聞こえぬ悲鳴 (中原中也)

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聞こえぬ悲鳴

悲しい 夜更が 訪れて
菫[すみれ]の 花が 腐れる 時に
神様 僕は 何を想出したらよいんでしよ?

痩せた 大きな 露西亜の婦(をんな)?
彼女の 手ですか? それとも横顔?
それとも ぼやけた フイルム ですか?
それとも前世紀の 海の夜明け?

あゝ 悲しい! 悲しい……
神様 あんまり これでは 悲しい
疲れ 疲れた 僕の心に……
いつたい 何が 想ひ出せましよ?

悲しい 夜更は 腐つた花弁(はなびら)――
   噛んでも 噛んでも 歯跡(はあと)もつかぬ
   それで いつまで 噛んではゐたら
   しらじらじらと 夜は明けた

           ――一九三五、四――

2010/5/9

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