亭子帝(ていじのみかど)[宇多天皇(うだてんのう)(867-931)(在位887-897)]が、今こそ退位[醍醐天皇(885-930)に天皇の地位を譲位]されようとする頃、皇后や中宮の住む、弘徽殿(こきでん)の壁に、伊勢(いせ)[宇多天皇の妻の一人、有名な女流歌人]が、和歌を書き記した。
わかるれど
あひも惜しまぬ もゝしきを
見ざらむことの なにか悲しき
伊勢 (後撰集)
[別れるというのに
一緒に惜しいと思ってもくれない宮中を
それでも私の方では 見ることが出来ないということが
どうしてか悲しいのです]
そのように書かれていたのを、宇多天皇がご覧になって、その横に自らの和歌として、配下の者に書き付けさせるには、
身ひとつに あらぬばかりを
おしなべて ゆきめぐりても
などか見ざらむ
亭子の帝 (後撰集)
[わかれるのは あなた一人だけの身ではないのだから
わたしたち皆が 共に他へと巡り移って
どうして「ももしき」を見ないと言うことがあろうか]
と詠んだのだった。
宇多天皇が譲位して、次の年の秋、髪を下ろして出家なされて、あちらこちらを修行のため山歩きされた。
備前国(びぜんのくに)[岡山県南東部]の掾(じょう)[官職の上から三番目]だった橘良利(たちばなのよしとし)という人は、宇多天皇が宮中にいた時、殿上(てんじょう)[天皇の生活する清涼殿への昇殿]を許され仕えていたが、天皇が髪を下ろしたので、自らも髪を下ろして出家したのだった。そして行き先も告げず、山歩きをする宇多法皇のお供に、離れることなく仕えているのだった。
「このようにお忍びでお歩きになるのは、非常によろしくない」といって、宮中から「少将や中将などをお供に仕えさせよ」といって、お供のものを使わしたが、やはり公のお供は付けずに歩かれているのだった。
ある時、和泉国[大阪府南部]に入って、日根(ひね)[今の泉佐野市(いずみさのし)あたり、熊野・高野山の入り口にあたるとか]という所に泊まる夜があった。法皇がとても心細そく寂しげであられるので、控えている人たちは悲しい思いに囚われた。その時、法皇から「日根ということを和歌に詠め」とご命令があったので、この良利大徳(だいとく)[徳のある高僧の意]が、
ふるさとの
たびねの夢に 見えつるは
恨みやすらむ またとゝはねば
橘良利
[ふるさとの人々が
旅に寝るわたしの夢に出てきたのは
あるいは恨んでいるのでしょうか
あれから再び訪れていないから]
[「たびね」に「日根」の文字が織り込まれている。もちろん遊びではなく、言葉に霊が宿るような感覚。むしろ西欧の数秘術的にとらえた方が分りやすいか。]
と詠んだので、控えていた人々は皆涙して、誰も和歌を詠むことが出来なくなってしまった。この良利大徳の名を、 寛蓮大徳(かんれんだいとく)といって、後まで法皇に仕えていた人物である。
今はなき源大納言(げんだいなごん)[陽成院の皇子、源清蔭(みなもとのきよかげ)(884-950)]が宰相の地位にあった頃。京極の御息所[左大臣藤原時平の娘、藤原褒子(ほうし・よしこ)]が、亭子院(ていじのゐん)[宇多法皇]の60歳の祝賀を執り行うために「このようなことをしようと思います。献上の品を一枝二枝[植物の枝を添えることが多いのでこのように数えた]作らせてください」というので、源大納言は鬚籠(ひげご)[捧げ物を入れる籠]を沢山作らせて、としこ[藤原千兼(ちかね)の妻。大和物語の主要登場人物。藤原千兼と源清蔭は義理の兄弟関係にある]に様々な色に染めさせた。敷物にする織物など、様々な色に染めたり、織ったり組み合わせることも、すべてとしこに預けて任せていた。
それらの物を、長月(ながつき)[陰暦九月]の末までに、すべて急いで作り終えて、神無月(かんなづき)[陰暦十月]の朔日(ついたち)に、これらの物を急いで作らせていた人[=源大納言]に送り届ける時に、添えた和歌。
ちゞの色に
いそぎし秋は すぎにけり
今は時雨に なにを染めまし
としこ (新勅撰)
[様々な色に葉を染めて
あわてるように秋は 過ぎ去りました
わたしも様々な色に織物を染めて
あわてるように秋を 過ごしました
けれども秋も終わり 今日からは神無月の冬です
色づきを終えた山々は 今は時雨に打たれて
何を染めるというのでしょう
そうしてわたしはこれからは
何を染めたらいいのかしら]
献上の物を急がせている時は、休む間もなく、こちらからもあちらからも、連絡が交わされていたが、献上の物を届けてからは、そのことは無かったかのように、連絡も来ないで、十二月の終わりになってしまったので、としこが、
かたかけの
舟にや乗れる 白波の
さわぐ時のみ 思ひいづる君
としこ
[帆を片方だけ張った
舟にでも乗っているのでしょうか
白波が立って助けが必要なときだけ
わたしを思い出すようなあなた]
と詠んで贈ったが、その返歌も寄こさないまま年を越えてしまった。
さて、如月(きさらぎ)[陰暦二月]頃になって、柳のしなった枝の、特に長いものが、屋敷にあったのを折って、和歌を添えて、
あをやぎの 糸うちはへて
のどかなる 春日(はるひ)しもこそ
思ひいでけれ
源清蔭
[青々とした柳の 葉さえ伸びて
日も延びるような のどかな春の日にこそ
あなたのことを思ってこうして和歌を記しましょう
(なにかと用があり、慌ただしいときだけ
頼りにするのでは決してありません。はい。)]
と、源大納言が贈ってきたので、としことりわけこの和歌を好んで、後々までエピソードと一緒に歌語りをしていたのだった。
野大弐(やだいに)[小野好古(おののよしふる)(884-967)]が、「純友の乱」があった時、討伐の任を受け[940年]、少将の兼任で派遣された。
朝廷にも仕え、位階が四位のくらいになり得る年に当たっていたので、正月の昇級人事のことを、とても知りたく思っていたが、みやこから下ってくる人すら、めったにいないくらい。そんな人たちに尋ねれば、ある人は「四位になった」と言う。別の人は「ならないよ」と言う。
はっきりしたことを、どうにかして知りたいと思っている所に、みやこからの使いが、近江守(おうみのかみ)である源公忠(みなもとのきんただ)の手紙を持ってきた。
はやく知りたくて、うれしくなって、開けて読んでみれば、様々なことを書き連ねて、月日まで書き終えて、その後ろにこのように、和歌が記されていた。
玉くしげ
ふたとせあはぬ 君が身を
あけながらやは あらむと思ひし
源公忠 (後撰集)
[櫛を入れる化粧箱の蓋が合わないように、
二年(ふたとせ)も逢わなかった、あなたの身の上を
箱を開けながら眺めるようにして、
朱(あけ)の色の姿で見ようとは、
思いもしませんでした。]
[「朱(あけ)の色」は五位の色で、四位になれなかったことを和歌に委ねたもの。「後撰和歌集」にはこの和歌の返しとして
あけながら 年ふることは
たまくしげ 身のいたづらに
なればなりけり
小野好古
とある。]
これを見て、好古は限りない悲しみに囚われて泣いた。四位になれなかった事情が、手紙の文章にはなくて、ただこのように和歌に込められていたのだった。
[醍醐天皇の妻の一人が藤原穏子(おんし・やすこ)で、保明親王を生んでいたが親王は若くして亡くなってしまう。しかし亡くなってほどなくして、穏子は923年、中宮となって、事実上の皇后となった。それをふまえて、以下が解説込みの現代語訳。]
前の皇太子であった保明親王が亡くなったので、親王の乳母の娘であった大輔(たいふ)は悲しみにばかり囚われていたが、穏子が中宮になられる日には不吉であると、公の場からは遠ざけられた。それで大輔は和歌を詠んで差し出した。
わびぬれば
いまはとものを 思へども
こゝろにゝぬは 涙なりけり
大輔(たいふ) (新勅撰)
[散々嘆いたので
今はもうこれ以上は嘆くまい
そう思うのですが
そのような心に従わないのが
勝手にあふれ出る涙なのですね]
藤原朝忠(あさただ)(910-66)が中将の時、他人の妻だった人に、しのんで逢い続けていたた。女も男を思い、慕いあって過ごしていたが、彼女の夫がよその国の守(かみ)[該当の国を治めるトップの役職]となって赴任するというので、二人とも悲しい思いに囚われるのだった。それで朝忠が、女のもとに別れの和歌を詠んだ。
たぐへやる
わがたましひを いかにして
はかなき空に もてはなるらむ
藤原朝忠 (新千載)
[あなたに寄り添わせている
わたしのたましいを どうしてまた
むなしく旅の空に 放ってしまうのでしょうか]
[「いかにして」の表現には、「どのようにして放ってしまうのでしょう」いいえ、放っても離れることはありません。という思いを込めてもいるようで、ただ結句からそれは反語のように明白な、確固たるものではなく、もっと頼りないような思いのよう。]
恋仲の男女が、知り合って年を過ごしたが、ささいなことから別れてしまった。しかし飽きて離れた訳ではなかったからだろうか、男の方もしみじみとした思いに囚われて、このような和歌を送った、
あふことは
いまはかぎりと 思へども
なみだは絶えぬ ものにぞありける (新勅撰)
[逢うことは
今はもう無いと 思っていますが
涙だけは今でも 絶えないものなのです]
女もまた、しみじみとした思いに囚われるのだった。
監の命婦(げんのみょうぶ)[大和物語の主要登場人物のひとり。詳細は不明]という女性のもとに、中務の宮(なかつかさのみや)[醍醐天皇の皇子、重明親王(しげあきらしんおう)や式明親王(のりあきらしんのう)か、それとも元良親王として執筆したか不明]が通っていた頃。「方塞(かたふた)がり[そちらの方角には行くと災いがあるという陰陽道]で、今宵はそちらに行けません」と、宮がおっしゃるので、それに対する返歌として、
あふことの
方(かた)はさのみぞ ふたがらむ
ひと夜めぐりの 君となれゝば
監の命婦
[私たちが逢うことの
方が塞がっているのは 方角の神のせいでは無く
あなた自身が 「ひと夜めぐり」の
毎日行き先を変えるという 神にお成りだからでは?]
[「ひと夜めぐり」は、陰陽道で凶事、戦をつかさどる神、太白神(たいはくじん)の別名。毎日遊行の位置を変えるので、その日ごとにこの神の方角を、避けなければならない。宵の明星とも関係がある様子。ちなみに、方違えに関わる神は他にも存在して、なかなかにややこしい。和歌の意味は、宮が方違えをするために来られないのでは無く、宮自身が「ひと夜めぐりの神」として、毎日女を変えているのだろうという皮肉。]
そう詠んで返せば、方角が塞がっていたにも関わらず、宮はやってきて泊まっていったのだった。[しかも中務省は陰陽寮も管轄するのに、その役職にある宮が方塞がりを侵している所に、面白みと愛情が両天秤。]また別の時に、長らく音沙汰もなかったのに、宮から「嵯峨院(さがのいん)で狩をする都合で、しばらく連絡もしませんでした。心配しているいけませんから」と言ってきたので返事に、
大沢(おほさは)の
池の水くき 絶えぬとも
なにか恨みむ さがのつらさは
監の命婦
[もし大沢の池の水草の
茎が絶えたからといって
どうして恨むことが出来るでしょうか
嵯峨という土地が冷たいせいだなどとは
ですから大沢の池から送られてくるべき
手紙の筆跡が途絶えたからといって
どうしてわたしに恨むことができるでしょうか
あなたの性格がつれないなどとは]
[嵯峨院は嵯峨天皇の離宮で後に大覚寺となる。大沢の池はそこにある。「水くき」は水に生える草の茎の意味と共に、筆跡の意味が掛詞。「さがのつらさは」も「嵯峨院」の「さが」に性格の「さが」を掛詞。]
桃園の兵部卿の宮[醍醐天皇第一皇子の克明親王(よしあきら・かつあきらしんのう)]がなくなって、一周忌が長月(ながつき)[陰暦九月]末に行われた際に、としこ[藤原千兼(ちかね)の妻]が、宮の北の方[藤原時平の娘]に和歌を差し上げた。
おほかたの
秋の果てだに 悲しきに
今日はいかでか 君くらすらむ
としこ (続後撰)
[特に何も無い普通の
秋の果てでさえも 悲しい感じがするのに
一周忌だという今日は あなたはどんな思いで
過ごしているのでしょう]
かぎりない悲しみに沈んで、泣いているところに、このような和歌を贈られたので、
あらばこそ
はじめも果ても おもほえめ
今日にもあはで 消えにしものを
北の方
[生きていればこそ
はじめのことや 終わりのことも
和歌にしたり 思ったりもできますが
今日にも逢わないで 消えてしまった人のことを
返歌にすべき言葉も見当たりません]
監の命婦が、賀茂川の堤(つつみ)にあった家を売ってから、粟田(あわだ・あわた)という所に移ったが、かつての堤の家の前を通った時に、和歌を詠んだ。
ふるさとを
かはと見つゝも わたるかな
渕瀬(ふちせ)ありとは むべもいひけり
監の命婦
[かつて住んでいた所を、
ああ、あれはと、川に見ながら渡ります。
川にも人生にも淵瀬ありとは
まあよく言ったものです]
[「かは」は川に、「彼は」つまり「あれは」の意味を掛詞。川、渡る、渕瀬は川に関連する縁語。散文側もわざわざ「渡る」とあり、印象としては舟にでも乗っている様相。「むべ・うべ」は「なるほど」「もっともだ」と肯定する副詞。「淵瀬ありとはもっともだ」というのは、古今和歌集の「世の中はなにか常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる」(933番よみ人知らず)「飛鳥川淵にもあらぬ我が宿も瀬に変わりゆくものにぞありける」(990番伊勢)を踏まえたもの。]
監の命婦の、即興的に詠まれた、日常会話を差し替えるくらいの和歌の冴えを紹介した段。といっても上句の「かは」に川と「あちら」の意味を兼ねるなどは、まるで取るに足らないし、ありきたりの感慨は、和歌にも足らないくらいだが、古今和歌集の渕瀬の和歌を踏まえた下句によって、「あれがふるさと」の「あれが」の部分の心情に深みが加わり、つまりはありきたりの言い做しと着想のバランスにより、即興的な和歌としては面白みのあるものになっている。また、「むべもいひけり」という理屈的なまとめから、読み手が悲観よりも、達観主義的な態度で詠んだという、その心情まで伝わってくるもの。
その一方で、言葉の結晶としての和歌としては、ルーズに過ぎ、結句の理屈オチは、この和歌を安っぽく貶めてもいるわけで、つまりは即興歌としては面白みのある和歌として紹介されているとも言える。
むしろ、このような取るに足らない段から、作者の表現への徹底的なこだわりがたやすく見いだせるから、ついでに紹介しておくと、まず散文は和歌の「いひけり」の「けり」のリズムを基調にして、徹底的に利用。「ありける」「いきけるに」「わたりければ」「よみたりける」のリズムにより、上質とは言い難い和歌を、なおさら全体に溶け込ませて、ユニークなものに変えているように思われる。
さらに、「堤(つつみ)」「行きけるに」「わたりければ」などなるべく、和歌の「かは」の縁語を拡張させようという意識も見られ、特に「渡る」は和歌内部と呼応して、家の前を通ったというよりは、舟で眺めたような、あるいは橋でも渡りながら眺めたような、より川寄りの印象を聞き手に与えることに成功している。もとより取るに足らない表現ではあるが、このようなきめ細かい配慮が『大和物語』全体でなされているので、ここでピックアップしておくのも悪くない。
そうして、登場人物の名称と、上に説明した部分を取り除くと、この散文がどれほど必要最小限度のことだけを、徹底的に磨き上げて仕立てた散文であるかが分るかと思う。これも、この段においては取るに足らないレベルであるけれど、だからこそここで説明してみるのも悪くない。
そうなると、果たして監の命婦が「粟田」という「泡」と掛け合わされたような場所に移ったのは、本当なのか、それとも掛詞を意識したちょっとした虚構なのかな、という疑問も湧いてくるくらいではある。
2017/11/08
2018/10/21 改訂