『大和物語』051~060段(現代語訳)

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051段 光もつらくおもほゆるかな

[内容としては049段とつながる。49段のストーリーを、純粋に菊を愛でる贈答歌ではなく、「ゆきて見ぬ人」という特別な環境に置かれた斎院の、「あなたからの便りがなかったら、わたしはよそで色のある世界のことは知れない」という、悲しみを返歌にしたものと捉えると、この段は、多くの娘から、自分だけが斎院として選ばれたことを、うらむ内容となる。そうして、世の中から隔離されたことに着目させるべく、わざわざ二つの段の間に、神ではなく仏に仕えるものとして、50段の仏僧の和歌が挟まれている。]

 斎院から、帝[宇多天皇か清和天皇]に、

おなじえを
   わきてしもおく 秋なれば
 光もつらく おもほゆるかな
          斎院

[おなじ枝なのに
   場所によって区別して 霜を置くような秋ならば
     霜の置かれた枝はきっと
  光さえ恨めしいものに 思うのでしょう]

[「おなじえ」は「おなじ枝」と「おなじ縁」の掛詞。「しもおく」は「霜を置く」と「分けてこそおく」の「こそ」のような強調の「しも」の掛詞。それで裏の意味は、おなじ縁であなたの娘となったものを、光の当たるところと当たらないところの区別が恨めしいというもの。]

天皇の返歌。

花の色を
  見ても知りなむ はつ霜の
 こゝろわきては おかじとぞ思ふ
          宇多天皇

[季節が巡り、春が来たなら
   すべての枝の花が おなじ色の花を咲かせます
     その時きっと気づくでしょう はつ霜が
  けっして想いを分けて
    置かれた訳では無いということに]

052段 深き心はおきながら

 [前段に続いて]これも天皇の返歌。

わたつみの
   ふかきこゝろは おきながら
 うらみられぬる ものにぞありける
          宇多天皇 (拾遺集)

[大海原の海の底のような深い心は
   沖にありながらも 浦を見ることは出来ず
     浦から見渡すことも出来ないから
  上面だけを眺められては
    うらまれるようなものなのだろう]

053段 わくらむ鹿もわがごとや

 陽成院に仕えていた、坂上遠道(さかのうえのとおみち)という男が、やはり院に仕えていた女性が、「差し支える事がありますので」といって逢ってくれなかったので、

秋の野を
  わくらむ鹿/虫も わがごとや
    しげきさはりに 音(ね)をばなくらむ

[秋の野を
   分け入るような鹿も わたしと同じように
  木や草のような障害があって
    声を上げて鳴いているのでしょうか]

[写本によって「鹿」と「虫」があり確定せず。内容としては鹿か。]

054段 しをりしてゆく旅

 源宗于(みなもとのむねゆき)の三男にあたる人が、博打をして、親にも兄弟にも憎まれたので、足の向くのに任せて、みやこを出て余所の国へいった。その時、親しい友達のもとへ詠んで届けた和歌。

しをりして ゆく旅なれど
  かりそめの いのち知らねば
    かへりしもせじ

[責め立てられて向かう旅だけれど
   道しるべだけは残しておこうか
     けれども仮の命のことは
  誰にも分らないから
    帰ることもないかも知れない]

[「しをり」は、枝を折って道しるべとする「枝折り(しをり)」と、責め立てるの意味の「責る(しをる)」の掛詞。]

055段 なほぞ待たるる

 ある男が、恋する女を残して、余所の国に行ったので、いつ戻ってくるかと待っていると、男は死んだというので、女の詠んだ和歌。

いま来むと
   いひて別れし 人なれば
 かぎりと聞けど なほぞ待たるゝ
           (続後拾遺集)

[今に帰ってくると
   言い残して別れた 人だから
     命の限りを迎えたと聞いても
  それでもまだ 帰りが待たれるのです]

056段 もと来し駒

 越前の権守(ごんのかみ)[越前国、今日の福井県東部あたりの知事クラスが越前守だが、権守とは定員外の守の意味で、正式な守と別に存在するようなもの。ただ、その権力が名目的なのか実質的なのかは状況による]である平兼盛(たいらのかねもり)が、兵衛の君(ひょうえのきみ)[堤中納言こと藤原兼輔の兄藤原兼茂の娘]という女性のところに通っていた頃。長らく離れていて、また行った時に、

夕されば 道も見えねど
  ふるさとは もと来し駒に
    まかせてぞゆく
          平兼盛 (後撰集)

[夕方になって道も見えませんが
   故郷のようなあなたの家ですから
     かつて通い慣れた馬にまかせて
   やってくることが出来ました]

 女の返し、

駒にこそ まかせたりけれ
  はかなくも こゝろの来ると
    思ひけるかな
          兵衛の君 (後撰集)

[馬にまかせて来ただけだったのね
   浅はかにも、恋しい思いから来たのかと
     勘違いしてしまいました]

057段 人目まれなる山里に

 近江の介(すけ)の職にある平中興(たいらのなかき)が、娘を大層かわいがっていたが、その親が亡くなってしまったので、なにかと落ちぶれて、よその国の頼りないところに住んでいるのを、哀れに思って平兼盛が詠んで寄こした。

をちこちの
  ひと目まれなる 山里に
    家ゐせむとは 思ひきや君
          平兼盛 (後撰集)

[遠く近くの
   訪れる人さえまれな山里に
     住むことになるだろうとは
  まさか思ってもみなかったでしょう、あなたは……]

と詠んできたので、これを読んで返事もせずに、女は声を上げて泣いた。女もたいそう心情の豊かな人だったのである。

058段 黒塚と山吹 (軽く解説込み現代語訳)

 おなじく平兼盛がが、陸奥国(みちのくに)に居たとき。閑院(かんいん)[清和天皇の皇子、貞元親王]の(第三の息子の)[つながり不明確]、息子にあたる人[源兼信、源重之のどちらかか?]が、黒塚(くろづか)[福島県二本松市]というところに住んでいたので、彼の娘たちを、田舎の鬼たちと、ちょっとからかいながら、

みちのくの
  安達が原の 黒塚に
    鬼こもれりと 聞くはまことか
          平兼盛 (拾遺集)

[陸奥国(みちのくに)の
   安達ヶ原の 黒塚というところに
     鬼が隠れているというのは本当ですか?]

と詠んだりしていた。やがて、兼盛はその娘の一人を嫁に欲しいと願い出るのだった。しかし親の重之は「まだごく若いので。しかるべき時が来たら」と御茶を濁すのだった。[今日同様、「その時になったら」で会話を止めているので、その時になったら考えるのか、その時になったら与えるのか、はっきりしない。わざとお茶を濁している様子。]兼盛はみやこに戻らなければならなかったので、娘さんを井手[京都府綴喜郡井手町]の山吹の花に喩えて、

花ざかり
  すぎもやすると かはづなく
 井手の山吹 うしろめたしも
        平兼盛

[花の盛りが
   過ぎてしまうのではないかと 蛙の鳴いている
  井手の山吹のことが 気がかりでなりません]

と詠んだのだった。その黒塚といえば、名所の「名取の御湯(なとりのみゆ)」[宮城県仙台市にある秋保温泉(あきうおんせん)]という温泉を、恒忠(つねただ)の妻[詳細不明]が、その名称を表現に織り込みながら和歌に詠んだが、彼女こそ、この黒塚の主人にあたる人だった。[古文のこの部分、いささか物語に対して記述が不明瞭で、なんらかの誤りがあるのかも知れないが、私にはなんとも言えない。大和物語でもっとも意味不明な謎部分。]

大空の
  雲のかよひ路 見てしか
    とりのみゆ
けば あとはかもなし
          恒忠(つねただ)の君の妻(め) (拾遺集)

[大空にある
   雲の通う道というものを 知りたいものです
  鳥だけが通るもので 手がかりがありません]

と詠んだのを、平兼盛が聞いて、同じように、

しほがまの
  浦にはあまや 絶えにけむ
    などすなどりの 見ゆる時なき
            平兼盛

[塩竃の浦には
   海女がいなくなってしまったのでしょうか
     どうしてか漁をする姿が 見えるときがありません]

と詠んだこともあった。

 さて、兼盛が心をかけていた娘だが、結局心配した通りになってしまった。つまり、彼女は別の男と一緒に都にのぼって来たのだが、そうとは知らず兼盛が、「なんで都に来たのに知らせてくれないのです」と手紙を送ると、かつて兼盛が詠んだ「井手の山吹うしろめたしも」の和歌を、「これがお土産です」と返してよこしたので、ようやくフラれたことを悟って、

年を経て
  ぬれわたりつる ころも手を
 今日のなみだに くちやしぬらむ
          平重盛

[長年
  あなたへの涙で 濡れてきたこの袖も
   とうとう今日の涙で
    朽ちてしまうことでしょう]

と和歌をおくったのだった。

[名所の名前を織り込む、歌枕の和歌で物語を仕立てようという野心作で、中間部には物名(もののな)の技法まで取り入れたもの。あるいは当時としては、前衛的な執筆かとも思えるが、大和物語の後半部のようにはうまくこなれていない。最後の和歌は、「今日」に「みやこ」の「京」が掛けられているが、むしろ無関係な和歌が加えられただけの印象を拭い去れない。ただ、この段は、荒削りに過ぎるが、決して失敗作ではなく、なかなかの魅力を兼ね揃えてもいる。そうして、後半部の物語への関心は、このあたりから芽生えていくようにも思われる。]

059段 宇佐(うさ)

 世の中がいやになって、筑紫(つくし)へ下った人が、女のもとに詠んで寄こした和歌。

忘るやと いでゝこしかど
  いづくにも うさはゝなれぬ
    ものにぞありける

[嫌なことを忘れようと みやこを出てきたのに
   どこにいても 憂いは離れないもののようです
     よりによってこの地が「憂(う)さ」だなんて]

[「宇佐」は現在の大分県宇佐市で、和歌に詠まれる名所、歌枕として知られていた。]

060段 なまなまし身を焼く時は

 五条の御[不明。143段によれば藤原山陰の娘か姪で、伊勢守の女だったのを、後に在原業平の息子、在原滋春(ありわらのしげはる)の妻となる]と呼ばれる女性いた。男のところに、自分の姿を絵に書いて、そこに女が燃えている様子を書いて、煙をたいへん多く描いて、このような和歌を添えて贈った。

君を思ひ
  なま/\し身を 焼く時は
    けぶりおほかる ものにぞありける

[あなたを思って
   恋しさの宿るこの身を焼いたなら
     恋い焦がれるという言葉もありますから
   さぞかし煙が一面に立ち上ることでしょう]

2017/11/12
2018/10/24 改訂

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