『大和物語』九十一段~百段

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大和物語 九十一段~百段

九十一段

 三条の右大臣こと藤原定方(さだかた)(873-932)が、中将だった頃の話。賀茂の祭の勅使に任命されて出向いた際、かつて通っていたが、近頃は途絶えていた女の元に、「扇が必要なのを忘れてしまいました。送って欲しいのですが」と連絡をした。

 心配りのある人なので、良いものを送ってくれるだろうと思っていると、やはり素晴らしい扇を送ってきたが、その扇の裏に、和歌で、

ゆゝしとて
   忌むとも今は かひもあらじ
 憂きをばこれに 思ひ寄せてむ
          (拾遺集)

とあったので、定方の返し、

ゆゝしとて 忌みけるものを
   わがために なしといはぬは
  たがつらきなり
          藤原定方

九十二段

 今は亡き権中納言(ごんちゅうなごん)[藤原敦忠(あつただ)(906-943)]が、左大臣の娘[藤原忠平(ただひら)(880-949)の娘]に言い寄った頃、その年の十二月の末日に、

もの思ふと
  月日のゆくも 知らぬまに
    今年は今日に はてぬとか聞く
          藤原敦忠

と詠まれた。また、このようにも。

いかにして
   かく思ふてふ ことをだに
 人づてならで 君に聞かせむ
          藤原敦忠 (後撰集)

などと詠んで、ついに一夜を共にした朝に、

今日そへに
   暮れざらめやはと 思へども
 たへぬは人の こゝろなりけり
          藤原敦忠 (後撰集)

九十三段

 同じく藤原敦忠が、醍醐天皇の娘である雅子内親王(がし・まさこないしんのう)に、長らく思いを寄せていたが、ついに今日明日にも逢おうという時に、内親王は伊勢の斎宮(さいぐう)となって、逢うことが叶わなかった。それを残念だと思って、

伊勢の海の
   ちひろの浜に ひろふとも
  今はかひなく おもほゆるかな
          藤原敦忠 (後撰集)

九十四段

 醍醐天皇の息子である代明親王(よしあきらしんのう)は、妻が亡くなってから、幼い子供たちをつれて、妻の親であった三条の右大臣(=藤原敦忠)の屋敷に住んでいた。喪も明ければ、妻の妹にあたる九の君を、新しい妻にしようと話が進んでいたが、藤原師尹(もろただ・もろまさ)と手紙のやりとりをしていると聞いて、不愉快に思われたのか、三条の屋敷を出て、もとの宮に帰られてしまった。

 その時、亡き妻の姉に当たる、三条の御息所から、

なき人の
   巣守(すもり)にだにも なるべきを
 いまはとかへる 今日のかなしさ

とあったので、代明親王の返し。

巣守にと
  おもふこゝろは とゞむれど
    かひあるべくも なしとこそ聞け
          代明親王

九十五段

 同じく、三条の右大臣(=藤原敦忠)の娘、三条の御息所の話。醍醐天皇が亡くなられ後、式部卿の宮[敦慶親王(あつよししんのう)。宇多天皇皇子]が通って来ていたのが、どうしたことか来なくなってしまった頃。斎宮(さいぐう)からの手紙の返事に、式部卿の宮が来られないことなどを記し、最後に、

白山に
  降りにし雪の あと絶えて
 今はこし路の 人も通はず
          三条の御息所 (後撰集)

九十六段

 九十四段にあるように、九の君は藤原師尹と結婚してしまったので、左大臣である藤原実頼(さねより)が、三条の御息所に詠んでよこした和歌。

浪の立つ
  かたも知らねど わたつみの
    うらやましくも おもほゆるかな
          藤原実頼

九十七段

 太政大臣である藤原忠平(ただひら)(880-049)の妻が亡くなって、一周忌になったので、法事の準備を進めていた頃、月がとてもうつくしかったので、

かくれにし
   月はめぐりて いでくれど
  影にも人は 見えずぞありける
          藤原忠平 (続後撰集)

九十八段

 その藤原忠平だが、左大臣である藤原実頼の母が亡くなって、その喪が明けた頃、宇多法皇の取りなしが、醍醐天皇にあって、階級と異なる服の色の着用を許された。

 それで忠平は、すばらしい「蘇枋重ね(すおうがさね)」の服を着て、醍醐天皇の皇后のもとで詠むには、

ぬぐをのみ
   悲しと思ひし なき人の
  かたみの色は またもありけり
          藤原忠平

と泣いたそうである。

九十九段

 宇多法皇のお供に、太政大臣である藤原忠平(ただひら)が大井川に行った時、紅葉が小倉の山に美しいので、「かならず天皇に行幸(みゆき)をおすすめしよう」といって、

小倉山
  峰のもみぢ葉 こゝろあらば
    いまひとたびの みゆき待たなむ
          藤原忠平 (拾遺集)

と詠まれて、帰ってから醍醐天皇に勧められたので、大井の行幸(みゆき)ということが始まったそうである。

百段

 大井に、藤原季縄(すえなわ)の少将が住んでいた頃、醍醐天皇が、花の見頃には行きたいと言っていたが、すっかり忘れている様子なので、

散りぬれば くやしきものを
   大井川 岸の山吹 今日さかりなり
          藤原季縄

と詠んだ。それに感じられて、天皇は急いでおいでになったそうだ。

2017/12/28

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