチュエーションが、すれ違いや喧嘩とは正反対の状況であることを、物語側で丁寧にサポートしているので、恋人たちの冗談の姿が自然と浮かんでくる。その上で……
 やはり浄蔵の想いとしては、「昔の男だって」という想いからくる嫌みも、感じられなくもない。また、自らが修行僧で、やがてはこの恋もという心情も、ひそんではいる気配。ただし、この段の調子は、あくまでも先に説明した場景で、それを崩すものではない。一方で、和歌の多様に捉えられることを利用して、この物語は他の段との関わりを紡いでもいる。]

063段 峰のあらしは荒からめ

 源宗于(みなもとのむねゆき)が、ある娘のもとに通っていたのを、彼女の親が聞きつけて、批難して逢わせないようにしたので、むなしく帰ってきたことがあった。その時、朝に詠んでおくった和歌。

さもこそは
  峰の嵐は 荒からめ
    なびきし枝を うらみてぞ来(こ)し
          源宗于

[さぞかしや
   峰の嵐は 激しく吹き荒れたのでしょう
     風になびく枝のような あなたをうらめしく思いながら
  帰ってきました]

[峰の嵐は、親の叱責で、なびきし枝はそれに従う女性、「うらみて」は枝の裏側を見てと、「恨んで」の掛詞。源宗于の39段の和歌もそうだが、ここでも中年男性と若い女性を連想させる内容。]

064段 忘れやしぬる春がすみ

 平中(へいちゅう)こと平定文(たいらのさだふん)が、好みの女性を正妻と共に住まわせていたが、正妻は憎らしく思ってののしって、この新妻を追い出してしまった。

 この正妻に従うしかなかったのだろうか、平中は、愛しいと思いながらも留めることが出来なかった。正妻の口調が激しいので、近くに寄ることさえ出来ないで、四尺ほどの屏風に寄りかかって、隠れるように立って、新妻に言うのだった。

「男と女の間の、このように思い通りにならないことよ。見知らぬ地に行っても、忘れずに頼りを下さい。わたしもそうしようと思うよ。」

と言った。この新妻は、包みに身の回りの物をしまって、牛車を呼んで待っているところだった。平中はしみじみとした悲しみに囚われた。そのうちに、女は出て行ってしまった。しばらくして、和歌を詠んで送ってきた。

わすらるな
   わすれやしぬる 春がすみ
 けさ立ちながら ちぎりつること

[忘れないでください
   わたしも忘れはしません 春がすみのなか
  今朝立つときに 約束したことを]

[「春がすみ」は「立つ」の枕詞で、この和歌は三句があることによって、日常的な心情そのままの語りが、和歌へと昇華している。「春がすみけさ立ちながら」で、思いに場景が加えられ、その場景が風情を持つことから、語られた思いが詩的に感じられるという仕組み。さらに、散文側で平中が屏風の影に立ちながら約束を交わしたことが語られているために、家を出るときに本当に霞がかっていたようにも、屏風に春霞の絵でも描かれていたようにも感じられ、和歌の含みが、より複雑なものになっている。「わすらるな、わすれやしぬる」の言葉のリズムも詩的に響く。初学者のたどり着く頂きは、まずはこのような真心の和歌であるべき。]

065段 死ねとてや

 南院[光孝天皇の第一皇子、是忠親王(これただしんのう)か]の五男[次の三河の守と合せると特定されない]は、三河の守(かみ)であった。承香殿(じょうきょうでん)[後宮の殿のひとつ。弘徽殿についで格式があった]に住んでいた伊予の御(いよのご)に恋をした。「訪ねたい」と告げれば、「御息所にお仕えするため、これから宮中に参りますので」と言ってきたので、

たまだれの
   うちと隠るは いとゞしく
 影を見せじと 思ふなりけり
          南院の五郎

[すばらし簾の
   内側へと隠れるのは ますますもって
  わたしに姿を見せまいと 思うためなんですね]

と和歌を詠みおくった。さらに、

なげきのみ
   しげきみ山の ほとゝぎす
 木がくれゐても 音をのみぞなく
          南院の五郎

[嘆きという名の木ばかりが
   はげしく茂るような 山のホトトギスは
  その嘆きの木に隠れながら
     声を上げて泣きまくっています]

とも詠んだ。ようやく女の元にたどり着いたが、「今日は帰ってね」と冷たくあしらわれ、

死ねとてや
  とりもあへずは やらはるゝ
    いといきがたき こゝちこそすれ
          南院の五郎

[死ねと言うのですか
   何する間もなく 追い払うなんて
     とても行ってしまうなんてできないよ
  生きている心地さえ しないくらい辛い]

 これに対する、女性の返歌が面白かったらしいが、残念ながら知られていない。

 また、雪が降っている夜、お話だけはしてあげて、女が「夜も更けたのでお帰り下さい」と言い出すので、途中まで帰りかけたが、雪がたいへん降っていたので、帰ることも出来ず戻ってきた時に、戸に鍵を掛けて開けてくれなかったので、

われはさは
  雪降る空に 消えねとや
    たちかへれども あけぬ板戸は
          南院の五郎

[わたしは そういうことなのですか
   雪の降る空に 消えてしまえっていうのですか
     立ち戻ってきたのに
   開けないこの板戸の意味は]

と和歌を詠みながら、踏みとどまっている。女は、「このように和歌もたしなみ、思い深く語りながら居るので、どうしようかと思って、板戸を覗いてみると、お顔のほうがやはり、よろしくなかったものですから」と、後に語ったとか。

066段 いなおほせ鳥の鳴きけるを

 後には藤原千兼(ふじわらのちかげ)の妻となるとしこが、千兼を待っていた頃の夜、来なかったので、

さ夜ふけて
   いなおほせ鳥の なきけるを
 君がたゝくと 思ひけるかな
          としこ

[夜も更けて
   稲負鳥(いなおおせどり)が 鳴いているのを
  あなたが扉を叩くのかと 思ってしまったの]

067段 ひまなき宿

 そのとしこが、雨の降る夜に千兼を待っていると、雨のせいか来られなかった。としこの家は、粗末な家で、雨漏りがひどいところなので、「雨のせいでいけませんが、そんなところでどのように過ごしておいでか」と千兼が言ってきたので、としこが詠んだ和歌。

君を思ふ
  ひまなき宿と 思へども
 こよひの雨は もらぬ間ぞなき
          としこ

[あなたのことを思う
   そればかりで隙間なんかない そんな家と思っていたのに
  どうしたことでしょう
    今夜の雨は漏れないところなんかありません
      そうしてあなたが来ない悲しみで
        涙が漏れないですむ時なんかありません]

068段 葉守(はもり)の神

 枇杷殿(びわどの)[藤原仲平(ふじわらのなかひら)(875-945)]が、としこの家に柏木(かしわぎ)が植えてあるのを、枝を折らせて欲しいと、使いを寄こしたので。枝を折らせて、和歌を書き付けて、それを添えておくるには、

わが宿を
  いつかは君が ならし葉の
 ならし顔には 折りにおこする
          としこ (後撰集)

[わたしの家を
    いつの間にか あなたがナラの葉みたい
  慣れた顔をして ナラの葉を折りに寄こすなんて]

 すると、枇杷殿の返し、

かしは木に
   葉守(はもり)の神の ましけるを
  しらでぞ折りし たゝりなさるな
          藤原仲平 (後撰集)

[かしわの木には
   葉を守る神がいらっしゃるのを
     知らずに折ってしまいましたよ
  どうか神の祟りがありませんように]

069段 恋しさまさる狩ごろも

 藤原忠文(ふじわらのただぶみ)が、陸奥国に、征夷大将軍に任命され向かった時、彼の息子にあたる人と、監の命婦(げんのみょうぶ)が密かに愛を交わしていた。

 東国へ向かう餞別に「めとり括り」の布でつくった狩衣(かりぎぬ)[公家の男性普段着]、うちき[男の場合狩衣などの下に着るもの]、幣(ぬさ)[神に捧げるための棒に布などの垂れたもの]などを贈った。すると貰った男から、

よひ/\に
   恋しさまさる 狩ごろも
 こゝろづくしの ものにぞありける
          藤原忠文の息子

[宵ごとに
   恋しさがつのります この狩衣は
  あなたが心を尽くしてくださったものですから
    こころがあなたのことで満たし尽くされてしまう
   そんな思い出の品なのですから]

と詠んで寄こしたので、女は和歌に心引かれて泣いたのだった。

070段 うまやうまやと待ちわびし

 その東国へ下った藤原忠文(ふじわらのただぶみ)に、監の命婦(げんのみょうぶ)が、山桃を贈ったときに、「やまもも」の名称を和歌に織り込んで、

みちのくの
  安達の山も もろともに
    越えば別れの 悲しからじを
          監の命婦

[みちのくにある
   安達の山までも 二人で一緒に
  越えられたなら 別れの悲しみなんかなかったでしょうに]

と歌った。ところで、監の命婦は堤(つつみ)にある家[賀茂川堤にあった家で、10段では以前住んだ家になっている]に住んでいた。それで、鮎を捕って贈ったときに。

賀茂川の
  瀬にふす鮎の いをとりて
    寝でこそあかせ 夢に見えつや
          監の命婦

[賀茂川の
   川瀬に伏している鮎の 寝ている魚を捕って
     寝もせずに夜を明かしましたが
   そんなわたしの姿が 夢には見えましたか?]

[古い表現に「寝(い)も寝(ね)ず」というのがあるが、三句目は「魚(いを)」に「寝(い)を」つまり「寝ているのを」の意味を掛けている。それで鮎はかがり火を焚いて夜通し行うので、この鮎を捕りながらあなたを思って眠れないでいるわたしの姿が、夢に見えましたかというもの。それなら二句三句には相手を示唆する何らかの意図が込められていそうで、解釈しきれていないような気もするがそこは不明。]

 こうして、男は陸奥へ下った時、使いの人に委ねて、思いのこもった手紙を何度か書いて寄こしたが、「旅先で病にかかって死んだ」と聞いて、監の命婦は悲しい想いに囚われた。

 このように聞いた後、篠塚(しのづか)駅(うまや)[愛知県豊川市南西にあった]という所から、使いの人に委ねて、しみじみとつづられた男の手紙が届けられた。女は大変悲しくなって、「いつの手紙でしょう」と訊ねれば、使いが大分経ってから持ってきたものだという。そこで女は、

篠塚の
  うまやうまやと 待ちわびし
    君はむなしく なりぞしにける
          監の命婦

[わたしが今か今かと 待ちわびていたあなたは
   今は篠塚の駅(うまや)です 駅です
     とわたしからの連絡を
  待ちわびながらも むなしくも亡くなってしまいました]

と詠んで泣いたという。この死んだ男は、少年のうちに殿上(てんじょう)して仕え、幼名を「大七(だいしち)」と言ったのを、元服して蔵人所に仕え、金(きん)をみやこへ運ぶ使いを兼ねて、親のお供をして、陸奥に行ったのだった。

2017/11/13
2018/11/02 改訂

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