源大納言(げんだいなごん)[陽成天皇第一皇子の源清蔭。藤原千兼と義兄弟の関係にある]のもとに、としこ[藤原千兼の妻]はつねに参上していた。部屋を設けて住むときもあった。趣深い人で、大納言とはあらゆることを語り合うような仲だった。
特にすることもないような日には、この大納言、としこ、それから、としこの娘のうち姉に当たる方は、あやつこといった。母に似て、趣深い人だった。また大納言のもとに、よぶこという人がいた。この人もしみじみとした情の分る、たいへん趣深い人だった。
この四人が集まって、あらゆることを話し合っては、世の中のはかないこと、世間のしみじみとした話を言い合っていたが、そんな時大納言が詠まれた和歌。
いひつゝも 世はゝかなきを
かたみには あはれといかで
君に見えまし
源清蔭 (新勅撰集)
[こうして語り合っていても
世の中ははかないものだというのなら
お互いには しみじみとしたおもむきが分ると
どうやって見ることが出来るというのだろうか]
と詠まれれば、誰も彼も、もう返歌は出来なくなって、近くに寄り添って声を上げて泣くのだった。世にもまれなるような人たちでこそはあった。
ゑしう[藤原為国の子である恵秀か?]という法師が、ある女性に、加持祈祷などを行う御験者(おほんげんざ)として使えていたとき、とやかく世間でうわさが立ったので、このように詠んだ。
里はいふ
山にはさはぐ 白雲の
空にはかなき 身とやなりなむ
[里では人々がうわさを言う
山ではそのことでひと騒ぎになっている
今は白雲のように
空をただようような 身にこそなってしまおうか]
そう詠んだ。また、相手の女性に詠んで贈るには、
あさぼらけ
わが身は庭の しもながら
なにを種にて こゝろ生ひけむ
[夜の明ける頃の
わたしはまるで庭の霜のような
下に控えるべき存在でありながら
いったいなにを種として
あなたへの恋心が芽生えてしまったのか]
そのゑしう大徳[徳のある高僧]が、僧坊にしていた所の前に、切掛(きりかけ)[板塀の一種]を作らせた。その時、大工の出した削りくずに書き付けた。
まがきする
飛騨のたくみの たつき音の
あなかしがまし なぞや世の中
[籬(まがき)を作る
飛騨の大工らの立てる 斧の音のように
ああ騒がしいことだ なんでか世の中というものは]
と和歌を残して、「修行をしに深い山奥へいってしまおう」と言って、そこを立ち去るのだった。しばらくして、「どこへ行ったのか」[女性の感慨で無く、「どこへ向かおうか」という大徳の独白とも取れる]と思って、(おそらくは)先の女性が「深い山に籠もっているというのはどこですか」と言われた時に、
なにばかり 深くもあらず
世のつねの 比叡(ひえ)を外山(とやま)と
見るばかりなり
[なにほどの 深くもありません
普通一般に 修行の山とされる比叡山を
外の山として見るあたりです]
と答えてみせた。横川[滋賀県大津市。奥比叡にあたり、東塔・西塔と並ぶ三塔のひとつ]というところに居るのだった。
そのゑしう法師に、ある人[先の女とも、別の誰かとも捉えられる]が、「比叡山に僧職を得て入られる日はいつですか」と訊ねれば、
のぼりゆく
山の雲居の 遠ければ
日もちかくなる ものにぞありける
[こうして登ってゆく
修行の山の雲は はるか彼方にあるものだから
登るにしたがって 太陽へと近づくように
比叡にのぼるべき日も 次第に近くなるというものです]
[この和歌、単に「日が近づいた」の修飾として上句があるのではなく、少しずつ近づいてはいるものの、まだ修行半ばであるという意味ではないだろうか。結句の「ものにぞありける」という言い方は、「もうすぐです」とは異なる煮え切らなさが感じられる。]
と答えた。先に述べたような、自らの出世にとって良くないことが、修行途中である上に重なってしまったので、
のがるとも
誰か着ざらむ ぬれごろも
あめの下にし 住まむかぎりは
[逃れたとしても
誰が着ないで済むだろうか 濡れた着物を
雨が降る下で 生活するならば
それと同じように
世間を逃れても どうして着ないで済むだろうか
濡れ衣という名の着物を
この世の中に 生きている限りは]
[42段の和歌の「白雲」には無実の意味が込められているともされ、おなじ42段の女性への和歌などを加えて考えると、恋心は持ったものの、僧としての一線は踏み外さなかったが、うわさだけは立ち上ったくらいの所だろうか。]
と和歌を詠むのだった。
堤(つつみ)の中納言[藤原兼輔]が、醍醐天皇の13番目の皇子の母にあたる御息所(みやすんどころ)[兼輔の娘である藤原桑子のこと]を、入内(じゅだい)させたはじめ頃は、天皇は娘をどう思っているだろうかと、非常に心配されていた。それで、天皇に詠んで贈った和歌。
ひとの親の
こゝろは闇に あらねども
子を思ふ道に まどひぬるかな
藤原兼輔 (後撰集)
[人の親というもの
こころに闇を抱えては いなくても
子を思ううちには 闇へと迷い込むものなのです]
先の天皇である醍醐天皇は、たいへん心を動かされた。返歌もあったけれど、それは人々に伝えられていない。
平中(へいちゅう)[平定文(たいらのさだふん)(871-923)]が、閑院の御(かんいんのご)[未詳]との仲がしばらく絶えてから、しばらくしてから逢った。その後、詠んで贈るには、
うちとけて 君は寝つらむ
われはしも 露のおきゐて
恋にあかしつ
平定文
[霜が溶けるようにくつろいで
あなたは寝ているのでしょう
わたしは霜露の置かれる中を
起きながら恋にさいなまれています]
女性の返し、
白露の
おきふし誰を 恋ひつらむ
われは聞きおはず いそのかみにて
閑院の御
[白露が置かれるなかを
起きては伏して 誰を恋い慕っているのでしょう
私のことを言っているとは思えません
うちとけて寝るどころか 古い女とされて
なみだが降っているような有様ですから]
[「聞きおふ」は「自分の事と思って聞く」の意味。もとの平中の逸話はともかく、大和物語の作者の採用には、上の現代語訳とは少し違ったニュアンスが感じられるが、今は過ぎゆく]
、陽成院の妻のひとりである一条の君[38段と同一人物か?]が、
おく山に
こゝろを入れて たづねずは
深きもみぢの 色を見ましや
[(ただ遠く眺めるだけでなく)
山の奥へと 一途な思いで訪ねて行かなければ
深く色づいた紅葉の
色彩を見ることが出来るでしょうか]
前の帝[宇多天皇か清和天皇か定まらず]の時、刑部の君(ぎょうぶのきみ)と呼ばれていた更衣(こうい)[天皇の妻のうち、女御より下]が、里に下がられたまま、長らく参上しないので、天皇が遣わした和歌。
大空を
わたる春日の 影なれや
よそにのみして のどけかるらむ
宇多天皇 or 清和天皇 (新古今集)
[大空を
わたる春の日の太陽なのだろうか
余所から眺めるばかりで
のどかそうにしているようですね]
そのおなじ帝[宇多天皇か清和天皇]が、斎院(さいいん)[京都賀茂神社に使える未婚の皇女。ちなみに斎宮(さいぐう)は伊勢神宮で別]になっていた自らの娘のもとに、菊の贈り物と一緒に、
ゆきて見ぬ
人のためにと 思はずは
誰か折らまし わが宿の菊
宇多天皇 or 清和天皇 (続古今集)
[出向いてこの菊を見ることの出来ないであろうお前
そうして、こちらから出向くことも叶わないお前のために
そう思わなかったら
誰が折って贈ったりするだろうか
この家(宮中)のお前もよく知っているはずの菊の花を]
と詠めば、斎院からの返し、
わが宿に
色をりとむる 君なくは
よそにもきくの 花を見ましや
斎院
[わたしの家に
美しい色のままに折り取ってくださるあなたがなければ
よその話として聞くばかりで
どうして、そちら(宮中)の菊の花を
見ることが叶うでしょうか
(いいえ叶いません、叶いません
ですからありがとうとお伝えします)]
かいせん(かいせう)法師[27段、28段に出]が、(修行のために)山[おそらく比叡山か]に登ったとき、
雲ならで
木高(こだか)き峰に ゐるものは
憂き世をそむく わが身なりけり
かいせん (新拾遺集)
[雲でもないのに
木の高くそびえるような峰に 居るものは
憂いに満ちた人の世から目を背けた
このわたしの姿であった]
2017/11/11
2018/10/20 改訂