秋岸清凉居士 (中原中也)

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秋岸清凉居士

消えていつたのは、
あれはあやめの花ぢやろか?
いいえいいえ、消えていつたは、
あれはなんとかいふ花の紫の莟[つぼ]みであつたぢやろ
冬の来る夜に、省線の
遠音とともに消えていつたは
あれはなんとかいふ花の紫の莟みであつたぢやろ

     ※

とある侘[わ]びしい踏切のほとり
草は生え、すゝきは伸びて
その中に、
焼木杭[やけぼっくい]がありました

その木杭に、その木杭にですね、
月は光を灑[そそ]ぎました

木杭は、胡麻塩頭の塩辛声(しよつかれごえ)の、
武家の末裔(はて)でもありませうか?
それとも汚ないソフトかぶつた
老ルンペンででもありませうか

風は繁みをさやがせもせず、
冥府(あのよ)の温風(ぬるかぜ)さながらに
繁みの前を素通りしました

繁みの葉ッパの一枚々々
伺ふやうな目付して、
こつそり私を瞶(みつ)めてゐました

月は半月(はんかけ) 鋭く光り
でも何時もより
可なり低きにあるやうでした

蟲[むし]は草葉の下で鳴き、
草葉くぐつて私に聞こえ、
それから月へと昇るのでした

ほのぼのと、煙草吹かして懐(ふところ)で、
手を暖(あつた)めてまるでもう
此処[ここ]が自分の家(うち)のやう
すつかりと落付きはらひ路の上(へ)に
ヒラヒラと舞ふ小妖女(フエアリー)に
だまされもせず小妖女(フエアリー)を、
見て見ぬ振りでゐましたが
やがてして、ガツクリとばかり
口開(あ)いて背[うし]ろに倒れた
頸(うなじ) きれいなその男
秋岸清涼居士といひ――僕の弟、
月の夜とても闇夜ぢやとても
今は此の世に亡い男

今夜侘びしい踏切のほとり
腑抜(ふぬけ)さながら彳[た]つてるは
月下の僕か弟か
おほかた僕には違ひないけど
死んで行つたは、
――あれはあやめの花ぢやろか
いいえいいえ消えて行つたは、
あれはなんとかいふ花の紫の莟ぢやろ
冬の来る夜に、省線の
遠音とともに消えていつたは
あれはなんとかいふ花の紫の莟か知れず
あれは果されなかつた憧憬に窒息しをつた弟の
弟の魂かも知れず
はた君が果されぬ憧憬であるかも知れず
草々も蟲の音も焼木杭も月もレールも、
いつの日か手の掌(ひら)で揉んだ紫の朝顔の花の様に
揉み合はされて悉皆[しっかい]くちやくちやにならうやもはかられず
今し月下に憩(やす)らへる秋岸清凉居士ばかり
歴然として一基の墓石
石の稜[りょう] 劃然[かくぜん]として
世紀も眠る此の夜さ一と夜
――蟲が鳴くとははて面妖[めんよう]な
エヂプト遺蹟[いせき]もかくまでならずと
首を捻[ひね]つてみたが何
ブラリブラリと歩き出したが
どつちにしたつておんなしことでい
さてあらたまつて申上まするが
今は三年の昔の秋まで在世
その秋死んだ弟が私の弟で
今ぢや秋岸清凉居士と申しやす、ヘイ。

     (一九三四・一〇・二〇夜)

言葉の意味

[焼木杭(やけぼっくい)]
・焼けた杭のこと。また、燃えさし(燃え残り)の杭のこと。
・再び火が付きやすいので、「焼け木杭に火が付く」で男女関係などが、再び以前の関係に戻る、再燃することを表現したりもする。

2009/05/03
1011/01/18再録音

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