鴨長明 「方丈記」 原文と朗読

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方丈記 前半

[朗読1]
 ゆく河のながれは絶(た)えずして、しかもゝとの水にあらず。流れのよどみに浮かぶうたかた[泡沫。水上の泡のこと]は、かつ消え、かつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。

 世の中にある人(ひと)と栖(すみか)と、またかくのごとし。たましきの[玉を敷いたような立派な]みやこのうちに、棟(むね)[屋根のもっとも高い峰の部分]をならべ、甍(いらか)[瓦屋根、またその棟のこと]をあらそへる、高き・卑(いや)しき人のすまひは、世々を経(へ)て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋(たづ)ぬれば、昔(むか)しありし家(いへ)は稀(まれ)なり。あるいは去年(こぞ)焼けて、今年つくれり、あるいは大家(おほいへ)ほろびて、小家(こいへ)となる。

 住む人もこれにおなじ。ところも変はらず、人も多(おほ)かれど、いにしへ[過ぎ去った遠い過去]見し人は、二、三十人がうちに、わづかにひとりふたりなり。あしたに死に、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡(あは)にぞ似たりける。[「水の泡」は開始部分に対応]

 知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、現世においての仮(かり)の宿(やど)り、誰(た)がためにか心をなやまし、何によりてか、目をよろこばしむる。

 そのあるじとすみかと、無常(むじやう)をあらそふさま、いはゞ、あさがほの露(つゆ)にことならず。あるいは露おちて、花のこれり。のこるといへども、あさひが出た頃に枯れぬ。あるいは花しぼみて、露なをきえず。消えずといへども昼には蒸発して、ゆふべを待つことなし。

安元の大火

 われ、ものゝ心を知れりしより、四十(よそぢ)あまりの春秋(しゆんしう)[春と秋の繰り返し、即ち歳月]を送(おく)れるあひだに、世の不思議を見ること、やゝたび/\になりぬ。

 去(いんじ)[「いにし」の略。「さる、昔」]、安元(あんげん)三年四月廿八日[=西暦1177年6月3日。「廿」は「二十」と同じ。鴨長明当時23歳]かとよ。風はげしく吹きて、静かならざりし夜(よる)、戌(いぬ)の時ばかり[午後八時から九時頃]。みやこの東南(とうなん)より火出(ひい)できて、西北(せいほく)にいたる。果(は)てには、朱雀門(しゆしやくもん)・大極殿(だいこくでん)・大学寮(だいがくれう)・民部省(みんぶしやう)などまで(うつ)移りて、一夜(ひとよ)のうちに塵灰(ぢんくわい)[塵と灰。焼失のたとえ]となりにき。火(ほ)もとは、樋口冨ノ小路(ひぐちとみのこうぢ)[樋口小路と富小路の交わるあたり。極めて大ざっぱに言えば、みやこの中心に立って、東を向いた方角の、みやこの終わりに近い端の方]とかや。舞人(まひゞと)[諸本「病人」とあり]を宿(やど)せる仮屋(かりや)より、出できたりけるとなん言ひける

[補註
「朱雀門(しゆしやくもん)」は、みやこの南門、羅城門より朱雀大路を北上し、大内裏の入り口にあたる門。
「大極殿(だいこくでん)」は、天皇が政治を行うべき、朝廷の正殿にあたる。しかしこの時すでに政治中心が紫宸殿に移っていた事もあり、これ以後再建されず。
「大学寮(だいがくれう)」は、すでに教育施設として衰退期にあったが、これをもって封鎖される。
「民部省(みんぶしやう)」は、律令制により成立した八省の一つで、財政や租税を管轄していた施設]

 吹きまよふ風に、とかく移りゆくほどに、扇(あふぎ)をひろげたるがごとく、末広(すゑひろ)になりぬ。遠(とほ)き家は煙(けぶり)にむせび、近きあたりは、ひたすら焔(ほのほ)を地(ぢ)[読みは「ち」「ぢ」どちらも可。以下「地」は皆同じ]に吹きつけたり。空(そら)には、灰(はひ)を吹き立てたれば、火のひかりに映(えい)じて、あまねく紅(くれなゐ)なるなかに、風に堪(た)へず[こらえることが出来ずにの意]、吹き切られたる焔(ほのほ)、飛ぶがごとくして、一二町を越えつゝ移りゆく。

 そのなかの人、うつし心[正気、はっきり目覚めている心]あらむや。あるいは煙(けぶり)にむせびて倒(たふ)れ臥(ふ)し、あるいは焔(ほのほ)にまぐれて[目まいがして、混乱して]、たちまちに死ぬ。あるいは身ひとつ、からうじて逃(のが)るゝも、資財(しざい)[資産、財産、『方丈記』に於いては家財道具などを含めて資産価値のあるあらゆるものくらいの意味]を取り出(い)づるにおよばず。七珍万宝(しつちんまんぽう)[下補註]、さながら灰燼(くわいじん)[灰と燃え残り。燃えかす]となりにき。その費(つい)え、いくそばくぞ[「いくばく」「いくそばく」どれほどか、どれほどの多さか、といった意味]

[補註:「七珍」つまりは「七宝(しっぽう)」。無量寿経の指すところ、金・銀・瑠璃(るり・玻璃(はり)・しゃこ・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)。法華経では少しく異なる。万宝と合わせて、「あらゆる宝もの、価値あるもの」といった意味]

 そのたび、公卿(くぎやう)のいゑ、十六焼けたり。ましてそのほか、数へ知るに及ばず。すべて、みやこのうち、三分が一(さんぶがいち/さんぶんがいち)に及べりとぞ。男女(なんによ)死ぬるもの数千人(すせんにん)[下補註]、馬牛(うまうし)[「ばぎゅう」と読ませる意見もあり]のたぐひ、辺際(へんざい/へんさい)を知らず。

[補註:底本「数十人」、『平家物語』には「数百人」。例えば公卿の死者数とするは文脈的に不自然。諸本に「数千人」ともあり、底本の「十」は「千」の誤りとの説あれば、それに従う。ただし、語調は「十」の力強さに引かれる。「方丈記」全体の傾向として、和歌的な言葉のリズムへの傾倒が極めて大であり、あるいは実数を犠牲にしてでも、「十」を取ったかと考えたくもなる。]

 人のいとなみ、皆おろかなるなかに、さしもあやふき京中(きやうぢゆう)の家をつくるとて、宝(たから)を費(つひ)やし、こゝろを悩(なや)ます事は、すぐれてあぢきなくぞ[「あぢきなし」で「無益だ、かいがない、不当だ、面白くない」など]はべる。

治承の辻風(竜巻)

 また、治承四年(じしようよねん)[西暦1180年]卯月(うづき)[陰暦四月]のころ。中御門(なかのみかど)大路と京極(きやうごく)大路の交わるあたりのほど[都の北西]より、大きなる辻風(つじかぜ)[大きなつむじ風、大旋風(せんぷう)。今日なら竜巻]おこりて、六条(ろくでう)わたりまで、吹ける事はべりき[「はべり」すべて「はんべり」と「ん」を入れて発音すべきとの説あり]。三四町(さんしちやう)を吹きまくるあひだに、地域内にこもれる家ども、大きなるも小さきも、ひとつとして破(やぶ)れざるはなし。

 さながら[そのまま、まるで]平(ひら)に潰れて、倒(たふ)れたるもあり。柱上に掛ける横木の桁(けた)、柱(はしら)ばかり、残(のこ)れるもあり。門(かど)を吹きはなちて、四五町(しごちやう)がほかに吹き落としおき、また、垣(かき)を吹きはらひて、隣(となり)の家と境をとひとつになせり。いはむや、家のうちの資財(しざい)、数をつくして空(そら)にあり。屋根用のヒノキの皮である檜皮(ひはだ)・屋根を葺く薄板である葺板(ふきいた)のたぐひ、冬の木の葉(このは)の、風に乱(みだ)るゝがごとし。塵(ちり)を煙(けぶり)のごとく吹き立てたれば、すべての人はまるで目も見えず。おびたゝしく鳴りとよむ[響く、騒ぎ立てる]ほどに、人々の叫び声やもの言ふ声も聞こえず。

 かの、地獄(ぢごく)の業(ごふ)の風[悪行の人を地獄にさらう風]なりとも、かばかりにこそは吹かず、とぞおぼゆる[思われる]。家の損亡(そんばう)せるのみにあらず。これをとりつくろふ[修理する]あひだに、身を損(そこ)なひ、かたはづける人[片輪(かたわ)づいた人、不具のからだになった人]、数(かず)も知らず。

 この風、未(ひつじ)[南南西]の方に移りゆきて、多くの人の嘆きなせり。辻風(つじかぜ)はつねに吹くものなれど、かゝる事やある。たゝごとにあらず。さるべきものゝ諭(さと)しであろうかなどぞ[「諭す」は、神仏が告げ知らせる啓示(けいじ)の意味。「さるべきもの」は、相応しい立派なものの意味で、ここでは告げ知らせる神仏を指す]、疑ひはべりし。

福原遷都

 また、治承四年水無月の頃、にはかにみやこ移りはべりき[治承四年(1180年)六月二日、京から福原へと遷都がなされた]。いと思(おも)ひの外(ほか)なりし事なり。おほかた[おおよそ]、この京(きやう)のはじめを聞ける事は、嵯峨(さが)の天皇(てんわう)の御時(おほんとき)、みやこと定(さだ)まりにけるより後(のち)、すでに四百余歳(しひやくよさい)を経(へ)たり[下補註]。ことなる故(ゆゑ)なくて、たやすく改(あらた)まるべくもあらねば、これを世の人、やすからず[安心でない、穏やかでない]憂(うれ)へあへる、実(げ)にことはり[道理、もっともなこと]にも過ぎたり。

[補註:平安京への遷都は西暦なら794年、桓武天皇の時代である。810年に嵯峨天皇の時、平城上皇が平城京に遷都を試み失敗した後と考えたものか]

 されど、とかく言ふ甲斐(かひ)なくて、帝(みかど)より始めたてまつりて、大臣(だいじん)・公卿(くぎやう)、皆(みな)ことごとく移(うつ)ろひ給(たま)ひぬ。世に仕(つか)ふるだけの役職を持っているほどの人、誰(た)れか一人、ふるさとに残りをらむ。官(つかさ)・位(くらゐ)を得ることに思をかけ、主君(しゆくん)のかげに引き立てられることを頼むほどの人は、一日(ひとひ)なりとも、とく福原の新都に移(うつ)ろはむと励(はげ)み、出世の機会としての良き時を失(うしな)ひ、世に余(あま)されて[取り残されて]、期(ご)する所[期待するところ]なきものは、憂(うれ)へながら京のみやこにとまりをり。

 かつては軒(のき)をあらそひしみやこの人のすまひ、日を経(へ)つゝ荒れゆく。家はこぼたれて[「毀つ(こぼつ)」で「打ち壊す」]資材を再利用するために賀茂川から流して淀河(よどがは)に浮(う)かび、地(ち)は目のまへに畠(はたけ)となる。人の心みな改(あらた)まりて、たゞ武士(もののふ)の用いるような馬鞍(うまくら)をのみ重(おも)くす。高貴な人の乗り物である牛車(うしくるま)をようする人なし。西南海(さいなんかい)の領所(りやうしよ)をねがひて、東北(とうぼく)の荘園(しやうゑん)を好(この)まず。

 その時、おのづから事のたより[機会、ついで]ありて、津の国の今の京、すなはち福原にいたれり。所(ところ)のありさまを見るに、その地(ち)ほど狭(せば)くて、条里(でうり)[ます目の道で割る土地の区画のこと]を割るに足(た)らず。北は山に沿(そ)ひて高(たか)く[「その地」から「高く」まで底本に無し。諸本により補う]、南は海近くてくだれり。波の音(おと)、つねにかまびすしく[やかましく、うるさく]、潮風(しほかぜ)ことに激(はげ)し。内裏(だいり)は山の中なれば、かの木のまろ殿[丸木で作った仮の殿。新羅への派兵に際して斉明天皇が筑前の朝倉に設けたという宮を指す]もかくやと、なか/\様(やう)[様子、風情]かはりて、優(いう)なる[優美だ、上品だ、すばらしい]かたもはべり。

[最後の部分、『平家物語』に類似の表現あり。あるいは琵琶奏者として慣れ親しんだ『平家物語』のプロトタイプからの引用か。文脈の流れとしては、ここだけ誉めるのは少しくニュアンスが変である。気持ちとしては、それはそれで雅な方の住まいであるから、優美なところもあろうが、くらいの意味か。あるいは発音の違いを超えて、「優なるかたもはべり、なんて言うなる方もいらっしゃるくらいだよ」という掛詞的な暗示を行ったものかも知れず]

 日々にこぼち、川も狭(せ)まいくらいにに運びくだす家、いづくに作(つく)れるにかあるらむ。なをむなしき地は多(おほ)く、つくれる屋(や)は少(すく)なし。古京(こきやう)はすでに荒れて、新都(しんと)はいまだならず。ありとしある人は、みな浮雲(うきぐも)の思ひをなせり。もとより、このところに居(を)るものは、地を失ひて憂(うれ)ふ。今移(うつ)れる人は、土木(とぼく)のわづらひある事を嘆(なげ)く。

 道のほとりを見れば、車に乗るべき方々は馬に乗り、衣冠(いくわん)[貴族の勤務用の服装]・布衣(ほい)[狩衣。貴族の略服]なるべきは、多くひたゝれ[「直垂(ひたたれ)」武士などの平服]を着たり。みやこの手(て)ぶり、たちまちに改(あらた)まりて、たゞひなびたる武士(ものゝふ)にことならず。世のみだるゝ瑞相(ずいさう)[前兆、きざし]とか聞けるもしるく[「~も、しるく」は「~も、まったくそのとおりで」くらいの意味]、日を経(へ)つゝ世の中うきたちて、人の心も収(おさ)まらず。

[最後の部分、「瑞相と書きけるもしるく」とも取れる。「瑞相なんて記述されることももっともである」の意味。しかし「聞ける」のほうは、「人々が瑞相などと噂し合っているのを聞くのももっともなことで」という意味であり、しかもこの瑞相は、次の文脈に於いて、「人々が瑞相だなどと憂い合っていた事柄は、ついに空しくない結果となってしまい」へと繋がっていく。つまり「瑞相は空しからず」と掛かるので、直接的に「民が噂しあっている話を聞くことももっともである」の方が正解かと思われる。ここだけ「瑞相などと記述されるのももっともである」では文脈が途切れる]

 民(たみ)の憂(うれ)へ、つゐに空(むな)しからざりければ、同じき年の冬、なをこの京に福原より帰りたまひにき。されど、すでにこぼちわたせりし家どもは、いかになりにけるにか、ことごとくもとの様にしも作らず。

[最後の部分、「いかになりにけるにか」は「に」のリズムでたわむれたものである。さらに「ことごとく」の母音「o」の連続と対置して、「iaiaiieuia」「oooou」と母音の音調の変化を楽しんでいる。この極めて和歌的な執筆態度は、方丈記全体の特徴でもある。簡単なものでは、「冬の木の葉の」の部分の「の」のたわむれなどもある。]

 伝(つた)へ聞く、いにしへのかしこき御世(みよ)には、あはれみをもちて、国を治(をさ)めたまふ。すなはち、あはれむべき際には、殿(との)に茅(かや)ふきても、人々の労役を減らすために軒(のき)先の茅の並びをだにとゝのへず、人々がかまどを使用する際の煙(けぶり)の乏(とも)しきを見たまふ時は、かぎりある租税としての貢(みつ)ぎ物をさへ許(ゆる)されき。これ、民をめぐみ、世をたすけ給(たま)ふによりてなり。今の世のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。

養和の飢饉

[朗読2]
 また、養和[1181年-1182年のわずかな期間だった]のころとか。久くなりておぼへず。二年(ふたとせ)があひだ、世のなか飢渇(けかつ)[飢えと渇き、つまりは飢饉(ききん)のこと]して、あさましき事はべりき。

 あるいは春・夏(はるなつ)ひでり、あるいは秋(あき)、大風(おほかぜ)・洪水(おほみづ)など、よからぬ事どもうちつゞきて、五穀(ごこく)こと/”\くならず。むなしく春かへし[「むなしく春かへし」、底本になし。諸本により補うも、鴨長明の意図かは不明]、夏植(なつう)ふるいとなみありて、秋刈(あきか)り、冬納(ふゆおさ)むるぞめき[「騒ぎ、浮かれ騒ぎ」もともと「そめき」は、種まきや収穫の作業を述べたものらしい]はなし。

 これによりて、国々(くにぐに)の民(たみ)、あるいは地(ぢ)をすてゝ境(さかひ)を出(い)で、あるいは家をわすれて、山に住む。さま/”\の御祈(おんいのり/おほんいのり)はじまりて、なべてならぬ[一通りではない、並ならぬ]法(のり)ども行(おこな)はるれど、さらにその験(しるし)[祈りなどの効き目、効果]なし。

 京の習(なら)ひ、なにわざにつけても、みなもとは田舎(ゐなか)をこそ頼めるに、収穫も絶えて上(のぼ)るものなければ、さのみやは[……ばかりもしていられようか]、みさをもつくりあへん[「操(みさを)を作る」で、「平気なように見せる、体裁を保つ」。前と合わせて、「体裁を取りつくろっていられようか」]。念じわびつゝ[「侘(わ)ぶ」はここでは「悲観する、嘆く」くらい]、さま/”\の財物(ざいもつ)、かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目見(めみ)たつる[注意して見る、目にとめる]人なし。たま/\換(か)ふる物は、金(こがね)を軽(かろ)くし、粟(あわ)を重(おも)くす[たまたま交換出来たとしても、金の価値は軽く、粟の価値ばかりが重くなる]。乞食(こつじき)、路(みち)のほとりに多(おほ)く、憂(うれ)へかなしむ声、耳に満てり。

 まへの年[ここまでの記述、1180年の干ばつを指すか]、かくのごとく、からうじて暮れぬ。あくる年は、立ち直(なほ)るべきかと思(おも)ふほどに、あまりさへ[「あまつさえ」の元となった言葉。(悪いことを差して)「それでさえ大変なことなのに、その上さらに」といった意味]、疫癘(えきれい)[疫病、伝染病]うちそひて[加わって]、まさゞまに[より一層]跡形(あとかた)なし。世の人、みな飢(けい)しぬれば、日を経(へ)つゝきはまりゆく[限界に達する、ゆきずまりゆく]さま、小水(せうすい)の魚(いを)の喩(たと)えに適(かな)へり。

 果てには、笠(かさ)うち着(き)、足ひきつゝみ、よろしき姿したるもの、ひたすらに、家ごとに乞(こ)い歩(あり)く。かく、わびしれたる[酷い目にあって訳も分からないようになった]者どもの、歩(あり)くかとみれば、すなはち倒(たふ)れ臥(ふ)しぬ。築地(ついぢ/ついひぢ)[=土塀、公卿などの屋敷そのものを指すこともある]のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるものゝたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香(か)、世界に満(み)ち/\て、変はりゆくかたち、ありさま、目も当てられぬこと多かり。いはむや、河原(かはら)などには、馬・車(うま・くるま)のゆきかふ道だになし。

 あやしき賤(しづ)[ここでは「醜く身分の低いもの」といった意味]、やまがつ[木こりなどの、山に住む卑しい人々]もちから尽きて、薪(たきゞ)さへ乏(とも)しくなりゆけば、頼むかたなき人は、みづからが家をこぼちて、市にいでゝ売る。一人がもちて出(い)でたる価値(あたひ)、一日が命にだに及(およ)ばずとぞ。

 あやしき[こちらは「不思議な」の意味]事は、市に売られている薪(たきぎ)のなかに、薪(たきぎ)のなかに、赤き丹(に)つき、箔(はく)など所/\に見ゆる木、あひ混(ま)じはりけるを尋(たづ)ぬれば、自らをいかようにもすべきかたなき者、古寺(ふるでら)にいたりて仏(ほとけ)をぬすみ、堂(だう)のものゝ具[「物の具」で調度品を指す。古寺なので仏具など]を破(やぶ)りとりて、割(わ)り砕(くだ)けるなりけり。濁悪世(じよくあくせ)[穢れに満ちた悪い世の中の意味で、末法の世を指す。五濁悪世(ごじょくあくせ)などと言われる]にしも生まれあひて、かゝる心憂(う)きわざをなん見はべりし。

 いと、あはれなる[こころに染み入るような、しみじみと感じ入るような]事もはべりき。
 さりがたき妻(め)、男(をこと)もちたるものは、その思ひまさりて深きもの、かならず先だちて死ぬ。その故(ゆゑ)は、わが身はつぎにして、人をいたはしく[気の毒であると/大事にしたいと]思ふあひだに、まれ/\得(え)たる食物(くひもの)をも、かれに譲(ゆづ)るによりてなり。されば、親子(おやこ)あるものは、定まれる事にて、親ぞ先だちける。また、母のいのち尽きたるを知らずして、いとけなき[幼い、あどけない]子の、なほ乳(ち)を吸いつゝ、臥(ふ)せるなどもありけり。

 仁和寺(にんなじ)に隆暁法印(りゆうげうほふいん)[「法印」」とは高いくらいの僧位の一つ]といふ人、かくしつゝ、数も知らず人々の死る事をかなしみて、その首(かうべ)の見ゆるごとに、ひたいに万物の不生不滅をあらわす梵語(ぼんご)の阿字(あじ)を書(か)きて、御仏への縁(えん)を結(むす)ばしむるわざをなん、せられける。人数(ひとかず)を知らむとて、四、五両月(しごりやうげつ)を数へたりければ、京(きやう)のうち、一条(いちでう)よりは南、九条(くでう)より北、京極(きやうごく)よりは西、朱雀(しゆしやか)よりは東の、路(みち)のほとりなる頭(かしら)、すべてあわせて、四万二千三百あまりなんありける。いはむや、その前後(ぜんご)に死ぬるもの多(おほ)く、またみやこ東の賀茂川の河原(かはら)・みやこ東北の郊外にある白河(しらかは)・朱雀大路の西側にあたる西の京、もろ/\の辺地(へんぢ)などを加へて言はゞ、際限(さいげん)もあるべからず。いかにいはむや、七道諸国(しちだうしよこく)[東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海]をや。

 崇徳院(すとくゐん)の御位(おほんくらゐ)の時、長承(ちやうしよう)[崇徳天皇の年号。1132年から1135年]のころとか、かゝる例(ためし)ありけりと聞(き)けど、その世のありさまは知らず。眼(ま)のあたりにすれば、めづらか[普通と違っている]なりし事なり。

元暦(げんりゃく)の地震

 また、おなじころかとよ。おびたゝしく、大なゐ振る[「なゐふる」は地震のこと。「なゐ(大地の意か)」が振ることによるとか]ことはべりき。そのさま、世の常(つね)ならず。山はくづれて、河を埋(うづ)み、海はかたぶきて、陸地(くがち)をひたせり。土さけて、水湧(わ)きいで、巌(いはほ)割れて、谷(たに)にまろびいる[「まろぶ」は「ころがる」「倒れる」の意味]。渚(なぎさ)こぐ船は、波にたゞよひ、道ゆく馬は、足の立ちどを惑(まど)わす。

 みやこのほとりには、在/\所/\(ざいざいしよしよ)、堂舎(だうじや)・塔廟(たふめう/たふべう)[「堂舎(どうしゃ)」は大きな家「堂」と小さな家「舎」の意味で、大小の建物だが、特に神仏の建造物などを指すことが多い。「塔廟(とうびょう)」は仏像や、釈迦の骨とされるもの、すなわち仏舎利を納める塔]、ひとつとして全(まつた/また)からず[「完全ではない」「無事ではない」。今日の「まったからず」、当時「っ」の促音が発音されていたのかどうかを知らず]。あるいはくづれ、あるいは倒(たふ)れぬ。塵灰(ちりはひ)立ちのぼりて、盛(さか)りなる煙(けぶり)のごとし。地のうごき、家のやぶるゝ音(おと)、いかづち[カミナリ]にことならず。家のうちに居(を)れば、たちまちにひしげなんとす[「拉(ひし)ぐ」で「押し潰される」]。走りいづれば、地われ裂(さ)く。羽(はね)なければ、空をも飛ぶべからず。竜(りよう/りゆう)ならばや、雲にも乗らむものを。恐(おそ)れのなかに、恐(おそ)るべかりけるは、ただ地震(なゐ/ぢしん)[下補註]なりけりとこそ覺えはべりしか。

[補註:「地震」原文ここのみ漢字表記。 大福光寺版を正統とするならば、ここのみ「じしん」と読ませるか?、このあたり『平家物語』と類似性が濃い。プロトタイプからの引用か。『平家物語』には「だいぢしん」の読みあり。もっとも次の「振る」と掛けた「なゐ振る」の可能性もわずかにあり]

[「一条兼良版」「嵯峨版」には下の文あり。明らかに、前後の文脈を削ぐものなり。文体・精神もまるで異なれり。順次説明を加えゆく、初歩的な文脈なれど情は籠もれり。武士への好意者の入れたるものか]
 そのなかに、ある武者(むしや/ものゝふ)のひとり子の、六つ七つばかりにはべりしが、築地(ついひぢ)のおほひの下に、小家を造りて、はかなげなる跡(あど)なしごと[たわいもないこと]をして、遊びはべりしが、にはかにくづれ埋(う)められて、跡形(あとかた)なく、平(ひら)にうちひさがれて、ふたつの目など、一寸(いつすん)ばかりづゝうち出(い)だされたるを、父母(ぶも)かゝへて、声(こゑ)を惜(を)しまず、悲(かな)しみあひてはべりしこそ、あはれに悲(かな)しく見はべりしか。子(こ)のかなしみには、たけき者(もの)も恥(はぢ)を忘(わす)れけりと覚(おぼ)えて、いとほしく[気の毒であり]、ことわりかな[もっともである]とぞ見はべりし。

 かく、おびたゝしく振ることは、しばしにて止(や)みにしかども、その余震の名残(なごり)、しばしは絶(た)えず。世の常(つね)、おどろくほどのなゐ[この部分をもって「なゐ」とのみ発音して地震と表す例と取るのは変なり。この「なゐ」は次の「振らぬ日はなし」に掛けて「なゐ振る」を分割したものに過ぎず]、二、三十度振(ふ)らぬ日はなし。十日(とをか)、廿日(はつか)すぎにしかば、やう/\間遠(まどほ)になりて、あるいは四五度、二三度、もしは一日(ひとひ)まぜ、二三日(にさんにち)に一度など、おほかたその名残、三月(みつき)ばかりやはべりけむ。

[「一人」「二人」は「ひとり」「ふたり」と読みつつ、「三人」より「さんにん」と読むのが今日でも一般であるように、数字の読み方には幅があり、「一日」を「ひとひ」と読むか、中国からの発音により「いちにち」と読むか、あるいは「ついたち」と読むか、絶対的でない場合も多いことを、参考のために述べておく。それに合わせて、二三日を「ふつかみか」と読むか、「にさんにち」と漢文風に読むかも変わってくる。ついでに「地」を「ぢ」と読むか、「ち」と読むかなど、確定できない場合も多い。外にも「侍り」を「はべり」と読むか、表記されなかったものの発音されたと考えて、「はんべり」と読むかなど、校訂者によって異なることも多い。]

 仏教で言うところ、万物を生じさせる「池水火風」の四つの種すなわち四大種(しだいしゆ)のなかに、水・火・風(すい・くわ・ふう)はつねに害をなせど、大地(だいぢ/だいち)にいたりては異(こと)なる変をなさずとあるも、空しきことわりなり[この部分、『平家物語』のプロトタイプからの引用か、今日的には言葉足らずに思えるも、極限の短縮法のなせる業か。一度意を捉えれば、足らずの感も消えゆくものなり]。昔、齊衡(さいかう)[文徳天皇の年号。854年-857年]のころとか。大(おほ)なゐ振りて、東大寺(とうだいじ)の仏(ほとけ)のみぐし[首(こうべ)の尊敬語]落ちなど、いみじき[程度のはなはだしいことを表す。「非常に」など。より善事には「すばらしい」「すぐれている」悪事には「大変だ」「ひどい」「怖ろしい」といった意味]事どもはべりけれど、なほこの度(たび)にはしかずとぞ。すなはちは、人みなあぢきなき[ここでは「にがにがしい」「どうにもならない」と諦めるような感じ]事をのべて、それと共にいさゝか心の濁(にご)り[人のエゴや欲求など]も、薄(うす)らぐと見えしかど、月日(つきひ)かさなり、年経(としへ)にしのちは、言葉にかけて、言ひいづる人だになし。

[参考。斉衡二年、五月十一日に地震があり、五月二十三日にその影響か、大仏のあたまが転げ落ちた。]

みやこ人の心

 すべて、世の中のありにくゝ、わが身とすみかとの、はかなくあだなる[かりそめな、はかない/浮気な]さま、またかくのごとし。いはむや、所(ところ)により身のほどに従(したが)ひつゝ、心をなやます事は、あげて計(かぞ)ふべからず。

 もし、おのれが身、数ならずして、権門(けんもん)[官位の高く、権勢のある家柄、つまりは帝や公卿など高位貴族]のかたはらに居(を)るものは、深くよろこぶ事あれども、大(おほ)きに楽(たの)しむにあたはず。なげき切(せち)なるときも、対面を気にして、声(こゑ)をあげて泣くことなし。進退(しんだい)やすからず。立ち居(ゐ)につけて、権力者の顔色をうかがい恐れをのゝくさま、たとへばすゞめの、鷹(たか)の巣に近づけるがごとし。

 もし、まづしくして、富(と)める家のとなりに居(を)るものは、朝夕(あさゆふ)すぼき[「すぼし」みすぼらしい/すぼんでいて細い]すがたを恥(は)ぢて、富める人々の顔を見るに付けても、へつらひつゝ出(い)で入る。妻子(さいし)・我が家に雇っている僮僕(とうぼく)の、富める家をうらやめるさまを見るにも、福家(ふけ/ふくけ)[この部分、読み不明]の人の、すぼき我が家に対してないがしろなる気色(けしき)を聞くにも、こゝろ念々(ねん/\)に動(うご)きて、時としてやすからず。

 もし、狭(せば)き地に居(を)れば、ちかくの家に炎上(えんしやう)ある時、その災(さい)をのがるゝ事なし。もし、家がみやこの辺地(へんぢ)にあれば、用を足すにも往反(わうばん)わづらひ多(おほ)く、盗賊(たうぞく)の難(なん)はなはだし。

 また、勢(いきほ)ひある者は、貪欲(とんよく)ふかく、独身(とくしん/どくしん)なる者は、人に軽(かろ)めらる。財(ざい/たから)あれば恐れ多(おほ)く、貧(まづ)しければ、うらみ切(せち)なり。

 人を頼(たの)めば、その身、他の有(いう)なり。人をはぐゝめば[世話すれば]自分のこゝろ、その人への恩愛(おんない)につかはる[束縛される]。世にしたがへば、身、苦(くる)し。したがはねば、こころは狂(きやう)せるに似たり。いづれの所を占(し)めて、いかなる業(わざ)をしてか、しばしもこの身を宿(やど)し、たまゆらも[わずかの間でも]心をやすむべき。

方丈記 後半

我が身の遍歴

[朗読3]
 わが身、父方(ちゝかた)の祖母(おほゞ)の家をつたへて、ひさしく彼(か)のところに住む。そのゝち、縁(ゑん)欠けて、身おとろへ、しのぶ[なつかしむ、恋い慕う]かた/”\しげかりしかど[しきりであったけれども]、つひに祖母の家に屋(や)とゞむる事を得(え)ず。三十(みそぢ)あまりにして、さらに我(わ)がこゝろと、ひとつの庵(いほり)をむすぶ。

 これを、ありし住まひに並(なら)ぶるに、十分(じふゞ/じふゞん)が一(いち)なり。ただ、辛うじて寝起きするだけの居屋(ゐや)ばかりをかまへて、はか/”\しく[際立っている、相当な/はっきりしている、はきはきしている]をつくるに及(およ)ばず。わづかに築地(ついひぢ)[土塀]を築(つ)けりといへども、門(かど)を建(た)つるたづき[方法、手段]なし。ただ竹を柱(はしら)として、とりあえずそこに牛車(くるま)を宿(やど)せり。雪降り、風吹くごとに、あやふからずしもあらず。ところ河原(かはら)近ければ、水難(みづのなん)も深(ふか)く、白波(しらなみ)[「白波」は盗賊の例えでもある]のおそれも騒(さわ)がし。

 すべて、あられぬ[とんでもない、あってはならないような]世を念(ねん)じ過(す)ぐしつゝ[堪え忍んで過ごしながら]、心をなやませる事、三十余年(さんじふよねん)なり。そのあひだ、折々(をりをり)のたがひめ[「違ひ目」意に反すること、不本意なこと/失敗]、おのづから短き運をさとりぬ。すなはち、五十(いそぢ)の春をむかへて、家を出(いで)て、世を背(そむ)けり。

 もとより妻子(さいし)なければ、捨てがたきよすが[頼り手、夫や妻・子供など]もなし。身に官禄(くわんろく)あらず。なにゝつけてか執(しふ)をとゞめん。むなしく大原山(おほはらやま)の雲に臥(ふ)して、また五(いつ)かへりの春秋(しんしう)をなん経(へ)にける。

方丈の住まい

 こゝに、六十(むそぢ)のいのちの露(つゆ)、消えがたにおよびて、さらに末葉(すゑば)の宿(やど)りを結(むす)べることあり。いはゞ旅人(たびゞと)の、一夜(ひとよ)の宿(やど)をつくり、老(お)いたる蚕(かひこ)の[地亭記に「老蚕(ろうさん)」の言葉有。「年老いた蚕の意味」]、繭(まゆ)を営(いとな)むがごとし。これを、中ごろのすみかに並(なら)ぶれば、また百分(ひやくぶ/ひやくぶん)が一(いち)におよばず。とかく言ふほどに、齢(よはひ)は歳/\(としどし)に高く、すみかは折々(をり/\)に狭(せば)し。

 その家のありさま、世の常(つね)にも似ず。広さはわづかに方丈(ほうぢやう)[一丈四方=十尺四方]、高さは七尺(しちしやく)[大宝律令の定める所の一尺は、約29.6cm]がうちなり。ところを思ひ定(さだ)めざるがゆゑに、地を占(し)めてつくらず。土居(つちゐ)[建物の土台、ここではむしろ建物の骨組み]を組み、うちおほひ[覆っただけの屋根]茅などで葺(ふ)きて、継ぎ目ごとに掛け金(がね)をかけたり。もし、心にかなはぬ事あらば、易(やす)くほかへ移(うつ)さむがためなり。

 その運んだ方丈の庵を、あらためつくる事、いくばくの煩(わづら)ひかある。積(つ)むところ、わづかに二両(にりやう)、車(くるま)のちからを報(ふく)ふ[もと「報ゆ」で、受けたことに対してお返しをすること。ここでは車の使用料を払うの意味]ほかには、さらに他(た)の用途(ようどう)[金銭、費用のこと]いらず。

住まいの様子

 今、日野山(ひのやま)の奥(おく)に、みずからの姿の跡(あと)を隠(かく)してのち、東(ひんがし)に三尺(さんじやく)あまりの庇(ひさし)をさして、炊事のために柴(しば)折(を)りくぶる[「焼ぶ(くぶ)」は、火に入れて燃やす、くべる]よすがとす。南、竹の簀子(すのこ)をしき、その西に仏前に花や水を供え、仏具を置くための閼伽棚(あかだな)をつくり、北によせて障子(しやうじ)をへだてゝ、阿弥陀(あみだ)如来(によらい)の絵像(えざう)を安置(あんぢ)し、そばに普賢(ふげん)[普賢菩薩。文殊菩薩と共に釈迦の傍らに控え、白象に乗るという]を画(か)き、前(まへ)に法花経(ほけきやう)[仏教伝来以後、極めて重要な役割を担ってきた経典]を置(お)けり。東(ひんがし)のきはまった隅に、蕨(わらび)のほどろ[わらびの伸びすぎてしまった穂]を敷(し)きて、夜(よる)の床(ゆか)とす。

 西南(せいなん)に、竹(たけ)のつり棚(だな)をかまへて、黒き皮籠(かはご)三合(さんがう)[「合」は蓋のあるものを数える際に使う。つまり「黒い皮張りのカゴを三つ」]を置(お)けり。すなはち、和歌(わか)の書・管絃(くわんげん)の書源信の記した仏書である徃生要集(わうじやうえうしふ)ごときの抄物(せうもつ)[抜き書きしたもの、あるいはそこから注釈書の意味]を入れたり。かたはらに、琴(こと)・琵琶(びは)、をの/\一張(いつちやう)を立つように置く。いはゆる、折りたたみの出来る折り琴(をりごと)、柄を継ぎ合わせて組み立てられる継ぎ琵琶(つぎびは)、これなり。仮(かり)の庵(いほり)のありやう、かくのごとし。

住まいに於ける生活

 そのところのありさまを言はゞ、南に懸樋(かけひ)[竹やくり抜いた木などで、庭などに架設した人工的な水路]あり。水の流れる口には岩(いは)を立てゝ流れを受けて、水をためたり。林の木[あるいは「の木」は「軒(のき)」の当て字か。あるいは二つを掛けたものか]近ければ、爪木(つまぎ)[薪にするための木の小枝]を拾ふに乏(とも)しからず。名を音羽山(おとはやま)[諸本では「外山(とやま)」]といふ。まさきのかづら[下補註]、跡(あと)うづめり。谷は草木のしげゝれど、西は開けて晴(は)れたり。

[補註:藤原定家が生まれ変わり恋人の墓に絡まりついたとの伝承を持つテイカカズラを指すか、あるいは同様に常緑蔓性植物であるところのツルマサキを指すとも言われる]

 西方の開けたれば、観念(くわんねん)[もともと仏教用語で、仏や浄土を一身に念じ眺め取ろうとすること。前文「西晴れたり」に掛かっては日想感、夕陽を眺め西方浄土を描こうとする態度をしめし、次に続く文脈に対しては、広義の観念の意味、優位に籠もれるか]のたより、なきにしもあらず。春は藤波(ふぢなみ)をみる。紫雲(しうん)[臨終の際、紫にたなびく雲に乗って西方浄土から迎えに来る仏を指す。そのような雲を眺めることは、吉兆ともされた]のごとくして、西方にゝほふ[もとは嗅覚より視覚に訴えてひときわ美しい様を述べた言葉。藤の花が咲き誇るという意味]。夏は郭公(ほとゝぎす)をきく。語(かた)らふごとに、死出(しで)の山路(やまぢ)を契(ちぎ)る[下補註1]。秋はひぐらしの声、耳に満(み)てり。うつせみの世[補註2]を、かなしむほど聞こゆ。冬は、雪をあはれぶ。積(つ)もり消ゆるさま、罪障(ざいしやう)[往生や成仏など、あらゆる全果を妨げる悪い行いのこと]にたとへつべし。

[補註1:死後に向かうという「死出の山」。そこより飛び来たる「死出の田長(しでのたをさ)」とは「ほとゝぎす」の異名である。つまりは、「ホトトギスの鳴き声と語り合うようにして、死後の山へ向かうその山道の道案内を約束するのだ」といった意味]

[補註2:「現なる人」の意味をなせる「現(うつ)し臣(おみ)」から「うつそみ」と変わり、万葉集に「空蝉」「虚蝉」などと記され、やがては「はかないこの世」の比喩として、されにはそれを暗示する「蝉の抜け殻」そのものをも指す言葉と変じたるもの]

 もし、念仏(ねんぶつ)ものうく[「物憂し」で、何となく嫌である、気が進まない]、読経(どきやう/どくきやう)[声に出して経を読むこと]まめならぬ時は、みづからやすみ、みづから怠(おこた)る。さまたぐる人もなく、また、恥(は)づべき人もなし。ことさらに無言(むごん)をせざれども、ひとりだけで居(を)れば、口業(くごふ)[下補註]をゝさめつべし。かならず禁戒[禁じ戒めるべき事・戒律]を守るとしもなくとも、境界(きやうがい)[認知や思想に働きかける六根(ろっこん)(眼・耳・鼻・舌・身・意)に刺激を与えるべき対象物]なければ、なにゝつけてか破(やぶ)らん。

[補註:身体の動作的な所作に現れるその人の継続的傾向を身業(しんごう)と言い、言語に現れるその人の継続的傾向を口業(くごう)と言い、その人の意思や思想の持つ継続的傾向を意業(いごう)と言う。そのうち社会的に善なるを善業(ぜんごう)と言い、悪なるを悪業(あくごう)と言う]

 もし、過ぎ行く人生という舟のあとの白波(しらなみ)に、この身を寄(よ)する朝(あした)には、岡屋(をかのや)[宇治市五ヶ庄岡屋のあたり]にゆきかふ船をながめて、満沙弥(まんしやみ)[沙弥満誓(しゃみまんせい)、万葉集にその歌を残す。721年に出家するまでの俗名を笠朝臣麻呂(かさのあそみまろ)という]が風情(ふぜい)をぬすみ歌を詠みもしよう、もし、かつらの木を吹き抜ける風、葉をならす夕(ゆふべ)には、白楽天が琵琶を聞きながら『琵琶行(びわこう)』を作ったという、あの中国の尋陽(じんやう)の江(え)を思(おも)ひやりて、源都督(げんとゝく)[源経信(みなもとのつねのぶ)(1016-1097)、公卿にして当代有数の歌人、桂大納言と称される。琵琶の達人であった。百人一首『ゆふされば』の歌の作者]のおこなひを習(なら)ふ。

 もし、余興(よきよう)[ここは宴会の余興ではなく、感興すなはち興味を感じるこころのゆとり]あれば、しば/\松のひゞきに、秋風楽(しうふうらく)[雅楽の唐楽に含まれる曲で、四人舞の踊りが付いたもの。それを元にした琴の曲]をたぐへ[「たぐふ」は「並ぶ、添う、連れ立つ」、松に吹く風の響きに合わせて琴を弾くということ]、水の音(おと)に、琵琶の秘曲である流泉(りうせん)の曲[下補註]をあやつる。芸はこれ拙(つたな)けれども、人の耳をよろこばしめむと思ふにはあらず。ひとり調(しら)べ、ひとり詠(えい)じて、みづから情(こゝろ)を養(やしな)ふばかりなり。

[補註:琵琶の秘曲としては、「啄木(たくぼく)」「流泉(りゅうせん)」「楊真操(ようしんそう)」などあり、鴨長明は中原有安(なかはらのありやす)より「楊真操(ようしんそう)」は伝授されたが、「啄木」も「流泉」も伝授されなかった。秘曲は正式に伝授され後継者として認知されないと演奏できない習わしであるところを、「秘曲づくし」のライブを敢行し、事もあろうに「啄木」を演奏してお叱りを喰らったことがある(しばらくのあいだ、都落ちとも言われる)。この事は、鴨長明の卓越した音楽才能と同時に、ロックのたましいを見せつけることとなった。それは冗談としても、彼は反骨の人ではあっても、決して悲観していじけて遁世するような根暗なタイプの人間ではない。直接の原因はともかく、間接的には遁世をこころざす、積極的な精神があったと考えたい。]

住まいより出ての生活

 また、ふもとに、ひとつの柴(しば)の庵(いほり)あり。すなはち、この山の山守(やまもり)が居(を)るところなり。かしこ[かのところ、あそこ]に、小童(こわらは)あり。とき/”\来(き)たりて、あひ訪(とぶら)ふ[問い尋ねる、訪問する]。もし、つれ/”\なる時[「つれづれなる」は暇を持て余している様子を表すが、あるいは「連れ」の意味を掛けたか]は、これを友(とも)として遊行(ゆぎやう)す。

 かれは十歳(じつさい)、これは六十(むそぢ)。その齢(よはひ)離れたる事ことのほかなれど、心をなぐさむること、これ同じ。あるいは食用にするために春には茅花(つばな)のまだ白くなりきらない若穂をぬき、夏には梨に味の似たる岩梨(いはなし)をとり、秋には山芋の葉の元に付いた零余子(ぬかご)をもり[もぎ取りの意]冬の寒さの残るも初春となれば芹(せり)をつむ。あるいは、すそわ[=すそみ、山のふもとの周囲]の田居(たゐ)[田のある所]にいたりて、稲の落穂(おちぼ)をひろひて、穂を渇かすために束ねて穂組(ほぐみ)をつくる。

 もし、うらゝかなれば、峰(みね)によぢのぼりて、はるかにふるさとの空を望(のぞ)み、木幡山(こはたやま)、伏見(ふしみ)の里(さと)、鳥羽(とば)、羽束師(はつかし)を見る。勝地(しようち)[名所、景色の良い地]は主(ぬし)なければ、心をなぐさむるにさしさはりなし。

 歩(あゆ)みわづらひなく、こゝろ遠(とほ)くいたる時は、これより峰(みね)つゞき、炭山(すみやま)をこえ、笠取(かさとり)をすぎて、あるいは石間(いはま)に詣(まう)で、あるいは石山(いしやま)を拝(をが)む。もしはまた、粟津(あはづ)の原(はら)を分けつゝ、蝉歌(せみうた)の翁(をきな)[蝉丸(せみまる)生没年未詳。百人一首の「これやこの」の歌で知られるが、無名という琵琶の名器を持ち、巧みに奏したという]が跡(あと)をとぶらひ、田上河(たなかみがは)をわたりて、猿丸大夫(さるまろまうちぎみ)[生没年未詳。三十六歌仙の一人にして、百人一首に「おくやまに」の歌を残す]が墓(はか)をたづぬ。

 帰(かへ)るさには、折(をり)につけつゝ、桜(さくら)を狩(か)り、紅葉(もみぢ)をもとめ、わらびを折(を)り、木の実(このみ)を拾(ひろ)ひて、かつは仏(ほとけ)にたてまつり、かつは家づと[家に持って帰る土産のこと]ゝす。

住まいの風情

 もし、夜(よ)しづかなれば、窓の月に故人(こじん)をしのび、猿のこゑに、袖(そで)をうるほす。くさむらの蛍(ほたる)は、遠(とほ)く槙(まき)[宇治川と巨椋池の間にあった「槙島(まきのしま)」という洲(す)のこと]のかゞり火(び)にまがひ[見分けが付かず、見間違える]、あかつきの雨は、おのづから木の葉(このは)吹く嵐(あらし)に似たり。

 山鳥(やまどり)の、ほろ[諸本「ほろ/\と」]と鳴くをきゝても、父か母かとうたがひ、峰(みね)のかせぎ[「かせぎ」は鹿の古名]の、自分に近く馴(な)れたるにつけても、世に遠(とほ)ざかるほどを知る。あるいはまた、埋み火(うづみび)[炭火を灰の中に埋めて弱らせておくもの。種火として、また余熱として保たれる]をかきをこして、老(おい)の寝ざめの友(とも)とす。

 おそろしき山ならねば、ふくろふの声を、あはれむにつけても、山中(やまなか)の景気(けいき)、折(をり)につけて尽くることなし。いはむや、深く思ひ、深く知らむ人のためには、これにしも限(かぎ)るべからず。

我がためにのみ

[朗読4]
 おほかた、このところに住(す)みはじめし時[方丈記執筆(1212年)の五年前]は、あからさま[ちょっとの間。しばらくの間]と思ひしかども、今すでに五年(いつとせ)を経(へ)たり。仮(かり)の庵(いほり)も、やゝふるさとゝなりて、軒(のき)に朽ち葉(くちば)ふかく、土居(つちゐ)[ここでは、柱の下の土台の所]に苔(こけ)むせり。

 おのづから、ことの便(たよ)りに都(みやこ)この様子を聞けば、この山に籠(こ)もり居(ゐ)てのち、やむごとなき人[並大抵でない人、すなわち高貴なる人、天皇や公卿を指す]の隠れたまへるも、あまた聞こゆ。まして、その数(かず)ならぬたぐひ、たとえ数え尽(つ)くしてこれを知るべからず。たび/\炎上(えんしやう)にほろびたる家、またいくそばくぞ。

 たゞ、仮(かり)の庵(いほり)のみ、のどけくして恐(おそ)れなし。ほど狭(せば)しといへども、夜(よる)臥(ふ)す床(ゆか)あり。昼(ひる)ゐる座(ざ)あり。一身(いつしん)を宿(やど)すに不足(ふそく)なし。

 かむな[「寄居虫」(かうな、かみな、かむな)ヤドカリのこと]は、ちひさき貝(かひ)をこのむ。これ、事(こと)[下参照]知れるによりてなり。みさご[タカ目タカ科の鳥で海浜に住み魚を捕らえる]は、荒磯(あらいそ)[荒波の寄せるような磯]にゐる。すなはち、人を恐(おそ)るるゝがゆゑなり。われまた、かくのごとし。事を知り、世を知れゝば、願(ねが)はず、走(わし)らず。たゝ静(しづ)かなるを望(のぞ)みとし、憂(うれ)へなきを、楽(たの)しみとす。

[参照:この「事」は直接的には直前に提示した「この事」にあたる。つまり狭くても眠るだけの床があり、起きているだけの場所のある仮の庵こそが、のどかであり恐れもなく、不足もないという事実を指す。以後次の「必ずしも事のためにせず」までの事は、すべて同じものを指ししめす。ではなぜ「此の事」と記さないかと言えば、同時により広義の意味、普遍的な意味を込めたためと思われる。上の文、「事を知り、世を知れゝば」とある「世」が、直接的には「おのづからことの便りに都を聞けば」以後の、人々の多くなくなったみやこ、度々の炎上に滅んだ家々]を指すと同時に、広義にはここまで述べてきた世の中の有り様を、明確に内包しているのと同様である。これは同時に諸本で、この部分の「事」を「身」に改変しているのは、咀嚼不足による改悪である可能性を示唆していると言えるだろう。]

 すべて、世の人の、すみかを作るならひ、必ずしも事(こと)のためにせず。あるいは、妻子(さいし)・眷属(けんぞく)[一族、親類]のためにつくり、あるいは、親昵(しんぢつ)[親しい人]・朋友(ぼういう)のためにつくる。あるいは主君(しゆくん)・師匠(しゝやう)、をよび財宝(ざいほう)・牛馬(ぎうば)のためにさへ、これをつくる。

 われ今、身のために結(むす)べり。人のために作(つく)らず。故(ゆゑ)いかんとなれば、今の世のならひ[今の世の常として]、この身のありさま、ともなふべき人もなく、たのむべき奴(やつこ)もなし。たとひ、広(ひろ)く作れりとも、その屋敷に誰(たれ)を宿(やど)し、誰(たれ)をか据(す)ゑん。

なぜならば

 それ、人の友(とも)とあるものは、富(と)めるを尊(たふと)み、ねむごろ[親切である、丁寧である、むつまじい]なるを先(さき)とす。かならずしも、情(なさけ)あると、素直(すなほ)なるとをば愛せず。ただ、絲竹(しちく)[糸の楽器と筒の楽器の意味で、管弦、音楽の意味]・花月(くわげつ)[自然の象徴として]を、友(とも)とせんにはしかじ[「~に(は)しかず」で「~に越したことはない」「~に比べて及ばない」]。人の奴(やつこ)[人に使われる身分の低い者]たる者は、賞罰(しやうばつ)はなはだしく、恩顧(おんこ)[ひきたて、恵み]あつきを先(さき)とす。さらに[「更に+打ち消し」で、「決して、まったく」といった意味]、はぐゝみ[いつくしみ育てる]あはれむ[愛でる]と、やすく[安らかである]静(しづ)かなるとをば願(ねが)はず。

 たゞわが身を、奴婢(ぬび)とするにはしかず。いかゞ奴婢とするとならば、もし、なすべき事あれば、すなはち、おのが身をつかふ。たゆからずしもあらねど[「たゆし」は「疲れてだるい」の意味]、人をしたがへ、人をかへりみる[ここは「心に掛ける、世話をする」の意味]よりやすし。

 もし、歩(あり)くべき事あれば、みづからあゆむ。苦(くる)しといへども、馬鞍(うまくら)・牛車(うしくるま)と、心を悩(なや)ますにはしかず。今、一身(いつしん)を分かちて、ふたつの用をなす。手の奴(やつこ)、足の乗物(のりもの)、よくわが心にかなへり。

 身心(しんじん)[=心身(しんしん)、身体と心。の苦(くる)しみを知れゝば、苦しむ時はやすめつ、まめなればつかふ。つかふとても、たび/\過(す)ぐさず。物憂(ものう)しとても、心をうごかす事なし。いかにいはむや、常(つね)に歩(あり)き、常(つね)にはたらくは、養性(やうじやう)なるべし。なんぞいたづらに、やすみをらん。人をなやます、罪業(ざいごふ)なり。いかゞ、他のちからを借(か)るべき。いいや、借りるべきではないよ。(反語)

 衣食(いしよく)のたぐひ、またおなじ。藤(ふぢ)の衣(ころも)、麻(あさ)のふすま、得(う)るにしたがひて、肌(はだへ)を隠(かく)し、野辺(のべ)のおはぎ[嫁菜(よめな)の古称]、峰(みね)の木の実(このみ)、わづかに命(いのち)を継(つ)ぐばかりなり。

 人に交(まじ)はらざれば、すがたを恥(は)づる悔(くい)もなし。糧(かて)乏(とも)しければ、おろそかなる報(むくい)[粗末な、質素な果報(の結果としての今の生活)]をあまくす[甘んじる、享受する]。すべて、かやうのたのしみ、富める人に対(たい)して、言ふにはあらず。ただ、わが身ひとつにとりて、むかしと今とをなぞらふる[比べる、くらいで考えた方が分かりやすい]ばかりなり。

[「一条兼良本」などには次の文が続けられている、ただしこれにより前後の文脈が途切れるのでいささか不自然なり]
 おほかた、世を逃(のが)れ、身を捨(す)てしより、うらみもなく、恐(おそ)れもなし。命は天運(てんうん)にまかせて、惜(お)しまず、いとはず。身は浮雲(うきぐも/ふうん)になずらへて、頼まず、まだしとせず。一期(いちご)のたのしみは、うたゝねの枕(まくら)のうへにきはまり、生涯(しやうがい)の望(のぞ)みは、折々(をり/\)の美景(びけい)にのこれり。

つまるところ

 それ、三界(さんがい)[下補註]はただ心ひとつなり。心、もしやすからずは、象馬(ざうめ)[象と馬、インドで貴重な家畜だったので、転じて大切な宝物の意]・七珍(しつちん)もよしなく、宮殿(くうでん)・楼閣(ろうかく)も望(のぞ)みなし。今、さびしきすまひ、一間(ひとま)の庵(いほり)、みづからこれを愛(あい)す。

[補註:三界唯一心。欲に捕らわれた欲界(よくかい)、まだ物質世界から脱却しない色界(しきかい)・精神作用に生きる無色界(むしきかい)という、人の生き死にするすべての世界は、すべて心よりもたらされるの意]

 おのづから都(みやこ)に出(い)でゝ、身の乞[次、ツツミガマエの中に「人」を記して、その左に「|」その下に「―」を記して囲った漢字一文字。合わせて「こつがい」と読む。乞食の意味]となれる事を恥(は)づといへども、帰(かへ)りてこゝに居(を)る時は、他の人々の俗塵(ぞくぢん)に馳(は)する[世間の煩わしいことどもに走り回る]事をあはれむ。

 もし人、このいへる事をうたがはゞ、魚(いを)と鳥(とり)とのありさまを見よ。魚は水にあかず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林をねがふ。鳥にあらざれば、その心を知らず。閑居(かんきよ)の気味(きび)[おもむき、様子]もまた同じ。住(す)まずして、誰(たれ)か悟(さと)らむ。

 そもそも、一期(いちご)[一生、一生涯]の月かげ傾(かたぶ)きて、余算(よさん)[余命、残りの寿命]の山の端(は)に近(ちか)し。たちまちに、三途(さんづ)の闇(やみ)に向(むか)はんとす。何(なに)の業(わざ)をか、託(かこ)たむ[自らの境遇を嘆く、ぐちをこぼす]とする。

 仏(ほとけ)の教(をし)へたまふおもむき[趣意、意向]は、事に触(ふ)れて、執心(しふしん)[執着する心]なかれとなり。今、草庵(そうあん)を愛するも、閑寂(かんせき)に着(ぢやく)するも、仏の教えの障(さは)りなるべし。いかゞ、要(えう)なきたのしみを述(の)べて、あたら[惜しむべき、せっかくの]時を過(す)ぐさむ。いいや、過ごすべきでないよ。(反語)

 しづかなる暁(あかつき)、このことわりを思(おも)ひつゞけて、みづから心に問(と)ひていはく。世をのがれて、山林(さんりん)にまじはるは、こゝろを修(をさ)めて、仏の道を行(おこな)はむとなり。しかるを汝(なんぢ)、すがたは聖人(ひじり)にて、こゝろは濁(にご)りに染(し)めり。住(す)みかはすなはち、浄名居士(じやうみやうこじ)[維摩居士(ゆいまこじ)インドの富豪であり、釈迦の在家の弟子。一丈四方を住まいとしたという]の跡(あと)をけがせり[彼の名誉を穢すみたいにして真似ている]といへども、たもつところは、わづかに周利槃特(しゆりはんどく)[釈迦の弟子、十六羅漢の一人。極めて愚鈍であったが、ついに悟りに達した]がおこなひにだに[「だに」=「さえ」]及(およ)ばず。もしこれ、貧賤(ひんせん)の報(むくい)の、みづから悩(なや)ますか[前世の報いによって卑しい業を背負ったのか]。はたまた、妄心(まうしん)[俗的な迷いの心]のいたりて狂(きやう)せるか。

 そのとき、心(こゝろ)、さらに答(こた)ふる事なし。ただ、かたはらに、舌根(ぜつこん)[六根の一つ、舌の力]をやとひて、不請(ふしやう)[真に心から願ってるわけでもない、あるいは不承知であるという意味]の阿弥陀仏(あみだぶつ)、両三遍(りやうさんべん)申(まう)してやみぬ。

[(現代語訳)
 その時、こころは、さらに答えはしなかった。ただ答えない心のかたわらに、こころもとない舌のちからを借りて、口先の「阿弥陀仏」を三回ほど唱えて終わりにしようか。]

[この部分、悟れぬものの嘆きなどではまるでない。精神としてはむしろ、聖にもあらず、俗にもあらず、身をこうもりの、隠棲の人としての自覚、つまり草庵の生活を堪能することも、そこに音楽を鳴らし、和歌を吟ずることも、決して辞める事はない、これが自分のスタイルであると、静かに明言した、実は力強い決意表明の部分であり、これを悲観的や、皮相的にのみ聞くことは、はなはだしい誤りかと思われる。もとより感想に過ぎず。]

 時に建暦(けんりやく)の二年(ふたとせ)、弥生(やよひ)のつごもり[1212年、陰暦三月末日]頃(ごろ)、桑門(さうもん)の蓮胤(れんいん)[「桑門」は出家して仏の修業の道にあるもの。「蓮胤」は鴨長明の法名。つまりは「僧の蓮胤」と名乗ったまでのこと]、外山(とやま)[日野の外山]の庵(いほり)にして、これを記(しる)す。

             方丈記

      右一巻鴨長明自筆也
      従西南院相傳之
       寛元二年二月日
            親快證之

2012/7/4~
2012/8/11

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