良少将[諸説有り。良岑仲連か、良岑義方か]が、兵衛府の佐(すけ)[次官にあたる]だったころ、監の命婦(げんのみょうぶ)のもとに通っていた。女のもとから、
柏木の もりの下草 老いぬとも
身をいたづらに なさずもあらなむ
監の命婦 (続古今集)
[兵衛府の象徴でもある柏木の森
その下に生えるように あなたの下にある私ですが
もしその下草が 老いたとしても
その身をいらない物と
見捨てないでくださったなら]
とあったので返しに、
柏木の もりの下草 老いのよに
かゝる思ひは あらじとぞ思ふ
良少将 (続古今集 僧正遍昭の和歌として)
[柏木の
森の下草が 老いた世であっても
そんな思いには ならないと思います]
その良少将が、太刀を結ぶ皮を求めたとき、監の命婦が「わたしのところにある」と言ったきり、ずっとくれないので、
あだ人の
頼めわたりし そめかはの
色の深さを 見でやゝみなむ
良少将 (続後拾遺集 良岑宗貞の和歌として)
[誠意のないあなたを
頼みに思い続けた染革の
まるで渡る時に見える染川の色のような
その色の深さを
見ることもなく終わるのでしょうか]
[僧正遍昭=良岑宗貞で、二十一段二十二段の和歌が、良少将の名称から、後世あやまって良岑宗貞に関連付けられたものと思われる。]
と詠み贈れば、監の命婦はたいそう褒め称えて、皮を探し求めて相手に贈ったのだった。
陽成院の二の皇子[元平親王]が、後蔭(のちかげ)の中将の娘の所に、年来通っていたのを、女五の宮(おんなごのみや)[宇多天皇皇女の依子内親王(いしないしんのう)]を得られてから、まったく訪れなくなってしまった。
それで、もはや来ることもないだろう、とあきらめて、たいそう悲しみに沈んでいると、しばらくしてから、思いがけない時に訪れたので、言葉を掛けることも出来ずに、逃げて扉の内側に籠もってしまった。
そのまま帰った皇子は、翌朝になって、「どうして、これまでのことをお話ししようと訪ねたのを、隠れてしまったのでしょうか」と伝えてきたので、手紙に文はしたためず、ただこのように書き送った。
せかなくに
絶えと絶えにし 山水の
たれしのべとか 声を聞かせむ
後蔭の中将の娘 (続後撰集)
[せき止めたわけでもないのに
すっかり絶えきってしまった 山の水に
誰を思い出すとか 互いの言葉を
もはや聞かせることは叶いません]
先の帝[醍醐天皇 or 清和天皇]の時代に、右大臣の娘[藤原定方の娘藤原能子(よしこ)or 藤原多美子]が、上の御局[天皇お側の控え室くらいで]に参上して、控えていた。天皇は来られるかと、心待ちにしていたが、来られないので、
ひぐらしに
君まつ山の ほとゝぎす
とはぬ時にぞ 声もおしまぬ
右大臣の娘
[日がな一日
あなたを待ちます 松山のホトトギスのように
訪れてくれない時にこそ 声を惜しまず泣いているのです]
比叡山に、明覚法師[藤原千兼の妻「としこ」の兄]が、山に籠もって修行をしているとき。徳を積んだ高僧の、すでに亡くなった後の僧坊に、松の木が枯れているのを見て、
ぬしもなき
宿に枯れたる 松見れば
千代すぎにける こゝちこそすれ
明覚法師
[あるじもいない
宿に枯れている 松を見れば
まるで千年もの時が流れたような
そんな気持ちにさせられます]
と詠めば、僧坊に泊まっていた弟子たちも、しみじみとした思いにとらわれた。この明覚は、としこの兄であった。
桂の皇女(みこ)[宇多天皇の皇女、孚子内親王(ふしないしんのう)]が、密かに逢ってはならない人と会っていた時、男のもとへ詠んだ和歌。
それをだに 思ふことゝて
わが宿を 見きとないひそ
人の聞かくに
孚子内親王 (古今集)
[せめてそれを わたしを思ってくださる証として
どうか私の家を 見たとは言わないでください
人の耳に入ってうわさが立たないように]
戒仙(かいせう・かいせん)という人が、法師になって山に住むときに、洗い物をする人がいないので、親の元に着物を洗濯に送りつけていたところ、いかなる折りであろうか、親が気を悪くして、「親兄弟の言うことも聞かず法師になった人は、こんな面倒なことを言ってくるのか」と言ってきたので、和歌を詠み送った。
いまはわれ いづちゆかまし
山にても 世の憂きことは
なほも絶えぬか
戒仙法師
[今はわたしは どこへ行けば良いのか
山に籠もっても 俗世間の煩わしさは
なおも絶えないというのなら]
その戒仙が、自分の父[一説に在原業平の孫に当たる在原棟梁(むねやな)]であった兵衛の佐(すけ)が亡くなった年の秋に、家に仲間どうし集まって、宵から酒を飲み交わしたりしていた。もういらっしゃらない事の、しみじみとした悲しみを、客たちもあるじも恋しく語ったりしていた。夜明けが近づいて朝ぼらけの頃、霧が立ち渡るので、客の誰かが、
朝霧の
なかに君ます ものならば
晴るゝまに/\ うれしからまし
客のひとり
[もしこの朝霧の
なかにその人が いるのであれば
霧が晴れるにしたがって
うれしい気持ちにもなれるだろうに]
[実際はもうその人はいないし、うれしい気持ちにはなれずにいるという、酒宴の後の朝の独特な心情のまじった、殺風景な悲しみが込められている]
と詠むので、戒仙の返し、
ことならば 晴れずもあらなむ
秋霧の
まぎれに見えぬ 君と思はむ
戒仙
[どちらにしろ今はいない
おなじ事ならば せめて晴れないで欲しい
秋霧にまぎれて見えないだけの
その人と思っていたいから]
客は、紀貫之、紀友則などであった。
今はなき式部卿[宇多天皇の皇子敦慶(あつよし)親王]の屋敷に、三条の右大臣[藤原定方]や、他の公卿たちが集まって、囲碁やら管弦をしつつ夜も更ければ、みな酔っては語り合い、贈り物を与などしていた。そこで、おみなえしを頭にさした右大臣が、
をみなへし
折る手にかゝる しら露は
むかしの今日に あらぬなみだか
藤原定方 (新勅撰集)
[女郎花を
折るとき手にかかった白露は
昔いたあなたが 今日にはいない
そのことを嘆く なみだなのかな]
と和歌を詠んだ。他の人々の和歌も多くあったが、良くないものは忘れてしまった。
今はなき右京の大夫(かみ)[源宗于(みなもとのむねゆき)]が、昇進出来るはずの頃なのに、自分が昇進出来ないでいると思っている時。亭子の帝(ていじのみかど)[宇多天皇]のもとに、紀伊国(きのくに)[和歌山県から三重県南部]から石の付いた海松(みる)[食用にもされた海藻の名]が献上されたので、それを題にして皆が和歌を詠むときに、右京の大夫が、
沖つ風
ふけゐの浦に 立つ浪の
なごりにさへや われはしづまむ
源宗于 (新千載集)
[沖では風が
吹きますような吹井の浦に 立つ浪の
その余波をかぶってさえ 石の付いたようなわたしは
しずんでしまうのでしょうか]
[吹井の浦(ふけいのうら)は、現在の和歌山県和歌山市南東にある海岸とされる。石の付いた海藻なので、浮かずに、わずかな波にさえ沈んでしまうという内容だが、海藻への凝った着想よりも、読み手の沈んだ心情の方が先に感じられ、すぐにいぶかしく思われたかと推察されるが、その後のことは何も記されていない]
2017/11/09
2018/10/13 改訂