夜明け (中原中也)

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夜明け

夜明けが来た。雀の声は生唾液(なまつばき)に似てゐた。
水仙は雨に濡れてゐようか? 水滴を付けて耀[かがや]いてゐようか?
出て、それを見ようか? 人はまだ、誰も起きない。
鶏(にはとり)が、遠くの方で鳴いてゐる。――あれは悲しいので鳴くのだらうか?
声を張上げて鳴いてゐる。――井戸端はさぞや、睡気(ねむけ)にみちてゐるであらう。

槽[おけ]は井戸端の上に、倒(さかし)まに置いてあるであらう。
御影石[みかげいし]の井戸側は、言問ひたげであるだらう。
苔は蔭[かげ]の方から、案外に明るい顔をしてゐるだらう。
御影石は、雨に濡れて、顕心[けんしん]的であるだらう。
鶏(とり)の声がしてゐる。遠くでしてゐる。人のやうな声をしてゐる。

おや、焚付[たきつけ]の音がしてゐる。――起きたんだな――
新聞投込む音がする。牛乳車(ぎうにうぐるま)の音がする。
《えー……今日はあれとあれとあれと……?………》
脣(くち)が力を持つてくる。おや、烏(からす)が鳴いて通る。

       (一九三四・四・二二)

言葉の意味

[顕心的(けんしんてき)]
・由来は不明。仏教用語にあるか?
・走姿顕心(そうしけんしん)「走っている姿にその人の心が現れる」という言葉のあることから、「そのものの姿を現すような様子」くらいの意味かと思われる。

[焚付(たきつけ)]
・薪などに火を簡単に燃え盛るようにするための枯柴(かれしば)など、点火の際に使用する燃えやすい材料のこと。

2009/05/03
2011/1/15再朗読

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