短歌の作り方 番外編「句切れ」

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万葉集あるいは短歌の作り方 番外編「句切れ」

 学校の授業では寝まくっていたわたしにしても、植え付けられた教育による洗脳は圧倒的で、短歌には句点も読点も存在しなければ、仮にそれを設けるとしても、誰もがおなじ言語感覚で、おなじところに句点や読点を置くわけもなく、またそのように区切らないことが、詠み手の意図だったのかも知れないという、きわめて当たり前のこと。それから、短歌は句ごとの切れが存在していて、なおかつ字数が定められていることを利用すれば、句点でない所に最大の切れを設けることは、散文よりも容易であるという、これまたきわめて当たり前のこと。それをどうしても、悟りきることが出来ませんでした。

 一度当たり前だと思ってしまったことを、改めることが、既定値が粘着物のようにこびりつく、大人になるほどに、壮年になるほどに、老年になるほどに難しくなることの悲しみと、貴重な時間を潰した馬鹿馬鹿しさに、「万葉集あるいは短歌の作り方」の成立過程をちょっと絡めて、「句切れ」について、一品増やしてみるのも悪くありません。

 どうか皆さまも、教科書にさえ金銭贈与が行なわれるような、あなたの成長を心配するよりも、遥かにビジネスが大切であるような、(さすがは自称経済大国、)浅はかな教育など信用ならず、疑問に思ったことは、自分の頭で、考え抜くしかないのだということを、こころに留めてくださったらと思います。

 もしあなたが、すぐまた誰かに尋ねたとしても、帰ってくるのは既存の価値を自らの考えと思い込んだ、ステレオタイプの意見ばかりかも知れませんから。そうして、精一杯考える代わりに、すぐまた誰かに尋ねる精神そのものが、既存の価値を自らの考えと思い込んだ、ステレオタイプの人間を作るための、もっとも簡単な方法であることを、覚えていてくださったらと思います。

 そして、句切れに関しては、例えば句点「。」があるからそこで切れるというのは、クイズや頓知のような遊技でしか無く、詩の構造にとっての、もっとも大きな分割点とは、重なる場合もあるが、重ならない場合もあると言うこと。「句点はどこに打てますか」と言うならまだしも、「句切れはどこにありますか」という質問で、「句点を発見させる作業」は、詩の読解にとってプラスにはならず、実際の詩の構造を解き明かせなくする、弊害しかないということを、ここに残し置こうかと思います。
 ただそれだけの、番外編です。

句切れとは

切れの本質

 切れとは、文章の切れ目のことです。
  切れ目とは、一つの意味のまとまりと、別の一つの意味のまとまりの、境界線のことで、文章が長くなれば、自然と発生せざるを得ません。現に今記した説明文からして、「句読点(くとうてん)」

句点(くてん) ⇒[。]
読点(とうてん)⇒[、]

が沢山使用されていたでしょう。これがすべて文章の切れ目に相当します。この説明文の冒頭を見てください。はじめの「切れとは」という表現は、「切れを定義します」というひとつの意味のまとまりです。次の「文章の切れ目のことです」は、先ほどの意味のまとまりを受けて、「定義された」内容を示す、ひとつのまとまりです。それぞれの中心となる意義が異なるものですから、そこに切れ目が生じるのは、わたしたちが言葉をある程度のブロックごとに、まとまった意味として捉えているからにすぎません。ですから、

「桜の花は咲きましたが寒い日が続きます」

と語られると、前半の「桜の花」について語った部分と、後半の「寒い日」について語った部分に、どうしても、勝手に切れ目が生じてしまう。切れの根本的な意味は、意識して文脈を分かつことにあるのではなく、ある程度長い文脈を語ると、意味のブロックごとの把握から、自然に切れ目が生じてしまうと言う、ただそれだけの事なのです。しかも程度の問題に過ぎませんから、先ほどの文章も、大きくは二つに切れますが、同時に、

「桜の花は、咲きましたが」
「寒い日が、続きます」

 それぞれのブロックが主語と述語に意味を分かちますから、自然と弱い切れが生じてしまう。これは嫌でも生じてしまうのです。ただ「桜の花」「寒い日」の文脈を分かつほど強いものでないために、今のようにあえて読点[、]を加えなくても、不自然ではありません。それに対して、
     「桜の花は咲きましたが寒い日が続きます」
については、ある程度の切れが生じているヶ所と、文章の終わりには、句読点を付けるのが、私たちの文章生活にルール、というよりはマナーとして存在しているものですから、
     「桜の花は咲きましたが、寒い日が続きます。」
と表現された方が、自然に感じる。
 ただそれだけのことなのです。

句切れの定義

 文章でも会話でも、意味上の区切りから、句読点や息継ぎが発生します。それをここでは「切れ」と呼ぶことにします。「そう思って、帰ってきました」のように、ちょっとした文脈の分け目に過ぎないものから、「~しました。それから~。」のように、二つの文に分かれているものまで、切れの程度は様々です。

 また短歌の特性上、[五七五七七]のそれぞれの句の境目にも、「切れ」が生じます。私たちは通常、形式上の「切れ」に、文章の「切れ」を合せて、様式的な短歌にしていますが、わざと文章の「切れ」をずらして、形式から逸れたような印象を持たせることも、しばしば行われます。

「また雨が 降る古傷は 銃痕の」

の上句の「雨が降る」のような効果です。これは、「句またがり」と呼ばれるものです。また二句は「降る。古傷は」と句の途中で文が終止していますが、このことを「句割れ(くわれ)」と表現します。

 しかし、「句またがり」であっても、句ごとの切れは保たれるのが普通で、様式のもたらす定められた拍の刻みと、言葉の拍の刻みのぶれによって、独特の効果をもたらすのが狙いです。ですから、そのような効果もなくただ、
     「これがあな たのくれたおく りものです」
とやっても、聞き手には、
     「これが、あなたのくれた、おくりものです」
と切れるとしか感じられませんから、
 「句またがり」にはなりません。
   様式から外れて、短歌でなくなったというだけの話です。
    この事を理解していないと、
   独りよがりの、ただの散文をひけらかして、
  短歌であるように吹聴(ふいちょう)することにもなりかねませんから、
   覚えておくと良いでしょう。

 つまり短歌は、常に定められた「弱い五つの切れ」を、拍子の代わりに刻んでいて、その拍子に合せて、言葉の切れ目を噛み合わせて、あるいは時にはぐらかせて、読まれていると見ることが可能です。

 これを応用すると、「句またがり」「句割れ」「字余り」「字足らず」を利用して、様式が崩れそうな、辛うじて持ちこたえそうなところを、ぎりぎり短歌に留まるような、ユニークな作品も生み出せますが、今は皆さまは、そのようなものを目指さずに、様式のうちに、短歌を完成させることを、目指すとよいと思います。概して、その手の作品は、本人ばかりはご満悦ですが、客観的に判断すると、短歌になっていないだけのものが多いです。つまりただの短詩に過ぎないものです。

 この文章と短歌の切れのうち、特に強いものを、短歌の「句切れ(くぎれ)」と呼びます。初心者向けには、句点すなわち「。」が付けられるところを「区切れ」と紹介することもあります。それは文章が二つに分かれている場合、間違いなく切れを感じるからに過ぎません。

表現(言葉)による句切れ

 たとえば、

青空に 鳥は飛びたち 雲に入り
  鳴き声だけが 響き渡るよ

という短歌は、最後にしか句点、
 すなわち「。」は付きませんが、

青空に 鳥は飛びたつ 雲に入り
  鳴き声だけが 響き渡るよ」

なら、ひと文字違うだけですが、二句目の後ろにも句点「。」が入りますから、二句で切れると云うことになります。それなら何故、ひと文字違うだけで、内容もほとんど変わらないのに、急に「句切れ」が発生するのかと言うと、それは私たちが、文章の途切れを、話の区切りとして、認識してしまうからに過ぎません。

 この種の句切れで、短歌に特徴的なのは、
  文脈を倒置したときに、生まれてくる句切れです。
   たとえば先ほどの短歌を入れ替えて、

鳴き声だけ
  響き渡るよ 青空に
    小鳥は飛びたち 雲に入って

もともと「響き渡るよ」で文章が終わりますから、その後には切れが生じます。それで二句で切れる。すなわち「二句切れ」と言います。一方で最後の「雲に入って」というのは、通常なら文章を終わらせるものではありませんが、詩型が終了してしまいましたから、断絶して途切れます。

 すると、私たちの文脈を把握する際の傾向から、「雲に入って」が冒頭に回帰するようには感じられず、むしろ別のことを続けようとしたのに、断絶してしまった印象となって残される。すると何を伝えようとしたのか、推し量るような余韻が残され、それが詩情に大きく作用するために、このような倒置法はしばしば利用され、定番の修辞法になっています。

 この結句に見られたように、定型詩がそれ自身を閉ざす切れは、絶対的なものです。たとえどんな表現の半ばでも、そこで短歌は終了します。ただそれが、文の途中で閉ざされているような場合、うまく仕込めば先ほどのように、余韻を生むような効果を得ることも出来ますし、失敗すれば、よほど下手な歌に思われることになります。

 この詩型自体の切れは、当然のことなので、あえて「結句切れ」などと呼んだりはしません。それで句点が最後にしか付かないような表現は「句切れなし」、逆に、初句の後に途切れれば「初句切れ」、二句の後に途切れれば「二句切れ」のように表現します。

 ところが、句ごとの弱い「切れ」と、特に切れている印象のある強い「句切れ」は、「強弱」の二種類あるのではなく、段階的な切れの強度の特に高いものを、「句切れ」と呼んでいるに過ぎません。二つの文章になるものは、そのもっとも明確なもので、たとえば「山が眠っていた。山が眠っていたよ。」と同じ内容を繰り返しただけでも、明確に二つに分かつくらいの強制力がありますが、それより弱い状態でも、前後の強く切れているような感覚、すなわち「句切れ」は起ります。

内容による句切れ

 たとえば、文章が連続的でも、
   [昨日の夢の話]⇒[今の心境]
   [情景描写]⇒[心理描写]
など、前後の内容が大きく異なる場合には、強めの句切れが生じる可能性は高くなります。あるいは[AはBであり][CはDであった]のように、二つの類似の文脈を対置する場合にも、その前後に強めの句切れが生じる可能性は高くなります。けれどもこの、内容のブロックというのは、表現方法によって、いくらでも[句切れ]を操ることが可能で、たとえば、

青空は 雲を浮かべる
  海原に 船はたゆたう
    浜の眺めよ

とすれば、二句と四句で句切れが発生して、
 短歌は三つのブロックに分かれますが、
  もしこれを、

青空は 雲を浮かべて
  海原に たゆたう船を
    眺める浜辺

とすると、先ほどの句切れよりは、はるかに一つの文章の印象がまさってくる。句点「。」で区切るのではなく、読点「、」で区切るくらいの印象です。ただ内容として、[空の事]⇒[海の事]⇒[自らの事]という変遷があるため、先ほどの[句切れ]はぼやかされてはいるけれど、存在はしていますが、特に四句目などは、[四句切れ]とは呼べないくらい、結句と文脈を共にしてしまっています。

 あるいはまた、先に紹介しました、
     「桜の花は咲きましたが寒い日が続きます」
という文章ですが、なるほど、
     「桜の花は咲きました寒い日が続きます」
とあれば、「桜の花は咲きました」で文が閉ざされたことが明白ですから、従ってそこで句切れが発生することが分かります。しかし、元の文章、
     「桜の花は咲きましたが寒い日が続きます」
ですと、文自体は連続的で、句切れがあるように思われません。しかし、文脈がある程度の長さになると、私たちは本質的に文を内容ごとのブロックで分かつ傾向にあります。従って、この場合もやはり、「桜の花は咲きましたが」の所で、かなり強い句切れが発生します。では次の場合はどうでしょうか。

「桜の花は咲きましたが、続きます。寒い日が……」

 後半の文脈が倒置され、句読点と言うことでしたら、明白に「続きます」で切れます。ですから、この文の一番切れの強いところ、つまり句切れは「続きます」の後ろにある。というのが、学校教育で無理強いされるところの、いわゆる句切れの定義には他なりません。

 しかし、あなたがたは、
  本当にそのように感じるでしょうか。
   普通の言語感覚であったら、むしろ、
    「続きます寒い日が」
   という言葉の入れ替えは、一つの内容の、
  局所的な入れ替えに過ぎなくて、
 文脈としては、句点があろうと無かろうと、
  連続した一つの部分のようには聞こえないでしょうか。
   つまり、この文章は、

「桜の花は咲きましたが続きます」+「寒い日が」

とは捉えられません。
 局所的な、表現による文の切れよりも、はるかに大きな枠として、

「桜の花は咲きましたが」+「続きます寒い日が」

のように、頭のなかで内容同士の文脈として把握されますから、もっとも大きな断層は、「続きます。」と句点を打たれたところには存在せず、「咲きましたが」と後に存在しているのです。つまり、自然に詠んでいるとむしろ、

桜の花は咲きましたが……

と一端途切れて、

続きます。寒い日が。

と語り直されたように、
 感じるのではないでしょうか。

 さらに、先ほどは便宜上、句読点を付けるように説明しましたが、実際の短歌には句読点は存在しませんから、したがって句読点のもたらす、文の切れは存在しません。存在しないと言うことは、人によって句読点を打つところに、解釈の幅が出るのは当然です。

 なおさら、生徒たちは、自らの言語感覚と、自分で考える代わりに教科書の教えをモットーとするような、いつわりの教師どもの言葉に挟まれて、心の底から、勉強というものが嫌になるか、あるいは点取り虫の愉快さで、ハウス栽培のトマトに成長するか、どちらかにならなければ、生きて行かれなくなってしまいます。

 そもそも短歌というものは、俳句のように、強い句切れを求めるのとは反対に、なだらかな調子を求める傾向に勝ります。さらには、言葉をうまく利用して、内容の切れと、言葉の切れをはぐらかしたり、分かれそうで分かれない表現を目指したり、つまりは教科書通りの切れている感じを利用して、そこが最大の切れ目ではないような効果を、目指したりするものです。

 つまりは短歌の初心者に、句切れを探させるようなことは、まったく無意味なばかりか、短歌をつまらないものに貶め、ただ興味を無くさせるための、最終兵器で攻撃を仕掛けるようなもので、後に残された不毛砂漠には、二度と短歌への好奇心は、宿らないものと確信します。いったい何のために、短歌を嫌いにさせるような教育を、丁寧に施さなければならないのでしょうか。あるいは伝統的文芸などというものは、趣味的な人間を生んでしまうものですから、経済に差し障りがあるので、なるべく早く、ステレオタイプのサラリーマンを養成する為でしょうか。教えるのであれば、詩の構造のすべてを紹介して、その中に句切れを持ち込まなければ、そもそも教育にすらなっていないのですけれども……

まとめ

  結論をまとめます。
 短歌にはそもそも、句読点など存在しません。その代わり句切れには、表現から来る区切れと、内容から来る句切れが存在します。それらは詠み手の意図によって、複雑に絡み合い、もっとも明白なものは、句点を付けて判断すれば、短歌のもっとも大きな切れ目、すなわち区切れとして提示出来ますが、そのように簡単に定義でいないものも多く、句読点を付けて、句切れを判断するのは、初歩的な参考にはなりますが、最終的には、個々の短歌の全体構造を明らかにして、その中から見つけ出すしか、道はないということになります。

 またそのような構造を明らかにするためでなければ、そもそも句切れを見つけ出す意味そのものが存在しません。あることを明らかにするための足がかりに過ぎないことを、目的と差し違えるもの。すなわちこれが、誤った教育です。

 次の章では、実際の短歌を眺めながら、
   それを解き明かして行きたいと思います。

つかの間コラム 万葉集の句切れ

 特に『万葉集』の場合は、一説には片言問答や、旋頭歌から由来するのではという意見もありますが、いずれにせよ二句目か、三句目で切れを生じるのが普通です。ただ学校などで『万葉集』では二句切れが優位で、次第に『古今和歌集』の三句切れに移っていったなどと教えるのは止めて欲しいと思います。これだと何も知らない相手に『万葉集』時代の作詩は「二句切れ」を意識して行っていたような印象しか抱かせません。

 実際に『万葉集』を眺めれば分かると思いますが、最初期から「二句切れ」と「三句切れ」の両方に価値を認めて、状況に応じて詠み分けているのが分かると思います。共に表現方法として認められていたものが、後の世に一方に傾いたのであって、「二句切れ」という価値観が、「三句切れ」という価値観に移り変ったのではまったくありません。
 以上、最短のコラムでした。

句切れの実践

内容と表現

「ふと見上げた時、
   流れた星がきれいだねと、
     あなたと歩いた。初めて一緒に。」

という文章があります。
  短歌ではありませんが、
 これをこのまま利用して、
  短歌の代理品として流用します。

ふと見上げた時 流れた星が きれいだねと
   あなたと歩いた 初めて一緒に

 この時、先ほどの散文とはすでに違っています。
  もっとも根本的で、もっとも単純なことはなんでしょう、
 そうですね、先ほどの散文は、執筆者の意思表明として句読点が付けられていますから、句切れの意図は明らかですが、当然ながら短歌では、句読点は消失しています。句読点が消失しているということは、もはや執筆者の意図を知らない第三者が詠んだときに、執筆者の意図したように、言葉が切れるかどうかは、保証されないということになります。例えばある人は、これを、

「ふと見上げたとき流れた星が、
   『きれいだね』と、あなたと歩いた。
      初めて一緒に……」

と解釈するかも知れませんし、

「ふと見上げた時。
   流れた星が『きれいだね』と……
     あなたと歩いた、初めて一緒に。

と解釈するかも知れません。なるほど、初句は「時」で体言止めにされていますから、切れても差し支えありませんし、四句は明確に文が終止しますが、同時に「初めて一緒にあなたと歩いた」でひとつの内容のまとまりには過ぎませんから、「歩いた」に句点「。」が来るとは限りません。むしろ、

ふと見上げた時 流れた星が きれいだねと
   あなたと歩いた 初めて一緒に

を素直に読んだとき、内容から、「見上げた時」「流れ星がきれいだ」「君と初めて歩いた」という三つの文脈に分割されますから、一番はじめの散文のような切れ方ではなく、意味の移り変る三句目に、強い切れを感じる人が多いのではないでしょうか。

 なぜなら、冒頭の体言止めは、確かに、全体の内容に対しては、なかば独立的ではありますが、「その時」と言うのと同じことで、これから語りかける内容の、時期を宣言したに過ぎません。次の部分と分かれているというよりは、かえって次の部分へと導いている表現にも感じられます。

 それで、上の句全体を眺めた時、確かに「見上げた時。流れた星は、きれいだね。」とあえて切ることも可能ですが、むしろ、時期の設定から初めて、一つの内容を語っている、「きれいだねと」までが、ひとつの文脈、つまり意味のまとまりである様相が強くなります。

 では逆に「あなたと歩いた」なら、それだけで完了した文であるから、明確に切れるでしょうか。むしろ読んでいると、上句の状況に対して、下の句の状況が詠まれるという、大きな枠が先に立ってしまい、つまりは下の句の状況説明を倒置させた結果、小さな切れが生じたようには、感じないでしょうか。つまり素直に読んでいると、

ふと見上げた時 流れた星が きれいだねと
   初めて一緒に あなたと歩いた

という内容の、下句の文の入れ替えに過ぎないという意識の方が、優位に立ってしまうのは、文章の内容構造の変遷が、
   [A] [時期の設定]⇒[その時期の内容]
   [B] [A]の状況下での行為
のように大枠としてあって、私たちはその大枠の方を優先的に、捉えて文脈の句切れを判断しているからに他なりません。

 以上のことから、詩として句読点を外された瞬間から、短歌は執筆者の意図を離れ、自由な切れの解釈がなされるということ。ただしそれにもある程度の法則はあって、文脈の意義のまとまり同士の切れを元に、表現の切れが加えられて、ある程度多くの人が切れ目であると認識する、「句切れ」の場所が定められること。以上が分かるかと思います。

 ただし、むしろ、
   [A] [時期の設定]⇒[その時期の状況A]
   [B] [時期の設定]⇒[その時期の状況B]
のようにも、解釈出来ますから、一定数先の解釈には納得できず、冒頭で切れているように感じる人もある筈です。つまり、

ふと見上げた時。流れた星がきれいだねと言って、
ふと見上げた時。あなたと歩いた、初めて一緒に。

のような、並置の方が強く感じられて、

ふと見上げた時。
  流れた星がきれいだねと(言って)、
 あなたと歩いた、はじめて一緒に。

 返って「初句切れ」が、この短歌のもっとも強く切れが表われているように感じる人も、かならず出て来ると思います。また、このような、解釈のつかないところが、表現上の魅力となっている短歌も多く、つまりは詠み手の狙いも、そこにあったりします。なるほど、この短歌は下手なものですが、しばしば秀歌と呼ばれるもので、構造のあり方について、専門家でさえ意見が食い違うのは、このような解釈の幅によるものに由来しています。

 ちょっと面白い話ですが、このような場合、どちらか一方が正しく、どちらか一方が誤りであると、判断することが誤りです。ということは、「句切れはどこにありますか」という問いで、絶対的正解を導き出すことは不可能ですから、問いそのものが誤りであるか、問いかけ方に、誤りを含むということになります。そこで、誤りを含むところから、絶対的正解を導き出させようとする教師がいたとします。果たしてその教師は、生徒にものを教えるべき人間なのでしょうか。それとも違うのでしょうか。という疑問なのですが、皆さまはどのように判断されるでしょうか。

 つまり何が言いたいかというと、古語であろうと、現代文であろうと、特定の言葉が使われているからとか、体言止めがされているからなどという、表現上の出来事だけを持って、句切れを解釈することは不可能であり、句点で文が切れているからと言って、そこが詩の最大の句切れになるとも限りません。句切れは一つ一つの個別の短歌の、内容と表現から導き出すしか無いということに他なりません。

具体例 その一

 この事が、分かっていないと、
   きわめておかしな事になります。
  たとえばこれは俳句ですが、

柿食えば
  鐘が鳴るなり 法隆寺
          正岡子規

 通常「なり」があるから、二句切れであると説明されます。「法隆寺に鐘が鳴るなり」の二句と下句を倒置したため、そこに句点「。」が置かれるからです。でもはたして本当に、
     「柿を食うと、鐘が鳴ったなあ。法隆寺。」
とあなたは聞こえるでしょうか。なるほど、これが種田山頭火(たねださんとうか)の句集にでもあって、
     「鐘が鳴るなり法隆寺」
と記されていれば、「法隆寺」の前に、強い切れを生じることは、疑いがありません。でもあるいは、皆さまは、むしろ正岡子規の句を詠んで、

「柿を食うと……
    鐘が鳴ったなあ。法隆寺に。」

のようには感じないでしょうか。それは、初句と二句以下の内容に、意味上の断絶が存在するからに他なりません。つまり「柿食えば」というのは、近景どころか、自己の場景であり、記されているのは自らの行為、すなわち必然に他なりません。そして感覚としては、味覚に訴えています。それに対して二句目以下は、いきなりの遠景で、自らと関わらない、しかも偶然の出来事です。そして感覚としては、聴覚に訴えています。

 通常の文章でも、今までこちら側のことを言っていたのに、突然あちら側のことを語ると、状況の変化自体から、文脈に意味上の断層を生じ、文の途中でも、切れる感じが強く表わされます。まして、わずか五文字の後に、ここまで反対のことを、いきなり提示されると、その様々な対比のすべてを感じ取れなくても、いくつかを無意識のうちに感じ取ってしまい、文脈が連続的に捉えられなくなるのです。それで、聞いていると、

「柿を食うと――
    鐘が鳴ったなあ。法隆寺に。」

 記号はなんでも良いですが、時間的、空間的、心理的、なんだかは分からない、ともかく上句と中句以下がひとつにまとまっていない印象が強く感じられる。それと同時に、中句と下句は、明確に「法隆寺に鐘が鳴ったなあ」の倒置で、ひとつの意義を表明していることが悟れますから、なおさら、上句と、二句以下が分離して感じられる。

  つまりこの俳句の意義は、そこに存在しています。
 正岡子規は、俳句の切れ、と一般に認識される条件を逆手にとって、わざと内容の区切れと、表現上の句切れに、矛盾を生じさせて、なんだか分からない、何度聞いても解釈しきれないような、不思議な感じを、この句に折り込むことに成功している。それがこの句の、魅力の中心ともなっているのです。

 それを構造を無視して、秋の情景の極みだとか、時代錯誤の精神論みたいな、大和魂めいた説明など加えても、それは浅はかな主観に過ぎないもので、この俳句の魅力を解き明かしたことには、まるでなっていません。そのような主観と思考の区別も付かないような者どもは、相手が迷惑しますから、ずけずけと分け入って、自らの御説を吹聴(ふいちょう)するのは止めて欲しい。というのが、交通整理を志す、わたしのしずかな願いには違いありません。

  脱線しました。
 それで、この俳句で一番切れているのはどこかと言えば、発せられた言葉自体に、認識の違いから来る断層がありますから、それによって、言葉の発せられる同時性よりも、異時性が強められ、大枠の内容を分割してしまっている、「初句切れ」であると言うことが可能です。

 ……言うことは可能ですが、
  これもまた、確定することは出来ません。
 なぜなら、内容の切れにより断層を感じるか、閉じられた言葉の切れにこそ、より強い区切りを感じるかは、その人の言語感覚によって、また言語能力によって、解釈に幅が出来るからです。ですから、これだけの説明をしても、「鐘がなるなり」で切れるとしか思えない人も、多いかも知れません。言葉の切れは感性に委ねる領域が少なく、通常に使用する文章のルールですから、詩文に関わらない人ほど、そのように感じるのはもっともです。それでは、彼らの意見に従って、やはり「二句切れ」とすべきでしょうか。

 けれども、ちょっと言葉にこだわるくらいの学生でも、かならず二句目よりも、上句で切れているようにしか、感じない人もいるはずです。その理由は、先に述べました。詠み手がわざと、内容の切れと表現の切れに、ブレを生じさせているからに他なりません。だからと言って、両方で句切れが存在すると言えないのは、句内部での最大の分割点が、一方を強く感じると、もう一方を弱く感じさせ、どちらか一方で切れているような感じの方が、両方が切れている感じより、遥かに増さってしまうからに他なりません。

 ですから、この俳句において、句切れをどちらか一方に、定めることは出来ません。そうして出来ないことが、作者の意図でもあり、トリックでもあり、この作品の魅力にもなっている訳です。

 ここまで周到に仕組まれている、特殊な作品を、一般的なルールで説明したのでは、制作者の意図も、作品の価値も、貶めているとしか思われません。何のための、句切れの説明だか、通常文の句点の説明をしたいのなら、詩文など持ち出すのはお門違いも良いところですし、ただ以前から説明されているから、今も説明するくらいなら、教科書から、取り除いてしまった方が、悪意がないだけ遥かにマシかと思われます。

具体例 その二

契りきな
  かたみに袖を しぼりつゝ
    末(すゑ)の松山 波越さじとは
              清原元輔

 これは「初句切れ」と説明されます。
    「末(すゑ)の松山波越さじとは契りきな」
の最後を、倒置法で冒頭に持ってきたものだからです。もちろんそれは、有効な解釈ですが、もともと倒置する前の句切れは、
    「かたみに袖を しぼりつゝ」
という状況を提示して、具体的に契った内容に移し替える、「しぼりつゝ」のところにありました。倒置法で「契りきな」を初句に置くことによって、
    [状況の説明]⇒[約束の内容]
と順に配置されていた文の構造は、
    [約束しましたよね]⇒[互いに袖をなみだで濡らしながら]
    [約束しましたよね]⇒[末の松山に波が越さないのと同じように、
                  決して心変りしないようにと]
と初句の提示内容を、[二句三句][四句五句]が並列的に受ける形に変更されました。その上で、[三句目]の「しぼりながら」という表現によって、[二句三句]⇒[四句五句]に継続性を持たせています。

 何が言いたいかというと、この構造すべてを明らかにした上で、初句切れであると説明しない限り、もともとあった意味上の切れた感じがする[三句]から[四句]への移り変わりの「切れ」が引っかかって、言語感覚が豊かな学生ほど、「初句切れ」であるということが、完全に理解できないで、永遠に悩み続けることになります。

 しかも、この構造は、絶対的なものではありません。
  冒頭の「契りきな」が[二句三句][四句五句]が並列的に掛かっていると言うことは、すでに倒置を終えてしまっている文章としては、

互いに袖をなみだで濡らしながら、
末の松山に波が越さないのと同じように、
決して心変りしないようにと約束しましたよね。

と最後に「契りきな」が置かれるとは限りません。

互いに袖をなみだで濡らしながら、約束しましたよね。
末の松山に波が越さないのと同じように、
決して心変りしないようにと……

つまり、そのまま位置だけ、変更するなら、

かたみに袖を しぼりつゝ 契りきな
末(すゑ)の松山 波越さじとは

と上の句の後ろに置かれても、何の差し支えもないばかりか、かえって魅力的な表現のように思えてきます。しかも、倒置された後の言葉は、変更されることも非常に多いので、それをもって、元の位置を定めることは、二重の意味で(言葉が変更されうるという事と、内容の結びつきが、引き離された表現の結びつきを上回ってしまうという事)あまり意味をなしません。

 もちろん、この状態での「契りきな」もまた、

互いに袖をなみだで濡らしながら、約束しましたよね。

と、前半の最後に掛かるのではなく、

かたみに袖をしぼりつつ……
契りきな、末(すゑ)の松山波越さじとは。

と解釈する事も可能になる訳です。

 まとめましょう。
  冒頭に置かれた「契りきな」は、
    [互いに袖をなみだで濡らしながら、約束しましたよね、]
の倒置のように捉えることも、可能なばかりか、自然な解釈の範疇で、これによって上の句全体が、
    [ある状況下での約束の提示]
それに対して、下の句が[約束の内容]を受けているようにも捉えられます。

 捉えられるというのは、一定の割合で、かえって初句よりも三句目に強い切れを感じてしまう人が存在するだろうということで、しかもその感覚は誤りではないということです。しかも「しぼりつつ」という継続の接続助詞の使用は、実際は次の文との連続性よりも、分割点として作用しますから、なおさら三句目に強い切れを感じてしまう人は、多いのではないかと思われます。

 さらに、形式からくる句切れと、文脈の長さから来る句切れとの兼ね合いもあります。前に話したように、わたしたちは文脈がある程度の長さになると、文脈同士を分かち捉える傾向がありますから、なおさら「約束しましたよね。」で文が明確に途切れて、残りの四句で連続的に説明したように感じるよりも、上に説明したプロセスによって、「三句目」に強い切れを感じる人の方が、あるいは植え付けられた先入観さえ取り除けば、遥かに多いのではないかと思われるくらいです。

 ですから、純粋な自分の感覚を信じるといういことが欠落したような、硬直した教師に尋ねれば「初句切れ」に決まっているとしか(もはや彼のオツムでは)捉えられませんが、ありきたりの言語感覚から判断の出来る学生であれば、本当は三句切れと感じる人も、多いのではないでしょうか。

 実はこのように、句切れを分かりにくくするということが、優れた歌人たちの、基本的な技法にもなっているくらいで、このように仕組まれた構造物を、ただ「倒置法を使用しているでしょう。だから初句切れに決まっています」などと、教えても、それは「初句切れ」になっていることを、ちっとも教えたことにすら、なっていないのです。

 ですから、点取虫君なら、要領だけを捉えるから何の問題も起こりませんが、言葉に対して多少でも生真面目な学生ほど、どうしても理解に苦しむ。そうして次第にやる気をなくすような、きたならしい空気で、ビジネスマンを養成するための、この国の教育システムは、満ちあふれてはいないでしょうか。

 それで結論を述べるなら、
  この和歌は、初句切れである、
   と断言することは出来ないばかりか、
  かえって三句切れの方が優位かも知れない、
 とまとめることが出来るかと思います。

具体例 その三

多摩川(たまがは)に
  さらす手作り さら/\に
    なにそこの児(こ)の こゝだかなしき
               よみ人しらず 万葉集14巻3373

 この短歌は、切れなしとされたり、二句切れとされたりしているようですが、果たして実際に、そのように感じるでしょうか。まず冒頭の二句は、三句目の「さらさらに」を導くための序詞になっています。つまり、
     「多摩川にさらす手作りの布のようなさらさら」
と「さらさらに」(意味は「ことさらに、今更にくらい」)の「さらさら」だけを例えて、導き出すものとして置かれています。つまり冒頭からの文は明白に、
     「多摩川にさらす手作りさらさら」
までは継続する文脈になっている。

 ここで「手作り」が体言止めという説明は意味がありません。例えば序詞で「わたくしの大切な命からがらに」と「からがら(かろうじて、ようやく)」を導き出して、下の句につなげたからと言って、「大切な命」では切れないのと一緒です。

 実はこの序詞の狙いは、その継続性のうちに、後半の本文の内容の「さらさらに」に差し替えて、途絶えることなく文脈を続けていこうという、詠み手の戦略から採用されたもので、もし二句目で文章が途切れているように感じたとしたら、それは詠み手が下手な詩人であったことを、批判しているようなことになってしまいます。なるほど、所詮「よみ人しらず」ですから、あなたの判断こそが正しくて、過去の無名の詠み手など、相手にする必要も無いのかもしれませんが……

 掛詞にしてもそうですが、和歌では分かれるはずの文脈を、わざと連続的につなげて、詩の全体の継続性を持たせることが、一つの戦略になっています。序詞から掛詞につなげて、そのまま別の内容へと移し替えるのは、その典型で、そのような使われ方をする意図は、序詞とその掛かる言葉の、文字通り「句切れ」を、なくすことにこそ存在しています。

 つまりこの和歌が二句で切れるというのは、実際の表現を無視して、序詞と本文の内容は違うのだから、文章は切れるべきであるという、本文無視の、ルールから導き出した、出鱈目に過ぎないかと思われます。それでは、切れはないのでしょうか。

 歌の本意、つまり下句側を、現代文にしながら眺めてみると、
     「いまさらだけど(さらさらに)、
        どうしてこの子はこんなに愛しいのだろう」
という内容になります。確かに、強い切れは存在しませんが、冒頭の「さらさらに」は、「今更言うこともないけれど」と、次に語る内容の状況を説明していて、語られる内容を導き出す、導入の役割を果たしているのが分かるかと思います。つまり、
     [語る内容の状況説明]⇒[実際の内容]
という関係にあり、そのため、先ほどの現代文においても、読点「、」を付けて、文脈に区分を設けました。

 ですから、詩文が仮に三句で完了していれば、わずかな切れは生じますが、切れなしでも構わないくらいです。ところが、この「さらさらに」を導き出すものとして、序詞が置かれてしまいました。これによって、

[序詞]⇒[語る内容の状況説明]⇒[実際の内容]

となるのが分かると思います。
 問題は、冒頭の序詞にあります。この和歌の詠み手が、故意に[語る内容の状況説明]である「さらさらに」の内部まで、文脈の途切れをパテで消すような、序詞という技法を使用してしまいましたから、序詞はそのまま[語る内容の状況説明]と一体化したものとして、
     [序詞+語る内容の状況説明]⇒[実際の内容]
のような文章構造になってしまいました。そのため、
     「いまさらに約束を破ったりしないよ」
であれば、ほとんど感じられなかった「いまさらに」と「約束を破ったりしないよ」の区切れが、

「友情で固く結ばれたいまさらに、約束を破ったりしないよ」

と、あってもなくてもよいくらいの切れではなく、ある程度、文脈を分かつくらいの、強めの句切れが発生してしまうことになりました。ですからこの「さらさら」の短歌は、二句切れでも切れなしでもなく、明確に「三句目」で切れが発生しているのです。

 前にもお話ししましたが、切れの強度は「マルかバツか」「強か弱か」ではなく、連続的なものです。この程度の切れを区切れと認めないで、「強」のものだけを区切れとしても、そもそも短歌の解釈にも、短歌の実践にもなんの役にも立ちません。解釈にも実践にも役に立たない、謎の頓知問答が、どうして教育になり得るでしょうか。

最後に

 以上、句読点の存在しない詩文における、もっとも大きな句切れが、仮に加えた句読点からは、容易には推し量りきれないこと、また聞き手の解釈によって、違いが生じることをお話ししました。それらは、内容と表現によって、詩文全体の構造を明らかにする作業のうちに、絶対的な答えではなく、相対的な答えとして、解き明かされるべきものであり、そもそも自分でろくに短歌も詠んでいないような人たちに、解かせるような問題でもありません。

 ものの本質から言っても、数多くの短歌を詩作している相手に、句切れも含めた内容の説明をするならまだしもですが、短歌もほとんど詠ませないで、ただ和歌の意味を解説したり、文法を解き明かしたり、ましてや句切れを発見させることに、何の意味があるのやらさっぱり分かりません。

 和歌のことを知って貰いたければ、短歌のことを知って貰いたければ、そして句切れのことを理解して貰いたければ、まずは沢山の短歌を、それも宿題程度ではなく、義務教育課程全般を通じて、ある程度継続的に、作らせることを教育に取り入れるべきで、そのようなこともろくにせず、ほんのちょっとの実践くらいに済ませて、その先のことをばかり話しても、本末転倒の状態は解消されず、従って教わる方は、永遠にちっとも楽しくありません。

 詩作の本質も、詩の鑑賞の本質も、お勉強などとは関わりなく、作って楽しい、読んで心地よいところに存在しますから、その根本を教えることすら出来ないで、知識ばかりを付けようとさせても、その教育は詩のことを教えたことにすらなっていないばかりか、わざと嫌いにして、詩などと言うやくざな遊びとは、関わらないように、子供をしつけているようなものなのです。挙げ句の果てに、無理強いする知識すら正しくないとあっては、ほとんど手の施しようもありません。

 もし「切れ」を見つけることに価値があるなら、「切れ」をお宝発見すること目的があるのではなく、詩文の途切れを見分けさせるために存在するものです。なぜ途切れを見分けさせる必要があるかと言えば、そこから詩の構造が、容易に読み取ることが可能になるからです。ですから、詩の構造を解き明かして、その結果としてその部分に切れが生じていることを解き明かさないならば、ただ文の切れを発見させるようなクイズは、教育ですらない、無意味なお遊びに過ぎないものです。

 ですから、本当に生徒の教育を考えるなら、句切れなどを説明している暇があったら、その間にいくらでも(内容を強制しない)短歌を詠ませて、彼らの好奇心を誘発し、その作詩能力を向上させ、より短歌に好奇心を持たせるべきです。その上で、構造的ということを、少しずつ分からせ、そのアシストしての切れを説明するくらいなら、まだその意義は分かります。

 でもそれはやりません。
  短歌の出来などは点数に出来ませんが、「句点で切れる句切れ」といういかさまの定義ならば、明確に点数を付けることが出来ます。つまりはそれだけのことで、それ以外の何物も意味してはいません。そろそろ馬鹿らしくなったので終わりにします。今はこんなことに時間を費やした、自分が哀れでなりません。
 それだけの番外編でした。

               (断絶)

2016/06/05

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