一夜分の歴史 (中原中也)

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一夜分の歴史

その夜は雨が、泣くやうに降つてゐました。
瓦[かわら]はバリバリ、煎餅[せんべい]かなんぞのやうに、
割れ易いものの音を立ててゐました。
梅の樹に溜つた雨滴[しずく]は、風が襲ふと、
他の樹々のよりも荒つぽい音で、
庭土の上に落ちてゐました。
コーヒーに少し砂糖を多い目に入れ、
ゆつくりと掻き混ぜて、さてと私は飲むのでありました。

と、そのやうな一夜が在つたといふこと、
明らかにそれは私の境涯[きょうがい]の或[あ]る一頁[いちぺーじ]であり、
それを記憶するものはただこの私だけであり、
その私も、やがては死んでゆくといふこと、
それは分り切つたことながら、また驚くべきことであり、
而[しか]も驚いたつて何の足しにもならぬといふこと……
――雨は、泣くやうに降つてゐました。
梅の樹に溜つた雨滴(しづく)は、他の樹々に溜つたのよりも、
風が吹くたび、荒つぽい音を立てて落ちてゐました。

言葉の意味

[境涯(きょうがい)]
・生きていくうえに置かれたその人の立場、身の上。

2009/04/06
2011/02/04再録音

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