万葉集はじめての短歌の作り方

[Topへ]

万葉集はじめての短歌の作り方 予習編

本文中の表現

 このサイト独自の執筆方針もありますので、
  以下に書き留めておきます。

おなじ平仮名の反復には「やや」であれば「やゝ」を、
 「ただ」であれば「たゞ」を使用します。
   ただし句が別れている場合は、
    「風を待ち ちかくの」とくり返しを使用しません。
   要するに、ちょっと気分を出しているだけの遊びです。

「ますます」の場合は「ます/\」と、
「かねがね」であれば「かね/”\」と表記します。

漢字とひらがなの配分に関しては、『万葉集』はすべてが漢字で記されているので、それに引きずられて、勅撰和歌集のものよりは、漢字を多く使用しています。ただしこの方針に正当性がある訳ではありません。極論すれば、執筆者のフィーリングに過ぎないものです。

和歌に関しては、本文の和歌にルビを振る場合は、「鶯(うぐひす)」のように歴史的仮名遣いを、その下の作者の名称などには、「僧正遍昭(そうじょうへんじょう)」などと現代語でルビを振ります。作者の名称は、「日本史」上一般的な名称に変えて書きしるす場合があります。

詠みやすいように、句ごとに余白を挿入し、かつ好みに応じて段を変更するのは、本歌とは関係なく、わたしの勝手にしていることに過ぎません。またこれは、詩的感覚に基づいているので、切れとは関係ありません。改行が文脈の途切れと寄り添う場合もありますが、はぐらかした方が面白い場合も多いものですから。

和歌の前の序文は、原文の場合は「」を使用します。原文を現代語に改めたり、勝手に部分引用したり、つまり執筆者の手の加わったものは、『』で標示します。

和歌の基本

[詩の形式]
 形式は、言葉のまとまりが[五七五七七]で三十一字となります。またそれぞれのまとまりを、
    初句(一句)、二句、三句、四句、結句(五句)
と呼びます。

[上下の句]
 またはじめの[五七五]の部分を上の句(かみのく)、後半の[七七]の部分を下の句(しものく)と呼びます。これは勅撰和歌集において「上の句」と「下の句」で文脈が分かれることが多いからで、万葉集の頃には二句目で切れるものも多く、次第に三句目で区切るものが優位になってきたという変遷もありますが、別に万葉集の説明に、支障を来すほどのこともありません。ただ本文中では、面倒なので、[五七]を上の句と「五七七」を下の句と解釈したような表現も見られますが、意味は分かると思うので、注釈もなく上の句、下の句と使用しています。ただそれだけの話です。

[切れ]
 切れとは文脈の途切れ間を指します。句読点を置く場所と考えても良いかも知れません。特に一つの文脈を終えて、次の文脈にうつりかわる句点、つまり「。」の記号を使用する部分には、どんなに嫌がっても、文脈が切れた感じが起こりますから、そこで切れることになります。程度の問題なので、読点、つまり「、」くらいで結句まで押し通しても、やはり弱い切れは生じるのが普通です。実は「切れなし」などと称している短歌でも、実際はどこかで切れ目が存在しています。何しろ途絶える感じというのは、句読点だけではありませんから。

[句切れ]
 句切れとは、「切れ」の特に強いところを差します。句点が置かれて、二つの文に分かれるところや、序詞から、詩の本文に移り変るような内容の大きく切り替わるところで、しばしば「句切れ」が生じます。

[詞書(ことばがき)]
 和歌の前後におかれた散文の説明書きで、和歌の詠まれた状況などを説明したもの。単なる「お題は~」や「~の歌合で」といった簡単な説明から、ほとんど独立した物語のようになって、最後に和歌が添えられているような、歌物語的なものまで、その用法は幅広い。また『万葉集』では、冒頭に置かれるだけでなく、和歌を記した後で、「右の和歌は~」と説明を加える、「後書」になっている場合も多い。これは一般には「左注(さちゅう)」と呼ばれる。

[枕詞(まくらことば)]
 たとえば「ひさかたの空」「あしびきの山」「ちはやぶる神」など、「空、山、神」に掛かるおきまりの表現のことで、ある種のイメージを内包するものの、その言葉自体に独立した意味はありません。ただ特定の単語を飾り立てるような印象で、捉え方としてはむしろ「ひさかたの空」全体で「空」を表現しているのだと考えて結構です。
 万葉集ではきわめて使用され、『古今集』以後の枕詞はその残骸に過ぎなかったのではないか、と思わせるくらいですが、現代文に翻訳するときは、わざわざ説明を加えずに、
     「(ひさかたの)空を見上げて」
などと()書きにしてある場合も多いので、覚えて置いてください。

[序詞(じょことば)]
 枕詞がある単語に結びつく、定められた表現であるとすれば、序詞はある言葉に結びつく、定められていない表現であると言えるかもしれません。たとえば、
「ひさかたの空」ではなく、
「雲もなく青々とした空」と置きます、
 もしこれが和歌の内容そのものとして使用されたなら、技法も糸瓜(へちま)もありません。和歌の本体に過ぎませんから。けれどももしこれを、
「雲もなく青々とした空色の鉛筆で」
として「描いて見たいなあなたの笑顔を」としたらどうでしょう。もう「雲もなく青々とした空」は、本文の内容とは一致しない、青色の空だけを修飾するものになってしまいます。とりあえず序詞は、このように特定の言葉だけを修飾する文で、本文の内容とは直接関係にないものと思っておいてくだされば、初めの一歩としては、十分かと思われます。これも枕詞と同様、『万葉集』では数多くの短歌に見られるもので、後の勅撰和歌集のものよりも、つじつまの合わないもの、全体の調和をないがしろにするような場合も、少なくありません。おそらくは、「まくらことば」と共に、即興で短歌を詠み上げるための、武器庫の役割を果たしていたのではないでしょうか。

[掛詞(かけことば)]
 短詩型なので、言葉の省略が重要な戦略になってきます。そこでたとえば、
「まるで夜汽車の遠ざかりゆくわたしの思い」
などとして「遠ざかりゆく」の中に、夜汽車の遠ざかるさまと、遠ざかるわたしの思いを同時に込めるようなことは、きわめてあたりまえの表現としてなされます。ただしこれは掛詞ではありません。掛詞はもっとアクロバットな技法で、たとえば
「枯れた野に変わらないもの松ばかり」
と松だけは青々としていることを表現していると思わせておきながら、この「松ばかり」を別の「待つ」に置き換えて、
「枯れた野に変わらないもの待つばかり
   それでも来ないあなたなのです」
ただ変わらずに待っているけれど、あなたは来ないと詠み替えてしまう。つまりは一つの言葉に、違う二つの意味を重ね合わせるのが掛詞です。

[縁語(えんご)]
 縁語というのはつまり、縁のある言葉のことです。たとえば火という単語がある。そうしたら、
     「燃える」「熱い」「赤い」「さかる」
など関係のある言葉はみな縁語であるということになる訳です。つまり普通に作っていても、自然に関連語が内包される場合は多いのですが、意識的に使用したものとしては、万葉集よりも、勅撰和歌集の時代になってから目立つようになります。ただし無いわけではありません。

[本歌取(ほんかど)り]
 本歌を使用して、新しい歌として詠むことは数多くありますが、聞き手が読み歌を知っていることを利用して、さらなる表現を目指すという方針は、特に『新古今集』の時代を中心に流行を迎えたもののようです。『万葉集』ではむしろ、同種の定型パターンを使用したに過ぎないもの、他の歌のフレーズを、自分の歌に用いたものの、別に本歌の参照をもくろんでいないもの。あるいは今日の基準なら、盗用とも言われかねないようなものは沢山ありますが、『新古今集』などに見られるような意味での本歌取りは、あまり見られないかと思います。ただしこれも、無いわけではありません。

[その他]
 見るべき修辞法があれば、本分の中で説明することもあるかもしれませんが、これくらいの知識を予習しておけば、あとは本文を眺めたほうがはやいでしょう。

超初心者用の覚書

[「ゐ」と「ゑ」]
 古典にまったく慣れていない人だと、意外とこの二つで足を止めることがあるかもしれません。「ゐ」は「い」で、「ゑ」は「え」だと言われても、しばらくすると、記号を忘れてしまうからです。わたしにもかつて、そんな覚えがあります。そんな人は、
     「ぬ」に似ているのが「い」、
      「る」の下に「ん」を付けたのが「え」

という意味を込めて、「ぬがい、るんがえ」と呪文のように何度も唱えて見るのがよいでしょう。馬鹿にするなって? そういう馬鹿なやり方の方が、覚えやすいんですから、大いに結構ではありませんか。なんなら「犬がるんがえ」でもいいっすかね。

2016/05/25

[上層へ] [Topへ]