万葉集はじめての俳句の作り方 その七

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朗読ファイル

万葉集はじめての俳句の作り方 その七

[朗読ファイル その一]

「はじめての短歌の作り方」の番外編として、今回は「はじめての俳句の作り方」をお送りしたいと思います。理由はきわめて簡単で、あなたのポケットに収める、気軽な定型詩として、短歌と共に、俳句も収めておいて欲しいからに他なりません。心情を表明するのに相応しい短歌と、ちょっとしたひらめきを、飾るくらいの俳句と、自由な気軽さの散文詩くらいで、あなたの日常は、知性と情緒の混じり合ったような、詩的生活に彩られるには違いありません。

 ですから、わたしは短歌だけを詠みたいなどと、狭い枠に自らを貶(おとし)めずに、かつて正岡子規がしていたように、あらゆる詩型を、表現のために使い分けるのがこれからの、詩を詠んでいるときは誰もが、未来の詩人には相応しいのですから。

俳句の作り方 予備知識

形式

 前回、俳句の成立に述べました通り、俳句は発句から由来し、発句は連歌の初句であり、連歌の初句は、短歌の上の句に由来しますから、皆さまはこれまで学んだことをもとにして、短歌の上の句だけで完了するつもりで、俳句を読めば良いことになります。形式は、[五七五]の十七字で、それぞれの句を、

五 ⇒[初句(しょく)/上五(かみご)]
七 ⇒[二句(にく)/中句(なかく)/中七(なかしち)]
五 ⇒[結句(けっく)/下五(しもご)]

と呼びます。
  文字数は、短歌と同じく、実際は拍(はく)すなわちモーラに基づいていますが、これも短歌と同じく、一字くらいの字余り、字足らずは生じても構いません。ただ注意して欲しいのは、短歌よりも短い形式ですので、一字の増減でも、短歌の時よりはよほど目立ちます。目立つと言うことは、そのヶ所に注意が行ってしまうということで、そこに何らかの意図があると、聞き手に「なるほど」と思わせることも出来ますが、あまり安易に字数が増減すると、ただ詩作が甘いようにも捉えられやすい。その危険性は、短歌よりはまさると言えるでしょう。

季語

 俳句には通常、「季語(きご)」を含めます。
「季語」とは、季節感を表明するための言葉で、古来からの慣習や伝統をもとに、江戸時代頃さらに発達し、現在へ引き継がれている、「歳時記」をもとに、時期を定められた言葉です。

 「歳時記」上の「春夏秋冬」は、千年前も千年後もほとんど変わらない、太陽と地球の関係から導き出された、[冬至・夏至][春分・秋分]を基点とする、「二十四節気(にじゅうしせっき)」をベースとします。これによって江戸時代の名作も、今の作品も、あるいは未来の傑作も、同じ言葉を同じ季節のものとして、鑑賞し詠むことが出来るという仕組みです。

   [四季の定義]
春 ……… 立春から立夏前日まで
夏 ……… 立夏から立秋前日まで
秋 ……… 立秋から立冬前日まで
冬 ……… 立冬から立春前日まで

 たとえば西暦1000年の立春は1月31日で、2016年は2月4日で、季節感の狂うほどの差は出てきません。これに対して、「旧暦(きゅうれき)」と呼ばれるもの、月の運行に基づきながら、太陽の運行で補正を加えるという「太陰太陽暦(たいいんたいようれき)」ですと、毎年の日にちが、西暦とは大きく異なってしまいますので、季節を定めるにはきわめて不便です。

 ですから、一月、二月のかわりに、「むつき」「きさらぎ」などの表現をする場合も、あえて旧暦を使用する必要はありません。明治維新の後に、多くの旧暦で行われていた行事が、新暦での施行へ移されました。月の名称なども、それに準じます。

 それで「歳時記」は、「春夏秋冬」に、年の改まる「新年」という分類を加えて、大枠としています。それ以外のことは、取りあえず深く思い詰めず、第三者が聞いて季節感のある言葉であれば、歳時記に載っていようと載っていまいと、聞き手に季節が伝わればよいものとして、使ってしまえば良いでしょう。また、ある言葉がいつの季節であるかなどは、ネットで検索すれば、たちまちに調べられるので便利です。

切れ

  俳句には「切れ」が必要だとされます。
 これは俳句があまりにも短すぎるために、ちょっと人工的な細工をしないと、ありきたりの落書か、キャッチフレーズや標語のようになってしまい、なかなか心情を宿した、詩とは見なされないからに過ぎません。「切れ」はつまり、

秋ですね。
  食欲のまさる季節です。

のように、句点(くてん)つまり[。]で、
 二つの部分に分かれるものや、

秋なのに、
  なんて言われても困ります。

 初句だけが相手の言葉で、
   つまり「秋なのに」と囲われていて、
  二句目以下が、私の気持ちを表わしているような、
   内容が大きく句切れる所に起ります。
     あるいはまた、よく見られる方針として、

夏の海。
  俺たちゃざぶりざぶりだな。
          ここでも彼方

……俳句になっていない気もしますが、
 ともかく、一度名詞で言い切って、次を続ける、
  「体言止め(たいげんどめ)」を利用すると、
    切れた感じが強くなります。

 これによって、新たな文に切り替わったり、前後の内容の大きく食い違うところで、意味の断層が起りますから、断層のあいだに余白のようなものが、聞き手に感じられると同時に、内容がいくつかのブロックに分かれて、それらが絡み合う、複雑な構成になるために、ちょっとこだわりの表現のように聞こえ、様式的な詩と見なされやすいという仕組みです。

 一般には、切れる感じを出すために、
    「や、かな、けり」を使いましょう
なんて、適当な説明をされたりしますから、
    「なんでそんな訳の分からん言葉を」
と嫌になった方もあるかも知れません。

 これは一つには、感動や詠嘆を表明しながら、強く文を切る短い助詞が、俳句には必要、というよりあまりにも便利であるのと、これらの言葉で切る秀句が多いために、切れを表明する助詞として、今日まで残されているに過ぎません。ところが、現代語では使用しない表現には違いありませんから、聞き手の方はどうしても、今の心情を表明したものではなく、文語の作品を様式的に詠んだものと捉えがちです。

 つまり、文語能力もないくせに、安易に「や、かな、けり」を借用的に使用すると、少しでも文語を知っている人から見たら、小学生の落書きにしか思われません。また文語を知らない人から見たら、今の心情を表明していない、いつわりの表現になってしまいます。どちらにしても、まがいものには過ぎませんから、
 あまり安易な使用はお奨めできません。

 現にこの適当な教えによって、
   当人ばかりはご満悦の、歪(いびつ)な落書きが、
     椋鳥(むくどり)のさえずり回ってはいるではありませんか。

着想について

 一般に、写生が提唱されますが、そのおかげで、下らない事実を書いただけの五万の落書きが生まれました。二つの対象を折り込めと諭したら、月とすっぽんみたいな、無意味な頓知が、五万と生まれました。

 写生にも、対象の対比にも、もちろん価値はありますが、その理由を突き詰めないで、表層的な教え方をしたために、詩でもなんでもないものが、汚泥となってあふれました。

 ですからはじめの一歩は、そんな事には関わらないで、あなたが心から誰かに伝えたいと思ったことを、短歌と同じように、まずは指標にすればよい。ただそれだけのことなのです。

  あなたが心から伝えようと思ったこと。
 そのことから出発したら、「わたくしめが探り当てました」のような、下らない現実の細部描写とやらの、空になった重箱を突くような、どうでもよい着眼点を、「写生主義の極みでございます」などと、提出するような醜態にはならないでしょうし、「この取り合わせの妙をご覧ください。考え抜かないと悟れないほどの、絶妙に合わされた二品(ふたしな)です」などと、もはや心情を伝えたかったのか、取り合わせを品評会に提出したかったのか、なんだか良く分からないような骨董品を、描き出すことも無いかと思われます。

と言うわけで

  やはり、いつわりの解説では済みそうもありませんね。
 ただ何となく文語調で、それらしいものを描いた気分になりたい人。メディアと雑誌を渡り歩く、「どこから見ても月並み調」の信奉者。デフォルメされたキャッチフレーズの制作者は、いさぎよく立ち去るのが礼儀です。今はせめて、うなずいてくれる幾人かのために、落書きをするくらいの自由が、あるいはわたしに残された、最後の自由なのかも知れませんから。

俳句の作り方 本編

表現について

[朗読ファイル その二]

 当然ながら、現在の言葉で行います。
  現在の言葉でうまく詠めるようになったら、
   文語にチャレンジしてみても構いませんが、
  古文を習う意欲もないままに、
    「まがいもの作成の手引」
   などをもとにして、こね上げたようなお団子は、
     詩でも文芸でもなければ、ディスプレイの見本にもなりません。

 ただし、短歌と違って、俳句はその字数の少なさから、ある程度の文語能力でも、比較的整った表現を行うことは可能です。また字数の少なさが、散漫になりがちな現代語の表現に、詩型として合っていない。より正確に述べると、詩と呼ぶには短すぎるという側面もあります。

 ついでに述べれば、その詩型が、漢文への関心の高まっていた時代のものであることから、漢語を織り交ぜた文語調に親しく、現代語の表現にマッチしていない詩型でもあります。

 ですから、それが優れた詩なのか、というと、また難しい話になりますが、もっと気楽に考えて、自らの詩作のなかにも、一つくらい「いにしえ」の表現が欲しいというのであれば、まさに俳句は、うってつけのジャンルには違いありません。

 ただし同時に、文語を一般的に使用しなくなってから、文語による俳句の質は、文語を基準にすれば、明らかに低下しています。個別の能力はともかく、総体に眺めれば、現代の表現を、教科書を片手に文語にしたような、「もどき」の作品は、増加する一方です。それは、文語体が一般的な記述方法で無くなって、次第にそれを筆記のベースとして、習わない世代へと移りゆく中での、必然には違いありません。

 悲惨なことに、文語表現こそ美徳である、など宣(のたま)いながら、その表現がもはや、ナチュラルな文語表現になりきっていない。そんな人たちの作品もある位で、この傾向は、恐らく今後、高まる一方かと思います。

 ここでも、やはり私たちは、
  短歌で眺めたのとおなじ事。
 私たちがもっともたやすく、自由自在に詩を表現できるのは、私たちが使用している、今の言葉であるという、当たり前の所から、出発するしかありません。そうでなければ、とても自らの思いを、様式化された詩として、相手に伝えることなど、出来ないには違いないのです。

 もちろん、わずか十七字に過ぎませんから、ある程度の文語能力があれば、明治時代の俳句はおろか、江戸調の発句も真似ることは出来るでしょう。ただし、そのためには、安易な猿まねをするのではなく、改めて言語を「学ぶ」ことが前提になりますが、それを「第二作法(だいにさくほう)」として、詠んでみるのも悪くはありません。

 そもそも、さまざまな表現に興味を覚えたら、当然古文にも、関心が起るのは当然で、それはむしろ、喜ばしいことには違いありません。何しろ過去の伝統と、肩を並べられるのですから爽快です。そこまでの意志があるならば、俳句はおろか、短歌を古文調で詠むことに、なんの躊躇も必要はありませんが……

 その時でも、あくまで「第一作法(だいいちさくほう)」は、現在の言葉による表現であることを、忘れないで欲しいと思います。いつの時代でも、あなたの今の言葉こそが、詩を奏でるための、もっとも基本的な表現です。

 ところで、現在の言葉といっても、私たちの「話し言葉」と、「書き言葉」は、まったくおなじ表現どころか、かなりの開きがあります。(これは純粋に、それぞれの表現の特徴による違いで、完全に一致することなどはあり得ません。)そうしてうまく書き言葉を利用すれば、文語とあまり変わらない表現を、描き出すことも可能です。つまり現在の表現で解釈がつくならば、それは「文語」ではなく、「文語の表現に類似した」現代語の表現に過ぎません。このことを利用すると、文語など習わなくても、俳句らしい俳句は作れるようになりますから、頭に入れておかれると、有意義かと思われます。

 ついでに「書き言葉」というのは、「語られ得ない言葉」ではありません。たとえば新聞の記述は、「書き言葉」ですが、明確に「語り」が意識されています。それゆえ、すべてひっくるめて「口語文(こうごぶん)」と呼べるわけです。もとより戦前の、文語調の新聞も、「書き言葉」には過ぎませんが、やはり明確に「語り」が意識されています。だからといって、どちらも「話し言葉」ではありません。

はじめの一句

 はじめの一句とはいっても、皆さまはすでに、短歌の表現を実践して来ましたから、今さら気に病むことはありません。ただ三十一字で閉ざされていた表現を、十七字で完了する。一つの詩として表現すればよいだけです。

「季語」といって、もっとも簡単なのは「春夏秋冬正月」を直接使用する事です。初めてですから、まずはこれを利用してみましょう。もちろん「晩秋」「春月(しゅんげつ)」のような複合語でも構いません。かつての和歌と違って、漢語的表現をうまく利用した方が、短い字数に多くのことを込められますから、一応、心にとめておかれると良いでしょう。

 それではさっそく、季節ごとに一句ずつ、
   合せて五句、詠んでみましょう。
    (ちなみに短歌は「一首(いっしゅ)、二首(にしゅ)」と呼ばれますが、
    俳句は「一句(いっく)、二句(にく)」と数えます。)


庭窓に
  春の日差して こもり唄
          時乃旅人

     「お固てえ野郎だ」
夏夏夏
 波波波乗りジョニーだぜ
          はじける彼方

     「ふざけすぎです」
まちは秋
  お気にの誰よおんなの子
          時乃遥

着想について

  心情を伝えるためにこそ、
    あらゆる詩は存在する。
  そして詩とは語りである。
ということを忘れないで欲しいと思います。浮かんでしまった風変わりな着想を、ツチノコ発見はしゃぎ回って、表明するのに熱中して、意味の粘土に貶(おとし)める。これまで短歌で眺めた弊害は、俳句でも、あまりにもよく見かける光景です。

鮮血をこぼしてゆらぐ街の人

 なんて記しても、斬新なつもりなのは当人ばかりで、きわめて安っぽく響くのは、それが実際の情景と言うよりも、ニュースやドラマを眺めて詠まれたような、つまりは頭のなかの捏造(ねつぞう)の気配がして、興ざめを引き起こすからに他なりません。それを推敲したからといって、

鮮血をこぼして凍る倒れ人

 うまく描き出そうと考えを巡らせても、大事を描き出すのには字数が足りないこともあり、唐突な印象は避けられません。着想に溺れた詠み手の影がチラついて、なかなか実際の人間が、鮮血をしたたらせる光景は浮かんでこない。

 そうであるならば、
  はじめから、見たこともない嘘を付かないで、
   鴉の死骸を眺めた時の実景に、
  ちょっとデフォルメを加えるくらいのもの。

鮮血をこぼして凍る朝鴉

くらいにしておけば、
  あるいは聞き手にも、
 心情は伝わるかも知れません。

季語(きご)

季語について

 前回説明しましたように、俳句に「季語(きご)」が込められているのは、発句の決まりから、頂いたものに過ぎません。「切れ」が必要であるという認識も、やはり発句から来ています。それでは「季語」が引き継がれた利点は何かというと、それは詩の定義に関わって来ます。わたしは短歌の説明のはじめに、

  普通なら散文として語られるはずの、
 語り手の心的指向性を持った内容を、(もっとも分りやすいのは「喜怒哀楽」などの感情でしょうか、)あえて普通なら語られないはずの、三十一字の詩型に当てはめて、場合によっては修辞(しゅうじ)を加えて表現することにより、伝えるべき心的指向性を保ったまま、言葉が詩型に様式化されて、通常ではあり得ないような、言葉の結晶となる。

と説明しました。
 この定義は、十七字の俳句にも当てはまります。ただ語り手の心情を、伝えるべき心的指向性を保ったまま、言葉を詩型に様式化するということが、わずか十七字しか文字を持たない俳句にとっては、短歌より遥かに難しいのです。

 それが、表現するだけならずっとたやすいはずの俳句が、作品価値をもった詩として描き出すのには、人工的な細工が必要な理由で、ただありきたりの表現をしても、
   「なんでこんな感慨を、
     わざわざ文字に残す必要があるのだろう」
という、疑惑が湧いてきますし、それを避けようとしてユニークな内容を示そうとしても、字数が足りないものですから、意味だけを説明したようになってしまい、短歌の時よりもっと、着想や頓知を表明したかったような、浅はかな落書きに零落(おちぶ)れてしまう。また、自分では心情を込めたつもりでも、

ゆだんして
   家のなくなる 花火かな

 傍から見ると、
   標語にしか思われないなど、
  必然性のある詩情を、
    描き出すのは難しい。

 それを助けるものとして、「季語(きご)」は最大の武器になります。何しろ普通の単語でしたら、「時計」だろうと「洗濯機」だろうと、そのもの以外を指しませんが、「さくら」と歌えば俳句の外側に、「春」と時期を定めたことになります。「かき氷」と歌うだけで、聞き手は「夏なのか」と理解してくれる。つまり十七字の閉ざされた表現でありながら、十七字の外側に、時期を表明することが出来る訳です。(しかも詞書だと、十七字以外に言葉を使用して、初めて定めた事になりますが、こちらは十七字内の表現によりますから、自立性においてはるかにまさります。つまりは詩としてより結晶化していると言えるでしょう。)

 しかも歳時記の方で、「ただ花と詠めば春」「ただ月と詠めば秋」とサポートしてくれますから、きわめて短い表現で、時節を定めてしまうことも可能になります。しかも、単純な詩型と、全国に行き届いた義務教育のたまものか、老若男女かなりの人が、俳句には季語が含まれるもの、という知識は持っていますから、それが俳句であると分かれば、聞き手が勝手に季節を探してくれる。なおさら、簡単に時節を定めることが可能になります。もちろん根本的な所では、季節感というものが、私たちにとって、きわめて情緒的に捉えられるからというのも、大きな理由です。

 このような便利なものですから、
  あえて否定するのではなく、
   簡単に俳句を詩にしてくれる、
  ありがたい装置くらいに捉えて、
 大いに利用するのがよいでしょう。
  このようなありがたいサポートのある、
   詩のジャンルというものは、
    他には存在しないのですから。

季語の使用方法

 季語はあくまでもサポーターに過ぎませんから、「歳時記」に囚われて、真夏の蒸し暑い風を、立秋を過ぎたから、やせ我慢して秋風と表現すべきであるなど、心情を表明するための詩とは、関わらない足かせはありません。

 あなたは実際に感じたままを、実際に感じたとおりに書き記して良いのです。誹諧の発句なら、仲間の詠みに関わって来ますから、規則に従うことが必要になってきますが、私たちはただ自分の詩を詠んでいるだけですから、春にトンボを見かけたら、トンボを歌えばよいのです。

 別に春と分からせる必要もありません。もしその俳句が、秋に不自然でない無いものであれば、第三者は勝手に秋のこととして思い浮かべて、別の情緒で捉えてくれるでしょうし、秋として不自然であれば、なるほど別の季節のトンボの歌だなと察知して、季節を定めようとしてくれます。

 むしろそうなったら、ありがたいくらいのもので、聞き手は自らの心のなかにイメージが定まるまでは、あなたの俳句に注意を留めることになりますから、あなたの表現に興ざめを引き起こすようなヘマさえ無ければ、かえって印象を深くすることも出来るかも知れません。

 また誤解を避けて、春のトンボとして読んで貰いたいなら、短歌の時と同じように、詞書きに記しても構いません。また春の章に入れてしまえば、月でもトンボでも、それは春のことを詠んだものとして解釈されますから、「歳時記」に泣かされることはありません。

 季節の違うことを「季違い(きちがい)」と言って、避けてさえいれば間違いのないような意見もありますが、季が違っても内容がすばらしければ詩として認められますし、むしろ季があっているだけの五百万(いおよろず)の落書きを眺めるとき、そのような「これさえしなければ安心」レベルの注意が、いかにむなしいものであるか、自ずから明らかであるように思えます。

 さて、サポーターに過ぎないものですから、あなたは季語を入れないでも俳句を詠むことが出来ます。一般には「無季(むき)」と呼ばれるもので、聞き手に何らかの心的指向性が伝わり、詩として解釈されるのであれば、「絵の具(えのぐ)」などという表現を、季語であるかのように、利用することも出来るくらいです。

「歳時記」においては、「夕焼け」が夏の季語であるように、今の私たちの感覚と異なるようなカテゴリー分けも見られます。それは歳時記自体が、過去からの継承によって成り立っていますから、避けられない問題なのですが、実はあまり関係ありません。これも自分は、たとえば冬の夕焼けのつもりで、普通に詠んでいればよいのです。第三者が見て、夏だと判断しても、差し支えなければそのまま受け止められますし、差し支えがあれば、別の季節だと判断してくれるでしょう。

 どうとも解釈がつかなければ、下手だと見なされますが、その程度の俳句なら、季語のせいで下手なのではなく、純粋に詠み方が下手なだけかと思われます。

 要するに季語は入れた方が便利ですが、入れたからといって、『歳時記』の示す季節に束縛される必要はありません。ただ当たり前の話ですが、実際の私たちの感覚から離れて、「灼熱の大雪に」などと詠み出すと、浅はかに思われるばかりですが、それは歳時記と違うからではなく、私たちの実感と違うからに他なりません。

 それで結論を述べれば、ちょっと作ってみるくらいなら、歳時記も必要ないくらいですが、せっかくですから季節の言葉を、ひと言折り込むのが、詩興のためにも手っ取り早く、様式化を果たせるくらいのものなのです。ついでに「歳時記」に手をのばして、少しでも季語をものに出来れば、それだけで俳句を詠んだときの、解釈の幅は広くなりますし、自らの日常生活も、ちょっとは情緒的には思えるものならば、季語というものは、なかなかに素敵なものだと、再発見するくらいの夕べです。

季重ね

 ところで、一般の俳句では、季語を重ねる、つまり「季重(きかさ)なり」「季重ね(きかさね・きがさね)」はあまり良くないとの説明も見られます。別に全然構いませんし、季節がより強調されるくらいのものです。しかし、やはりネックなのは十七字しかないというところで、ただでさえ季語の力を借りて、時期を俳句の外に持ち出しているのですから、明確な意図があるのでなければ、季語を最低限度にして、他のことを述べたくなるのが人情です。

 当たり前の話ですが、季節感のある言葉を二つ使ったからといって、より対象を定めるなど、効果的に使用されているならば、詩興を豊かにする表現になりますし、逆に、同じ事をくどくどしく繰り返しているように聞こえたり、季節がいつだか分からなくなっているならば、純粋に詠み手が下手なだけと云うことになります。

 それで、初心者へのアドバイスとして、季語は一つにしましょうと言っている間はよいのですが、そのうちいつの間にやら金科玉条(きんかぎょくじょう)となって、表現をすら束縛してしまう。むしろそのように主張する人たちに交われば、あなたの色が濁されるばかりです。

季違い(きちがい)

「歳時記」には、それと関わらないと、思いもよらないような表現が、季語にされていたりします。たとえば「寒し(さむし)」ならまだしも、「冷たし(つめたし)」が冬の季語になっていますから、

冷たくて
  でも美味しいねかき氷

なんて無意識に詠んだら、季重ねのうえに、季違いである。ということも、あまり「歳時記」を知らない人が詠むと起ります。でも果たして、「歳時記」を知っていたからといって、この俳句は変でしょうか。

 もちろん、冬の俳句として詠まれたとしても差し支えがないということもありますが、もっと根本的な理由として、この詩文はかき氷を詠んだもので、「冷たい」というのは、かき氷をたとえたものに過ぎません。全体の文脈から不自然でもあれば、冬の俳句かと思う可能性もありますが、きわめて軽く語られた、日常会話くらいの俳句ですから、なおさら素直な心情を、素直なシーズンに表明したという印象しか浮かびません。

 つまり、詩文そのものから、たとえ「冷たくて」と詠まれていようとも、これはかき氷の説明に持ち出されたもので、実体としての季語は「かき氷」であることが明白ですから、季重ねでもなければ、季違いでもないのです。また次のように、

三四捨て
  五月(さつき)も切れて夏暦(なつごよみ)

 うまいものではありませんが、冒頭の三ヶ月は、カレンダーが順に過ぎ去って、もう夏になったという、その実感の表明のためにおかれているものですから、無駄なものではなく、むしろこの詩にとっては着想の中心になっている。このようなものを改編させたからといって、詩情は遠のくばかりです。詩の内容から、実体としての季語は「夏暦」なのですから、なんのとがめもありません。

 ですから、「夏」と「残暑」を一緒に使用しても、より絶対的な季語である「夏」が季語の本体となりますから、詠み手は「残暑」という表現で、八月の後半頃の暑さを表明したものかと悟られて、不都合は生じません。「夏」と「七夕」が一緒にあっても、すぐに新暦の七夕だと分かるでしょうし、つまりは季語が重なっても、より絶対的な方が季語となるだけのことで、このようなブレは問題にはなりません。もちろん「雪」に「七夕」を思ってもよいのです。ただ内容が、うまく相手に伝わることが重要です。

 まとめれば、季語があろうと無かろうと、季語が重なろうと、違っていようと、一つの詩文として純粋に解釈して、すばらしければそれはすぐれた俳句でありますし、そうでなければ原因は、表現が十分に第三者に伝わるだけの、客観性を宿していないという話に過ぎないものです。その下手なところを、手っ取り早く誤魔化す手段として、表現の自由を奪うようなルールには、束縛されない方が良いでしょう。

 もちろん、知識として知っていた方が、よりデリケートな表現は可能ですから、少しずつ少しずつ、歳時記の知識も取り入れてみる事を、よりお奨めします。ただ知らないと詠めないものとは、わたしは定義しません。それだけの、お話しでした。

〆の練習

 現代の季語は、お好きなようにということで、ここでは和歌時代、季節を表わす言葉として、もっとも使用されていたものを、いくつか並べておきますので、これをもとに、ノートを取り出して、いくつかの俳句を詠んでみましょう。

春 ………霞、うぐいす、梅、桜
夏 ………卯の花(うのはな)、ほととぎす、蜩(ひぐらし)または蝉
秋 ………七夕、萩、月、もみじ、きりぎりす(虫の声の意味)
冬 ………霜、雪

 それから、年末年始の句を、
  好きな表現でいくつか詠んでみましょう。

 最後に、無季の句をいくつか詠んでみましょう。


     「これも秋の季語だぜ」
俺の芋を
   返せと妹に泣かされて
          とほほの彼方

       「泣かされて?」
むざんやな
   いきがるだけのきり/”\す
          狂句 時乃旅人

   「二人ともまじめにやってください!」
雪のたま
   君にぶつけて かくれ鬼
          時乃遥

客観と写生

主観と客観について

[朗読ファイル その三]

 俳句では、直接主観を込めるより、
  「物や風景をよく観察して、
    客観的に描き出すことにより、
     背後に詠み手の心情を感じさせる」
ことが望ましく、そのための方針として、
  「写生(しゃせい)」が推奨されているようです。

 これもまた、季語と同じです。
  わずか十七字に過ぎませんから、情景や状況を描いてから、心情を直接表明すると、描き出せる「情景や状況」の方は、きわめて限られてしまう。たとえば、心情に結句を割いたとすれば、残りの十二字で「季語」と「情景や状況」を述べなければなりませんから、伝えたい内容をどうにか表現するくらいの、きわめて同質的なもの、ありがちな表現に陥ってしまいます。

 そこで心情はあえて、俳句の外に追い出してしまい。自分は「情景や状況」を描くのに専念して、あとは詠み手がなぜその「情景や状況」を描き出したのか、その思いを聞き手に悟らせる。という戦略から来ているに過ぎません。

 ここでも季語や季節感、というものが心情表明のサポートをしてくれます。(どこまでいってもありがたいシステムです。)春は喜びに満ち、夏ははしゃぎして、秋はしみじみと寂しくて、冬は何かを待って堪え忍ぶ。もちろん喩えに過ぎませんが、季語と一緒に描き出される情景自体から、聞き手がこころに浮かべる心象風景に、何らかの心的共感が起ります。聞き手はその心的共感を元に、詠み手の思いを推し量ってくれる。詠み手が頼みもしないのに勝手にです。この作用を利用して、心情を詩の外に置いているのです。

 これを精神論みたいに語ったり、客観の先に主観が一体となってなどと、訳の分からない人たちもあるようですが、そのような論理と感想と妄想の混じり合った、意味不明の落書きとは、関わらないのがお勧めです。

 ですから、心情を描きたいのに、客観性を重んじて、それを取りやめるような詠み方は馬鹿げていますが、そのメリットを生かして、複雑な情景や状況を描き出すのには、便利でかつ効果的な方法です。しかも直接心情を表明していませんから、聞き手には読み手の思いが、絶対的には明示されていない。どれほど読み返しても、「あれこれと詠み手の思いを推し量り続ける」ことになりますから、つまりはそれが余韻となって、俳句の魅力にもつながるわけです。もちろんこの技法は、短歌にも、他の詩でも使えますから、覚えておいて、広く応用するのがよいかと思われます。

主観と字数について

 ところで、俳句の客観性重視は、
  主観の表明に必要な字数として、
   俳句の十七字では不足気味であると言うことも、
  実は大きな理由です。

ひゞ割れた貝殻浚(さら)う冬の波

これだと[情景描写]だけですから、
  十分な感じが出ますが、

悲しさに貝殻拾う冬の波

のように、心情を直接込めると、例えば誰かから「悲しくて泣いた」と聞かさせると、相手の言葉を待ち構えて、その理由を聞きたくなるように、聞き手は同じ人間として、主情表現の理由を、ある程度詳しく聞きたくなるという傾向を、本能的に有しています。ですから主情的な表現を述べた時は、

悲しくて 貝殻拾えば 冬の波
   わたしをあしらう あの人に似て

のように、短歌くらいの十分な長さで、しかも主情の内容を補足する、主観的な要素を折り込んだ方が、聞き手は納得しやすい事になります。またそうでなくても、

悲しくて 貝殻拾えば 冬の波
   寄せ木を浚(さら)う 夕映えのなか

「悲しくて」と聞かされて理由を説明されるくらいの、十分な長さで情景を描写しないと、ちょっと物足りなく感じてしまう。それが、主情を込めたり、主観的表現を目指すと、心地よく響く短歌と、そのようなものを込めると、字数の足りなさから、かえって不足の感じが出てしまう俳句との、大きな違いになっています。

 ですから、俳句が客観的表現を重視するのは、あながちに明治維新後の俳句運動のなかで、写生主義が提唱されただけではありません。もっと根本的なところに、原因は横たわっているのです。

写生(しゃせい)

「写生(しゃせい)」とは、実際に対象を前にして、よく観察しながら、なるべくありのままに、写し取ろうとする行為ですが、わずか十七字の言葉によって、実景を写し取れる訳もありませんから、もとより哀れな譬えには過ぎません。しかし実践では、事実をぼんやりと描かないで、注意深く観察してみると、例えば「夕日がきれい」くらいの情景だと思っていたものが、

「変な色の雲が、二色交わって横たわっているな」
「空の色の変化が、いつもの紅色よりどす黒いな」
「なんだ、遠くの屋根の上に猫が乗っていやがる」
「しかもあっちの家のアンテナ、ひとつだけ向きが違うな」

など、様々なことが写し取れます。つまり、卓上で文字を思い描いているより、はるかに豊かな着想が、現実にはごろごろ転がりまくっている訳です。

 工事現場の、ただの砂利山に過ぎないと行きすぎないで、自らの意志で近づいて観察すれば、様々な小石の形状や、細かい色彩の違いや、異物の混入が混じり合い、作業員のタバコの吸い殻まで、突き刺さっていた。

 あるいは、ただ春の花壇だと詠むのを中止して、のこのこと足を伸ばして近づいていって、時間を潰して詳細に眺めてみたら、実際は春の花はもう盛りを過ぎ掛けて、ちょっと疲れた色の方が多いくらいであり、向こうにはもう夏咲きのつぼみが並んでいて、しかも一角には、食欲を我慢できなかったものか、枝豆まで植えられている。そうかと思えば、誰かが捨てた空き缶が無残に捨てられて、それが雑草として混じる、たんぽぽの上に被さっていて、花壇のプレートの文字は、すっかり泥でくすんでしまい、なるほど昨日の雨さえも、思い出されるくらいなら……

 なかなかどうして、このような細かい事実は、ただ眺めるだけでなく、積極的に観察する、すなわち「写生(しゃせい)」の精神でもなければ、見つけ出すことは出来ません。このように改めてメモにでも抜き出してみると、類型的な思考パターンで詠んでしまいそうだった先ほどの花壇も、これほどの取捨選択すべき、豊富な着想の種が転がっていたのかと、驚かされるような散歩です。

 後はこれらの素材から、何を選択して、どのように描き出すか。最終的な表現が客観的であろうと、主観的であろうと、そこから先は、まさにあなたの思考や心情による、つまりは「広義の主観」に基づいて、詩を詠みなすのが作詩です。

 つまり、情景や言葉を選び取ったら、
   それはもう主観が混じりますから、
     純客観の詩というものは、
       人の世には存在しません。
     俳句における客観主義とは、
   より客観性を持って描かれた、
 主観による詩には過ぎないものです。

 ところで、このような写生によって、観察された事実だけを詳細に記したものは、もともとが現実世界の描写に過ぎません。現実世界というものは、自分も相手も所属する世界の事ですから、現実だけを映し取れれば、相手にも現実として受け止めやすい。文章さえおかしくならずに、しっかりと描き出せれば、詠み手が空想に拵(こしら)えた、安っぽい虚偽のようには聞こえません。つまり詠み手と聞き手とが共有している、現実世界そのものが、その内容の正当性を保証してくれる事になります。

写生のまとめ

 以上述べたところの、「内容の真実性と、着想の豊かさ」こそが、写生の利点であると言えるでしょう。ですから皆さまには、俳句や短歌というよりも、あらゆる詩作の基本として、「写生」を利用するのがお奨めです。

 けれども一方で、詩作における写生とは、絵画におけるスケッチのように、一度対象を定めたら、それを現実に添うように、写し取るような「客観写生(きゃっかんしゃせい)」ではありません。むしろ、一度対象を定めたら、それをよく観察して、自らの積極的関心に基づく、つまりは主観によって発見された、それぞれの対象内部の詳細を、描き出しているに過ぎません。ですからスケッチとは異なって、おなじ対象を与えても、うまい下手とは別の、個人の主観による取捨選択がなされるのが普通です。

 ただそれを、主情を交えたり、空想や思考によって改変せず、記述方法としては、なるべく事実を説明することに終始して、つまり記述的な客観性を持たせて取り出すという、「主観写生(しゅかんしゃせい)」には過ぎないものです。そうして「主観写生」であるがゆえに、それをそのまま俳句にしても、俳句の後ろに詠み手の主観、つまり何らかの心的指向性が、明白に読み取れる。という理屈になります。

 ところで「客観写生」などという、いかがわしいスローガンもあるようですが、絵画におけるスケッチなら、確かに書き手の主観と技量の差は出ますが、それでも対象を客観的に描き出そうとしている、「客観写生」であると、定義することは可能かと思います。それに対して、観察者ひとりひとりによって、描き出される内容すら大きく異なってしまうのは、完全に主観の領域の問題です。

 そもそも「写生」という表現からして、ちょっと嘘っぽい、借用の気配がこもりますが、まだ意図することは分かります。けれども、俳句における「客観写生」などという言葉は、その定義自体が成り立ちません。成り立たない言葉を平気でスローガンに掲げるのは、思想と心情を共とする文芸の領域ではなく、怪しい宗教家の領域には違いありませんから、洗脳されないように気をつけたらと思います。何しろ、彼らには近づかないことが一番です。

 このようなことを、わざわざ落書きするのは、せっかく自由なあなたの精神を、毒されて欲しくないからに過ぎません。どのような芸術であれ、あるジャンルに興味を持つと、そこに付属するまったく不要なことまで、安易に取り入れて、次第に一般人の普遍的な価値観と、ずれていってしまうことがあります。ですから、少しでも耐性を付けてくださるようにとの、さみしい取り越し苦労のようなものと、思っていただければ慰めです。

写生の実践

 言葉にまとわりついた、垢(あか)を払い落とすのに、無駄な時間を費やしましたが、写生自体は「内容の真実性と、着想の豊かさ」を詩に与えるための、素敵な方針であることは、お分かり頂けたかと思います。

 それで時折は「写生」のために、対象を定めた実景を前にして、何となく写し取るのではなく、積極的に観察する意志を持って、気がついたことをありったけ、文章に記してみるのが学習です。

 また、写生にかこつけて、
  わざと旅行をしてみるのも愉快です。
   もしこころざしを共にする仲間がいれば、
    二人であれグループであれ、
     あるいは健全なサークルであれ、
       (謎サークルの事ではありません)
     作詩の向上と遊びを兼ねて、
    ちょっとした日帰りでも、
   出かけてみるのが幸福です。
  もちろん、一人旅だって良いのです。

 そうして記しておいた、沢山のメモを元にして、俳句や短歌を詠んでも良いですし、あるいは即興性を大切にして、すぐさま詩を詠んでも良い訳です。一番のお奨めは、その場で口に出して即興で、俳句でも短歌でも、唱えられたら最高です。

……ちょっと脱線しました。
 たしか、写生のお話しでした。
  つまり述べたかったことは、、
   目の前の事実を、よく観察して写し取って、
    それを文章にするのが写生であって、
   その練習のうちに、表現も豊かになってゆけば良いのです。

 ですから、くれぐれも、ただでさえ一つの詩のジャンルに過ぎないものを、さらに主義主張で分割して、写生こそが俳句であるなどと、蟻の巣内部の派閥争いみたいな情けないことは、なさらないで欲しいと思います。知性に乏しい人間ほど、一つの思想に固執して、自己の充足(じゅうそく)を図ろうとしますが、それは精神でもなければ主義でも無い、単なる思考の限界を、露呈するに過ぎない場合が多いようです。そんな乏しい人たちには、近づかないのがこれからの詩人です。

 それにしても写生は便利なものですね。
  知識だけにならないように、
   さっそく実践してみましょう。

  まずは、窓を開いてそこから見える眺めを、
 ただぼんやり描くのではなく、
  それぞれ気がついたことを詳細に、
   見つけただけ、箇条書きにしてください。
    ふと詩型が浮かんだら、そのまま詩にしても構いません。
     あるいは後からその箇条書きを元に、
      詩を詠んだってよいのです。

 では、そんな風にいろいろスケッチして、
   生まれた箇条書きを元にして、
     取りあえず俳句を三つ、短歌を三つ、
   それぞれ完成させておきましょう。


虫食いのなすの葉破る島オクラ
          時乃旅人

冬ぼくろ
  背にいろ変えて みつ並び
          時乃遥

ジャブフック
  フェイント左だ 寒の負
          やられた彼方

切れ(きれ)

切れについて

[朗読ファイル その四]

 俳句における「切れ」とは、短歌のところで眺めた「句切れ」の強いもの。二つの文脈に分けられるくらいの、明確な文の途切れのことです。切れの呼び方も短歌と変わりなく、
     初句の後ろで切れる ⇒初句切れ(しょくぎれ)
     二句の後ろで切れる ⇒二句切れ(にくぎれ)
     結句の後ろで切れる ⇒切れなし

となります。

 俳句で「切れ」が必要だと力説されるのも、やはり十七字に過ぎないことが大きな原因です。言葉数が少なすぎて、通常の文で十七字を言い切ってしまいますと、それこそ取るにたらない、日常の落書きに過ぎなくなって、詩情もヘチマも伸びきって、最後には朽ちてしまうばかりです。

 これも短歌のところで説明した通りですが、「句切れ」が生じるということは、その前後で文章が分かれるなり、内容が大きく異なるなり、俳句がいくつかの意味のブロックに分かれることになります。意味のブロックに分かれるということは、内容に変遷が生じることになりますから、だらだらと一つのことを語られるのとは違って、より複雑な内容が込められているということになります。

 また強い「句切れ」が置かれると、一つのことを語り終えて、もう一度別のことを語りだす効果が生まれますから、わずか十七字に過ぎないものを、多くのことを述べているように、思わせることが出来ます。さらには、句切れの合間に、余韻のようなものが生じます。

 逆を言うと、このくらい人工的に、様式化しなければ、作品として成り立つほどの、詩的な表現をまっとうできないくらい、俳句というものは字数が足らないものなのです。そのため、自らの思いを述べながら、かつ様式的に、価値のある詩を作る為には、「短歌」の方がはるかに自由で、豊かな表現力を持つものですから、わたしは短歌をこそ、あなたがたの詩作の基礎において、俳句は応用としての、詩の一ジャンルとして、捉えて欲しいと思っているくらいです。

切れの方法

 それで、「切れ」が望ましいことは、お分かり頂けたかと思いますが、だからといって、絶対に必要なものでもなく、あれば俳句を、簡単に様式的な表現に、高められるものとして、捉えておけば十分かと思います。具体的には、

碧き海
  あなたの髪の なめらかさ

のように、名詞の「体言止め(たいげんどめ)」を利用しますと、
   「碧き海。あなたの髪のなめらかさ。」
と句点(くてん)によって、
  二つに分けられた文脈になり、
 初句切れになりますし、

ひからびた
  おたまじゃくしか さゝげ唄

のように、二句までが一つの感慨で、
  改めて歌を捧げたように詠むならば、
    「ひからびたおたまじゃくしか」と気づいて「ささげ唄」
  を唄ったように聞こえますから、
   二句で切れるという訳です。
    また「あなたを思って月を見る」くらいの感慨を、
     倒置法を利用して、

月を見る
  あなたのことを 浮かべては

くらいで初句切れです。
 明確に冒頭に返るのが分かりますから、
  「浮かべては」でも句が閉ざされて、
    宙ぶらりんにはなりません。
   ただこれでは面白くありませんから、
  ちょっと倒置をはぐらかして、

満月です
  あなたのことを 浮かべては

  くらいが推敲です。
 もちろん文語ではありません。「碧き海」くらいの表現は現在でも使用しますし、「なめらかさ」にしても、「ちょっとこの毛布のなめらかさを試してください」とセールスマンが語りかけるくらいです。「おたまじゃくしか」も、ただ何となく気がついて、「ああ~か」と表現しただけには過ぎません。

 では、季語は自由に、切れを意識して、
  俳句を二つ三つ詠んでみましょう。
   ちなみに二句の途中で切れる、
    「中間切れ(ちゅうかんぎれ)」なんて切れ方もあります。
   使ってみてもよいですが、
  ワザに溺れて、詩情を蔑ろにしないように、
   ご注意ください。


     「真面目に行くぜ」
十六夜(いざよい)を
  眺めてみろや 背負投
          二句切 いつもの彼方

     「他の切れは彼に任せましょう」
あの頃は
  暮れゆく萩よ ひとの家
          二句切 時乃遥

     「また勝手なことを」
紫陽花葉なめくじ銀河かたつむり
          全切 時乃旅人

「や」「かな」「けり」

 詠嘆を表現しながら、切れを表明出来る、とっておきの言葉として、「や」「かな」「けり」を使ってみたい人も、あるいはいるかも知れません。これらは発句の時代から、あまりにも頻繁に使用されていますから、違和感を感じない人も多いかと思います。

 そうですね。おそらく「かな」はそのまま、現代語として使用できるかと思います。つまり古語としての「かな」というより、今日言うところの「~だなあ」「~かなあ」くらいの詠嘆としての表現です。

夢も覚めて
   花瓶に水を 差す身かな

 べつに古語を使用したというより、
   「差す身の上なのかな」くらいの表現です。

花びらを
   散り尽くしては 碧(あお)みかな

「碧み」というのは文語風ですが、実際は、
  「青みがかっている」など、今でも使う表現に過ぎません。
  そうして「青みを帯びているかなあ」
    くらいの感慨に過ぎませんから、
      「かな」を現代語として捉えることも可能です。
   つまり表現としては文語風ですが、
      今のわたしたちの表現としても成り立ちますから、
        お勉強が必要なものはありません。

遅咲きを
  散り待つ夜半の 銀河かな

「散り待つ」の由来は、
  「遅咲きの花は散り」という状態を「待つ夜半の銀河」
  という着想から由来するものです。それをまず、

「遅咲きの花は散り」を待つ夜半の銀河かな

と考えたものを、
  わざと文法を崩したような特殊表現で、
    別に文語に由来する訳ではありません。
 短詩型で表現すべき短歌や俳句では、
   このようなアクロバットも時折見かけます。
     それは現代語であっても可能であり、
       あとは腕次第と云うことになるでしょうか。

 それで文語調には響きますが、
    最後の「かな」を「かなあ」くらいの詠嘆で捉えれば、
       現代語としても解釈が成り立ちます。
    表現に差し支えはありません。

 それでは、現代語の表現で「~かなあ」「~なのかな」になるような着想を描いて、それを「かな」と閉ざして俳句を詠んでみましょう。感動を表明する表現ですから、結句に来ることが多いのが特徴です。その他、古文に関する知識は無視して、現代語と思って詠んでください。


下書きを……
   あなたのための夜長かな
          時乃遥

お前にやる
   花盛りかな 俺の愛
          いつでも彼方

はしゃぎかな
  恋かな 夢かな おぼろかな
          時乃旅人

  これに対して「や」「けり」は、明確に文語を指向します。
 それは今の私たちが、日常でその表現や、それに類する表現を使用しないことによるもので、確かに俳句では聞き慣れていますが、だからといって、詩の中に表われれば、過去の表現の様相を濃くします。

 そうなると、どうしても古文としての、正しい表現が必要になってきます。つまり全体が揺るぎのない文語調でないと、歪んだ表現のように捉えられますから、「や」などを詠嘆のつもりで折り込んでも、感嘆の表明どころか、破綻を表明する事にもなりかねません。実際にそうなっている俳句は、あまたに存在します。

 ですから、ある程度文語を学ぶまでは、
  「かな」を詠嘆として、最後に使用するくらいに、
    留めておくのが良いかもしれません。

「です」「ます」「体言止め」

 むしろ私たちは、切れ字として「です」「ます」が使用できるかと思います。かつての「なり」「べし」などが様々な思いを込めることが出来、その結果後の世に、幾つもの用法があったように見なされてしまったように、
     「なんだか泣きたい気分です」
     「いいから、すぐにやるのです」
     「泣きました。あなたのせいで泣きました」
なかなか、違った心情のニュアンスを、
  引き受けているのが「です」「ます」なのです。

はるかむかし
   月よの神が 浜べです

この「が」も別に「の」の代わりではなく、
   二句と結句の断層化をはかった表現に過ぎません。

きみとです
   街あかりして 冬どなり

[とはいえ初句は「君と僕」とした方が良いかという不安は拭い去れません。]

おどります。
   花のワルツか 子犬たち。

 あるいは「です」「ます」ではなく、
   名詞による体言止め(たいげんどめ)を利用して、

花ざかり
  とらわれたいな 散歩道

 初句も結句も体言止め、
  名詞が占める割合が多ければ、
   このような、現代の表現であっても、
    文語調にすることも簡単です。
  文語の基礎的な表現しか使用しないなら、
   文語のまとまった表現として、
    詩情が破綻することもありません。

けむりの立つ
   み墓の雪に 朝鴉

たとえばほんの少し、
  文語調にするくらいなら、

けぶり立つみ墓の雪やあさ鴉

 このくらいの文語なら、
   初心者でも体裁は崩れません。
  さらに整えて、

けぶの立つ
   み墓み雪やあさ鴉

推敲するのも愉快です。
  では、「です」「ます」と「体言止め」を利用して、
    何句か詠んでみましょう。


蠍火(さそりび)です
   賛美歌唄う 星川原
          時乃旅人

北十字
  み空の人は 二年前
          時乃遥

「や」「けり」など

 とはいえ、強く切れる短い感動表現として、魅力的なものに思われたら、ある程度有名な俳句に触れた人は、「や」「けり」あたりから、使ってみるのも良いでしょう。先ほどちょっと見ましたように、かつての表現とあまり変わらないところをうまく利用して、感嘆だけ差し替えるようなやり方ですと、ボロが出にくいというコツもあります。

 ですが、ろくに文語も知らずに描き出す「や」「けり」や、現代文に取って付けただけの古文表現は、端から見たらきわめて幼稚なものですから、そのことだけは、忘れないようにして欲しいと思います。

うるせえや
  泳ぎけりとか ぬかすなや
          狂句 不服な彼方

実践について

実際の作り方

[朗読ファイル その五]

 これまでお話ししました通り、俳句の場合は、すらりと表現するよりも、ちょっと人工的な細工をして、作詩するくらいの方が、思いを込めながらも、詩としての価値を保った、十七字を描き出せるかと思います。

 ただし、あくまで作品の価値を考える場合の話で、たとえ取るにたらなくても、素直な心情が表明されていれば、詩であることに代わりはありません。特に日常での使用は、ほんのちょっと詩らしく表現するくらいで、普段着に着こなすのがおしゃれで、手を振るくらいのあいさつです。

 優れた作品を生みなすことなど、そのような日常活動としての文芸に比べたら、恋人のなみだくらいの価値しかありません。あなたにとっては貴重かも知れませんが、社会にとっては何とやらです。すぐれた作品というものは、ありきたりの営みの延長として、生まれてくれば良いのであって、魅惑の表現にいそしむ詩人と、鑑賞に溺れる享受者に別れたとき、自分たちの営みとしての文芸、夏祭りのよろこびの精神は、廃れていく一方ではないでしょうか。

  閑話休題。
 いくら人工的な細工をすると言っても、短歌のところで話したように、何度も口に唱えて、自然な語りかけのうちに、相手に思いが伝わるようでなければ、それはもう解説や、頓知の覚書に過ぎなくなって、詩から転げ落ちたしかばねの、字数の合った駄散文には過ぎません。

 では、どのように作詩すれば良いかと言いますと、
  やはり「その五」で説明しました、内容ごとの図式化を行い、
   それに基づいて、作詩をするのが、
  もっとも簡単で、しかももっとも効果的に、
 複雑な表現を得ることが出来るかと思いますので、
  短い形式ですから、いきなり作っても構いませんが、
   初心者にはよりおすすめのやり方です。

 たとえば、雪が降っています。
  もちろん丁度、椿でも咲いていれば結構ですが、
   ともかく雪が降っているばかりです。
  でも雪のことは歌ってみたくて……

「しら雪」⇒[対比すべき対象]
「しら雪」⇒「赤い椿」
「しら雪」⇒[過去]⇒「赤い椿」

などと方針を定めながら、
  着想を立体化していけばよいのです。
 それで取りあえず、

しら雪よ
   遠きいくさの あか椿

などとまとめてしまい、
   それをもとに推敲をして、

雪やんで
   いま世いくさよ あか椿

などとまとめて行けばよい訳です。
 ちなみに「雪やむ」「雨降る」のように、「が」「は」といった助詞を抜くような表現は、古文も現代文も関係なく、短詩を作る際に利用する方法なので、覚えておくとよいでしょう。

 では皆さまも、
   図式化によって、二三句詠んでみましょう。
    暇つぶしの和菓子の味わいです。


暇つぶし
   初夏めく菓子のにおいかも
          散文取り 時乃旅人

建てかけの
  材木叩いて 夏の歌
          即興句 時乃旅人

ザルソバの
  つゆに映せや 夏の月
          いつもの彼方

     うまし/\と
        もの/\の声
             時乃遥

二番歌
  とりも果たせず奪われて
          時乃旅人

     灰うちたゝく
        たばこひと吹き
             時乃遥

(……お前らって奴らは。
          いつもの彼方)

練習方法

 最後に初心者向けの練習方法を、
  『万葉集』を例に紹介しておきます。
    そうでもしなければ、この章はもはや、
  『万葉集』とは、なんの関係もなくなってしまいますから。。

 短歌から連歌、発句から俳句への流れを捉えるだけでも、短歌の上の句から簡単に、俳句が取り出せるのは明らかです。そこで、表現と着想の勉強と、ちょっとした創作を絡み合わせて、『万葉集』でなくても構いませんが、好きな短歌を、幾つも俳句に替えてみるのは、はじめの頃には、有効な練習方法です。さらに、古典を利用すれば、古語の練習にも最適です。たとえば『万葉集』の「巻第一」の開始から、有名なところをいくつか俳句にしてみましょう。語りの練習に徹して、季語無しでも構いませんが、もちろん「季語」を入れると、より良い練習にはなるでしょう。

熟田津(にきたつ)に
  船乗りせむと 居待月(いまちづき)

香具山(かぐやま)と
  闘ひしけり 耳成山(みゝなしやま)

海神(わたつみ)の
  豊旗雲(とよはたくも)や ふつか月

うま酒 三輪のもみぢか 御社(おむやしろ)

あかねさす
  紫野(むらさきの)行き 君が袖

むらさきの
  にほへる妹を 恋ふるかな

よき人のよしとよく見し吉野ざくら

 ただ一つだけ断わっておきますが、ここまで創造性に乏しいものを、作品だと思い込むのは、浅はかも流れ尽くして芥(あくた)です。知性がなくってうんざりです。ですから、

春過ぎて 夏来たるらし
   しろたへの ころも干したり
     天の香具山(あめのかぐやま)
          持統天皇 万葉集1巻28

という有名な短歌を元に、

春過ぎて
  夏来たるらし 衣かな

 このような本歌(もとうた)に依存した落書きは、練習や、本歌のすばらしさを表明するのに留めて、それを自分の作品だと信じ込むような醜態だけは、どうか晒さないで欲しいと思います。

 本歌を参照にしていることを分からせながら、新たなことを詠むことを「本歌取り(ほんかどり)」と呼びますが、上の練習くらいのものは、もし作品であれば「改編(かいへん)」悪くすれば「パクリ」には過ぎません。でもたとえば、

しろたへの
  衣も干さず 夏の山

と歌えば、下手ではありますが、本歌を参照にしたことを表明する事によって、本歌を利用して、何か新しいことを詠んだもの。すなわち「本歌取り」と呼ぶことが出来ます。もちろん短歌でやっても同じですが、以前に説明はしませんでしたので、下に定義だけ加えて起きましょう。

   [本歌取り]
 元となる詩などを、わざと、参照にしたことを明らかにすることによって、本歌(もとうた)と新しい歌との、内容の対比や継承を生みなしながら、あらたな詩を詠むこと。短歌同士のものは、かつての歌学などで「もとの和歌の言葉は二句まで引用し」など、ルールを定めた歌論書もあるが、おおよそ本歌(もとうた)が読み取れる程度の言葉を借用し、新しい表現を交えつつ詠みなすのが、もっとも一般的なスタイルになる。

 ただしこれも、わざとほんのわずかの言葉だけを変更し、本歌(もとうた)と全く違う魅力を表現するなど、様々な技法が存在しますが、初心者のための解説を離れるので、この辺で定義付けは終了です。

俳句の作り方のまとめ

 この章を「俳句の作り方」に変更し、一章を割いたのは、手軽に日常の詩的生活を楽しむための、基本的な短詩として、短歌と並んで、俳句をあなたのポケットに入れておいてくださったらと、考えたからに他なりません。

 どちらも、詩型の一つには過ぎませんが、均質化された教育システムのたまものか、この形式で作詩を行えば、それだけで詩であると、誰もが認めてくれる。つまり作品として解釈してくれる訳ですから、これほど便利で、ありがたい詩型はない訳です。しかもどちらも、過去からの遺産がありますから、それを参照にして、わたしたちはさらなる表現をも、たとえば外国語の詩を詠むよりは、はるかにたやすく、高みに登ることが出来る訳です。

 それに日常的に使用するのであれば、どちらも私たちの使用している、誰もが身につけている今の言葉で、たやすく詠むことが出来ます。散文でも詩は描けますが、様式化された言葉の結晶を、もっともたやすく表現に収め、しかも相手にも詩と思わせるジャンルが、せっかく石ころの気楽さで、ごろごろ転がっているのですから、どうしてそれを利用しないことがありましょうか。いいや、利用しないわけはないよ(反語)。
 というのは、ちょっとずるい執筆かも知れませんが……

 後はあなた方が、砂に引きこもるミジンコのような小ささで、「俳句の道」だの「短歌の美学」をきわめることこそ文芸などと、引きこもりの手引きのような錯覚に囚われないで、時に応じて、短歌や俳句から、散文の詩、あるいは能力があるなら、古語の詩も、あるいは英語の詩も、または漢詩でも、もちろんその人の言語能力に応じて、描いてくださったらと思っています。ただそれだけのために、私はこうして落書きをしているくらいですから。

 それでは、皆さま、
   次回でいよいよ最終回です。
  ちょっとコメディな俳句でもして、
    今回は終わりにしましょうか。

     「おさめ歌」
はしゃぎして
  雨を降らせて かえるかな
         時乃旅人

               (続)

2016/05/28
2016/06/03 改訂
2017/07/07 朗読+推敲

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