脱毛の秋 Etudes (中原中也)

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脱毛の秋 Etudes

それは冷たい。石のやうだ
過去を抱いてゐる。
力も入れないで
むつちり緊[しま]つてゐる。

捨てたんだ、多分は意志を。
享受してるんだ、夜(よる)の空気を。
流れ流れてゐてそれでも
ただ崩れないといふだけなんだ。

脆[もろ]いんだ、密度は大であるのに。
やがて黎明[あけぼの]が来る時、
それらはもはやないだらう……

それよ、人の命の聴く歌だ。
――意志とはもはや私には、
あまりに通俗な声と聞こえる。

それから、私には疑問が遺[のこ]つた。
それは、蒼白いものだつた。
風も吹いてゐたかも知れない。
老女の髪毛が顫[ふる]へてゐたかも知れない。

コークスをだつて、強[あなが]ち莫迦[ばか]には出来ないと思つた。

所詮、イデエとは未決定的存在であるのか。
而[しか]して未決定的存在とは、多分は
嘗[かつ]て暖かだつた自明事自体ではないのか。

僕はもう冷たいので、それを運用することを知らない。
僕は一つの藍玉[あいだま]を、時には速く時には遅くと
溶かしてゐるばかりである。

僕は僕の無色の時間の中に投入される諸現象を、
まづまあ面白がる。

無色の時間を彩るためには、
すべての事物が一様の値ひを持つてゐた。

まづ、褐色の老書記の元気のほか、
僕を嫌がらすものとてはなかつた。

瀝青(チヤン)色の空があつた。
一と手切り[ひとちぎり]の煙があつた。
電車の音はドレスデン製の磁器を想はせた。
私は歩いてゐた、私の膝[ひざ]は櫟材[くぬぎざい]だつた。

風はショウインドーに漣[さざなみ]をたてた。
私は常習の眩暈[めまい]をした。
それは枇杷[びわ]の葉の毒に似てゐた。
私は手を展[ひろ]げて、二三滴雨滴[あましだり・あまだれ]を受けた。

風は遠くの街上[がいじょう]にあつた。
女等はみな、白馬になるとみえた。
ポストは夕陽に悪寒(をかん)してゐた。
僕は褐色の鹿皮の、蝦蟇口[がまぐち]を一つ欲した。

直線と曲線の両観念は、はじめ混(まざ)り合はさりさうであつたが、
まもなく両方消えていつた。

僕は一切の観念を嫌憎する。
凡[あら]ゆる文献は、僕にまで関係がなかつた。

それにしてもと、また惟[おも]ひもする
こんなことでいいのだらうか、こんなことでいいのだらうか?……

然[しか]し僕には、思考のすべはなかつた

風と波とに送られて
ペンキの剥[は]げたこのボート
愉快に愉快に漕げや舟

僕は僕自身の表現をだつて信じはしない。

とある六月の夕(ゆふべ)、
石橋の上で岩に漂ふ夕陽を眺め、
橋の袂[たもと]の薬屋の壁に、
松井須磨子のビラが翻[ひるがえ]るのをみた。

――思へば、彼女はよく肥つてゐた
綿のやうだつた
多分今頃冥土では、
石版刷屋の女房になつてゐる。――さよなら。

私は親も兄弟もしらないといつた
ナポレオンの気持がよく分る

ナポレオンは泣いたのだ
泣いても泣いても泣ききれなかつたから
なんでもいい泣かないことにしたんだらう

人の世の喜びを離れ、
縁台の上に筵[むしろ]を敷いて、
夕顔の花に目をくれないことと、
反射運動の断続のほか、
私に自由は見出だされなかつた。

2009/05/01

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