『大和物語』段~段

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大和物語 百六十一段~百七十三段

百六十五段 『つひに行く道』

 

百六十六段

 在原業平が、物見に出かけた時、女の乗った由緒あるような車があったので、下簾(したすだれ)の隙間から、この女の顔を眺めて、言葉を交わした。帰ってから、翌朝女に和歌を贈る。

見ずもあらず
   見もせぬ人の 恋しきは
 あやなく今日や ながめ暮さむ
          在原業平 (古今集)

 女からの返しに、

見る見ずも
   たれと知りてか 恋ひらるゝ
  おぼつかなみの 今日のながめや

百六十七段

 男が、妻の着物を借りて、新しい妻の元へ出向き、着古した後に送り返すときに、「雉(きじ)・雁(かり)・鴨(かも)」を土産に加えた時に、もとの妻が、

きなやきじ
  人にならせる かりごろも
    わが身にふれば 憂きかもぞつく

百六十八段

 仁明天皇(にんみょうてんのう)(在位833-850)の時代、良少将[=良岑宗貞(よしみねのむねさだ)。出家後の名称を遍昭(へんじょう)。二十一段、二十二段のそれとは別人]が、通っていた女の元に「今宵必ず」と言って、来なかったことがあった。その時女が、

人ごゝろ
  うしみつ今は 頼まじよ
          (拾遺集)

と上の句を送ると、男は驚いて、

夢に見ゆとや ねぞすぎにける
          良岑宗貞 (拾遺集)

と返したのは、寝過ごしてしまったからである。

 そんな良少将だが、仕えていた帝が亡くなったときに、誰にも知られず消えてしまった。出家して僧になったのか、後を追って自殺したのかも分らないので、妻のひとりが、泊瀬の御寺の導師(どうし)に相談して、涙を流すとき、実は良少将は端で聞いていて、走り出しそうになったそうである。翌朝になると、妻の泣いた後は、血で濡れていて、まさに「血の涙」を流していたのだった。

 そうして世の中が、亡き天皇の喪が明けた時でさえ、彼は、

みな人は
  花のころもに なりぬなり
 苔のたもとよ かはきだにせよ
          良岑宗貞\遍昭 (古今集)

と和歌を詠んだのだが、それによって、どうやら法師になったことだけは、人々に知られることとなった。亡き仁明天皇の妃である、五条の后(きさい)の宮が、ようやく探し当てたとき、「恥ずかしくも生きながらえています」という返事とともに、

かぎりなき
  雲ゐのよそに 分かるとも
 人にこゝろを おくらさめやは
          良岑宗貞\遍昭 (古今集)

という和歌を返した彼だったが、もう一度連絡を取ろうとしたら、またどこかへと消え失せているのだった。

 さらには、小野小町(おののこまち)が、清水寺に参拝したとき、経を読む声から良少将に似ていたので、

岩のうへに
   旅寝をすれば いと寒し
  苔のころもを 我にかさなむ
          小野小町 (後撰集)

と詠んで、探りを入れてみたら、

世をそむく
   苔のころもは ただひとへ
  重ねばうとし いざふたり寝む
          良岑宗貞\遍昭 (後撰集)

と返ってきたので、さてはと思って逢おうとすると、また消え失せてしまった。

 そんな良少将も、後には僧正(そうじょう)の位を得る高僧になって、出家する前の子供もまた、僧にするくらいだったが、

折りつれば 手ぶさにけがる
  たてながら 三世のほとけに
    花たてまつる
          良岑宗貞\遍昭 (後撰集)

という歌を詠んだのもまた彼であった。

 さて、出家させられた子供の方[同じく遍昭の子である、素性法師の兄にあたる、由性のこと]は、自らの願いではなかったので、都に出て女遊びをしてたが、ある女性のもとに通って、そこの家族にばれて、遠ざけられてしまったことがあった。

 その家族が法事に来たとき、彼はかつての恋人の元に、こっそり、

白雲の
  やどる峰にぞ おくれぬる
 思ひのほかに ある世なりけり
          由性

と送ったことがあったが、彼も後には僧都(そうず)の位を持つ高僧となったのであった。

百六十九段

 むかし内舎人(うどねり)の職にある人が、大和国に下ったとき、女性が可愛らしい子供を抱いていたので、呼び寄せて、「大きくなったら迎えに来るから、私の妻にさせなさい」と言って、形見の物を置いていった。

 男は忘れてしまったが、幼い子はそれを忘れずに七、八年が過ぎた時、また男が大和に出向くと、井戸のあたりに水をくんでいた女が、こう言うのだった……

[そこで文章が途切れているが、これは執筆途中ではなくて、わざと物語の途中のように終わらせる、「切断形式(せつだんけいしき)」によるもので、本来はここが『大和物語』の最後であったと考えられている。]

百七十段

 藤原伊衡(ふじわらのこれひら) (876-939)[歌人だけでなく、公式な酒合戦で優勝したほどの酒豪としても知られる]が、中将だったころ、風邪を引いたら、兵衛の命婦(ひょうえのみょうぶ)が薬としての酒や肴を下さったので、

青柳の 糸ならねども
  春風の 吹けばかたよる
    わが身なりけり
          藤原伊衡

とお礼を歌うと、

いさゝめに
   吹く風にやは なびくべき
  野分すぐしゝ 君にやはあらぬ
          兵衛の命婦

と返歌があった。

百七十一段

 今の左大臣である藤原実頼(さねより)(900-970)が、まだ少将だったころ、式部卿の宮に常にあったが、その宮に大和(やまと)という女性が仕えていた。実頼が語りかければ、恋に生きる女性であったので、うれしく感じていたが、常に逢うことは叶わなかったので、大和が、

人知れぬ
   こゝろのうちに もゆる火は
 煙(けぶり)もたゝで くゆりこそすれ
          大和 (続後撰集)

と詠めば、実頼の返しに、

富士の嶺の
   絶えぬ思ひも あるものを
 くゆるはつらき こゝろなりけり
          藤原実頼 (続後撰集)

 しばらく逢えなかった頃、女は何を思ったか、みずから左衛門(さえもん)の陣に牛車をやって、そこを通る役人を留めては、「少将の君にお話があります」と繰り返すのだった。とうとう、実頼の耳に届いて、興あることに思われたので、床を設けて彼女を引き入れて、「どうしてこのようなことを」と尋ねれば、女の答えて「あまり来られないのので」

[ここでも、途中で物語が途切れている。ある諸本には書き入れがあって、「後撰歌あつよしのみこの家にやまとゝ云人に 左大臣 今更に思ひいでじとしのぶるをこひしきにこそわすれわびぬれ」と紹介されている。]

百七十二段

 亭子の帝こと宇多天皇(うだてんのう)(在位887-897)が、滋賀県大津市にある石山寺につねに参詣していたので、近江国(おうみのくに)の負担が重くなって国は滅びるであろうと、国守が言ったのが天皇の耳に入った。

 これを聞くと、天皇は他に負担させて、石山寺に参詣したので、自分の言葉が天皇の耳に入ったことを恐れた国守が、琵琶湖の打出浜(うちでのはま)に、すばらしい滞在のための仮屋を設けて、恐れ多いので自分は隠れて、大友黒主(おおとものくろぬし)だけが、仮屋で天皇を待つのだった。

 そこに来た天皇が、「なんのためにここに居るのだ」と尋ねると、

さゝら浪
  まもなく岸を あらふめり
    なぎさ清くは 君とまれとか
          大友黒主 (新千載集)

と詠んだので、帝も感心して立ち寄られたのだった。

百七十三段

 良岑宗貞(よしみねのむねさだ)の少将が、五条のあたりで、雨宿りのために立ち寄った荒れた屋敷に立ち寄ると、

よもぎ生ひて
  荒れたる宿を うぐひすの
    人来と鳴くや たれとか待たむ

と、悪くない姿の女性が和歌を詠んでいるので、

来たれども
  言ひし馴れねば うぐひすの
    君に告げよと 教へてぞ鳴く
          良岑宗貞\遍昭

と返して、雨宿りを求めて、屋敷に上がって、最後には簾(すだれ)のなかに入って、女と一夜を共にした。ただ粗末な屋敷で、少将をもてなすほどのものもないので、彼女の親は、庭の菜を蒸し物にして、それに梅の花を飾って、女の手で、

君がため
   ころものすそを 濡らしつゝ
 春の野にいでゝ 摘める若菜ぞ

と書いて差し出した。それから少将はそこに通うようになったが、あの食事くらい素敵なものはなかったと、後に回想するのだった。なぜなら、仕えていた帝が亡くなられたので、少将も出家して法師になってしまったからである。ある時、もとの女に、

霜雪の
  ふる屋のもとに ひとり寝の
 うつぶし染めの あさのけさなり
          良岑宗貞\遍昭

          (をはり)

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