万葉集はじめての短歌の作り方 その四

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朗読ファイル

万葉集はじめての短歌の作り方 その四 形式と修辞法

[朗読ファイル その一]

 さて、これまでは感じたことを、なるべく日常の語りの延長くらいで、あるいは自分用の日記を記すように、分かりやすく表現することを、目標に置いてきました。それは心情を相手に伝えるために、もっとも明快で、間違いのない方針だったからです。けれどもありきたりの表現に過ぎないということが、短歌と呼ばれる詩型によって表現されるべき必然性を薄くし、作品としての価値を、砂丘の砂粒くらいの、ありがちなものにしているのも事実です。

 また一方で、定型を使用した詩にしてしまえば、聞き手である第三者は、それを個人的な会話や日記ではなく、短歌というひとつの作品として、客観的に眺めてしまうことは避けられません。もちろん詠み手にとっても、自らの思いを散文ではなく、短歌という形式にしたいというのは、心情をそのままではなく、様式を持ったひとつの結晶として、残しておきたいからに他なりません。

 そうであるならば、ここからは伝えたい思いはそのままに、どのようにして短歌という形式に相応しい、様式化された詩にしていくか。それを中心において、話を進めていこうと思います。

  もちろん、前回お話ししたようなこと。
 すなわち、内容の散漫なところや、主情に客観性を持たせ、表現を洗練させ、比類ない言葉へ移し替える作業は、すでに詩としての、様式化を進めているには違いありません。ただ詩というものは、「Aメロ-Bメロ-サビ」と配すると、それだけで歌詞らしくなるように、全体の大まかな構造が定められると、それだけで詩的な感じがするものです。そこで、まずは形式について、改めて概要を説明し、また短歌らしく表現するための技法、すなわち修辞法(しゅうじほう)[あるいはレトリック]について眺めていこうかと思います。

短歌の形式

 『万葉集』でよく使用される短歌のパターンは、今日短歌を詠む場合にも有用です。それらは[五七五七七]で表現されるべき、短歌の形式にあったものとして生みなされ、有用だからこそ多くの人に模倣されて、いつしかおきまりのパターンになったもの。つまりは短歌らしく表現するのに、もっとも使いやすくて、もっとも分かりやすい表現に過ぎません。しかし定型とはいっても、土台の輪郭のようなものですから、それに乗せて表現される、あなたの言葉は無限です。(とは言っても、生きている間はですが……)

句切れについて

 文章でも会話でも、意味上の区切りから、句読点や息継ぎが発生します。それをここでは「切れ」と呼ぶことにします。「そう思って、帰ってきました」のように、ちょっとした文脈の分け目に過ぎないものから、「~しました。それから~。」のように、二つの文に分かれているものまで、切れの程度は様々です。

 また短歌の特性上、[五七五七七]のそれぞれの句の境目にも、「切れ」が生じます。私たちは通常、形式上の「切れ」に、文章の「切れ」を合せて、様式的な短歌にしていますが、わざと文章の「切れ」をずらして、形式から逸れたような印象を持たせることも、しばしば行われます。
     「また雨が 降る古傷は 銃痕の」
という上句の「雨が降る」のような効果です。これは、「句またがり」と呼ばれるもので、さらに二つの「ふる」を合せて、「また雨が ふる傷~」と詠めば、掛詞という修辞法になります。掛詞については、後で眺めることにしましょう。また二句は「降る。古傷は」と句の途中で文が終止していますが、このことを「句割れ(くわれ)」と表現します。

 しかし、「句またがり」であっても、句ごとの切れは保たれるのが普通で、様式のもたらす定められた刻みと、言葉の刻みのぶれによって、独特の効果をもたらすのが狙いです。ですから、そのような効果もなくただ、
     「これがあな たのくれたおく りものです」
とやっても、聞き手には、
     「これが、あなたのくれた、おくりものです」
と切れるとしか感じられませんから、
 「句またがり」にはなりません。
   様式から外れて、短歌でなくなったというだけの話です。
    この事を理解していないと、
   独りよがりの、ただの散文をひけらかして、
  短歌であるように吹聴(ふいちょう)することにもなりかねませんから、
   覚えておかれると良いでしょう。

 つまり短歌は、常に定められた「弱い五つの切れ」を、拍子の代わりに刻んでいて、その拍子に合せて、文の切れ目を噛み合わせて、あるいは時にはぐらかせて、読まれていると見ることが可能です。

 これを応用すると、簡単な「句またがり」「句割れ」「字余り」「字足らず」を使用して、様式が崩れそうな、辛うじて持ちこたえそうなところを、ぎりぎり短歌に留まるような、ユニークな作品も生み出せますが、今は皆さまは、そのようなものを目指さずに、様式のうちに、短歌の完成を目指すとよいと思います。概して、その手の作品は、本人ばかりはご満悦ですが、客観的に判断すると、短歌になっていないだけのものが多いです。つまりただの短詩に過ぎないものです。

 この文章と短歌の切れのうち、特に強いものを、短歌の「句切れ(くぎれ)」と呼びます。初心者向けには、句点すなわち[。]が付けられるところを区切れと紹介することもあります。それは文章が二つに分かれている場合、間違いなく切れを感じるからに過ぎません。

 ただ、ある程度の強度の句点[、]でも、前後の内容が離れていれば、十分切れている感じは出ますし、実際の「切れ」の強度というのは、「強弱」で分かれるようなものではなく、もっと連続的なもので、前後の内容と、表現方法によって、強くなったり弱められたりするものには過ぎません。

 そもそも短歌というものは、俳句のように強い句切れを求めるのとは反対に、なだらかな調子を求める傾向もありますから、刺激の強い切れだけを求める、歪んだ学校教育のようなものは、消えてしまった方が良いかと、わたしなどは心配するくらいです。

 以下の形式の説明は、分かりやすく「句切れ」を前後の内容の違いの指標としていますが、内容の移り変わりを、わざと「区切れ」を弱めるように、連続的に移し替えるなど、様々な方法がありますから、あくまでも便宜上の解説に過ぎないことを、分かっていただけたらと思います。

句切れによる構造

 短歌の構造の根本は、句切れによって成り立ちます。それは単に、一つの文脈と別の文脈の間に、強い内容の違いが生じている場合に、句切れが生じますから、その前後で内容が移り変る、そのため前後が別個の意義のブロックとして、把握されるからに他なりません。ブロック同士の関係が発生したとき、詩には構造が生まれるという仕組みです。

 同じ内容の文脈を、順次最後まで通しても、句の切れ目と、文の弱い切れとの関わりから、息切れのような切れは発生します。しかし一つの内容を述べているに過ぎない場合、構造としてはひとつのブロックで、もっとも単純なものになります。

朝起きて
  顔を洗って 食事して
    歯磨きをして 仮病使って

 それに対して、
  全体の内容を、大きく二つに分けて、
    前半と後半でたとえば、
     [状況説明]⇒[心情]
のように配置すると、それだけで二つのブロックに分かれ、構造的になりますから、様式化された詩として把握されやすくなる。しかも詠む方も、同じことを語り続けるには中途半端に長い[三十一字]を、二つに分けて考えることが出来ますから、より表現がしやすくなります。その際、全体の長さから、もっとも多いのは[二句目]か[三句目]で句切れが生じるもので、上下のバランスがほどよいので、安定した表現が可能です。

月影に
   銀のノートを 破く時
 うれしいことも かなしいことさえ

[初句]や[結句]で句切れを生じさせ、たとえば、
     「よろこびは」⇒[その説明]
     [状況の提示]⇒「うれしかった」
のように、心情を表明すると、どちらもその思いを軸に、全体を取りまとめたようになりますから、これも構造的に感じられ、効果的であると同時に、短歌らしく響きます。

たのしみは
   小豆(あづき)の飯(いひ)の 冷(ひえ)たるを
      茶漬(ちやづけ)てふ物に なしてくふ時
          独楽吟(どくらくぎん) 橘曙覧(たちばなのあけみ)

 それとは別に、
    [五七][五七]⇒[七]
    [五]⇒[七五][七五]
のように、[五七]あるいは[七五]のくり返しに、何らかの関連性を持たせながら、三ブロックにまとめると、言葉数の定型を何度か繰り返す印象がまさりますから、詩的に感じられるようになります。

コーヒーは ミルク入れずに
   紅茶には お砂糖もなし
     あなた何党?

 以上、このような構造には、[近く]⇒[遠く]、[現実]⇒[心]といった、情景や情緒や時間の変化などに基づく心的構造と、同じような言葉を繰り返したり、「AはBだが」「CはDだ」のような文章構造からもたらされる、表現的な構造があり、それらは実際には混じり合っている場合が多いようです。それで目安として[句切れ]で分けられると説明しましたが、わざとそれを連続的にするような場合もあり、あくまでも参照に過ぎないものです。

 網羅しても意味はありませんので、
  このくらい覚えておけば、実践には十分かと思います。
    次にいくつか、実際のパターンを記しておきましょう。

景+心

 これは『万葉集』の短歌のあり方を説明するのに、使用されることのある定義です。つまり自然などの情景や様々なものを叙して、それを心情に結びつけるというものです。私たちは別に万葉人になる訳ではありませんが、
     [周囲の情景や今の状況]⇒[心情の表明]
というパターンは、短歌の表現の基本となりますので、代表して[景+心]としておきました。(ですから研究上の意味とは異なると思います。あしからず。)

ラムネ玉
  割り取る岩に 背伸びして
    ふざけた君に また逢いたくて

 このように、上の句が[回想の状況]で下の句が[現在の心境]となるもの。あるいは上の句で自然を描写して、下の句で「なんてすばらしい」とまとめるもの。[相手の状況]を描いて、わたしの心情へ移らせるもの。かなり広い範囲の表現を含みます。特に二句切れか三句切れにすると全体のバランスがよいので、自然とそのようになると思います。別に、このパターンに当てはめようなどと、考えなくてもよいですが、たとえば相手と自分の関係を描きたいとき、それでは前半に相手を置いて、自らの思いに流し去ろう。などと、短歌の構成を定めるときに、思い浮かべてくださると、創作の手助けになることもあるかと思います。

 ところで、最初から最後まで[周囲の情景や今の状況]だけを描いて、[心情の表明]を行なわない場合は、聞き手が詠み手の心情を推し量りますから、
     [周囲の情景や今の状況]⇒[心情の表明]
の[心情表明]だけを、短歌の外に追い出したような形になります。

対句法(ついくほう)

「対句法(ついくほう)」あるいは「パラレリズム」というのは、
     「風は吹く、雲は流れて」
     「空は青く、雲は白く」
と同じような表現をくり返しながら、
  類似のことを示したり、
     「今日は晴れ、明日は雨」
     「日は輝き、心は闇だ」
のように、同じような表現をくり返しながら、
  反対のことを示すような技法です。

 このような表現は、日常では話し言葉でも、書き言葉でもあまり使用しませんから、このような「対句(ついく)」が置かれるだけで、様式化された詩のように響きます。それと同時に短歌では、「五七」「五七」と、二句同士のパラレリズムを利用すると、それだけで四句まで完成しますから、最後を結句にまとめればよくなり、形式が整えられます。たとえば、

「かもめ飛ぶ、彼方の雲」
「ふねの行く、遠くの海」

と空と海とを、共に遠方に眺めて、飛びゆくかもめと、漕ぎゆく船を並べます。すると、情景を変えながら、同じパターンを二度繰り返したので、形式の整った詩のように響くという仕組みです。

 このように、同じ言葉運びの文を使用しながら、対比、あるいは対応する一部の言葉を差し替えて表現する修辞のことを、「対句(ついく)」と呼ぶ訳です。形式としてはもちろん、対句表現のまま、

かもめ飛ぶ 彼方の雲よ
  ふねの行く 遠くの海よ
    わたしの故郷

と使用する事が出来ます。
 また逆に、明確な定型の使用を避けて、

かもめ飛ぶ かなたの雲を
   ゆく船の 遠のく海へ
  手を振りながら

のような使用も可能です。
  対句では無くなりますが、
   形式上の借用に過ぎませんから、
  気にすることはありません。

対置(たいち)

 まとめますと、短歌では、内容または表現、あるいはその両方を、対置(たいち)させると、より形式的に整えられた、様式的な短歌と捉えられやすいと言えそうです。(修辞学の対置ではないです。念のため。)内容の対置としては、

[回想]⇒[現実]
[昨日]⇒[今日]
[遠景]⇒[近景]
[君の家]⇒[我が家]

など様々な比較や、情景の変化、時間の推移など、何らかの意図を込めて対応関係を持たせれば、表現が対句(ついく)のように、類似にならなくても、短歌としての構造化は図られます。これはもちろん[情景、状況]⇒[心情]にも当てはまります。

 一方で、表現の対置としては、
  もちろんうまく対句(ついく)を利用すれば、
   それだけで形式が整えられますが、
  そうでなくても、たとえば、
     [AはBである]
     [CはDである]あるいは[CはDであろうか]
のように語るだけで、
 たとえ[AとC][BとD]に対応構造が見られなくても、
  類似の言葉つきからもたらされる、
    表現上の様式化がはかられます。

今日は雨である
  宿題は終わるであろうか

 つまりは、内容や表現の対置に、聞き手が何らかの意図を察知すれば、明確な対応構造を持たなくても、より様式化された短歌のように、感じられるという仕組みです。

まとめの課題

 結論を述べるなら、皆さまは表現に困ったら、中心に述べたいことに、対置する何かを思い浮かべてみると、意外と素敵な着想で、全体をまとめることが出来るかも知れない。ただそれくらいのお話しには、過ぎないのでした。

 それでは最後に、課題を出しておきますので、
  どれか、関心のあるものがありましたら、
   一つでも二つでも、実行して、
  短歌を詠むのが日課です。

・上の句に眺めた情景を描き、
   下の句で心情にまとめよ。

・上の句で夢のことを描き、下の句で現実を描け。
  ただし、直接思いは語らず、
   「寝覚めの窓に小鳥らの声」など、
  情景描写のまま短歌を完成せよ。

・なんでもよいから、二句ずつの対句を作れ。
  また「青い空、白い雲」のように、
   一句ずつの対句を作って、それをもとに短歌を詠め。

・「外は暗い」「家は明るい」を使い、
   二句ずつで何らかの対置をして、結句でまとめよ。
    また一句ずつで対句をつくり、それをもとに短歌にせよ。
   言葉は暗いを闇に、明るいを光などに、あらためても良い。

おまけ

 この形式のところは、全面的に作り替えたい気がしますが、今は不可能ですので、妥協のコマンドを打ち込んで、終わりにします。以下の落書きは、本文とは何の関係もありません。ただの息抜きです。

そっぽ向く
   アンテナ照らす 夏陽には
 さえずる鳥の 片足立ちして

月影の
  寝顔にそっと 口づけを
    いつまで君は 僕の胸もと

さくら/\
   やよふやよいの ふな唄は
 夕べならひの ゆらゆれ提灯/三味の音かな
          時乃旅人

短歌の修辞法(しゅうじほう)

[朗読ファイル その二]

 『万葉集』では、和歌特有の技法である、「序詞(じょことば)」や「枕詞(まくらことば)」などが使用されています。ここからはそれを確認しながら、それがわたしたちの作詩にも、生かせるものであることを紹介していこうと思います。その前に、まずはただ普通の文章で、心理状態を述べることすらなく、ありのままを記述した短歌を、眺めてみることにしましょう。

そのまま歌と倒置法

 念のために言っておきますが、「そのまま歌」などという分類法は、和歌の世界にはありませんのでご注意を。まるで散文で、心情すら交えず、在ったことだけを記すように、修辞のない率直な叙し方の短歌です。

ひむがしの
   たぎの御門(みかど)に さもらへど
 昨日も今日も 召(め)す言(こと)もなし
          よみ人しらず 万葉集2巻184

[東宮である、多芸(たぎ)の御所に使えているが、
   昨日も今日も、なんの命令もない。]

[「さもらふ」は「さ・もらふ」で「様子を伺い続ける」の意味から、命令を待って控えているような意味に使用される。その後の「さぶらふ」、さらに「さうらふ」の古い形。]

 感想すら述べていませんが、「昨日も今日も」とわざわざ断ることによって、ただの説明書ではなく、「召されていない」という心情を含む表現になっています。ですからちゃんと、心的指向性は込められる訳ですが、ただこれだけだと、召されなくて良かったのか、悪かったのか、具体的な事は分りません。何らかの思いを持った役人が、御門(みかど)に立っている姿は浮かんでくる。それで、
     「お召しがなくってさあ」
と感慨を述べているようなイメージが沸いてくる。「そのまま歌」ではありますが、ちゃんと語りかける短歌になっていると言えるでしょう。

 ところで前回「外部補完型の短歌」ということを、お話ししました。また、幾つかセットになっている短歌についてもお話ししました。実はこの和歌は、天武天皇(てんむてんのう)(在位673-686)が亡くなった後、天皇になることを期待されていた、息子の日並皇子(ひなしのみこ)(662-689)[=草壁皇子(くさかべのみこ)]が、若くして亡くなったときの、役人達の短歌の一つです。
 まず『万葉集』でもっとも有名な歌人である、柿本人麻呂(かきのものとのひとまろ)(660頃-720頃)の長歌(ちょうか)が長らかに続き、その後ろに並べられたものになっているのです。つまりその中にあると考えれば、この短歌は亡くなった主人を偲(しの)びながら、「もうご命令がない」と嘆いた短歌になる訳ですが……

 それでは、このような和歌の価値を、どのように捉えればよいかと言うことですが、別に「詠み手の思いを推し量るこそ鑑賞である」などと、豪語する必要はありません。単独の和歌として通用するものは、セットものであろうと、詞書き付きの和歌であろうと、それらを取り除いて、三十一字(さんじゅういちじ)として解釈も出来ますし、単独の価値も存在する。一方で、もちろん、それらを含めた価値も存在する。そのくらいの認識で、楽しんでいただければ良いかと思います。また三十一字(さんじゅういちじ)だけでは、自立的な解釈が付かないようなものは、「外部補完型の短歌」として、トータルで楽しんでいただければよいのです。
 それだけのことに過ぎません。

     『難波のみやこを改造した時の歌』
むかしこそ
   難波田舎(なにはゐなか)と 言はれけめ
  今はみやこ引き みやこびにけり
          藤原宇合(ふじわらのうまかい) 万葉集3巻312

[むかしは難波の田舎と言われたが、
  今は都を引き入れて、都らしくなった。]

[「みやこび」は「みやこらしくなる」の意味で、「大人びる」(大人らしくなる)の「び」と同じ用法です。]

 これも、自分の直接の心情は表明せず、
  そのままの感慨を述べたものですが、
  「昔は田舎と言われたが」
   「今はみやこらしくなってきた」
という表現から、都らしくなったことを快く思う心情は、十分伝わってくるかと思います。特に先ほどの「お召しがなくってさあ」では、状況説明に毛が生えたくらいで、深い思いは感じられませんが、「都らしくなってきた」という語りかけには、時間の経過のなかで、以前と今を比べたような感慨がこもります。それで詠み手の思いは、「そのまま歌」ではありますが、ちゃんと伝わってくるのです。

 これは、自然描写だけで短歌を終えてしまっても、それを眺めて歌にした詠み手の着眼点と、浮かべられた情景自体から、心情が伝わって来るのと一緒です。その情景そのものが、心的指向性を表明していますから、直接感情を述べる必要性は、必ずしも無いわけです。

公園の
  ぶらんこ揺らして 待つけれど
 昨日も今日も あなたは来ない

  「待つあなたは来ない」
 だけではさすがに、心情を受け取るにはもの足りませんが、「待つけれど」と一度途切れ、「昨日も今日も」と、私たちの感覚に即した期間を加えることによって、「あなたは来ない」が、こんなに待っているのにという印象となって浮かんでくる。現代語にするなら、このような方針になりますか。

 ついでにこれを、
  「倒置法(とうちほう)」で遊んでみるのも、
   おもしろいかも知れません。
  もっとも簡単なのは、
 上下の入れ替えです。

昨日今日
   あなたは来ません 公園の
  ぶらんこ揺らして 待ち続けても

  これだと「あなたは来ません」と、
   思いを先に述べることによって、
    待ちわびる気持ちが強く表われてくる。
     さらに二句目で文章が途切れ、つまり「二句切れ」をして、
      また三句目から語り出しますから、
     行間に余韻のようなものが生まれます。
    また語り半ばで切れた結句の先にも、
   言い残した心情があるように感じますから、
  簡単にして効果的な方針だと言えるでしょう。
 ただし心情が強く表われると、
  説明書した「昨日今日」が鼻につきますから、
   冒頭は「今日もまた」などに、置き換えられるかと思います。
    また他のヶ所でも倒置は可能ですから、

待つけれど
   昨日も今日も あなた来ない
 公園ぶらんこ 揺らし揺らして

ぶらんこを
   揺らして今日も 昨日さえ
 来ないあなたを 公園に待つ

 このように文章を倒置、というより組替えると、さまざまな表現が可能になります。その際、大切なことは、自らの伝えたい思い、この場合は「あなたを待つ」という心情を大切に保って、もっとも相手にうまく伝えられるように、同時にナチュラルな語りかけで、描き出すのが理想です。あとは推敲を重ねれば、体裁も整います。またそれを出発点にして、さらなる高みを目指しても構いません。

待ちつくす
   今日から明日は 公園の
 あなたに揺れる 恋のぶらんこ
          手直歌 時乃遥

   「あるいはぶらんこの代わりに」
待ちつくす
   今日から明日は 公園の
 あなたに揺れる 恋のこもれ陽
          手直歌2 時乃遥

 さらりと語られたようでありながら、実際はすぐには言えそうもない表現。それがすばらしい詩を作る、あるいは秘訣なのかもしれません。それを意味だけにこね回して、文法だけはあっているような配列に仕立てても、口に唱えて不自然な落書は、たちまち興ざめを誘います。

 クロスワードは知恵で楽しむものに過ぎませんが、それと同じような感覚で、言葉をもてあそぶことに、よろこびを感じる人たちが、一定数、存在するのは避けられません。ただ私たちは、それとは異なるところに、目標を置きたいと願うばかりです。

  では今回の課題です。
 今までノートに記した落書から、倒置しやすくて、倒置したら効果のありそうなものを選んで、何個か「倒置法」を利用して、短歌にしてみましょう。ついでに、これまでの短歌から、すでに「倒置法」になっているものがないか、探してみましょう。私たちは意外と自然に、倒置法を使用しているものですから、自分はこんなに倒置しまくっていたのか、と思う人もあるかもしれません。

 実はそれは、倒置させているのではなく、説明的文章に改めると、倒置しているように見えるに過ぎない、というのが「倒置法」の実体です。「美味しいね、この店の料理」と話しかける時、「この店の料理は美味しいね」を倒置させてしゃべってる訳ではありません。心情を表明して、その説明を行う。それが語りかけとしては、通常の状態なのです。それを「倒置されている」と説明するのは、なんだか変な話ですよね。だから学生で、少し違和感を覚える人もあるかも知れません。あなたの違和感は、別に間違ってなどいないのです。
 ただそれだけの真理でした。

つかの間コラム 詩の形式

 正式な定義ではなく、分かりやすく述べたものに過ぎませんが、似たような口の動きで発声される、似たような響きの言葉を「韻(いん)」と呼びます。中国や欧米の定型詩では、この韻を揃えるということが、大切な要素ですから、「韻文(いんぶん)」という表現には、自ずから韻(いん)を揃えるということが含まれる訳ですが、「韻文」という言葉を輸入した日本においては、和歌で定期的に同種の発音をするということは、詠み手の着想としてはあっても、規則としては存在しません。

 それで短歌や、俳句などは、散文に対して「韻文(いんぶん)」と呼ばれますが、「韻」を含んでいる訳ではありません。「韻律(いんりつ)」という言葉も、「韻を律する」ような意味かと思いますが、我が国では、和歌のような定数モーラによるくり返しに置き換えられています。

 それがどうしたと言われそうですが、日本の詩のことに興味を持って、ちょっと言葉を調べ始めると、「韻(いん)」が無いのに「韻文(いんぶん)」とされたり、「韻律(いんりつ)がある」と表現されるのが、何故なのか、という馬鹿らしいことでつまずいて、しかもなかなか、きれいに説明してくれる辞書が無いものですから、ちょっと老婆心で、(といっても、わたしは老婆ではありませんけど、)はじめに書き加えておきました。

 それで詩の形式も、「韻文詩」といった表現はしないで、「五七五七」のように、一定の字数(正しくはモーラ数)のくり返しで作られた詩は、学校などでは、「定型詩(ていけいし)」と呼ぶようになっているようです。(本当は、「定型」というのは字数だけを指すものではありませんし、むしろ字数など適当でも、日本語の四行詩などは定型として表現したいので、「定数詩」くらいにして欲しかったのですが、どこの誰だか勝手に決めてしまいましたので。)

 それに対して、たとえば、現在の歌詞のように、形式は整っていても、字数による制限のないものは、「自由詩(じゆうし)」と呼ばれます。(幅の狭い詩のジャンルに「定型詩」なんて名称を与えてしまったせいで、数多くの字数の制限のない大和の詩が、すべて「自由詩」の表現でまとめざるを得なくなっています。きわめて質の悪い分類法です。)

 自由詩の一ジャンルとして、「散文詩(さんぶんし)」というものもあります。これは、例えば歌詞のように、文脈や同程度の言葉数で改行したりせず、普通の文章のように記してはいますが、実はただの散文ではなく、詩的な散文であるという定義です。

 どこまでいっても、分類の意義を知らないような分類法で、散文というのは韻文に対して、制約のない文を差すのですから、連続的に書かれていようと、書かれていまいと、散文に代わりはないのです。

 どうやらこの分類は、わたしには理解不能です。外国から概念を輸入してばかりいるから、こんなことにもなるのです。振り出しに戻って、「韻」があろうと無かろうと、短歌や和歌の表現は、伝統的に「韻文」として定義されているのですから、それをもとに定義した方が、はるかにうまくいきそうです。
 わたしは、わたしの道を歩むことにします。

 したがって、次の定義は、
   一般とは異なる、私だけの定義に過ぎません。
  一般定義は……
     憤慨すると見せかけて、一応しておきましたけど。

詩の定義

 現在使用されている表現を利用したものを、「現代文(げんだいぶん)」、過去に使用されていた表現、及びそれを体系化したものをもとに、表現されたものを「古文(こぶん)」と呼びます。「古文」には、その時代に応じた特徴があり、さらに細かく区分分けされる事があります。

「口語(こうご)」「文語(ぶんご)」という表現もありますが、実際の意味は「会話などで使用する言葉」と「記述に使用する言葉」という意味しかありません。今日、和歌や短歌で言うところの「文語」とは、「文語体(ぶんごたい)」の「和文体(わぶんたい)」や「和漢混交体(わかんこんこうたい)」などに当たります。

 和歌や短歌など、一定のモーラ数のくり返しによる規則を持ったものを「韻文(いんぶん)」と呼びます。それに対して、制限のないものを「散文(さんぶん)」と呼びます。

 韻文で書かれた詩を「韻文詩(いんぶんし)」と、散文で書かれた詩を「散文詩(さんぶんし)」と命名します。

 詩の構造に、何らかの一定形式が認められるものを、「定型詩(ていけいし)」と表現します。それに対して、詩の構造に、何らかの一定形式が認められないものを、「不定型詩(ふていけいし)」と命名します。

 上の説明のうち、「韻文詩」の「定型詩」のジャンルは、短歌や長歌や旋頭歌や連歌や俳句など、広義の和歌と呼ばれるものが相当します。漢詩なども含まれますが、つまり「韻文詩」には「定型詩」しかありませんから、「韻文定型詩」のことを、ただ「韻文詩(いんぶんし)」と呼んで差し支えありません。

 「散文詩」の「定型詩」には、「一文詩」「一行詩」「四行詩」といった文や行数によるものから、異国様式の入れ子だけを借用した、「ソネット」「バラード」(定型詩としてのバラードのこと)のような形式。また類似する楽曲の影響を受け、おおよその形式が定められている、流行歌の歌詞などがあげられます。また「三行詩」や「四行詩」をひとつの単位として、いくつか連ねていく、複合形式(ふくごうけいしき)も、よく利用される形式です。歌詞の一番、二番もこれと同種ですから、複合形式と見なすことも出来るでしょう。

「散文詩」の「定型詩」「不定形詩」を合せて、西欧の定義を輸入した「自由詩(じゆうし)」という表現を使用する場合がありますが、日本では単に、「韻文詩」ではないことを表明しているに過ぎません。

 さらに、何らかの一定形式が認められないばかりか、通常の散文の記し方そのままで記された詩文を、「常態散文詩(じょうたいさんぶんし)」と命名します。したがってこれは、「散文詩」の下位ジャンルに過ぎません。

 西欧の詩は、「韻律(いんりつ)」と結びついた状態が長らく続きましたから、その自覚的な解体の中で、「自由詩」「散文詩」といった定義が生まれましたが、我が国の場合は、「方丈記」でも「平家物語」でも、明白に語りのために描き出された特殊な表現、すなわち詩文ですし、「伊勢物語」や「枕草子」なども、通常の散文というよりは、語られるときの表現をきわめて意識した、やはり詩文になっています。つまり我が国では「韻律のない自由詩」で「連続的な散文詩」である詩というものは、古くから使用されてきた、当たり前の様式に過ぎません。松尾芭蕉の「奥の細道」が、ただの散文と発句の連なりではあり得ないことは、同時代の一般的な紀行文を読めば、きわめて明白です。全体が詩として、構築されていることは疑いありません。

 したがって、特に我が国では伝統ジャンルである、「常態散文詩」の事を、ただ「散文詩(さんぶんし)」として定義する場合があります。あるいはまた、「継続的散文詩」と呼んでも構いません。「古事記」なども、(変体漢文ではありますが、)語りを意識したもので、全体が詩文の傾向が強いですが、もとより「韻文」で書いたものではありません。

 ただし、そもそも和歌の表現と結びついたような、古典の語り自体を、「散文」という分類ではなく、詩的表現をするための特別な表現として、定義し直した方が良いのかも知れませんし、「韻文」の定義にしても、モーラ数で説明する定義自体に問題があって、他の何らかの定義を、「韻文」に当てはめ直した方がいいような気もしますが、残念ながら、私の領域ではありませんので、お開きにしたいと思います。

枕詞(まくらことば)

[朗読ファイル その三]

 枕詞(まくらことば)とは、和歌の内容とは関係なく、ある言葉(多くは単語や地名)が使用されるときに、その言葉を修飾するように、その言葉の前に置かれる修飾語です。たとえば「山」という言葉には、「あしひきの」(後に「あしびきの」)という枕詞が使用されますから、

山に雲が掛かっている

というような、つまらない文章も、

あしひきの山に雲が掛かっている

 日常会話から離れた印象を受けると思います。
  ちょっと、特別な表現のように感じられる。
 多くが五文字で、一句分を埋めると同時に、より和歌らしい、様式化された作品に移しかえる働きがあります。もっとも、その由来や、本来の役割などは、明確でないものが多いようですが、すでに万葉集の時代から、ある言葉に掛かる修飾語のように使用されていた節(ふし)もありますから、私たちはただそれが、枕詞だと分ってさえいれば、今はそれで十分です。またもし、あなたが『万葉集』を好きになって、いろいろな和歌に接するようになれば、自然と覚えてしまうものですから、「枕詞暗記術」などあやしい妖術をなさらなくても、なんの問題もありません。

(それにしても、枕詞の一覧を覚えさせるって、
  それって教育なんでしょうか?)

 実際の由来は複雑なようですが、
  ここでは仮に、たとえば、
   「すなつぶの星」
という言葉が流行して、みんなが「星」という単語を使用するたびに、「すなつぶの星」と語っているうちに、ついには「すなつぶの星マークを記入して」というように、実際の星を指さない時まで、それが儀式的に使用される。挙げ句の果てには、坊やが星を指さして、「あっ、すなつぶのが輝いている」と言っても、誰も不思議がらなくなってしまった。そのくらいの物と思っていただければ、初めの一歩としては、よろこばしいくらいに思えます。

 ただその言葉が、
  詩で伝えたい内容に対して、
 直接的関係にはない、形式的な修飾語であるために、これを使用すると、和歌を主観的表現から遠ざけ、日常の語りから離れた、様式的な詩として、作り直されたもののように、聞き手に感じさせます。それをうまく利用すれば、詩の形式を整えながら、ちょっと主観を離れた、短歌らしい短歌を、描き出すことも可能になりますが、逆に使い方をあやまると、
   おかしな表現にも陥る訳で……

人言(ひとごと)を
  しげみと君に たまづさの
    使ひもやらず 忘ると思ふな
          よみ人しらず 万葉集11巻2586

[人のうわさが 絶えないものですから
   あなたに (たまづさの) 使いも出せません
  忘れてるなんて思わないでください]

  「たまづさの」というのが枕詞で、
   「使い」に掛かっています。
   それだけで、なんだか、
  格調のある短歌のような、見てくれになるのは便利です。
 ところが「たまづさの」を取り除いた部分が、
    「人のうわさが 絶えないからとあなたに、
      使いも送りませんが、忘れたと思わないで」
 上の句の言い回しはともかく、下の句は、まったく表現にこだわりがない、ほとんど日常表現に過ぎないために、それに掛けられた(たまづさの)が、浮いてしまい、様式的な短歌の枕詞と言うより、日常会話に「たまづさの」を持ち込んだような印象がしてきます。すると今度は、それが仇となって、心から「忘れたと思わないで欲しい」と語っているのではなく、ちょっと言葉遊びをするくらいの、軽い冗談のうちに、訴えているような気配がしてくる。

 もちろん、それが悪いと言っているのではありません。
  ただその辺りが、この短歌の価値だと述べているに過ぎません。
 つまりは、枕詞を使用して、より深みを増すような表現もあれば、このように気軽に使って、ちょっとしたユーモアくらいの、表現に済ませてしまうこともある。それでもこの短歌は、残されるほどもない日常的な語りかけを、枕詞があることによって、短歌らしく保っていると、見ることも出来るのです。あながちに、悪い例ではありません。

しらぬひ
   筑紫(つくし)の綿(わた)は 身につけて
  いまだは着ねど 暖(あたゝ)けく見ゆ
          沙弥満誓(しゃみまんぜい) 万葉集3巻336

[(しらぬひ) 筑紫の綿は 身につけて
  まだ着てはみないけど あたたかく見える]

 冒頭の「しらぬひ」が筑紫(つくし)の枕詞で、
  筑紫はこの場合、九州地方くらいです。
 枕詞は一説には、和歌の形式が「五七」を基調とするのに合わせて、五文字に整えられていったともされますが、このように四文字のものもあります。ここでは、「まだ着ていない服だけど、暖かく見える」というありきたりの表現を、「しらぬひ筑紫の綿」と置くことによって、改まって賞翫(しょうがん)[味わい、大切にすること]するほどの、とっておきの服のように感じさせています。同時に、ちょっと薄っぺらな着想を、うまく短歌らしくするのに成功しています。それで語り手の思いと、様式化された和歌の姿が、すぐれた物とまでは言えませんが、暖かくかみ合っているようです。

はるかすみ
  井の上(へ)ゆ直(たゞ)に 道はあれど
 君に逢はむと たもとほり来(く)も
          よみ人しらず 万葉集7巻1256

[(春霞)
    井戸のところをまっすぐに 行く道はありますが
   あなたに逢いたくて まわり道をして来ました]

 「た廻(もとほ)る」
というのは、「もたもたする」「行ったり来たりする」ような逡巡(しゅんじゅん)[ぐずぐずする、ためらうこと]する言葉で、時々登場しますので、覚えておいても損はありません。「井」は現代語訳では「井戸」と訳してありますが、この時代はむしろ、自然に水が湧き出てくるようなところを、述べた場合も多いようです。

 ところで冒頭の「はるかすみ」は、実際の霞ではなく、ただ「井」に掛かる枕詞に過ぎません。万葉集の枕詞の使い方は、たとえば秋の和歌で「はるかすみ井」と表現しても、それは秋とは関わらないという姿勢ですが、伝統から離れたところにある私たちからすれば、たとえそれが枕詞だと分かっていても、なかなか「たもとほる」の意味を教わったときのようには、それが実態のない「春霞」だとは感じづらい。意味の分からない枕詞ならいいのですが、この場合はどうしても、実際の春霞が浮かんでしまいます。確かにこの和歌は、内容的には、春霞のなかにあってもよさそうですが……

 この短歌の場合は、二句目以下の内容が、「井戸のところを直進の道はあったが」と「回り道」に対する解説を始めてしまいました。その説明が過剰すぎて、「いつもの道をやめて回り道をして来たよ」くらいなら伝わる思いが、むしろ状況を説明するのが目的だったように、聞こえてしまいます。そのため、枕詞であろうと、実景であろうと、和歌らしく開始された冒頭の「はるかすみ」が、かえって浮いてしまう。ちょっと、ばらばらな印象が残るようです。

あしひきの
   山は百重(もゝへ)に 隠すとも
 妹(いも)は忘れじ たゞに逢ふまでに
          よみ人しらず 万葉集12巻3189

[あしひきのと讃えられる山が
   幾重にも重なって隠したとしても
     お前のことは忘れたりはしない
   じかに逢うまでは決して]

 「あしひきの」
後には「あしびきの」と語られますが、多くは「山」に付くこの枕詞くらい、職権乱用をきわめる枕詞は、おそらく他にないかと思われます。特に勅撰和歌集の時代になると、枕詞と言えば「あしひきの」と言うくらい、あまりにも目に付く表現になっています。ですから皆さまも、「あしひきの山」だけは、覚えておくと便利です。いや、あるいは覚えようとしなくても、きっと嫌でも、覚えることになるでしょう。

 さて、この和歌は、下の句が本体ですが、
   「嵐で橋板が落ちて行けなくなっても」
      「井戸を直進する道がふさがれても」
などと無駄に詳細は記さずに、
 隔てられた山々のことを、

あしひきの
   山は百重(もゝへ)に 隠すとも

 つまりは「山は隠すとも」
  と言っているに過ぎません。
 ですが、山に「あしひきの」という枕詞が掲げられ、何かありきたりでない山々のような印象がするところに、「幾重にも」ではなく「百重(ももえ)」に重なっていると、写実性(山の重なっている量)を遠ざけ、抽象性(山が多いことの比喩)を高めた表現が加えられますから、恋人に逢うまでの、遙かなる距離を感じさせることに成功しています。

 この上句の表現によって、
      「あなたを忘れない。また逢うまで」
という感慨は、日常会話からは切り離され、心情はそのままに、詩として歌い直された印象が籠もりますから、その思いが伝わってくると同時に、詩としての様式美も認められ、短歌として、唱えたくなるような作品になっています。

 際だつ表現もありませんが、
  このくらいの短歌こそ、
   初めて三十一字(みそひともじ)を試みる人の、
  理想ではないでしょうか。

枕詞の今日の使用について

 今のわたしたちは枕詞を使用しませんし、枕詞を使用して短歌を詠むという伝統も廃れましたから、それを安易に持ち込むことは、独りよがりのお遊びに陥る可能性を、大いに秘めていると言えるでしょう。現代の表現に、安易に枕詞を持ち込むことの弊害は、当時代の表現に、安易に枕詞を持ち込んで、なんだか分からない表現を満喫した、なんちゃら茂吉(もきち)の例を見れば、十分すぎるほど明らかです。

 ですから、「一本のあかあかとした道」のような、今の言葉にも、擬古文にもなっていないような落書きは、わたしたちは決してするべきではありませんし、そもそも、そのような歪んだ表現を、無垢な学生に、叩き込むような洗脳は、するものではありませんが、たとえば一つのやり方として、

あしびきの 山田さんちの 奥さんは
  お里に逃げて ここ二三日

のような冗談と分かる表現に、
  折り込んでみるのが簡単です。
 あるいは、そうでなくても、

あしびきの 山路に迷い
  ぬばたまの 闇におびえて
    震え飲む水

あしびきの
   山路に消えた たましいを
 石碑に刻み しぶく滝の音

としたところで、当時の用法に乗っ取っていれば、
  表現は保たれるかとも思われますが……
 それはわたしたち、初心者のめざすところではありません。

 むしろ、そんなことをするより、
   自分で作った現代版の枕詞を、
  勝手に利用してみるのがゆかいです。

 「今日は(にわとりの)早起きをしてみました」
   「(にわとりの)早起きをして歯を磨く」(上の句)
 「(おふとんの)寝覚めの朝のよろこびは」(上の句)

 おわかりでしょうか、
   これは一種の暗喩(あんゆ)に過ぎません。
  けれどもし、あなたがそれを使い続ければ、
    それはあなたの枕詞とも言えるでしょう。
      友だちが一緒に使ってくれたなら、
        ますます枕詞になるでしょう。
      暗喩に還元されますから、
    いつわりの言語にもなりません。

そんな表現を探してみて、
  万葉集の時代を物まねしてみたら、
    あるいはユニークな短歌が、
  生み出せるかも知れませんね。

〆の課題

  それでは最後に、
 今回は皆さまお気に入りの、いつわりの枕詞を考えて、それを元にして短歌を詠んでみましょう。簡単に言うと、「五文字の比喩」に当たりますから、枕詞とは関わりなく、現代の短歌にも使える手段になります。なるべく全体の意味と、掛け合わせるのが理想ですから、実際は自分の枕詞などと、定型化するよりも、あくまでも「いつわりの」ものに過ぎないと捉え、状況に応じて、すぐさま作り替える、小技として覚えておくのが便利です。たとえば、
     「(はてしない)⇒時」
     「(日焼けする)⇒日、太陽、光線」
     「「(プチトマト)⇒バジル」(難題?)
などいくらでも出来そうですね。

  それではさっそくノートを開いて、
    でもちょっとでも、頭が痛くなってきたら、
 報われませんよ、さくっとあきらめて、
   コーヒータイムがさわやかです。


水しぶき 庭きらゝめき
   プチトマト
 バジルの風の 贈りものして
          難題歌 時乃旅人

 また、せっかくですから、
   (たまきはる)⇒「命」
   (ぬばたまの)⇒「夜」「闇」
   (あしびきの)⇒「山」
など、良いか悪いかは抜きにして、
 かつての枕詞を利用して、短歌を詠んでみましょうか。
  みんなが輪になって歌ったら、いにしへの枕詞も、
   現代によみがえるかもしれません。
    なーんてね。


     「先陣は俺だぜ」
殴り合う 俺の生き様
  たまきはる お前に捧げる
    命ひとすじ
          いつでも彼方

     「まくらことばなら」
さざ波
  君に寄り添う ぬばたまの
    夜風さやかに 月影のワルツ/月影ソネット
          時乃遥

     「なんて作りすぎ、か~もね」
波ぎわに
  君の手握る ぬばたまの
    夜風さやかに 髪をなびかせ
          時乃遥

あしひきの
  あしがらの背の あしき道を
    あしひきのぼる あしがらの神
          あしびきの歌 時乃足人

比喩(ひゆ)

[朗読ファイル その四]

 さて、暗喩(あんゆ)という言葉が出てきましたので、ちょっとだけ「比喩(ひゆ)」について眺めてみましょう。これもまた、「倒置法」と一緒で、学校で直喩やら隠喩やらを並べられて、定義まみれの生き方に嫌気が差して、鳥かごを逃れたいと思った方もいるかも知れません。けれども……

 別に大したことはありません。
  例えば、今述べたばかりの、
   「鳥かごを逃れたい」
  というのが、すでに私たちを鳥に喩えた、
 比喩になっているくらいのものなのです。
  そもそも、学校で習うものですら、

・今のあなたは、「鳥のようだ」「鳥みたいだ」
    ⇒直接「~のようだ」などと定義した「直喩(ちょくゆ)」
・今のあなたは、鳥かごを逃れたいと思っている。
    ⇒直接喩(たと)える記述はなくても、
      聞き手には、鳥に喩えたことが分る
       「隠喩(いんゆ)・暗喩(あんゆ)」
・特に人でないものが、人のするように、
    ⇒車が怒ってやってくる
    ⇒まりもがくぷくぷ笑ってる
      と人に喩えるものを「擬人法(ぎじんほう)」

 この程度の知識でも、十分すぎるくらいです。そうして短歌を読み解くのに大切なのは、これが直喩だとか、擬人法だとか、解剖することではなく、ようするにその部分が「喩えられている」ことが、分かりさえすれば十分なのですから、なるほど難しく考えなくても、日常会話に差し支えないくらいの能力があれば、誰でも悟れるものには違いありません。それを、使いこなすにはまるで、定義が必要なように教えるから、訳の分らないことにもなる訳で……

 そんなことより、
   なにかに喩えて、
     短歌を詠んではみませんか。
   その方が、ずっと近道です。
 その方が、ずっと明快です。
   くすぐったくて、三毛猫です。

     「直喩」
鳥のように
   羽ばたけたなら 毎日を
 捨てられるかな つばさ欲しくて

     「隠喩」
そのつばさ
   羽ばたくいのち 飛び出して
 水遊びする 子どもらの声

掛詞(かけことば)

 一つの言葉に二つの意味を掛け合わせることで、
  わざと変な例をあげるなら、

古今集のわかりません

という表現に、
  「古今集の和歌」は「分りません」
と二つの意味を重ねて済ませるようなものです。

あおによし 奈良の都は 咲く花の
 三十一文字(みそひともじ)は わからずじまい

     「本歌(もとうた)」
あをによし 奈良の都は
  咲く花の にほふがごとく
    今さかりなり
          小野老(おののおゆ) 万葉集3巻328

 あの小野老の歌の三十一文字は和歌である、ということは分らずじまいだったという内容で、このように下手なものは、駄洒落の範疇ですが、もしそれが詩的に興をそそられるまでに、うまく和歌に溶け込んでいるなら、それは芸術性を持った掛詞だと言えるでしょう。(園児にはすべてが駄洒落に見えるには違いありませんが。)
 次のは、わたしのと同じく駄洒落の例。

梅の花 咲きて散りなば
  我妹子(わぎもこ)を 来むか来じかと
    我(あ/わ)がまつの木ぞ
          よみ人しらず 万葉集10巻1922

[梅の花が 咲いて そして散ったら
   わたしの愛する人が 来るか来ないかと
  待ち続けている そんな松の木です]

 別に解説を加えなくても、「待つ」と「松」の掛け合わせが、下手な駄洒落にしか聞こえない人は、多いのではないかと思われます。それには「梅の花」を詠んでいるのか、「松」を詠んでいるのか、ピントが定まらない。つまりは着想に溺れたのも、ひとつの原因になっています。この掛詞という技法は『万葉集』の時代よりも、むしろ『古今集』の頃から盛んになる技法なのですが、それには平仮名の使用が関わっているようです。

 掛詞などは、それぞれの和歌が紹介されたところで、ふむふむと納得して頂けば、駄洒落と味わいの区別も、次第に分ってくるかと思われます。一方で、当時の和歌であれ、今日の表現であれ、これをきれいに歌うのは、なかなかに難しいものなので、初学どころか、あるいは中級でも、あえて真似する必要はありません。ただ、もし気づかれないくらいに、さらりと使いこなせたなら、あるいは今日でもすぐれた作品を、生みなすこともあるかと思います。

 もちろん、試して見る分には、
   なんでも経験することは良いことです。
     ではさっそくノートとにらめっこです。
   ただし、次のはひらめきまかせの、
 適当な例ですので、あしからず。


     『神社の絵馬に』
絵馬にそっと
   君の名前を 結びまつ
 春告鳥の 予感まだかな/なのかな
          提出歌 時乃旅人

つかの間コラム 八代集の時代

 『万葉集』の存在が大きすぎるために、私たちは、奈良時代に和歌の大流行でもあって、それが廃れて、800年代は漢詩が流行し、和歌は日陰者の生活を強いられたように考えがちですが、実際に天皇がおおやけに認めた、つまり勅撰(ちょくせん)の漢詩集である『懐風藻(かいふうそう)』は751年の序文を持って、『万葉集』より先に完成しています。

 この漢詩集は、大伴家持の作品は収められてはいませんが、『万葉集』にも登場する歌人たちも多く、まさに同時代の精神から生みなされたもののように思われます。あるいは『万葉集』も勅撰を目論(もくろ)んでいたものでしょうか、実際のところ『万葉集』は天皇の承認を得た、勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)となることはありませんでした。

 つまり、大陸との繋がりから、漢風文化(かんふうぶんか)が栄えていたこともあり、政府機関の公認が、まず漢詩から行なわれたに過ぎなくて、もし『万葉集』というものが、運良く残されなかったら、奈良時代以前の和歌が、ほとんど存在しなかったかのようになってしまうのと同様、800年代にも和歌というものは、非常に好まれていたのかもしれません。しかしその多くは、『万葉集』から漏れた和歌が、ほとんど消滅してしまったように、波に返されてしまいました。

 いずれにせよ、実際に和歌が天皇の名のもとに、朝廷の公認歌集となるのは、800年代後半の宇多天皇(うだてんのう)(在位887-897)の時代の、和歌の隆盛(りゅうせい)を経て、905年、醍醐天皇(だいごてんのう)(在位897-930)の承認を得た『古今和歌集(こきんわかしゅう)』の成立を待たなければなりませんでした。

 この時、和歌を選び出す選者に選ばれた、四人のうちの一人が紀貫之(きのつらゆき)(866or872か?-945?)です。彼の名前は、男のくせについうっかり(じゃないですが)平仮名で日記を書いてしまったという、例の「土佐日記(とさにっき)」でも知られています。

 その後、村上天皇(むらかみてんのう)(在位946-967)の時に、「梨壺の五人(なしつぼのごにん)」と呼ばれる、悪に立ち向かう勇者たち……ではなく、和歌の巧みが集められ、全部漢字で書かれていたために、何だか分からなくなっていた『万葉集』の解読作業と、「後撰和歌集(ごせんわかしゅう)」という第二の勅撰和歌集が生み出されます。この時の解読作業がもとになって、平安時代の和歌社会に、『万葉集』ブームがわき起こって行くのです。

 さらに藤原公任(ふじわらのきんとう)(966-1041)の私撰集を元に、天皇を引退なさった花山院(かざんいん)(968-1008)の意向が取り入れられたかとも考えられる、「拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)」が1000年代の初めに完成します。以上、勅撰された三つの和歌集のことを、「三代集(さんだいしゅう)」と呼ぶわけです。

 それからはるか時は流れ、1221年、朝廷と鎌倉幕府のあり方を大きく変える結果となった「承久の乱(じょうきゅうのらん)」が起こります。その少しまえに後鳥羽院(ごとばいん)(1180-1239)が中心となって、藤原定家(ふじわらのさだいえ)(1162-1241)など、おおくの選者の元で完成されたのが「新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)」です。それで「古今和歌集」から「新古今和歌集」までの、貴族社会を中心とした和歌の黄金期の勅撰和歌集のことを、「八代集(はちだいしゅう)」と呼びます。

 その後も勅撰和歌集自体は、二十一代集まで続くことになりますが、貴族社会の変質と、流派の成立と、連歌の隆盛のなかで、和歌社会は新たな局面を迎えることになります。あくまで、はじめて流れを知るためのもので、実際はそう簡単にはまとまりませんが、まずはこのくらいで、初心者の知識には十分です。

序詞(じょことば)

[朗読ファイル その五]

 序詞は、『万葉集』に多用された技法で、
  使用方法も後の時代より、遥かに大胆です。
   まずは良い例を持ち出して、
  紹介がてらに眺めてみましょう。

その一

春されば
   水草(みくさ)のうへに 置く露の
 消(け)につゝも/消(け)つゝも我(あれ/われ)は 恋ひわたるかも
          よみ人しらず 万葉集10巻1908

[春が来れば
   水草の上に 置かれた露が消えてしまう
  そんな風にわたしの心も
    消え入りそうなくらい
      恋しさにさいなまれているのです]

 この短歌は、二つの文脈に別れます。
   まず上の句の、
     「春されば水草の上に置く露の消につつ」
   それから下の句の
     「消につつも我は恋ひわたるかも」
「消につつ」が二つの文脈の両方に掛かります。(ただしどちらの文脈でも意味が同じなので、前に上げた掛詞にはあたりません。)現代語訳に示したように、「露が消えてしまう。そのように私もまた」と比喩として捉えると、意味は掴めるのではないでしょうか。
 ただその比喩が、直接下の句の心情を喩えているというよりも、まずは「消につつ」だけを説明するものとして存在し、「消につつ」を基点に下句の文脈へと移行することによって、二つの異なる内容に、相関関係を持たせながら、一つの詩文をまっとうしている。序詞を使用した甲斐もありそうです。
 次はむしろ比喩でありながら、
  ちょっと失敗したような例をどうぞ。

その二

そき板持ち
   葺ける板目の あはざらば
 いかにせむとか わが寝そめけむ
          よみ人しらず 万葉集11巻2650

[板葺(いたぶ)きのために薄く剥いだ、
  そき板で葺いた板の合わせ目が、うまく合わない。
    そんな風にうまく合わなかったら、
      いったいどうするつもりで、
     わたしはあの人と一緒に、
       寝ることを始めたのだろう。]

 あまりにも生活感あふれる、日常のことを序詞にしたために、感じている思いが、落語などでデフォルメされた、庶民の発するもののように思えてしまう。ちょっと下卑て聞こえるのが傷ですが、同時にそれがユニークで、この和歌の面白いところでもあります。

 ここでは「あはざらば」が、上の句の文脈と、下の句の文脈の、両方の意味を担っていて、それによって「板目が合わないように、この人と合わなかったら」(結婚してうまくいかなかったら、あるいは結婚出来なかったら)という比喩を、下の句に橋渡している。それで上の句はただ「あはざらば」だけに掛かる序詞(じょことば)には過ぎません。

 けれども、一つ前の「置く露の」と同じように、ちゃんと短歌全体の意味の比喩として、不自然でないものになっています。このようにある言葉の比喩ではありながら、全体の意義の比喩として不自然でない序詞のことを、
 「有心の序(うしんのじょ)」と言います。
  それに対して、

燃えまくる
   俺のソウルの 火の粉した
 赤点くらって 追試だとコラ
          いつもの彼方

……赤点に決まってます。
 このように上の句の序詞が、
  「赤」だけを説明して、全体に関わらない……
    なんだか関わっているような気もしますが、
     「水平線を染める夕焼けの赤点」
    とか分かりやすいものにはならなかったのでしょうか。
  とにかく、全体の意義に関わらない序詞を、
   「無心の序(むしんのじょ)」と言います。

その三

みなと入りの
   葦わけ小舟(をぶね) さはり多み
 我(あ/わ)が思(おも/も)ふ君に 逢はぬころかも
          よみ人しらず 万葉集11巻2745

[湊に入る、葦を分けて進む小舟が、
  進むのに障(さわ)りの多いように、
   いろいろと邪魔が多いために、
  わたしが思っているあなたに、
 逢えないこの頃です。]

  これも同じパターンで、
 差し障りが多い、というところで、比喩が実体へと移しかえられている。ところで、なぜ序詞が多用されるかと言うと、それはあるいは、和歌が書き記されるものであるよりも、実際に口で唱えられるものとして、まずは存在していたことと関わりがあるのかもしれません。次の和歌を見てみましょう。

みなと入りの
   葦わけ小舟(をぶね) さはり多み
 今来むわれを 淀むと思ふな
          よみ人しらず 万葉集12巻2998

みなと入りに
   葦わけ小舟(をぶね) さはり多み
 君に逢はずて 年ぞ経にける
          よみ人しらず 万葉集12巻2998(異伝)

  おおよその意味は、つかみ取れるかと思いますので省略。
 先ほど取り上げた短歌と、「さはり多み」までがほぼ一緒です。実は、序詞が多用された理由は、このようにある特定の言葉に掛かる定型文のように、(もちろんこのようなものは一部に過ぎませんが、)序詞が使用されていたせいもあるのです。その利点はお分かりかと思われますが、たとえば、以前に見たこの和歌、

行かぬ我(あれ/われ/わ)を
   来むとか夜も 門閉(かどさ)さず
  あはれ我妹子(わぎもこ) 待ちつゝあるらむ
          よみ人しらず 万葉集11巻2594

 この下の句を、先ほどの序詞に合せるだけで、

みなと入りの
   葦わけ小舟(をぶね) さはり多み
    あはれ我妹子(わぎもこ) 待ちつゝあるらむ

 あるいは、また別の和歌の、

家人(いへびと)は
  道もしみゝに 通へども
    我(あ/わ)がまつ妹が つかひ来ぬかも
          よみ人しらず 万葉集11巻2529

下の句を、組み合わせるだけで、

みなと入りに
   葦わけ小舟(をぶね) さはり多み
    我(あ/わ)がまつ妹が つかひ来ぬかも

もう、短歌が出来てしまう。
 まるで inspiration の欠けらもない、人工無能の産物かと、あきれる方もあるかもしれませんが、必ずしもそうではありません。まず私たちは、あまりにも書かれた文字に慣れてしまっていますから、わたしが皆さまに短歌を作ることを、お奨めする時でさえ、つい何も考えず、書くことを前提に話を進めてしまっている。語り口調などと説明しながら、決して「先に語ってから記しなさい」とは勧めない。それくらい私たちは、書くことによって、詩を生みなしてしまっているのです。それでは、今更ですが、書くという行為を止めて、目の前の対象物を前に、今すぐ、即座に三十一字(さんじゅういちじ)を唱えてみてください。

ちょ、ちょと待て
    何言いやがんだ 急にふるな
  びっくりさせんな すっとこどっこい
          すたこら彼方

……やれやれ、とんだ醜態です。
 あなたも所詮、その程度の男ですか。
  関わらない方が良さそうですね。
   放っておきましょう。

 さて皆さまは、うまく語り尽くせたでしょうか。
  何かに記述するより、
   (もちろんキーボードでもおなじですが)
  口だけで詩を生みなそうとする方が、
 遥かに難しかったのではないでしょうか。

その四

 まして、ひとりで引きこもってならともかく、生活の場で状況に応じて和歌を唱えるとなると、それらしく詠むのは、よほど慣れていなければ、非常な困難がともないます。けれども例えば、「思いも乱れて死にそうだ」といった内容を、即座に歌おうとしたとき、

刈り薦(こも)の 思ひ乱れて
   死ぬべきものを

という表現が、あらかじめ非常手段として、
  ストックされていたらどうでしょう。
   ある人はただ、「お前のために命を残した」
  という簡単な内容だけを、心に描けばもう、

妹がため いのち残せり
  刈り薦(こも)の 思ひ乱れて
    死ぬべきものを
          よみ人しらず 万葉集11巻2764

[お前のために、いのちは残しておいたのだ。
   薦を刈ると乱れるように、わたしの思いも乱れた。
     死にそうではあったが……わたしは生きているのだ。
   そうお前のために。]

と体裁さえ整った和歌を、
 たちどころに詠むことが出来ますし、
  また別の男は、

我妹子に 恋ひつゝあらずは
  刈り薦(こも)の 思ひ乱れて
    死ぬべきものを
          よみ人しらず 万葉集11巻2765

[愛しいあの人に、恋をしつづけるくらいなら、
   薦を刈ると乱れるように、わたしの思いも乱れ、
  もう死んでしまった方がましだ。]

[注意
 この現代語訳、通説に従うも、一つ前の短歌と同じ趣旨で、恋に思い乱れて死んでしまいそうであったが、同時に、恋をしているから、死なずにいたのだ。という意味かも知れず。(今はこのまま過ぎ去るべし。)]

と、即座に歌うことが可能です。
 もう一つ、別の例を見てみましょう。

その五

玉かつま
   島熊山(しまくまやま)の 夕ぐれに
  ひとりか君が 山道越(やまぢこ)ゆらむ
          よみ人しらず 万葉集12巻3193

[「たまかつま」の枕詞をかかげる島熊山。
   夕暮れのなか、そこをあなたはひとりで、
    山道を越えているのでしょうか。]

 この表現も、たとえば『万葉集』の9巻に、

朝霧に
  濡れにし衣 干さずして
    ひとりか君が 山道越ゆらむ
          よみ人しらず 万葉集9巻1666

 あるいは、ちょっと言い換えて、
  『伊勢物語』の有名な和歌、

風吹けば
  沖つしら波 たつた山
    夜半にや君が ひとり越ゆらむ

とあるように、下の句が類似の慣用句になっています。
 さらに冒頭の「たまかつま」は「島」にかかる枕詞。
  どういうことかと言いますと、
 詠み手はただ
  「島熊山の夕ぐれに」
 と思いつけば、もう歌は詠めるわけです。

「なんだと、それじゃあ詩の価値すらねえぜ、
   誰でも出来るじゃねえか」(byいつもの彼方)

 そんなヤジさえ飛んできそうですが、
  実際、覚えている枕詞や慣用句と着想を混ぜ合わせて、
   その場で詠うなんて、簡単に出来そうだとは、
  わたしは思いませんけれども……

 「万葉集」のなかの短歌に、妙に上の句と下の句のバランスが悪かったり、つまらないことを、大層な序詞で申し立てたものがあるのは、誰もが使用出来る慣用的な言葉と、みずからの言葉が、うまくかみ合っていないのが原因かもしれません。そうして慣用的な表現は、歌社会のなかで淘汰洗練され、すぐれたものが残されてきたもの。それだけで歌を、和歌らしく聞かせることが出来る、とっておきの表現になっていますから、たとえば上句も下句も、すべてを借用で済ませたとしても、すぐれた短歌の完成度というのは、つまりは「歌社会全体」の中から、生み出された傑作ということにもなる訳で……

 なかなかどうして、
  すずめの涙ほどの表現にすら、
   自己顕示欲を発揮して、
    俺様の言葉に手を出すなと、
   わめき散らすような輩には、
  及ぶべくもないと言えるでしょうか。

 だから私たちも、もう少し自由に、他人の作品の一部なりを、借用したり取り込んだりして、何か新しい表現を生みなせたら、それを相互に重ねていけたとしたら、個性などしたちんけなまがい物より、素敵な歌が出来るとは思うのですが……

 みんな、そう思ったり、
  口に出したりするだけで、
   誰も実行しようとは思わないのでした。
  めでたし、めでたし。

序詞の使い方

 すいません。
  つい勝手に終了してしまいました。
   序詞が、ある言葉に掛かる比喩に過ぎないのであれば、
  現代においても、十分にその利用は可能です。
 むしろ「現在は廃れた技法である」なんて済ませて、
せっかくの修辞を、闇に葬るような精神こそが芋虫です。
  (成長してみたら、結局はただの蛾で残念です。)
 たとえば、「紅茶を飲んでほっとひと息」なんて言葉は、
  誰でもつぶやけるような、一休みの掛け声には過ぎませんが、

三日前 バーゲンセールで かごに入れた
  紅茶を飲んで ほっとひと息

と紅茶を説明するだけで、もう短歌になります。
  これではあまり、安っぽいのであれば、

イギリスの
  友の手紙は 小包の
    紅茶を飲んで ほっとひと息

くらいに仕立てれば、
  それほど不体裁には見えません。
 あるいはまた「坊やの手、離れていった赤い風船」
   までは着想が浮かんだけれど、
  どうしてもまとまらない場合にも、

いちょうの葉
   真似してひらく 坊やの手
  離れてのぼる 赤い風船

いちょうの葉
   真似してひらく 坊やの手
  三日月慕う 赤い風船

と「坊やの手」に掛かる比喩だけを念じて描き出せば、短歌全体が完成してしまう。つまり本来の序詞の用法というよりも、ある言葉に掛かる比喩から、着想を開花させる手段として、この序詞というものは、非常に便利なものなのです。もちろんいにしえの短歌をめざして、純粋な序詞を仕立ててみても構わない。出来上がった短歌が、そのためにいびつになることなく、かえって詩情豊かに、感じられたらそれで良いのです。

まとめの課題

 では、いくつかお題を出してみましょうか。最終的には本文に溶け込んで、序詞でなくなっても構いませんから、その言葉に掛かる比喩を利用して、短歌を詠んでみることにしましょう。ところであなたのノートブックは、どのくらい埋められたでしょうか。
 そんな誰かを推し量るのも、
   つかの間ふりした愉快です。

・「はなれ雲、~のように眺めていました」の「~」に好きな言葉を当てはめ、「はなれ雲」を初句にして、「~」に掛かる序詞を加えて、短歌を完成させよ。もちろん結句は「見ていたけれど」など、好みのものに変更して構わない。

・「夢を見ました」を元にみじかい文章を作り、
  さらに夢に掛かる序詞を加えて、短歌を完成させよ。

 それでは、このあたりで、
   今回は失礼します。
  最後の短歌を作ろうかと思いましたが、
    あまりにもキーボードを叩きすぎて、
   ちょっと頭がスポンジ状態です。
     仲間もどこかに消えてしまいました。

               (つゞく)

2016/05/05
2016/05/18 改訂
2017/02/10 朗読掲載

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