夏目漱石の生涯略歴2

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愛媛県松山時代(1895年4月-1896年3月)

 嘱託(しょくたく・正式職員と別枠に専任を委任すること)の英語科教員となった漱石は、クラスの受け持ちも無ければ、「坊ちゃん」の主人公のような宿直もない。「赤シャツ」級のお偉い学士さまとして愛媛県尋常中学校に赴任した。月給は60円の校長より高い80円である。反対の声を押しのけた四国行きには、心中幾ばくかの思いあったに違いない。違いないが真相は分からない。分からないだけに恋愛と結びつけて考えたがるのは、後世の人情であろうか。大塚楠緒子だけでなく、1991年7月18日に正岡子規に送った手紙の中の少女、「井上眼科病院」で見かけた「可愛い女の子」との恋が破綻したという珍説まである。もし彼が文学について、あるいは社会について、自己についての煩悶が高じて精神衰弱に掛かっていたとしたら、安易に恋愛に陥れるのは、むしろ悪意に満ちていると言える。とにかく、妄想を排除した証拠が必要なところだ。


 松山に赴任してしばらく後、親友が訪れた。正岡子規である。彼はこの年8月、日清戦争に従軍記者として同行したが、1889年頃から煩っていた肺結核が悪化。日本に戻ると、神戸から故郷の松山に療養帰省したのである。それが自宅に入るべきところを、漱石が自ら「愚陀仏庵(ぐだぶつあん)」と呼んだ借り家の一階に転がり込んで来た。しかも行動派の子規はそこで俳句の会合を開き、壮大な俳諧(はいかい)ライブを繰り広げるのだから漱石もたまらない。しかも蒲焼きなど、出前を取り寄せて勝手に食いまくっている。騒々しくって、二階で翌日の下見なんかしてはいられない。漱石もついにはマイクをもぎ取って(ではないが)、一緒に俳句を歌い出してしまったのである。(このとき漱石が、「五月蠅さや階下に迫る子規の声」と詠んだというのは誤伝である。)子規は10月に東京に戻るが、その時は出前の料金を「君払ってくれたまえ」と云って、おまけに10円ほど巻き上げて立ち去った。恐るべきは正岡子規。上京途中の奈良では、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」という有名な俳句を作りながら、漱石宛に「お金は当地において使い果たしました」と宣言している。ただし以前は子規におごって貰ったからしかたがない。その後も漱石は俳句がまとまると批評を求めて子規に送りつけたりしている。


 学校では優れた英語教師として生徒からも教師からも敬意を受けていた。「一つ弘中(ひろなか)シッポクさん」で始まる生徒の「先生数え歌」では、「七つ夏目の鬼がわら」と、痘痕面(あばたづら)した無愛想な態度が歌われている。一つ目の弘中又一(ひろなかまたいち)は数学の教師で「坊っちゃん」のモデルと目(もく)される人物だ。不思議なあだ名のシッポクとは、茹でてよそったうどんに、煮込んだ野菜と汁を一緒にかけて戴く「しっぽくうどん」(讃岐の郷土料理)のことである。これが大好物だったことから、「坊ちゃん」の中で天ぷら蕎麦を4杯も平らげた逸話が生まれたのだという。


 漱石に英語を教わる生徒の一人、松根東洋城(まつねとうようじょう)(本名略)(1878-1964)は、俳句に関心を持っていたため、子規の俳句ライブに顔を出し、漱石とも接近することになった。後には弟子と云うよりは友人に近くなり、生涯付き合いを続けることになったのである。他にも、漱石の主治医として死を看取った真鍋嘉一郎(まなべかいちろう)も、愛媛県尋常中学校の生徒であった。


 この年12月には兄直矩の同僚の口添えで、貴族院書記官長中根重一(なかねじゅういち)の長女鏡子(きょうこ・きよ)との見合いのために、東京に戻っている。個人的恋愛とは乖離(かいり)した当時一般の社会規則に則って婚約が成立。漱石は、歯並びが悪いのに気にせずいるところが気に入ったとかなんとか、初対面の感想を述べている。しかし、成立後の翌年、熊本第五高等学校への転任が決定してしまった。またしても管虎雄の取りなしである。漱石は中根重一に対して、都落ちの婚礼となれば破談にしても構わないと言ったが、中根のお父上は娘を遣る決心をした。
 この間、1896年(明治29年)の1月に入って、東京の正岡子規邸で句会が開かれ、漱石も高浜虚子らと共にこれに参加している。ここには森鴎外も参加していた。

熊本第五高等学校時代(1896年4月-1900年6月)

 転任後の6月、熊本で結婚式が行われ夫婦生活が始まるが、鏡子は早々に「勉強があるから、お前に構っていられない」と宣言されてしまったようだ。月給は20円上がって100円となったが、奥さんの記憶を元に記された「漱石の思い出」によると、そのうち10円は軍艦製造費として引かれ、大学奨学金返済や漱石の父と姉への送金で20円ほど失われ、漱石の書籍購入費に20円ほど掛かり、50円が生活費となり、8円が家賃だったそうである。鏡子は毎月5円ほどへそくりしていたら、20円になった時に泥棒に持って行かれたという逸話もあるから、決して貧しい生活ではなかったようだ。


 1897年(明治30年)の4月には、大学時代の友人で第五高等学校に赴任した山川信次郎が漱石邸に寄宿。この時期、結核が元で脊椎カリエスにかかり床がちになっていた子規が、君の人生目標はなんだと書き送ってきた。これに対して漱石は「教師なんか辞めて文学的生活を送りたい」と記している。子規はこの年、2度も腰の手術を行うことになる。
 6月に入ると実の父親直克が亡くなったという知らせが入る。妊娠中の妻を連れて上京したところ、子供まで流産してしまった。妻の精神状態は不安定になったが、それには夏目先生の夫としての態度も関係しているのかも知れない。
 東京では床がちの子規を見舞ったが、病にも負けずこの年、正岡子規は弟子の高浜虚子らと共に、合資会社ホトトギス社を立ち上げ、俳句を中心とする雑誌「ホトトギス」を誕生させている。漱石もこれに俳句を載せたりしているが、後に「吾輩は猫である」を発表し、作家への道のりを本格化させるのも「ホトトギス」においてである。
 9月には熊本に戻った。この年の暮れから翌年正月にかけて、山川信次郎と共に小天温泉(おあまおんせん)に旅行している。この思い出は後に「草枕」として結晶化されることになった。


 1898年には出会いがあった。すでに1896年に第五高等学校に入学していた寺田寅彦(てらだとらひこ)(1878-1935)が、友達の英語の成績を救うべく漱石邸に乗り込んで来たのである。しかし俳句に興味があったため、次第に漱石邸に通うようになってしまった。彼は、漱石の筆頭弟子とも言え、比較的年齢が近いため生涯最も親しい友人関係の一つを築くことにもなった。
 夏になると、妊娠をした妻が、つわりに精神的発作が重なったため、まさかシューマンに憧れた訳ではないのだが、川に身を投げて投身自殺をはかった。運良く助け出され、事件として取り上げられないように右往左往。無事の出産をはたし、長女筆子(ふでこ)が誕生したのは、1899年(明治32年)になってからの事であった。なお、1899年には寺田寅彦が東京帝国大学理科大学に入学。漱石は9月に山川信次郎と阿蘇山に登り、これが元で、後に小説「二百十日」が生まれることになった。


 1900年(明治33年)。病にも負けずこの年、「写生文(しゃせいぶん)」を提唱した子規だったが、結核菌による脊椎カリエスの病状は進んでいた。すでに前年から寝たきりになっていたのである。2月12日の漱石宛の手紙には、自分の症状の辛さや、最近涙もろくなったことなどが、きわめて長文でしたためられている。しかし、友よ悪く思うなかれ、漱石には新しい路が開けていた。春に文部省から第1回給費留学生として認められ、英語研究のため二年間イギリスに向かうべしとお沙汰があったのである。漱石は「英文学研究じゃなきゃ嫌だい」と駄々をこねて、いったん辞退を申し出たが、校長が説得するに及んで首を縦に振ったという。こうして7月にはいると、漱石は熊本を後にして、留学準備のために東京に帰って行った。東京で療養する子規の元に見舞いがてらに出かけもした。子規への見舞いは、ロンドンに向かった後も、手紙として何度も送られることになるだろう。子規のお亡くなるその時まで。

留学時代(1900年9月-1903年1月)

 第五高等学校は休職扱いとなった。学校から年300円支給して貰いつつ、国から留学費として年間1800円が支給される条件で、妻子を東京に残した漱石は、9月8日ドイツのプロイセン号に乗り込んだ。そして芳賀矢一(はがやいち)、藤代禎輔(ふじしろていすけ)ら5人と共に横浜港を出発したのである。時に34歳。遅まきの留学であった。さっそく船酔いに苦しめられたようだ。それでも船はどうにも止まらない。上海、香港、シンガポール、コロンボ、スエズ運河、と西欧が帝国主義で蹂躙(じゅうりん)した国々を華々しく走るプロイセン号に乗って、ついにはナポリへと船旅を続ける。途中で始まった妻宛の手紙は、留学全体を通じてかなりの数に上ることになるだろう。ジェノバからは陸路でパリに向かった。
 到着したパリは華やいでいた。1900年の第5回万国博覧会(パリ万国博覧会)(4月15日-11月5日)が、初めて女性選手の参加したパリオリンピックと共に開催されていたからだ。ロイ・フラーが魅惑のダンスをロイ・フラー館で繰り広げ、そこにアメリカで成功しヨーロッパ興行を行っていた川上音二郎・貞奴らの一座が踊り込みを掛け、ダンテやピカソが衝撃を受けてしまったという、あのパリ万博である。そして各地の植民地国から名産や工芸を集めた、帝国主義真っ盛りの万博でもあった。1895年のパリ万博でメジャーデビューを果たした世紀末芸術運動、アール・ヌーヴォー真っ盛りの万博でもあった。この万博に仲間と共に3度も訪れた漱石は、衝撃的な動く歩道に対応できずあちらこちらと転げ回った。(・・・転げ回っちゃ大変だ。)エッフェル塔にも昇っている。そしてベルリンに向かう仲間達と別れて、10月28日、一人でロンドンに到着したのである。


 こうして漱石の言うところの「もっとも不愉快の二年間」が始まった。ヴィクトリア時代最後のロンドンは、産業革命のなれの果ての騒乱の都市であった。物価は高く金銭上の不安を度々訴える漱石だったが、大学講義がもっぱらギリシア・ラテン語の古典文学を中心としていることもあり、大学には籍を置かずに聴講だけを行い、シェークスピア学者として知られたクレイグ博士から個人授業を受け始めた。しかし下宿料の事もあって、滞在中5回も下宿先を変えている。
 そんな中、1901年の1月には東京で次女恒子(つねこ)が生まれた。2月には、栄光の時代を築いたヴィクトリア女王の葬儀を見物するためにハイドパークに出かけたが、この頃漱石は留学を一年延ばしてフランス留学をしたい旨を文部省に依頼。しかしこれは却下された。英語留学と関係ないからだが、実に惜しいことをしてくれたものだ。
 5月頃になると、後に「味の素」(旨み成分グルタミン酸に基づく)を発明する池田菊苗(いけだきくなえ)がしばらく漱石の元に留まっている。1901年7月に最後の下宿先チェイス81番地に移った。ますます生活費を切りつめて下宿に籠城し、文学の本源を極めようという、途方もない計画に埋没。自ら「下宿籠城主義」と称している。文学を極めるには心理学や社会学と言った文学外から攻め込まなくちゃ駄目だと、広範な書籍を読破し続けていた。異人さんの住む世界で、一人魂の限界を超えて神経衰弱が高じながら、それでも知識を取り込み続けていたのである。


 そんな中一つの訃報(ふほう)が伝わってきた。1899年頃から寝たきりになっていた親友の子規が、1902年9月19日とうとう亡くなったという。この知らせが高浜虚子によって11月頃、漱石にもたらされたのである。生前子規から最後に送られてきた1901年11月6日の手紙には、
「僕ハモーダメニナッテシマッタ、
毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ」
という苦しい文面が羅列するが、漱石はこれに返事を書いてやることが出来なかった。なぜなら彼自身「モーダメニナッテシマッタ」からである。すでに10月には文部省から藤代禎輔に宛てて、「漱石を保護して帰れ」というお達しが出ているくらいだったのである。それに憤慨したかどうだか知らないが、漱石は藤代を先に帰らせると、スコットランドに旅行までして(注意、藤代よりスコットランドの方が先かも知れない)、1902年(明治35年)12月5日、日本郵船会社博多丸に乗ってイギリスを後にしたのであった。

2007/12/06掲載
2007/12/20改訂
2008/01/25再改訂

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