夏目漱石の生涯略歴4

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朝日新聞入社から大患まで(1907年4月-1910年)

1907年(明治40年)

 第一作目は「虞美人草(ぐびじんそう)」に決めた。6月になると、時の総理大臣西園寺公望(きんもち)から、「私(わたくし)と作家との集い」である「雨声会(うせいかい)」に出席しろとお呼びが掛かった。桂太郎(かつらたろう)内閣の後、1906年から第1次西園寺内閣を発足させていた、あの西園寺公望である。これに応じて、幸田露伴、島崎藤村、国木田独歩、泉鏡花、森鴎外などが集合したが、そんな会合はぞっとしないと思った漱石は、執筆に忙しいからと断った。森鴎外はほくほく出かけたが、だからといってむやみに「脚気軍医」などと呼んではいけない。第一、漱石一人断ったわけではない、二葉亭四迷や坪内逍遥もまた断り組みであった。この6月始めには初めての男子、長男純一(じゅんいち)が誕生し、漱石先生も大喜びしたという。彼は後にヴァイオリニストとして活躍し、今日活躍している夏目房之介(なつめふさのすけ)の父親となる。(三代目が漫画に落ち入ってしまったのは、非常に日本社会の時代精神を象徴している。)


 「虞美人草」(ヒナゲシの別名)は6月23日から開始した。不特定多数の読者を相手に、評価がダイレクトに伝わってくる日刊新聞紙の小説欄を意識したこの作品は、場面転換の方針や、3月から上野公園で開かれている「東京勧業博覧会」の夜のイルミネーション見物に、小説の登場人物達が出かけて行くシーンなどに、時事的な仕掛けを織り込んでいる。当時の新聞小説の潮流に合わせて、家庭生活の小波乱を題材にしたうえ、まるでモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の開けっぴろげな道徳的結末に呼応するように、ヒロインの藤尾は無理矢理倫理に封じ込められて自害に追い込まれる点など、今日文学性から見れば失敗なのかも知れないが、通俗的読み物として当時の社会倫理の一方面に迎合する側面を持っている。モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」は作曲家の音楽が台本上のエンディングを別の次元に高めてしまったため傑作となった。漱石の場合も、この虞美人草を執筆するに及んで、極めて技巧的な美しさをちりばめた文体をもって、ストーリーの結末を一つの詩にまで高めようとした形跡がある。この文体は当時として好評(+難解という野次)を博したが、はたしてストーリーの結末を抽象的な詩に結晶化し得たかどうだか、はなはだ怪しいものである。それにも関わらず、「虞美人草」がスタートするやいなや、近代百貨店に変貌しつつあった三越呉服店が虞美人草浴衣地を出し、玉宝堂(ぎょくほうどう?)が虞美人草指輪を販売するなど、関連グッズが登場し、駅の新聞売り子は「虞美人草」と叫びながら新聞を売りさばくなど、なかなかの流行を巻き起こたという。独特の文体を、お洒落と感じる人も意外と多かったのかも知れない。もちろん今日に至っても言葉の品位を弁える人々にとってはなお「お洒落」である。言葉を痛めつける群衆にとっては石ころほどの価値もない。


 この1907年の9月、漱石は再び家を替えた。家主が9ヶ月の間に3度も家賃を上げたのが、業腹(ごうはら)だというのである。(余談だが、「三四郎」の広田先生は、家主の家賃値上げのために新しい家を探すという設定になっている。)知人の探索によって生涯最後の家、牛込区早稲田南町7番地に家を借りた。開業医の邸宅として設計された診察室を、体(てい)よく書斎に改良したところ、いつの間にか漱石山房と呼ばれるにいたった。先生、教師を辞めたお蔭か神経衰弱は遠のいたが、次第に胃病がひどくなってきた。そんな中、11月には荒井なにがしという青年が漱石邸を訪れた。自分の身上(しんじょう・みのうえ)を題材に小説を書いて欲しい。題材の報酬を貰って信州に行きたいからという。自分はむかし思い悩むことがあって、華厳の滝から投身を企てた時、先客がすこぶるダイビングするのを見て、恐ろしくなって坑夫になったのだという話だ。青年はしばらく漱石邸に書生として留まった。彼は坑夫にいたるまでの煩悶を提供したかったようだが、漱石は坑夫としての生活だけを材料に貰うことにした。


 またこの頃、熊本時代にちょっとかじった謡(うたい)(能の詞章に節をつけて歌った謡曲・ようきょくのこと)を、宝生流(ほうしょうりゅう)の先生について本格的に習い始めている。歌はお世辞にも上手いとは言えなかったようで、野上弥生子の証言によると、山羊の鳴き声のような声でメーメー歌っていたそうである。それなのに謡は大好きだった。後に修善寺の大患後の入院中にも、どうしても謡いたくって、謡いたくって、謡わせてくれない妻に「奥様へ」と手紙を出して、病院長の許可を受けた次第を事細かに記したりしている。

1908年(明治41年)

 1908年の1月から4月は「坑夫(こうふ)」が新聞に連載される。1906年に東京帝国大学英文科を卒業し、一時実家に戻っていた森田草平(もりたそうへい)(1881-1949)が、漱石と文学に憧れて妻を残して上京、足繁(あししげ)く漱石邸に出入りしていたのだが、その草平君がやってしまった。自ら開催していた課外文学講座「閨秀文学会」で知り合った女性、平塚明子(ひらつかはるこ)(後の平塚らいてう)(1886-1971)と共に、3月21日に栃木県塩原に出かけて心中未遂事件を起こしてしまったのである。(煤煙[ばいえん]事件という。)これは新型性欲男女(なんにょ)の言語道断の愚行として新聞に書き立てられた。やれやれと呆れた漱石は、草平を一時自宅に引き取り、不始末の面倒を見たり、事件を元にした「煤煙」という小説を、森田が朝日新聞に連載するために手を貸したりしている。事件の顛末を聞かされた漱石は、「どうも恋愛ではない。結局遊びだ」というコメントを残しているが、実際ファッション的心中であった側面を否定はできない。何しろ雪山で中途半端にうろついているところを発見されたのだから。漱石はその手の思わせぶり女を、君が書けないなら僕が書いてあげる、と冗談に言ったが、これが「三四郎」の美禰子像に反映されていると考える人もいる。
 またこの年の「早稲田文学」に収(おさ)められた談話の中で、漱石がドイツ人の小説家であるヘルマン・ズーダーマン(1857-1928)の「消えぬ過去」の登場人物、フェリシタスについて、Unconscious Hypocrite(アンコンシャス・ヒポクリット)(無意識な偽善家)と評して、「その巧言令色(こうげんれいしょく)が、努めてするのではなくほとんど無意識に天性の発露のままで男を虜にするところ、むろん善とか悪とかの道徳的観念も、無いで遣っているかと思われるやうなものですが、こんな性質をあれ程に書いたものはありますかね」と説明しているので、Unconscious Hypocriteを具現化(ぐげんか)したのが美禰子であると短絡的に考える人もある。(もちろん正式の論考を経て結びつけたのであれば、それは一つの考察であるが。)


 その後、6月には短編小説「文鳥」が、続けて7月からは「夢十夜」が掲載された。そして皆さんお待ちかね、ついに9月から、美禰子さん大活躍、三四郎大仏転げの「三四郎(さんしろう)」の掲載が始まったのである。(・・・怒らんといて下さい。ただの語呂遊びですたい。)田舎から出たての文科大学生小川三四郎の眼を通して描かれた活力ある東京と、本郷文化圏とも呼べる帝国大学を中心とする自覚する知識人達の生活、そして青年に共通の恋愛の情を歌った、これは永遠(とわ)の青春文学作品になっている。(無性格の三四郎が周囲を描くために徘徊しているだけに思えたら要注意である。単純で強い映像的刺激に麻痺して、感性が鈍重になっているのかもしれない。)


 この年9月には、例の黒猫君が病死して、漱石は小宮豊隆、鈴木三重吉、寺田寅彦などに喪中ハガキを出している。高浜虚子には、俳句による電報で知らせが届いた。「センセイノネコガシニタルヨサムカナ」。名前のない猫だったので墓には「猫の墓」と記され、裏には「此下(このした)に稲妻起る宵あらん」と記される。12月には猫の生まれ変わり、ではないが、次男伸六(しんろく)が生まれた。父親からの不条理の暴力に怯え、心に傷を負ったかもしれない、あの伸六(しんろく)である。(あのって、どの伸六だ?)

1909年(明治42年)

 1909年(明治42年)に入ると、1月から3月にかけて「永日小品(えいじつしょうひん)」が新聞連載。そして6月から10月にかけて「それから」が掲載された。新聞小説を意識して、この年4月に起こった「日糖疑獄事件(にっとうぎごくじけん)」(日糖事件)が背景に織り込まれている。日糖というのは、つまり大日本精糖株式会社のことで、明治39年に鈴木久三郎氏が買収した会社に始まっている。これが強引な拡大により株価を大いに高めた挙句大暴落をきたして、ついに42年の4月に政界を巻き込んだ贈収賄事件として新聞をにぎわすことになった。社長がピストル自殺までしたこの事件だが、「それから」の中では、主人公大助の生活の支えだった父や兄の援助が打ち切られる過程の中に、この事件が横たわっている。小説の中で大助は、働かずに暮らしていける「高等遊民(こうとうゆうみん)」の生活を捨てて、友人から愛する女を奪い取って生きていくことを決意するのであった。

(ワンポイント語彙)
[疑獄(ぎごく)]
・政治にからむ大規模な贈収賄の事件。
・(礼記)犯罪の疑いで審理中の難事件。(三省堂、スーパー大辞林より)

 さて、満州鉄道の総裁になっていた中村是公のすすめによって、9月2日から10月17日まで、漱石は大陸に渡った。大連(だいれん、ダーリェン)、旅順(りょじゅん、リューシュン)、長春(ちょうしゅん、チャンチュン)、ハルビン、平壌(ピョンヤン)などを旅し、帰国後、旅行記として「満韓ところどころ」の掲載を始めた。ところが評判が上がらない。漱石の意気込みも消沈したものか、12月末に旅半ばで打ちきりとなってしまった。まさか新聞に「作者急病のため」とは記されなかっただろうが・・・。一方で11月25日から朝日新聞に漱石主宰による文芸欄が設置され、これは弟子の森田草平が編集することになった。例の心中未遂事件で朝日新聞に入社させることが困難になったので、自分がまかされた文芸欄を嘱託(しょくたく)したようだ。


 大陸といえば、1905年の第二次日韓協約によって韓国統監府(かんこくとうかんふ)が置かれ、大韓帝国は日本の保護国となったが、初代統監には伊藤博文(1841-1909)が就いていた。ところが、保護国を一歩進めて併合に至らしめる気運が高まっていたことがあり、1909年7月には併合方針が閣議決定されている。そのような背景から、抗日運動家の安重根(アン・ジュングン)が、10月26日にハルビンで伊藤博文を暗殺したのである。漱石が日本にもどってから間もなくのことであった。しかし伊藤博文が併合を進めていたわけではないので、韓国は結局翌年1910年に韓国併合になってしまった。

1910年(明治43年)

 1910年(明治43年)の3月から6月までは、「門(もん)」が朝日新聞に掲載された。「三四郎」「それから」と合わせて(続編ではないが)三部作を形作るもので、学生生活が描かれた「三四郎」、高等遊民たる主人公が、それを棄てて生きる決意をした「それから」に続く状況が描かれている。つまりエリートの未来から転落して、役所に勤める平凡なサラリーマンである野中宗助が、かつて親友から妻を奪い取ったことを煩悶し、ついには禅修行に出かけて、和尚から「このたわけめが!」と叩き出される仏罰ストーリーが展開するのである。(・・・何か違うな。)同時に主人公の貧しい生活が、崖の上の豪邸と対比させられ、知識人の末路としての自覚も主人公にはあり、本当の煩悶はいずこより生まれるのか、主人公にも、読者にも答えられない問いとして投げかけられているのであった。


 ところが、こんな苦しい小説を書いていたら胃病が進行してしまった。6月には、胃潰瘍のため長与(ながよ)胃腸病院に入院を余儀なくされたのである。なんとか7月末に退院して、伊豆の修善寺(しゅぜんじ)温泉に療養に出かけたが、8月に容態が悪化し、一時は吐血して30分も意識を失っていた。電報が衝撃となって知人を巡るほどの危篤だったのだ。後になって意識喪失を知った漱石は、自分が束の間(つかのま)死んでいたことを知らされ、深い感慨にうたれたという。この事件をファン達は、漱石の「修善寺の大患(たいかん)」と呼ぶそうだ。10月に帰京するや、再度長与胃腸病院に入院し、ここで「想い出す事など」を執筆しながら年を明けることになった。この入院中の執筆については、心優しき朝日新聞の池辺三山が、「余計な事をするな」と漱石を殴りつけて・・・・はいないが、叱りつけている。


 この年3月に、志賀直哉(しがなおや)(1883-1971)、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)(1885-1976)らが雑誌「白樺(しらかば)」を発行。これによって個性主義的、自由主義的な「白樺派」が誕生することになった。彼らは漱石ファンだったので、武者小路実篤が創刊号を漱石に謹呈(きんてい)した。創刊号には志賀直哉の「網走(あばしり)まで」と、武者小路の「それからに就いて」(漱石の「それから」の評論)などが載っていたので、漱石は丁寧な礼状を出し、また彼らに朝日新聞での仕事が与えられることになった。


 政治の方では、この年8月に韓国併合がなされたが、他にも6月に大逆事件(たいぎゃくじけん)が起きて、天皇暗殺未遂の罪によって、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)ら社会主義者達が翌年処刑されている。

2007/12/07掲載
2007/12/22改訂
2008/01/30再改訂

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