『大和物語』141段~146段(現代語訳)

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141段 ふたり来し路

 「よしいえ」[詳細不明]という名の宰相(さいしやう)[参議(さんぎ)という国政の中枢役員]の兄弟が、大和国[奈良県あたり]の掾(じよう)[県庁の三番目のポストくらい]の役職にいた。彼の妻のところに、筑紫[ここでは九州地方くらい]から女を連れてきて住まわせた。元の妻も、優しい人で、新しい妻も、憎らしい心は持たず、仲良く語り合う中だった。そしてこの男は、あちらこちら、他の国へ出張しがちだったので、二人だけで住んでいた。

 この筑紫の妻が、忍んで別の男と逢ったが、
  それを誰かに咎められたときに、このように詠んだ。

夜半にいでゝ
  月だに見ずは 逢ふことを
    知らず顔にも 言はましものを

[夜中に出かけても
  月さえ見てなければ 逢ってることを
    知らないふりして 答えられるのに ]

 このようなことをするのに、元の妻は優しい人なので、夫にも言わないままで居たけれど、別のところから「このように男をこしらえている」と聞いて、夫は考えては見たが、あまり悩むこともせずに、そのままに放置しておいた。

 やがて逢ったとき、この夫は、女が別の男を作っているという話に対して、「その相手と自分とどちらを思っているのだ」と尋ねると、筑紫の女は、

花すゝき
   君がゝたにぞ なびくめる
 おもはぬ山の 風は吹けども

[薄(すすき)のように
   あなたの方にこそ 私はなびきます
    思わぬ山の方から 風が吹いて来たけれど]

と詠んだのであった。
 (女からではなくて、)女に言い寄ってくる男もあった。「世の恋は憂いに満ちています。もう男は作りません」なんて言っていたが、この男に次第に心引かれたか、この男の手紙に返事などをしてやって、やがて元の妻のもとに、手紙を結び文にして送るのだった。元の妻が読んでみると、このように書いてある。

身を憂しと
   思ふこゝろの こりねばや
 人をあはれと 思ひそむらむ

[自分の性格がわずらわしい
   なんて思う心自身が 懲(こ)りないからでしょうか
  また誰かを 好きになってしまいました]

といって、性懲りもなく詠んでみせるのだった。
 このようなことを言い合えるくらい、心の隔てもなくて無邪気なので、「可愛らしい」と元の妻は思っていたのだったが、筑紫の妻は、夫の心が変わってしまって、以前のように愛してくれないので、筑紫に親兄弟が居るので帰るというのを、夫も心が変わってしまったものだから、留めることもしなかった。元の妻は、一緒に居ることが慣れていたので、帰ってしまうことを悲しいと嘆くのだった。

 山崎[京都府乙訓郡大山崎町]に一緒に行って、舟に乗せることにした。夫もやってくる。この後妻と本妻は、ひと日ひと夜(よ)、様々なことを語り合って、翌朝、舟に乗ったのである。

 今は夫と元の妻は、帰ろうとして車に乗る。こちらもあちらも、たいへん悲しいと思っていると、舟に乗っている筑紫の女から手紙が届けられた。このように書いてある。

ふたり来(こ)し
  道とも見えぬ 波のうへを
 思ひかけでも かへすめるかな

[二人で来た
   道も見えない 波の上を
  寄せた波が返すみたいに
    もう思われなくなってしまった
   わたしは帰って行くのです]

と詠まれているので、夫も元の妻も、たいそう悲しくて泣くのだった。漕ぎ出していたので、返事を書くことも出来ない。ただ車は、舟の行くのを見ながら出発せず。舟に乗った人は、車を眺めようと、顔を差し出して、漕ぎ去るので、遠くなるのにまかせて、顔が本当に小さくなるまで眺め続けていれば、とても悲しく思われるのだった。

142段 命待つ間のほどばかり

 今は亡き御息所[不明。141段の「よしいゑ」と共に創作的人物との説あり]の長女にあたる人は、特に心ゆたかで、歌を詠むことも、兄弟姉妹、例えば御息所よりも優れていた。若いうちに、母親は亡くなられて、継母の手で育てられたので、心の思うままにはならないこともあって、このように和歌を詠まれた。

ありはてぬ
   いのち待つ間の ほどばかり
 憂きことしげく 嘆かずもがな
          (古今集 平定文の和歌として)

[十分には生きられない
   はかない命を保つ間くらいは
     憂いのあることでいろいろと
   嘆いたりすることがなければいいのに]

と詠むこともあった。また梅の花を折っては、

かゝる香の
   秋もかはらず にほひせば
 春恋してふ ながめせましや

[このような香りの
    秋にも変わらず 咲き匂うならば
  春が恋しいなんて 眺めたりはしないでしょうに]

と詠んだりもした。
 とても優れていて、おもむきのある女性であったので、言い寄る男も多かったものを、返事さえしないのだった。「女という者はひとりで一生を終えるものではない。時々は返事くらいは」と父も継母も責める時に、また和歌で、

思へども 甲斐なかるべみ
  しのぶれば つれなきともや
    人の見るらむ

[思っても甲斐のない事でしょうから
   心に秘めていると 薄情で無関心なのだと
     人はわたしを見るのでしょうけど]

とだけ言って、黙ってしまうのだった。
 そのような訳で、親は結婚させようとするのだったが、「一生男は持ちません」と常に言っていて、29歳で結婚もしないで死んでしまった。

143段 うきもうからぬものにぞありける

 むかし、在中将[在原業平(ありわらのなりひら)(825-80)]の息子である在次の君[在原滋春(しげはる)]という人に、妻があった。その女は山蔭の中納言[藤原山蔭(824-888)]の姪にあたり、五条の御(ご)と呼ばれていた。

 在次の君は、自分の妹で、伊勢守(いせのかみ)の妻となっている人のところに出向いて、その五条の御は伊勢守の召人(めしうど)[使用人兼愛人といったところ]であったのを、伊勢守から見れば妻の兄にあたるはずの在次の君は、ひそかに五条の御のもとに住み通っているのだった。

 ところが、自分だけだと思っていると、在次の君の兄弟にあたる人もまた、この五条の御のもとに通っているらしい……それで女に詠んだ和歌。

忘れなむと
   思ふこゝろの 悲しきは
 憂きも憂からぬ ものにぞありける
          在原滋春 (新勅撰集)

[忘れようと
   思うこころの 悲しさは
  憂いも憂いでなくなるほど 深いものなのですよ]

[あるいは「浮き」の掛詞で、決して報われることのないものなのですというニュアンスが込められているだろうか?]

そう詠んだのだった。(妹の夫の愛人と逢っていたことも、またその愛人に自分の兄弟がまた通っていたことも、)今となってはみなむかしの話である。

[この段のテーマは、「はらから」とか「おとうと」とでも呼べるもので、自分は妹の夫の女に手を出してしまい、しかも自分の兄弟もその女に手を出しているのを知って、和歌を詠むという、ドロドロしているとも、あるいは一方で「仲睦まじい」と皮肉を言えそうにも思える、シチュエーションにある様子。最後の「今はみな古ごとになりたることなり」というのは、こうした兄弟同士のいろいろなことは、ひっくるめて昔のことになりました、というニュアンス。
 直接的には、冒頭の「妻ありける」に掛かり、妻になる以前のことを述べるというものだが、あるいは、執筆当時においては、リアルが残されていて、「かつてのことでありました」と執筆者がわざわざ記す必要があった可能性もある。ただ、通常の読解をすれば、この言葉が他の段にまで掛るものとして、第一義に浮かんでくるとは思えないくらい、まずはこの段の内側に掛ってくる言葉には過ぎない。]

144段 今は限りの門出なりける

 この在次の君[在原滋春]であるが、父である在中将[在原業平]が東国に下ったことがあるせいだろうか、その息子である彼も、よその国への旅を、ときどき行っていた。情緒を知るものであるから、よその国の趣深く、しみじみとするような場所では、和歌を詠んで書き付けたりしていた。

 例えば、小総の駅(おぶさのうまや)[神奈川県小田原市酒匂(さかわ)付近か]は、海辺だったので、それを詠んで書き置くには、

わたつみと 人や見るらむ
  逢ふことの なみだをふさ
    泣きつめつれば
          在原滋春

[海だと人は思うのでしょうか
   もう会うことはない そんな涙をたくさん
     泣きながしているので]

[「涙をふさに」(多く)に「をふさ」の地名を織り込む。]

 また近くの箕輪(みのわ)の里で、

いつはとは
  わかねどたえて 秋の夜ぞ
    身のわびしさは 知りまさりける
          在原滋春

[いつであると
   時期を分けて わびしいのではありませんが
     それでも秋の夜こそ
   身のわびしさは 身につまされるようです]

[「身のわびしさ」に「みのわ」の地名を織り込む]

と詠んだりした。
 やがて、国々を歩き回って、甲斐国(かひのくに)[山梨県辺り]に来て住んでいる時に、病気で死ぬ間際に、

かりそめの
  ゆきかひ路とぞ 思ひしを
 いまはかぎりの 門出(かどで)なりける
          在原滋春

[仮に往来するだけの
   この甲斐路だとは 思っていたものを
     今これきり戻れない
   旅立ちだったとは]

[「行き交ひ路」に「甲斐路」を織り込む]

と詠んで亡くなったという。
 この在次の君と、一緒に居た事がある知人が、三河から京にのぼるときに、宿泊地でこれらの和歌を見つけて、筆跡から彼のものだと知って、しみじみとした感慨に囚われたという。

[ この段は、和歌の技術としては地名を織り込むことによって、物名(もののな)・隠し題(かくしだい)と呼ばれる技法と、歌枕(うたまくら)の和歌という二つのテーマを全うしていて、同時に表面上はどこまでも情緒的な段を形成している。このような心情的側面と、技法的な側面の緻密な融合が、特に後半部分の完成度の高さを支えてもいる。
 さらに101段でも、天皇が一連のエピソードを聞いて感慨をまとめるというエンディングがあったり、例の「生田川」では、前半のエピソードをもとに、後世の歌会が行われるなど、構成上凝った演出が見られるのも、後半の特徴である。ここでも、ただ在次の君が亡くなるまでの場景ではなく、知人がそれらの和歌を見つけるという、別の場景をエンディングに持ち込むことによって、段の構成を複雑化させて、味わいを持たせている。
 それを、ここまで切り詰めた表現と、和歌の質を維持しながら、短くまとめる才能は、ありきたりとは正反対のもの、きわめて優れた作品であることの証ではある。]

145段 浜千鳥

 宇多法皇が、川尻[ここでは淀川の河口付近。遊女の場所として知られていた]に滞在したとき、遊女に「しろ」という名ものがいた。人をして呼び寄せれば、やってきて控えている。貴族や皇族が沢山いるので、下の席に、遠く控えていると、「なんでそんなに遠くに控えているのか、和歌で教えよ」と命じられたので、詠むには、

浜千鳥
  飛びゆくかぎり ありければ
    雲たつ山を あはとこそ見れ

[浜の千鳥であるわたしは
  飛ぶのにも限りがありますから
    雲の立つ山のような大層なところには
  近づくことが出来ません。
    ただこうして、あれは淡路島か
      と思って眺めるばかりです]

[つまり「雲立つ山」とは、貴族たちを従えた宇多法皇で、浜千鳥の私は、それを遥か遠くから眺めているという趣向。]

と詠んだところ、法皇はこの和歌を褒め称えて、褒美を授けたのだった。

いのちだに
   こゝろに叶ふ ものならば
 なにか別れの 悲しからまし
          (古今集)

[もしいのちさえ
   思い通りになるものならば
  どうして別れが
    悲しくなることがあるでしょう。
   きっとまた、巡り会うことが出来るでしょうに、
     実際にはそれは叶わない……]

という和歌も、この「しろ」が詠んだものである。

[二つ目の和歌の提示は、126段からの「檜垣の御」のエピソードで行ったやり方を極限まで縮めたもの。即興的な和歌を詠むのにたけていた「しろ」は、このような心情的な和歌もまた巧みであった。という紹介になっている。]

146段 とりかひ

 宇多院が、鳥飼院(とりかひのゐん)[大阪府摂津市三島町鳥飼に離宮があった]に滞在したとき、いつものように、歌や音楽のあそびがなされた。「このあたりには遊女が、たくさん居るけれど、声がすばらしくて、趣深い歌い手はいるか」と宇多院が(臣下に)尋ねさせると、遊女達は「大江玉淵(おおえのたまぶち)の娘と言っている者がいます」と答えるので、名指しされた女を見てみると、容姿も清らかなので、院はいとおしさを覚え、側近くにお召しになった。

「そもそも大江玉淵というのは本当なのか」
と(臣下に)尋ねさせる時に ―ちょうど「鳥飼」という題で皆に和歌を詠ませている所だったので― そこで言うには、

「大江玉淵は趣味のある人で、和歌などもよく詠んだものだ。この鳥飼という題をよく使いこなして詠めたなら、本当に彼の娘だと認めよう」

と仰せになったので、娘はうけたまわって詠むには、

あさみどり
  かひ
ある春に あひぬれば
    かすみならねど たちのぼりけり

[浅い緑色の
   芽吹く甲斐のある春に 逢えましたので
     かすみは立ち上りますし
   霞ではないものの わたしもまた
     こうして高貴な方々の前に
       立ち上ることが出来ました]

と詠んだ時に、宇多院は、声に出して和歌を感嘆されて、なみだを流すのだった。まわりの人々も、十分に酔いの回った頃だったので、酔い泣きの状態で涙を流す。院は褒美に、袿(うちき)と袴(はかま)[つまり着物の上下]を授けるのだった。そして、

「すべての公卿、皇子たち、それ以外の四位五位の身分のものに告げる、この女性に着物を脱いで与えないものがいるなら、今すぐ立ち去れ」

と言うので、端から上下の者誰もが着物を与えたので、とても抱えきれず、二間(ふたま)[ここでは二柱の間くらいの意味か]ほど積み置かれるほどだった。

 やがて、宇多院が帰るときになって、 ―南院の七郎君(なんいんのしちろうぎみ)という人がいて、彼はこの遊女の住むあたりに、家を作って住んでいると聞いたので― その七郎君に彼女のことを委ねたのだった。

「彼女が申すことは、この院に伝えよ。わたしからの贈り物も、この七郎君に委ねて使わそう。すべてにおいて、彼女がわびしい思いをしないようにしてやるのだ」

と仰せになるので、七郎君もつねに彼女のもとを訪れて、何かと世話をしているという話である。

[この段は、文章の途中に別の文を割り込ませるという技法を、和歌を挟んで前半と後半で一回ずつ、意図的に使用している。]

2018/02/06
2018/12/12 改訂

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