万葉集はじめての短歌の作り方 その一

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朗読ファイル

万葉集はじめての短歌の作り方

[朗読ファイル その一]

 このコンテンツは、『万葉集』の短歌を用いながら、初めての人が『短歌』を詠むためのコツを紹介すると見せかけて、実際は『万葉集』の短歌にも、短歌の初心者とあまり変わらないくらいの短歌があることを紹介し、『万葉集』に近づきやすくする。一方ではやはり、『短歌』を詠むためのコツを紹介する。という、どっちつかずな落書には過ぎません。

 けれども『万葉集』の詩のあり方を知りたいなら、自分で短歌を作ってみるのが、もっとも手っ取り早い方法ですし、そもそもあれだけ私たちの先輩が、和歌を詠いまくっている喜びを眺めながら、自分では詠ってみようとも思わず、鑑賞するのが趣味でありますなんて、おたまじゃくしもいいとこです。干からびちまって残念です。彼らにしたってその歌を、讃えられるよりなおのこと、自分とおなじ詠い手が、詠い奏でる伝統を、うれしく思うのではないでしょうか。まして短歌なら、わずか三十一字(さんじゅういちじ)です。言葉さえ分かれば今すぐに、誰でも始められるお手軽です。さっそくまっさらなノートブックと、筆記用具を持ち出して、わたしと一緒に三十一字(みそひともじ)を、作ってみることにしませんか。

 もちろんデジタルでも構いません。
  大切なのは、何に記したかではありません。
 自分で記したものにせよ、わたしが紹介した『万葉集』の和歌にせよ、実際に口に出して、何度も唱えてみる。ただそれだけが、詩を楽しむための、王道には違いないのですから。

短歌の形式

 その形式は簡単です。
  言葉は三十一文字(さんじゅういちもじ)です。
   文脈は五つに分けられます。
    そうして文字の数を、
     [五、七、五、七、七]
   にまとめるだけのことです。
  しかも文字の数は、少しくらいなら、
 余分についても構いません。
  足らなくったってよいのです。

 一応、言葉の固まりごとに、
   それぞれの名称があります。
     「初句、二句、三句、四句、結句」
さらに、はじめの「五七五」を「上の句(かみのく)」
  後の「七七」を「下の句(しものく)」と呼びます。
    とりあえずは、このくらいで十分です。
     俳句と違って、季語もありません。
      なにを詠んでもいいのです。
       切れとか関係ありません。
        さっそく作って行きましょう。

つかの間コラム モーラ

 先ほどは、文字数で説明しましたが、和歌の短詩は実際は「拍(はく)」、あるいは「モーラ」と呼ばれるものを基本としています。一定時間内に発音される言葉のまとまりとでも表現されるでしょうか、たとえば「お茶くれ」と言う時の小さい「ゃ」と「切符をくれ」と言う時の小さい「っ」では、発音したとき、次の言葉を発するまでの時間が、異なるのが分かるかと思います。また「テーブル」と発音すると、伸ばされた長音の部分で、言葉を発するのと同じくらいの時間、留まっている事が分かると思います。このような時、
     「お茶」  ⇒2拍 (2モーラ)
     「切符」  ⇒3拍 (3モーラ)
     「テーブル」⇒4拍 (4モーラ)
となります。「母音と子音のひとまとまり」を中心に考える音節ですと、「お茶」も「切符」も「2音節」で、「テーブル」の「テー」はひとまとまりとなって、「テーブル」は「3音節」ですが、私たちが和歌を作る場合には、音節ではなく、実際に発音したときの時間単位である「モーラ」を使用しています。別に意識しなくても、勝手にそうなってしまうと思いますが、一応まとめておきますと、

・普通は一文字が一拍(1モーラ)
・伸ばす音「ー」つまり長音は一拍(1モーラ)
・鼻でする音「ん」つまり撥音は一拍(1モーラ)
・小さい「っ」つまり促音(そくおん)は一拍(1モーラ)
・それ以外の小文字「ゃ」「ゅ」「ょ」などは、
   前の大文字と併せて一拍(1モーラ)
     「おちゃ」で併せて二拍(2モーラ)など

 指を折りながら、字数を数えていると、
  自然にそうなっていると思います。
   以上、はじめのコラムでした。

はじめての落書

 まずは、今日の日付を、西暦から記入しましょう。
  それから「はじめての落書」と書き込みます。
   その下に、なんの屈託もなく、
    [五、七、五、七、七]
   の形式にして、今日あった出来事を、
  書き記してみるのはいかがでしょう。

 もちろん今の言葉で書くのです。
  初めての人でも、
   すでに熟練された表現が一つだけあります。
    それは今あなたが話している言葉です。
     今あなたが書いている言葉です。
      その表現であればあなたは、
       生まれてから今まで使っているから達人です。
      専門家などありません。
     ひとりひとりが達人です。
    それだからこそはじめから、
   あなたは短歌を描けるのです。
  今使っている言葉を使いましょう。

 言葉のまとまりの切れるところと、
  短歌の文字数のまとまりとは、
   一致させるのが基本です。
    つまり「きのうわた しは買い物に」
     ではなく「わたくしは 今日買い物に」
      ということです。
     後のことは出たとこ任せ、
    さっそく飽きるまで書きましょう。
   三つも四つも生まれたら、
  それだけで創造的な気分です。
 下手でも詩人のこころです。
  さっそく描いて見ましょう。


     「はじめての歌」
一つ二つ 描いて見ましょう
  三日月の ほほえみみたいな
    やさしい短歌を
          即興歌 時乃旅人

     「俺様を真似ろ」
よく聞けや
    あいつに思いの ありったけ
  ぶつけるつもりで 歌ってみやがれ
          俺様歌 いつもの彼方

     「簡単でよければ」
玄関を
  開けてまぶしい 街のなか
    出かけてみたいな 今日は日曜
          初めて歌 時乃遥

     「お元気そうですね」
一つ二つ 描いて消して
  三日月の ほゝえみたいな
    恋のらくがき
          訂正歌 時乃旅人

     「それならわたしも」
玄関を
  まぶしく明けて 春の街
    出かけてみたいな 恋して日曜
          訂正歌 時乃遥

 いかがでしょうか、
  さらりとこなせれば良いですが、
   そうでない人もいると思います。
  少しヒントを述べるなら……

 新聞のニュースや、理科の教科書を、
  あるいは料理のレシピや、機械の操作法を記入しても、
    それは優れた詩ではありません。

  普通なら散文として語られるはずの、
 語り手の心的指向性を持った内容を、(もっとも分りやすいのは「喜怒哀楽」などの感情でしょうか、)あえて普通なら語られないはずの、三十一字の詩型に当てはめて、場合によっては修辞(しゅうじ)を加えて表現することにより、伝えるべき心的指向性を保ったまま、言葉が詩型に様式化されて、通常ではあり得ないような、言葉の結晶となる。

 それはある時は、ちょっとおしゃれな表現に過ぎないかも知れませんし、風変わりな面白さになるかもしれません。またある時は、格調高く響くかも知れませんし、人間の心理を突いたような、格言めいた表現になるかも知れません。得られるものはさまざまでしょうが……
 ありのままに、状況を記したようなものでさえ、
  優れた詩には、明確な心的指向性が込められています。
   だから心情で解釈されうるのです。。

 そうであればこそ、初めて聞き手は様式化された言葉に、価値を見いだすのであって、ただ散文を三十一字(みそひともじ)に当てはめるだけなら、ニュースの文章を切り貼りするだけでも十分です。あるいはクロスワードみたいな、着想と頓知のひらめきを、語られ方など無視して、意味だけつなげて押し込むなら、それはもう誰の知性であっても、あるいは学生の宿題であっても、一日に何十も、何百も生みなせるものには違いありません。

     「ただのニュースとはたとえば」
今日未明
   自動車事故が ありました
  何々町で 三人死亡

     「着想と頓知とはたとえば」
自動車は
   虹色つばさを 日にかざし
 滑空もせず 海岸めざして

 語りかけられた言葉であっても、(あるいはそうであればこそ、)相手が不可解なことを伝えようとすれば、聞き手は首をかしげるしかありません。これはもちろん程度の問題で、あらゆる人が聞いて優れた表現などありませんし、特定の人が、特定の言葉に反応しがちである、ということは日常茶飯事です。そのあたりのバランスは、今は置いておいて……

手のひらの
  小さな子供の かおりして
   舞いおどります さくら花びら

   (すいません、これじゃ駄目か?)

はしきやし
   このたましいの さかるとき
  蟻の行列 見てはかなしむ

   (こんなんですか変な着想って……)

 はじめはこのような、常人と異なる、たぐいまれなる着想、フィーリングまかせの発想、めくるめく妄想、ひとりよがりの空想、そんなむなしいものを追い求めるのではなく、空が青かったらすがすがしいな、花が咲いていたらきれいだな、友だちにあったらうれしいな、当たり前に感じたことを、当たり前に伝えるところから、それを短歌の詩形に、つまり[五七五七七]に当てはめるところから、始めてみませんか。

 つまりは、はじめは「うれしい」「たのしい」「くるしい」など、直接感情と結びついた言葉を含んだ短歌を作ってみると、突破口になるとは思いますが、それでもまだ[五七五七七]という枠が、どうしても踏み込めないように思えたら……

散文から短歌へ

 そんな方は、まずは何でも良いですから、
  先ほど開いたノートに、「散文から短歌へ」と見出しを付けて、
   感じたことを「散文」で記してみましょう。
  先ほど述べたように、感情を込めるとやりやすいですが、
 ちょっと客観性を持たせた表現でも、もちろん構いません。

今朝、シクラメンがようやく咲いた。
  うれしくて水をやったら、
    朝日を浴びてきらきらしていた。

鎌倉旅行の二日目。
  今日の昼食はうどん。
 伸びきってまずかった。

仕事が休みなので、ぼんやりしていたら、
  夕暮れになってしまった。一日無駄をした気分だ。

 このくらいの、短いもので十分です。
  そうしたら今度は、それを[五七五七七]にしてみましょう。
   はじめはこだわらずに、散文で書いたままを、
  字数に当てはめるだけでよいのです。
 コツは書いたことを全部込めるのではなく、
  伝えたいところにスポットを定めて、
   それ以外は切り捨てるとよいでしょう。

朝見たら シクラメンが 咲いていた
  水をやったら キラキラしてた

 このくらいでも短歌です。
  ただ、散文のものよりも、
   かえって、説明がちになってしまいました。
    せっかく「うれしくて」という言葉と、
   「朝日を浴びて キラキラしていた」
  と伝えたいところが、そのまま下の句に利用出来るのですから。

うれしくて 咲いたシクラメン 水をやれば
  朝日を浴びて きらきらしていた

うれしいな シクラメン咲き 水をやると
  朝日を浴びて きらきらしてます

 ひとつ作るのにこだわらず、
  いろいろな可能性があるのですから、
   いくつも作ってみるのがよいでしょう。
  作ったら口に出してみる。
 思いを伝えているように感じたら、
  それでよいでしょう。
   なんだかものたらなかったら、
    またちょっと作り替えて、
     ただし、完成品にする必要はありません、
      試してみるのが愉快です。

鎌倉の 旅も二日目 昼食は
 うどんが伸びて おいしくなかった

 これくらいでも短歌です。
  ただ優れてはいませんが、
   美味しくなかったと伝わります。
  けれども……

 散文の方が、かえって思いを伝えていると感じるとしたら、それははじめの語りの方が、「昼食はうどん。伸びきってまずかった」と、美味しくなかった思いが、ストレートに伝わってくるからです。それを三十一字に当てはめようとして、「うどんが伸びて、おいしくなかった」と、ただの説明書にしてしまいましたから、感じた思いから遠ざかってしまった。そうであるならば、下の句を、
  「伸びきっていて、まずいのなんの」
など、心情をないがしろにしないよう、
  言葉に当てはめていけばよいのです。

鎌倉の 旅のお昼は うどんです
 伸びきっていて まずいのなんの

 まずはこのくらいで十分です。
  その後で「鎌倉の旅の」なんて無駄な説明は、
   省いて見せれば熟(こな)れますが、
  今はとりあえず伝えたい、
 思いが残れば十分です。

久しぶり 仕事もなくて ぼんやりと
  夕方になり ちょっと損した

 また、前後1文字くらいの字余り、字足らずは、
  まったく気にせずに作って構いません。
   実は現代語の表現は、
  六文字、八文字くらいを混ぜた方が、
 ずっとナチュラルに響くくらいです。
  無理に切り詰めると、
   形式に犠牲にされたような、
    不自然さが詩情を破壊します。

なんでもない
  会話なんでも ない笑顔
 なんでもないから ふるさとが好き
          俵万智 「サラダ記念日」

 このくらいで、十二分に詩情です。
    六文字、八文字で、かえって生きるくらいです。
  では好きなだけ、ノートに落書をしてみましょう。

はじめの万葉集

[朗読ファイル その二]

 今日のアンソロジーに旨い下手が混ざるように、八代集に秀歌と凡庸なのが交じるように、『万葉集』にもちょっとアマチュアっぽい作品が、数多く収められています。(何しろ歌の総数が4500首くらいありますから。それも当然かと思われます。)優れたとは呼べないそれらの作品には、語りが平坦であるがゆえに、はじめて短歌に接し、あるいは短歌を詠んでみたいわたしたちには、近(ちか)しいものがあるようです。そんな気軽な短歌を眺めながら、先ほど、とりあえず形にした短歌を、よりよくするためのコツを、眺めてみるのも良いでしょう。そうすれば私たちも上達しましょうし、『万葉集』の短歌に接することも出来るでしょう。

子供の落書きから

 先ほども述べました。
  とりあえずは落書を、
   詩形に当てはめては見ませんか。
    そんな時はまず、
   小学生の日記くらいから、
  描き出してみるのもゆかいです。

 今日はお父さんと、お母さんと、川に行きました。
  鳥が飛んでいました。魚を食べたのでびっくりです。
 岩がばしゃばしゃばしゃばしゃしてたよ。

 そんな日記ですが、
   学校の宿題でしょうか、
  これを短歌にしろというのです。
 ずいぶん悩んでいるようです。

パパママと
   川に行ったら 魚がね
 鳥に食べられて びっくりしたよ

 こんなのは詩ではないと、
  怒る方もおられるでしょうか、
   けれどもうまいか下手は別として、
    これはもう詩になっています。
   なぜなら詩型がほぼ守られて、
  「びっくりした」という心情が、
 いやみなく伝わってきますから。

 ただそれが、あまりにも幼い語りのままなので、本人のためには、それで十分ですし、皆さま方にも、初めはこのくらいをこそ、見習って欲しいとは思いますが……
 散文を三十一字にしても、いびつな散文にしか見られないように、日常会話をそのまま三十一字にしても、いびつではないにしろ、短歌である必然性はみとめずらいようです。

 そう思った、お父さんとお母さんは、さっそく話し合って、なんて酷いことをするのでしょう、せっかくの落書きを訂正してしまいました。そもそも、魚が食べられるなんて、残酷だと言うのですから、子供が虚弱体質になるのももっともです。

あの川の
   岸のあたりに 鳴く鳥と
 魚と二つ 忘れられないよ

  これはあんまりです。
 子供の作った方が、はるかに心情が伝わってきます。坊やの一大傑作は、大いになだめられてしまったようです。ただ、これでも、川に行って鳥が鳴いていた事と、魚がいたことは忘れられない。という思いはまだ伝わってきます。まったく不必要な「二つ」などを組み込んで、添削してるんだか、改悪してるんだか、偉大なお歴々の、分ったものではありませんが……

 とりあえず、この短歌から、
  万葉集へと足を伸ばしてみることにしましょう。
   その前に……

 皆さまもまた、坊やを見習って、
  幼稚園児の素直さでもって、
   三十一字(もちろん字余りも大歓迎)を、
  いくつか作ってから進みましょう。


たとえれば
   ひと筆書きの スケッチに
 三色くらいの 色鉛筆して
          時乃旅人

   「どこが園児の素直さだ」
だまされんな
   ひと筆書きは 一色だ
 お前の目だけを 信じて歌えや
          いつもの彼方

   「まあまあ」
たとえなら
  明日(あした)の夢した 未来さえ
    願うこころの 真実なのかも
          時乃遥

はじめの短歌

 さて、先ほどの坊やくらいの三十一字が書ければ、それに少し客観性を加えながら、様式化していくことは可能ですから、なるほど、普通に会話が出来る人であれば、普通に日記を書ける人であれば、だれにでも作れるもの。小金(こがね)さむさぼる出版社の、釣り針の先にくっついた、下手な参考書など購入して、お勉強なさろうなど、改まる必要はありません。。。

 むしろ、お勉強したがりなその根性が、
  あなたを、それらしいものに満足する、
   形式主義者に陥れる、第一歩かもしれません。

 意気揚々と落書きすれば、
  いつの間にやらうまくなる。
 あとは、例えばこれから紹介する、『万葉集』の和歌などを、何度も口で唱えるうちに、自ずから良いものが見えて来ます。いろいろな作品を読むほどに、良いものが生まれてくるには違いありません。そもそもが彼らの短歌にしたって、参考書など読まなくて、何気ない落書きくらいの、素敵な表現力には違いないのですから。

  それではまず、両親によって改変された、
    坊やの和歌から、『万葉集』の和歌へと、
      一歩進んでみましょうか。

佐保川(さほがは)の
   清き川原(かはら)に 鳴く千鳥(ちどり)
 かはづと二つ 忘れかねつも
          よみ人しらず 万葉集7巻1123

佐保川の 清らかな川原に
   鳴いている千鳥と それからかじか蛙と
 その二つの鳴き声が 忘れられないよ

 どうでしょう。
  先ほど両親がしたような、
   「あの川の岸のあたりに」
という、何を差しているのか、本人だけしか分からないような、曖昧なところをなくし、さらにその川原が「清き川原」であったことを、心情を表明して描き出すことにより、独りよがりの描写から離れた短歌。つまり、聞き手の心に、情景を描かせるくらいの、印象の残る短歌くらいには、なっているとは言えないでしょうか。

 さらに「千鳥」と「かはづ」(これは蛙のことで、おそらくうつくしく鳴く「カジカガエル」であろうとされています)という、共に「鳴き声」に焦点を定めることによって、あまり必然性もないような、「鳥」と「魚」のルーズさを逃れています。

 もちろん推し量れば、ご両親の短歌にも、「食う食われる」の関係がないとも言えませんが、そんな風に考察するのも、なんだか頓知めいていて、興ざめがしてきます。それに対して『万葉集』のものは、音声が響き合うから受け止めやすい。対比が生きています。けれども……

 お父さんとお母さんがやらかした失態。
    「蛙(かわず)と二つ」
という無駄な実数が、二つである必然性があまり感じられないために、蛇足のようにむなしく響くのが欠点です。どうしても、間を埋めたような気配がしてしまう。その分、この短歌への心情が離れて、どこかに「つたない」という印象がまぎれ込んでくる。

 つまりは、心情ばかりの坊やのものよりも、体裁を整え損なったご両親のものよりも、立派なものではありますが、全体の趣旨(もっとも伝えたいこと)に対して、それぞれの言葉が持つ必然性を、もっと高めていったら、あるいはこの和歌も、目につくような傷のない、すぐれた短歌になったかもしれない。素直に賞賛しきれない欠点が残るのが、ちょっと残念なところです。

日常会話から詩へ

[朗読ファイル その三]

 さて、お気に入りの短歌は出来たでしょうか。
  つまづいている方もおられるでしょうか。
「三十一字」というと少ないように考える人もあるかも知れませんが、実際はかなりの内容を込められる、十分な詩型になっています。しかも、一人言のようにも、目の前の相手に話すようにも、事務的なことを記すようにも、おおやけの挨拶のようにも、客観的にも、主観的にも、実景を描写しただけにも、どのようにでも詠めますから、かえって初めての人は、とりとめもなくなって、あきらめてしまうようなこともあるようです。

 それで先ほど、直接感情を表わす言葉を使うことを話しましたが、加えてお勧めしたいのは、目の前の相手に実際に話しかけるような表現で、今日心を動かされたことを、短くノートに記してみましょう。感情を表現する「うれしい」「悲しい」などを加えれば、簡単に思いが伝わりますし、そうでなくても「~がきれいだった」とか「~が大きくてさあ」と、対象への関心を述べれば、それも詠み手の思いを込めたことになりますから、無理して感情を表明する必要はありません。
 それではどうぞ。
  (ノートには、常に見出しを付けるのがお勧めです。
    別の日になったら、日付も改めましょう。)

今日は夕日がきれいだったなあ

 もちろんそれくらいで結構です。
  ただ短歌にするだけの材料が、
   ある程度あった方が、後が楽ですから、
  もう少し、その時の思いを細かくして。

夕日がさあ
  いつもより赤くてきれいだったから、
    ついずっと見てたらさあ

夕日見てたら寒くってさあ。
 でもきれいだったなあ。

  出来たでしょうか。
 なるほど、実際に目の前の相手に話すときは、このくらいで済ませてしまいます。けれども詩は、第三者が読むものです。当然目の前にいるわけでもなく、状況が分からないものですから、これでは第三者は、どうしてこのような事を述べたのか分かりません。

 それでは先に落書きした、会話文で表現したときの思いを、今度は相手に語るのではなく、第三者に伝えるものとして、ノートに記入してみてください。ただしせっかく会話文で表現した「きれいだったなあ」という心情を、ただの説明書にするのではなく、思いを伝える表現は、保ったままが素敵です。

夕方ちょっと窓を開けたら、
   夕日がいつもより真っ赤でした。
  あまりきれいなものだから、
     ついじっと眺めていました。

帰る途中に歩道橋で
  夕日を見ていたら寒くて、
 もうすっかり冬ですね。
   それにしてもきれいな夕日でした。

 第三者でなくっても、自分の日記に記すとしたら、このくらいの記述はするのではないでしょうか。この語りかけるように、つまり主観的に思いを伝えることと、それを客観的に、第三者に分かるように、多少の説明を加えること。初めてみたけれど、うまく描けない方は、まずこのやり方で、これくらいの文章を書いてみてください。あとはこれを、何とか三十一字にまとめてみましょう。
 ではどうぞ。

夕焼けが 窓を開けたら 真っ赤です
 あまりきれいで 眺めていました

帰り道 寒くて震える 歩道橋
  眺める夕日に 冬の到来

 あとは、こんな練習を、
  何回もしているうちにいつの日か、
   まどろっこしいプロセスを経なくても、
  初めから短歌が詠めるように、
 なっていくかと思われます。

 それではノートに頑張って、
  五つ以上、短歌を並べてみましょう。
   もちろんノートには完成する前の、
  散文の落書きから全部、
 収めておくのがよいのです。

より詩のように その一

 短歌が詠めたら、今度はそれを、
  なんども描き直して、もっともしっくり来る、
   表現に変えてゆきましょう。
    はじめは自分の感性を信じて、
   変えるたびに口で唱えながら、
  思うがままにやってみましょう。
 ちょっとお気に入りの表現が見つかったら、
  それを大切に守りながら、
   お気に入りでない部分を変えていきましょう。
    なんだか疲れてしまったら、
     とりあえず完成と、打ち切りましょう。
    はじめはそれくらいが大切です。

夕焼けが 窓を開けたら 真っ赤です
 あまりきれいで 眺めていました

 ヒントとして、三十一字の結晶ですから、
  無駄なところは消しましょう。
   「夕日が真っ赤です」と表明したなら、
  「眺めていました」は当たり前です。
 そういう所を無くしましょう。

夕焼けが 窓を開けたら 真っ赤です
 こんなきれいな 夕ぐれの空

 下の句が「なんて綺麗だ」という感慨に、
  うまくなじんで来ました。
   その代わり、「夕焼け」と「夕ぐれ」に、
    「真っ赤」まで加わってしつこい気がします。
   せっかく下の句が良くなったのですから、
  そこはいじらずに、上の句を変えましょう。
   夕ぐれに驚くのは、一番最後でよいのです。

小説を 止めて開いた 窓のさき
 こんなきれいな 夕ぐれの空

 その時何をしていたかを思い出したら、
  自分がどうして夕焼けに驚いたか気づきました。
   なるほど、あの時の実際の状況のなかには、
  素敵な着想が潜んでいたようです。
 でもちょっと、上の句が説明がちで、
  下の句ほど素直な心情が、
   表明されていないように感じたら、

かなしくて 小説閉じて 窓向こう
 こんなきれいな 夕ぐれの空

 ここでも小説の内容を浮かべたら、
  なぜ小説を止めたのかを思い出しました。
   どうやら実際の状況を詳細に思い出すだけで、
  どんどん着想が豊かになってゆくようです。
 けれども冒頭に「かなしくて」とおいたら、
  なんだか今度は、下の句が、
   しっくり来なくて、十分ほど、
    頭を悩ませてしまうのでした。

かなしくて 小説閉じた 窓のさき
 燃えるみたいな 夕ぐれの空

 ずいぶん良くなった気がして、
  その日は安心して眠りました。
   けれども翌日に、もう一度眺めたら、
  どうしてだか分かりません、
 不意に、「秋の夕ぐれ」という言葉が思い浮かびました。

かなしくて 小説閉ざす 窓のさき
 燃えるみたいな 秋の夕ぐれ

 記してみて初めて、
   「夕ぐれの空」の「空」は
  必要のない言葉だと悟りました。
    今回はこれくらいで完成です。
      満足して眠りましたら、
        次の日に眺めてももう何も、
          浮かんで来るものはありませんでした。

 今はそれ以上は無駄な事です。
   一年過ぎたら眺めましょう。
     続けていれば、二年後は、
   もっとよい歌が詠めるでしょう。
 継続するのがすべてです。

閉じた本 / ページ閉ざし
  碧い小鳥の 悲しみは
    触れた窓辺の 夕ぐれの秋

 このように手直しをしていると、
  次第にコツがつかめます。
   なるほど、もっとも伝えたいことに、
  すべてを集約させればよいのです。
 本当に夕ぐれが悲しかったなら、
  何か理由があるのです。
   そこを深めていったなら、
    内容も豊かになるでしょう。
   さっそく次の短歌も手直しです。

より詩のように その二

帰り道 寒くて震える 歩道橋
  眺める夕日に 冬の到来

  今度は、もう少し、はじめから考えて見ました。
 なるほど、もっとも大切なことは、「寒い夕日に冬の到来」それをサポートするように、場所の「歩道橋」と、状況を説明する「帰り道」が存在しているようです。けれども、もっとも大切なことを表明するために、「歩道橋」は情景を定めますが、「帰り道」でなくても、あまり差し支えはなさそうです。すると、もっとも周辺的な初句が、実は不要だったのかと気がつきます。それでようやく、

歩道橋
  寒さに震える 夕ぐれに
    真っ赤に染まる 冬の到来

 なるほど、場所を冒頭にして、情景の土台を定めてしまうという思いつきは立派です。ただ「夕ぐれが真っ赤に染まる」のと「冬の到来」のイメージが、一致しませんし、「寒さ」を表明したいのか、「真っ赤な夕ぐれ」を表明したいのか、欲張りすぎて、どっちつかずのままのようです。ようやく「冬の到来」か「真っ赤に染まる」のどちらかに焦点を絞らないと、詩の輪郭が定まらない、ということに気付きました。

歩道橋
  真っ赤に染まる 夕ぐれを
    寒さに震えて 冬の到来

取りあえず、寒い冬の到来に焦点を絞ったようですが、やはり真っ赤な夕ぐれの描写が間延びして、結句に思いがまとまりきれない気がします。そこでようやく、

歩道橋
  染まる夕日に 立ち尽くし
 寒さこらえる 冬の当来

 なんだか佳作の気がします。
  何度読み直しても立派です。
   天才の気配がします。
  満足しながら完成です。
 けれども……

歩道橋
  夕焼け染めた 寒空は
    いつの歌して 冬の将軍

 くらいの落書きは、
  数年しないと生まれてこない。
   表現を求める旅路は、
  一生掛かるのが魅力です。

まとめ

 初めのうちは、一つ目の短歌を土台に、
  次の短歌を詠んでみて、さらに土台にして、
   三つ目の和歌を、仕上げてみせる。
  それは様々な、ヒント集の言葉に従うのではなく、
 むしろ純粋な、自分自身の判断で、
  導き出されることが必要です。
   そうでなければいつまで経っても、
    あなたはお料理の出来ない、
     レシピがすべてのままなのです。

 ものを生みなす楽しみは、
   実は完成された作品によりも、
     創作と上達のプロセスのうちに、
   籠もるものに過ぎないという事を、
 どうか覚えておいて欲しいと思います。。

 そうでなければ、あなたはいつまで経っても、
  せっかくの、「懲りる」という経験や、
   表現を誤ったという自覚を元に、
  表現の「コツ」をつかみ取ることが、
 出来ないままになってしまいますから。

 以下はちょっとだけ、
  詩についての説明など。
   短歌の詠み方の基本は、
    以上の解説で済みましたので、
   興味のない方は、
  ここで終わっても問題ありません。

詩について

[朗読ファイル その四]

 詩と、日常の言葉の違いは何かというと、
  その根っこは、おそらく単純です。
 それは形式のことやら、修辞のことではなく、ただ単純に、会話は当事者同士に通じるために最適化された表現であり、日記もおおやけにするのでなければ、自分が自分に語りかけるような、擬似的な二人称で執筆されがちです。それに対して詩は、第三者が読むことを意識した表現である。ただそれだけのことなのです。それは逆に言えば、詩として提示されたものは、私たちはひとつの完成された作品として、それを眺めてしまうという事になります。

 もっと簡単に言えば、誰かと会話をしていて、たとえば話が下手だとは思っても、普通の人は、相手の話が作品としてどうであるか、などと判断はしません。ただ「長いからいい加減にしてくれ」とか、「面白いこと言うじゃない」くらいの感じを、心に抱きながら話を続けます。なぜならそれは、自分も会話の当事者であり、今まさに、会話をしている最中だから当然です。

 それに対して詩は、たとえそれが「語りかけそのもの」であったとしても、すでに完了した語りかけであり、しかも自らは当事者ではありませんから、どうしてもそれを評価するゆとりが生まれてしまう。そのゆとりを利用して、それが詩であると名乗っているならば、どうしても、詩としての価値ということを、第三者として考えてしまう。ただそのくらいのものには違いありません。そうであるならば……

 なるほど、一方では自然な表現として、話し言葉や、日記(第三者をもくろんだものでなく、自分のための日記のことです)の散文から始めるにしても、もう一方で詩というものは、あるいは短歌というものは、自然な語りかけであると同時に、詩型を保ったものであるからこそ、私たちも評価するのであって、そうでなければ、作品としては価値のないものと、第三者の立場で、破棄するのがオチということにもなります。

 なるほど、前に見た『万葉集』の短歌も、
  普段の会話でしたら「二つ」でも良かろうものを、
 なまじ三十一字(みそひともじ)の閉ざされた表現であればこそ、聞く方も、それぞれの言葉が価値を持つ、散漫でない構築化された文章であることを、期待してしまう。それゆえに裏切られると、なんだか物足りなく感じてしまうのも、仕方のないことかも知れません。

 そうであるならば、
  伝えたい思いはそのままに、
 より第三者が読んでふさわしい表現に、
詩型を整え、立派に見せるということも、必要になって来るでしょう。そして、そのような形式を整えた方が、詩として把握せざるを得ない、第三者である聞き手にとっては、かえって軽蔑することなく、その表現に感心しながら、詠み手の心情を推し量るための、拠り所にもなる訳です。(なにしろ軽蔑したら、その瞬間に、その文章から、共感を得ようとする試みを、私たちは放棄するのが普通ですから。)

 そのような、詩としての体裁を整えるプロセスを経て、詩としての形式を、全体の構造からも、局所的な言葉遣いからも、もちろん同型反復などの、細かいレトリックにおいても、突き詰めて優れた作品にすることを、あるいは私たちは、詩の「様式化(ようしきか)」を整えると、表現するのかもしれません。

 かつて和歌の黄金時代。
  「和歌の心(こころ)と姿(すがた)」
という事がさかんに言われましたが、歴史的な定義はともかく、私たちは伝えたい思いを「心(こころ)」と、それが様式化されて整えられた表現を「姿(すがた)」と、定義してみるのもよいでしょう。そして、「姿に溺れれば心は消され、姿をないがしろにすれば、誰も心に関心を示してくれない」そんな不可思議な領域に、優れた詩の表現は息づいているのだと、頭の片隅にでも、入れて置いてくださったらよいでしょう。

  そんなに難しい事ではありません。
 現に私たちは、毎日膨大な会話をこなし、あるいは読み、または聞いているのですし、音楽の歌詞という、紛れもない詩を、自ら歌ったりもしているのです。後はみずからの感性を信じて、つまりは私の執筆にも、そうだろうとか、それは違うとか、自由に思ってくださったら良いのです。

 そうして最後にもう一度、取りあえず短歌を一つでも、二つでも、作ってくださったらと願うばかりです。ただそれだけのために、私は『万葉集』を紹介するのですし、ただそれだけのために、あるいは『万葉集』は、私たちに残されているのかもしれないのですから。

 なんてちょっとだけ、情に溺れて、
   (あるいは酒に酔ってのことかもしれませんが、)
  ここに記しておこうかと思います。
   鑑賞者がいることではなく、
    ただ詠み手が続くことだけが、
     真の伝統なのかも知れませんから。

詩の内容について

 詩を作る人には二種類あります。
  天才と凡人?
   そんな訳ありません。
  では、プロとアマチュア?

 それも違います。もちろん定義上は、それで生計を立てていればプロになりますが、特に俳句や短歌のような短い詩の世界において、スポーツ選手や、あるいは医者や建築士のような、素人と専門家の違いは存在しません。

 むしろあらゆる芸術が、わたしたちの日常から乖離した、すなわち誰もが毎日行っている行為を元にして、成り立っているのではないからこそ、音楽にしろ絵画にしろ、専門家というものが登場する訳です。毎日ある特定の運動をするには努力が必要だからこそ、それに特化したスポーツ選手が登場する訳です。言葉というものはそれとは違います。私たちが毎日使用している、ありきたりの表現、というより私たちを、私たちとして成り立たせている、その根本のもの。肉体が呼吸をして、心臓を動かすのと、精神の上において、おなじ役割を担っているに過ぎません。

 なるほど長篇の物語でも描こうというなら、話も違ってきますが、ほんの数行で(あるいは一行で)カタの付くような、短い詩であれば、私たちは完全に、自らの日常使用する言葉に基づいて、判断を加えることは可能ですし、それを描き出すことも可能である。なるほど和歌を作る人は限られているかも知れませんが、その気になれば、たやすく続けられることは、ジョギングの比ではありません。それくらい日常の言葉に、寄り添った詩型には過ぎないものなのです。

 そもそも、万葉時代の代表歌人や、勅撰和歌集時代の歌人たちは、専門的な歌人として、生計を立てていたのではありません。それどころか『万葉集』の歌い手たちは、必ずしも「歌人」としての名声を、どれほど望んだかすら、分かったものではありません。言ってみれば、西洋の中世でトルバドゥールと呼ばれた吟遊詩人たちが、別に専門のシンガーだったのではなく、歌っている時だけトルバドゥールであったのと同様、彼らは彼らの歌においてだけ、歌人であったと述べることが出来るでしょう。

 ですから今日においても、あなたもわたしも、自称歌人を表明している方々も、短歌を詠んでいるときは、プロもアマチュアも関係なく、わたしたちは歌人なのであり、その作品はプロアマなんの区別もなく、罵倒賞賛されるものであると言えるでしょう。(失礼。もう一つ別のグループが存在しました。確かビジネスマンというジャンルだったと思います。広告の中に自らの表現を混ぜ込んで、何とも思わないような輩です。)

 詩を作る人には二種類あります。
  天才と凡人?
   そんな訳ありません。
  では、プロとアマチュア?

  どうやらそれも違うようです。
 それでは何かと問われると、きわめて簡単な話です。詠(うた)わなければならない人と、そうでない人の違いです。といっても、書くことが浮かばないという意味ではありません。歌手にも時々あらわれますが、そのジャンルにおいて表現すべきことがあって、どうしてもそうしなければならない、というような人は必ず存在します。そのような人たちは、それを表現することがすべてです。ですから彼らについては、何のおせっかいも必要ないばかりか、その表現の正当性などは、余計なお世話と言うことにもなるでしょう。

 でもわたしたち、ほとんどの人間は違います。ましてちょっとの好奇心で、始めようかとしている皆さまにしてみれば、むしろどのような内容を描くのが、短歌に相応しいのか、定まらない人も多いのではないでしょうか。それで先ほど、具体的な方法をあげましたが、おおざっぱに次のようなことを、心にとめておいてくだされば良いかと思います。

はじめての方への手引き

[朗読ファイル その五]

・散文で書いた方がうまく伝わることは、散文で書いた方がよいのです。形式を解体するくらいなら、初めから短詩(たんし)にしたら良いのです。また散文で詩情の感じられない、くだらないような落書きを、三十一字に詰め込んでも、すばらしい短歌にはなりません。つまりは駄散文を詩型に当てはめても、それはたまたま字数があった駄散文でしかないのです。

・詩にとっての駄散文とは、ありきたりのことではありません。ありきたりでもあなたの思いに偽りがなく、伝えられた言葉に嫌みがなければ、それは詩になっているのです。うまいか下手か、それはその先のことです。駄散文とは単純に、詩とは受け止められない文章のことを、たとえた言葉に過ぎません。

・不快感を与えるものは詩ではありません。
  形式主義者が、詩と定義しても構いませんが、
すぐれた詩ではありません。聞き手に快感を与えるものを描きましょう。不快感を与えるものを描くのは止めましょう。快感とは快楽のことでもなければ、喜ばしいことでもありません。なみだを流しても心地よければ快感です。つい同情して腹を立てたからといって、それは詠み手への同情であり、作品に腹を立てたのではありません。ただその作品を読んだときの、素直に喜べないもの、意味の不明瞭から来る不愉快、悟らせようとする嫌み、着想品評会からあふれ出たような頓知、あるいはまた、読まれた情景の下卑た汚らしさ。そうしたものが不快感です。あなたがそれを表現せざるを得ない者でないならば、あえて近づく必要はありません。表現せざるを得ない者ならば、勝手に表現するでしょう。社会派やら写実主義を唱える前に、その表現を散文でなく、詩として表現する価値があるのか、短歌として表現すべき事なのか、その当たり前のことを考えましょう。

・ですからたとえば、自分がもしそれを歌詞にして、歌ったとして、歌いたくなることを書きましょう。相手がもしそれを歌詞として、聞いたとして、聞きたくなるようなことを歌いましょう。心情に乏しいような人間が、意味だけで何かを訴えようとすると、真っ黒に塗りたくった板を、芸術作品のようにかかげるような、前世紀的なアートの、いち潮流のような安っぽい、口先だけのお手軽作品も生まれます。(もっとも流行の理由は、眺める方が、意味だけで、つまり口先だけでそれを評価できるという、軽便性にこそありますから、需要と供給のバランスが取れていたのは事実です。)それと同じように、意味ばかりを頓知みたいに、盛り込んだような落書きや、一方では、相手が聞いて興ざめを起こすようなことを、詠うことがリアルな表現なのだと、勘違いするような方もいるようです。(旧世紀の劇の一潮流にもそんなことがあったようです。)もちろんそれがお望みなら、すばらしい世界もあるようですから、ここから離れた方がよいと思いますが……
  もう一度最後に繰り返します。
 自分がもしそれを歌詞にして、歌ったとして、歌いたくなることを書きましょう。相手がもしそれを歌詞として、聞いたとして、聞きたくなるようなことを歌いましょう。

・今の言葉で歌いましょう。
当たり前のことですが、今の私たちがもっともうまく、効率的に使用できるのは、今話している言葉です。その表現の正当性が、文法からではなく、社会自体から、もっとも正当化されるのは、今話している言葉です。それだけ慣れた言葉でも、すばらしい表現にするのは、きわめて難しいことです。それくらい言葉というものはデリケートなものなのです。

・また聞き手が、もっとも効率的に、詠まれた内容を理解できるのも今の言葉です。そこから離れたものには、違和感を生じます。言葉があまりにも私たちにとって本質的なものでありますから、生まれてからはじめ、今にいたるまで、使用している表現をこそ、正統に感じるのは必然です。それをひっくり返そうとしても、世間から見れば謎の引きこもりが、言葉をいたずらしているようにしか思えません。

・「文語」と呼ばれるものは、
  もはや今の表現ではありません。
 すこし前までは今の表現でした。今の表現というのは、簡単に言うと、幼いころから学んで、当たり前の表現方法として、日常の筆記などに使用していた。少なくとも、当たり前の表現として、読むことが可能であった。ということを意味します。それだけ使いこなしている表現でも、すばらしい詩を書くことは大変なことです。例えば英語で詩を書こうとしたら、その言葉をすらすらと記し、すらすらと語ることが出来なければ、素敵な詩にはなりません。まして社会言語ですらなくなっている表現で、詩を書くというのであれば、その表現で日常生活を営めるくらいにならなければ、ろくな詩にはならないには決まっています。

・生きた表現というのは、文法があっていることではありません。教科書通りで間違いないことではありません。私たちが外国人の日本語に違和感を覚えることがあるように、その言葉が表現上はあっていても、生きた社会言語としての私たちの表現に、噛み合わないことは良くあることです。それほど言葉というものは繊細なものなのです。

・ですから「文語」で満足な表現をするためには、自らがすらすらと使いこなせるばかりでなく、数多くの古典に親しみ、その表現をナチュラルにしていくような、詩作とは直接関係のない、本格的な学習が必要になります。あなたの望みは、短歌を作ることなのでしょうか。それとも心から「擬古文」「擬文語」の作品を作りたいのでしょうか。もしそうであっても、もっとも使いこなせる今の言葉ですら、すばらしい作品が生みなせないようなら、どれほど過去の表現を学習しても、満足な表現など出来っこありません。それらしいプラスチックの模造品が、ラッカーパテして提出されるばかりです。

・ただ悲しいことに、文語の魅力として、現在使用されていない、日本語の表現であるということがあげられます。つまり現代語であれば、下らないような落書きに過ぎなくても、それが文語であることによって、もはや普通の人たちからは、普通の表現として判断される心配がなくなりますから、自分がなにか、すばらしいものを生みなしているような錯覚に、たやすく陥ることが出来るのです。概して詩情に乏しいような人間が、文芸活動らしいことをしようとすると、このようなジャンルに、手を伸ばしがちなのは避けられません。

・もしあなたが、本当に豊かな表現を、現代語でもこなせるようになって、一方でいにしへの方法も、試してみたいというのであれば、それはもはや次のお話、ここでの内容からは離れます。ただ覚えておいて欲しいのは、現代の私たちの文章を、現代の私たちの文章のまま、パズルで遊ぶみたいに、局所ごとの表現だけを古語に置き換えるのは、それは使用された頃の文語でもなければ、勅撰和歌集時代の古文でもない、かといって統一的見解の存在する新文語ですらない、個別勝手なねつ造表現に過ぎません。

・現在の仮名遣いで書きましょう。
1946年に「現代かなづかい」が告示され、1986年にはそれが改訂されて「現代仮名遣い」となって今に続きますが、当然ながら人は、現在使用している文字や仮名遣いを、もっとも自然で正しいものと認識します。現代の言葉を、わざわざ「歴史的仮名遣い」で表記しているような文章が、不自然に感じるのは、単にそれが現在使用していない仮名遣いであるという事によるものに過ぎません。もし私たちの表現が、ある時期ローマ字で記述することになっていたら、今のこの表現も、不自然に思われるのと同じようなもので、伝統やら正当性などはまったく関係のないことです。つまりそこに書かれている内容は、今日は「現代仮名遣い」で目にする内容だから、違和感を生じるに過ぎません。

・ただし、書かれた言葉よりも、語られる言葉の方が優位なものですから、たとえば歌詞の仮名遣いを「歴史的仮名遣い」で記そうと、一度その歌に感動してしまえば、まったく気にならなくなるどころか、かえって素敵なものに思えてしまう。普通の詩でも、口で唱えて感動してしまえば、まったく気にならなくなるどころか、魅力的なものに思えてしまう。そのくらいのものには過ぎません。
 またある程度接する機会さえあれば、どちらで書かれているか自体、ほとんど意識しなくなってしまう。その程度のものには過ぎません。ですが、一般の人が普通に眺めて、自然に感じるのは「現代仮名遣い」なのですから、あえて「歴史的仮名遣い」に改める必要はありません。しかも短歌の内容がお粗末だと、なおさら幼稚ないたずらに見えますから、初心者には到底、お勧めしたものではありません。

・その程度のものに過ぎませんから、どうしてもやりたかったら、その思いに任せても良いでしょう。短歌や俳句の表現も、何行かに分けても構いませんし、全部平仮名でも構いません。詩の本質は、語りのうちにあって、その語りがすばらしければ、あなたの記述は、自ずから正当化されてしまうかと思いますから。(ただし体裁の美的基準というものも存在しますけど、いいです、取りあえずは好きなようにやってみましょう。)

・ちょっと補足も加えましょう。
私たちは学校の教育によって、かえってかつての表現を、ある程度理解してもいるのも事実です。ですから現代でもたやすく受け入れられるような表現や、しばしば耳にするため、古語風現代語かとも思えるような、俳句の「かな」や「けり」などを使用したからと言って、あまり違和感を生じるものでもありません。これもまた、現代の言語生活の営みから、こなれた古い表現と、そうでないものが生まれて来る。ですからあなたが何気なく着こなすくらいの表現であれば、あなたの言語感覚に基づいて、古い表現を持ち込んでも、なんの差し支えもありません。「知らずのうち」やら「碧き色」なんて表現されたからって、会話のうちですら、通じないことはありませんよね。その表現が社会言語として、まだ生きた状態にあるからです。生きた表現ならば、今現在の表現の範囲には過ぎませんから。

・さらに進んで、古い表現を取り込むにしても、例えば与謝野晶子ならなんの不自然もなく、何とか茂吉なら滅茶苦茶に表現するような、詩人としての差が生まれます。それにしてもかわいそうなのは、「遠田のかはず」やら「玄鳥(つばくらめ)ふたつ」のようないびつな落書を、芸術作品でもあるかのように、教え込まれる学生たちですが……

・なまじい伝統的表現であるゆえに、あなたがせっかく興味を抱いた、もっとも簡単で、もっとも素敵な、わたしたちの詩型を、嫌いにするような横やりが、あちらこちらに潜んでいるものですから、それに負けないように、このように援護射撃もしたくもなる訳です。ですから本当は、もしあなた方が、短歌に興味を持たれても、雑誌やらメディアやら懸賞の絡み合ったような、江戸時代の点取りと変わらないような世界とは、関わらないことをお奨めしたいくらいですが……興味が湧いたら、集合場所は欲しいと思いますよね、きっと。それに関しては、わたしは残念ながら、お力になれそうもありません。

つかの間コラム 現代語と古語について

 念のために表明しておきますが、わたしが現代語で短歌を詠むことをすすめているのは、心情を詩的に表明して、短歌という様式で作品とするためには、まずは現代語を使用するように勧めているに過ぎません。もし皆さまが、古語を勉強したくて、過去の様式で短歌を練習するならば、それはすばらしいことで、むしろ奨励したいには決まっています。

 ただ、短歌をやっている人の中でも、本気で擬古文の様式を、ものにしたいと思っている人は、きわめて限られていると思います。世に出回っている名作とやらの中にも、学習期のくだらない落書きを、羞恥心もなくひけらかしたものが、溢れかえっているようです。ましてそれ以下の人々については、「何をか言わんや」です。

 文語と呼ばれているものは、もはや現代の表現ではありません。それは学習すべき表現です。学習すべき表現で、詩を詠むのには、学習がある程度まで、深層に達しなければなりません。だからといって、あなたが英語の詩を詠むことを、誰が留めようとするでしょうか。むしろ奨励するには決まっています。それもまた、素敵な学習ではありませんか。

 ただ、ろくに文法もままならないような落書きを、これは詩である、詩集にして出したいと述べるなら、わたしは止めろと諭すでしょう。わたしが言っているのは、それくらいの事に過ぎません。

 だからいつの日か、今の表現が過去の表現になるようなことがあって、幼少からの言語教育とは別に、学ばなければならないようなことになったとしたら、わたしはあなたに述べたいと思います。幼少から使っている言葉に基づいて、詩を詠みましょう。二十一世紀なんて旧い時代の、言葉は使用しなくていいからと。

 お分かりでしょうか。
  もし文語を現代の表現に、変更することがなかったら、文語は過去からの遺産を引き継いだ表現として、現在も正統な表現であり続けることが出来たかもしれない。なるほど、その方がよっぽど良かったような気もしますが、一度変わってしまった以上は、再度民意を得て政府が、改正を行わなければ無理な話です。すると今の言葉で記されたあらゆるものは、わたしのこの落書きも含めて、ある一時代の古語、と言うことになるという仕組みです。

  分かりませんか。
 もし英語がグローバルスタンダードだからと言う理由で、英語をしゃべることや書くことを、私たちの基本に置いたとしたら、もはや日本語は、後から学ぶべき、第二のものになってしまい。もうちょっとした詩を書くことすら、外国語の詩を書くほどの、ハードルの高いものになってしまう。

(そのようなことは、もちろん段階的に浸透します。まずは、企業が英語でしゃべることを定め、政府が英語での会話を奨励し、次第に大学では英語を話すことを前提にして、教育一家が、家庭内での英会話を基本に置いて……)

 ほんの少しでも楫が変われば、
  次第に日常へと意識は浸透して、
   もう次の世代には、それがなんでもないことになってしまう。

 別に意味はありません。
  危惧している訳でもないのです。
 ただ、いつしかそんな日がおとずれて、わたしのこんな落書きも、少なくともわたしの望んだ意義としては、何も残されたものがない、言葉の残骸に過ぎないのだと考えたら、急にこんなことをしているが、むなしくて哀れな気持ちになってきた。
 ただそれだけの、コラムです。

次回予告

 なんだか秋の夕ぐれです。
  気を取り直して参りましょう。
 今回は、一首しか『万葉集』の短歌は紹介しませんでしたが、短歌をはじめて作る人たちの、ちょっとした手引きにはなったのではないでしょうか。次回からは、実際に『万葉集』の短歌を眺めながら、初心者のおかしがちな過ちを、具体的に指摘してみようかと思います。こんな簡単な表現でいいのかと、『万葉集』の短歌に興味が湧いてくれば結構ですし、ちょっと気の利いた表現をする人なら、「わたしの方がうまいな」と思うかも知れません。
 それではまた来週……
  じゃないか。さよなら。

プリズムな
  シャボン玉した 陽を浴びて
    はしゃぐあなたの 笑顔欲しさに

プリズムな
  シャボン玉した 陽を浴びて
    はしゃぐあなたの 笑顔欲しくて

プリズムな
  シャボン玉した 陽を浴びて
    はしゃぐあなたの 笑顔してみて
          時乃旅人

               (つゞく)

2016/05/03
2016/05/14 改訂
2017/01/27 朗読掲載

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