紀貫之「土佐日記」-原文と朗読

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原文は現在改訂中なり

 朗読を行ひし四月以前まで「土佐日記」などまるで弁えぬ者なれば、知識乏しきが故の過ちなきにしもあらず。又古典への理解甚だ疎し。覚書的執筆にて解説の本意(ほい)にあらざれば、数多の過ち許されたし。

土左日記 紀貫之

[もとの名称は「土佐日記」ではなく「土左日記」であったらしいことが、写本から分かっている]

出発と送別

 をとこも漢文ですなる日記(にき)[底本漢字表記。あるいは促音無表記のため実際には「にっき」と発音されたか?]といふものを、をむなも仮名文字を用いてしてみむとてするなり。

 それの年[承平(じょうへい/しょうへい)四年、西暦934年。底本この部分の右側に「延長八年任土佐守承平四年」と記されている。つまり930年に土佐の守に就任し、この年承平四年」となる]の、師走(しはす)の二十日(はつか)あまり一日(ひとひ)の日[つまり旧暦の12月21日]の、戌の刻(いぬのとき)[午後7~9時ぐらい]に門出(かどで)す[時間的に、港へ向かったのではなく、方違え(かたたがえ)のために、べつの館などへまず出発したのかもしれない]。そのよし、いさゝかにものに書きつく。

[この部分、二十一日の記述の「由(よし)」つまり理由は、次に記されているとする意見あり。つまり引き継ぎをし終えて、解由など取りて、ようやく住む館より出たのが、すっかり日も暮れて夜になってしまった。かれこれの知る人知らぬ人が見送りをしてくれるので、別れにくく思って、昼の間を送別に費やしているうちに、夜も更けてしまった。と下で二度繰り返して、戌の刻に門出する理由を「いささかものに書き付けた」という訳である。いずれにせよ、「船出す」るのは当日ではなかったので、つまりは泊(とまり)かその付近には、移動して入るための宿、あるいは館が用意してあったので、戌の刻とはなっても差し障りはなかったのだろう]

 あるひと、あがた[行政単位としての任地の名称。紀貫之が国司として勤めた土佐守(とさのかみ)を指して言ったもの。その館は現在の高知県南国市比江にあった]の四年(よとせ)五年(いつとせ)はてゝ、例のことゞも[次の任官への引き継ぎ]、みなし終へて、解由(げゆ)[引き継ぎの確認書]など取りて、住む館(たち)より出(い)でゝ、船にのるべき所へわたる。かれこれ、知る知らぬ、送りす。年頃(としごろ)よく、くらべつる人々(ひと/”\)[心を比べ合った人々、つまり親交を結んだ人々]なむ、別れがたく思ひて、日[底本漢字表記]しきりに、とかくしつゝ、のゝしる[大騒ぎの意味]うちに、夜ふけぬ。

 廿二日(はつかあまりふつか)[底本、以下の冒頭の日付は漢字書]に、和泉(いづみ)の国(くに)[今の大阪府の南西部にあたる]までと、平(たひ)らかに願立(ぐわんた)つ[心静かに願いを掛ける。「願」は底本漢字表記]。ふちはらのときざね[以下、説明のない固有人物名はすべて未詳]、船路(ふなぢ)なれど、馬(むま)のはなむけす[「馬のはなむけ」は「餞別を贈る」くらいの意味。馬でゆけない船路なのに、と冗談を言ったもの]。上(かみ)中(なか)下(しも)のすべての階級の人々、酔(ゑ)ひ飽きて、いとあやしく[見苦しい状態で]、潮海(しほうみ)[塩気のある海、湖などを淡海(あはうみ)というのに対する]のほとりにて、あざれあへり[ふざけるの意味の「戯(あざ)る」に魚が腐るの意味の「あざる」を掛けたもの]

 廿三日(はつかあまりみか)[読み「みつか」か?]。「やぎのやすのり」といふ人あり。国にかならずしも、いひつかふ者[言って人々を使うべき役職の上の人]にもあらざなり[「あらざるなり」のの短縮。読み「あらざんなり」か?]。これぞ、たゝはしき[いかめしい、威厳がある、立派な]やうにて、馬のはなむけしたる。守(かみ)がら[「守柄」と見て「守としての品格」と取るか、または「守から」と読んで「守であるから」と取る]にやあらむ、国人(くにびと)[その地に住んでいる人々]のこゝろの常(つね)として、今はとて見えざなる[「みえざるなる」の短縮。読み「みえざんなる」か?「これからは見ることもないのに」くらいの意]を、こゝろある者は、恥(は)ぢずに[遠慮せずに]なむ餞別に来(き)ける。これは、物(もの)を貰うことによりて褒(ほ)むるにしもあらず。

 廿四日(はつかあまりよか)[読み「よつか」か?]。講師(かうじ)[底本漢字表記。国分寺の住職を指す]、馬(むま)のはなむけしに出でませり。ありとある、上下(かみしも)、童(わらは)まで酔(ゑ)ひ痴(し)れて[「痴れる」判断がつかなくなる、愚かになる]、一文字(いちもんじ)[底本漢字表記。文字ひとつを]をだに知らぬものし[「物任」で物を行うための雑用、あるいは「物師」で技芸などを行う人]が、足は十文字(じふもんじ)[底本漢字表記]に踏(ふ)みてぞあそぶ[「遊ぶ」は詩歌管弦の催しと解く場合と、さまざまな催しごとをひっくるめて言う場合とある]

[最後の部分「一文字をだに知らぬ者、しが足/しか足は十文字に踏みてぞあそぶ」とする説もある]

 廿五日(はつかあまりいつか)。守(かみ)の館(たち)[新任国司の事であるから、一度国司へと戻ることになる]より、呼(よ)びに文(ふみ)もて来たなり[「来るなり」の短縮。読み「きたんなり」か?]。呼(よ)ばれて館にいたりて、日一日(ひゝとひ)、夜一夜(よひとよ)、とかく遊ぶやうにて明けにけり。

 廿六日(はつかあまりむゆか)。なほ守(かみ)の館(たち)にて、あるじし、のゝしりて[「もてなして、大騒ぎして」の意]、郎等(らうどう)[底本漢字表記。家来や従者]までに物(もの)かづけたり[「被く」もとは褒美の衣類などを肩に掛けて与えるような意味。ここには褒美を取らせたくらい]。唐歌(からうた)[つまり漢詩の事]、声(こゑ)あげていひけり。和歌(やまとうた)、主(あるじ)も客人(まらうど)も、異人(ことひと)[それ以外の人]も言ひあへりけり。唐詩(からうた)はこれに、え書かず[「よく書くことが出来ない」。「え~ず」で、よく出来ないの意味]。和歌(やまとうた)、主の守(かみ)のよめりける、

みやこ出(い)でゝ 君にあはむと 来(こ)しものを
    来(こ)しかひもなく 別れぬるかな

[都を出発して、あなたに会おうと来たものを、
来たかいもなく、ここに別れてしまうことだ]

となむありければ、帰る前(さき)の守(かみ)のよめりける、

しろたへの 波ぢをとほく ゆきかひて
    我にゝべきは 誰(たれ)ならなくに

[しろたえのと讃えられる白波の波路を遠く行き交わして
わたしの境遇と、すなわちわたしの心と似通っているのは
他の誰でもないあなたである
(だから心が離れてしまうということはないのです)]

[「しろたへ(白妙)の」は「波」「雲」「衣」などの白さを讃えるための枕詞]

 異人々(ことひとびと)のもありけれど、さかしき[優れたもの]もなかるべし。とかく別れ言葉などを言ひて、前(さき)の守(かみ)、今のも、もろともに下(お)りて、今の主(あるじ)も、前のも、互いに手取(てと)りかはして、酔(ゑ)ひ言(ごと)に、こゝろよげなる別れ言(こと)して、一方は館を出(い)で一方は館に入(い)りにけり。

浦戸(うらど)へ

 廿七日(はつかあまりなぬか)。大津(おほつ)[現在の高知県高知市大津で、一説に「舟戸」ともされる。土佐電鉄の舟戸駅にはその紹介もあり、当時は浦戸湾の海岸線だったとされる]より浦戸(うらど)[浦戸湾の出口西側。現代の漁港とは一致しないようだ]をさして漕(こ)ぎ出(い)づ。かくあるうちに、ある人の妻、京(きやう)[底本漢字表記。以下みやこを指す「京」は漢字書。以下「漢字表記」の説明は省略する]にてうまれたりし女子(をむなご)、土佐の国にてにはかに失(う)せにしかば、このごろの出(い)で立ち、いそぎ[出発と慌ただしい準備]を見れど、なにごとも言はず。京へかへるに際しても、女子のなきのみぞ、悲(かな)しび恋(こ)ふる。近くにある人々(ひと/”\)もえ堪(た)へず。

[「ある人の妻」とある部分は、まだ分化される前の「ある人」すなわち冒頭の「ある人(=前の土佐守)」を指しているように感じられる。これは土佐日記の最後の部分を読み解けば、大きな枠を形成してことが分かるのではないだろうか。ある人の妻、とありながら、それが前土佐守の妻であるという、ある種の必然であるが、この子を失った夫人(それに伴う前土佐守)の哀しみ、というテーマは、まるで通奏低音のようにして、「土佐日記」の構成のかなめを形成している]

 このあひだに、ある人の書きて出(い)だせる歌、

みやこへと 思ふをものゝ かなしきは
  かへらぬ人の あればなりけり

[都へ帰れるのだと思うものの、哀しみばかりつのるのは、
もうわたしのもとへも、みやこへも、帰ることのない人が、
わたしにはあるからなのです]

またある時には、

あるものと 忘れつゝなほ なき人を
  いづらと問ふぞ かなしかりける

[まだいるものだと、まるで忘れたみたいにして、
亡くした人のことを、ねえどこなどと尋ねては、
なおさら哀しみがつのるものです]

[物語作品として、この作品を眺める場合、この部分ではじめて、執筆者の仕えるべき婦人への叙述が登場する。後のように母など直接女性と分かるようには記していないもの、日記の執筆者が子供の叙述から哀しみの母への連想を行うという繰り返されるパターンが、はじめて登場するのはこの部分で、直情的な和歌の叙し方が、この前後を挟むように置かれた国司のものとは大きく異なっている。そうして準備を眺めながら哀しみにひたるゆとりなどない国司に対して、哀しんでいるものはといえば、国司の妻にして、彼女は子供に死なれたということを示していることになる。
「このごろの出で立ちいそぎを見れど、なにごとも言はず」
とあることもあり、前日も歌を詠み、翌日も宴を催す国司そのものを指したとするのは不自然である。
 ただしこの叙し方は、いくぶんか、後の部分より未分化な状態を残していて、しかも素直に読み解くならば、哀しみに耽っている婦人を哀れに思う、周囲の女性の何ものかが、歌を書いてよこしたようにも取られるが、直後の「また、ある時には」の部分は、むしろ婦人自身の歌うように思われるような記述となっている。これから開始される亡き子の母親としての一連の和歌の締めくくりまでを考えるとき、この登場場面は婦人自身のものであると、全体の構図からは仮託しておきたくはなるので、今はこの二つの和歌を、国司の妻のものであると妄想しておく。
「土佐日記」には実際の日記の側面と、創作文芸の側面の、両面があるように思われる。特に前半部分の、国司として、在野の人々の別れには、具体的に人名を記した部分など、日記たる傾向が見て取れるが、紀貫之にとって、それらを執筆しておくことは、現実の日記のような役割があった側面もあろうか、あるいはそれらの名称を出すことにより、彼らに対してなんらかの利益があろうかと、あるいは引き継ぎの様子により、自らになんらかの利益があろうかと、目論んだためかもしれず、そのあたりの詳細は不明である。
 いずれにせよ、冒頭で紀貫之が「国司の妻らしき人物に寄り添うであろう女」に化けて、執筆を開始した以上、国司は「ある人」であり紀貫之そのものではなく、紀貫之は数々の登場人物に自らを分化させて、虚構を押し立てて行くことになる。もっとも、そのうちで国司の役柄は、紀貫之そのものであるとして納めても、差し支えのないものであることは、言うまでもない]

といひけるあひだに、鹿児(かこ)の崎(さき)[現在の鹿児山のあたりが岬になっていたとされる]といふところに、守(かみ)のはらから[「同胞」で、ここでは兄弟姉妹を指す。浦を出る前の岬のところに待ち合わせて、見送りに来たという趣旨]、また異人(ことひと)これかれ、酒なにと持て追ひ来て、磯(いそ)におりゐて、別れがたきことをいふ。守の館(たち)の人々のなかに、この来たる人々ぞ、こゝろあるやうには、いはれほのめく[船の人たちからひそひそとよいうわさ話をされる、くらいの意味か]

 かく別れがたくいひて、かの見送りの人々の、口網(くちあみ)も諸持(もろも)ちにて[口網を皆で持って引き網漁業をするように、の意味に「口を揃えて」の意味を掛けたもの]、この海辺(うみべ)にて担(にな)ひ出(い)だせる[皆で引き上げたと、口網に掛けている。実際は皆の心の共通の心持ちを表わすように誰かが歌ったもの]歌、

惜(を)しとおもふ 人やとまると あし鴨の
  うち群れてこそ われは来にけれ

[去りゆくのが惜しい人が、「泊(と)まる」と語られることの多い鴛鴦(おし)の鳥のように、留まってくれたらよいものと、まるであし鴨が、群れるようにして、こうしてわたしたちは追いかけて来たのです]

[「惜し」と「鴛鴦(おし)」が掛詞。「とまる」は「鴛鴦」の縁語。「あし鴨の」は「うち群れて」に掛かる枕詞。さらに飛び来る鳥の印象が全体を覆い尽くす。大切なのはそれらが興を削ぐような嫌みにならないかどうかだが、まるで即興に言い述べた語り口調が、技巧性を覆い隠している。さらに次の国司の歌に対して、あし鴨のむれて打ち寄せるすがたは、いくぶん滑稽でポンチめいている。つまりはこの後で甲斐歌などを唄ってしまう彼らに相応しい和歌に仕立てられている。]

といひてありければ、いといたくめでゝ[「愛でゝ」だが、かわいがるや惜しむの意味ではなく、「賞嘆して」の意味]、ゆく人つまり前の国司のよめりける、

棹(さを)させど 底(そこ)ひもしらぬ わたつみの
  ふかきこゝろを 君に見るかな

[棹を指しても底さえ分からない、そんなわたつみ(=海)の深いこころを、あなたに見いだすばかりです]

[返答歌として、相手の情緒に寄り添って、決して技巧性などの目立たない、素直な感謝の気持ちを、上句の比喩によって述べたもの。しかし「棹さす」「そこひ」「ふかき」が「わたつみ」の縁語であり、海のこころのイメージはぶれない。やはり技巧性を覆い隠して即興性をこそかもしだす、前国司らしい返答になっている。なお上の二首を含めて李白の漢詩との関係を解く説あり。深く立ち入らず。]

といふあひだに、かじ取り[船の舵を担うもの、ある程度の大きさの船なので、船頭くらいに考えた方が良い。道化的役割を担うものとして、これから大いに活躍するばかりでなく、滑稽な詩情にも寄与する。ある意味で重要な登場人物の一人]、ものゝあはれも知らで、おのれし[自分は]酒を十分にくらひつれば、はやく鹿児崎を去(い)なむとて、
「潮(しほ)満ちぬ。風も吹きぬべし。すぐに出発すべし
とさわげば、一行も船に乗りなむとす。

 この折(をり)に、見送りにある人々、折節(をりふし)につけて唐歌(からうた)[時節にみあった漢詩、の意]ども、ときに似つかはしきいふ。また別のある人、西国(にしぐに)なれど東方の甲斐の民謡すなわち甲斐歌(かひうた)などいふ。
「かく歌ふに、船屋形(ふなやかた)の塵(ちり)も散り、
空ゆく雲もたゞよひぬ」
とぞいふなる。

[このひと言、「すばらしい響きの音が塵さえも踊らさせる」「行く雲さえも響きに留まっている」という二つの中国の故事を踏まえたものだが、どちら側が述べたのかによって若干解釈が異なってくる。つまり見送り側が述べたとすれば、自分たちの送別歌の見事さを讃えたものと考えられるが、それだとちょっと滑稽が過ぎて、真実みが薄れてしまう。するとやはり船に乗った人々が、この騒ぎに、ちょっと呆れるようにして、「あんな素敵な歌じゃあ、きっと塵も踊り出すし、雲も留まっているに違いないね」と送別のよろこび半分に、愛着を持ってからかいの言葉を述べたと考えるほうが相応しい。]

 今宵(こよひ)、浦戸(うらど)に泊(と)まる。ふぢはらのときざね、たちばなのすゑひら、異人々(ことひと/”\)追ひ来たり。[浦戸まで来ても、まだ見送りの船が追ってくるようだ]

大湊(おほみなと)

 廿八日(はつかあまりやうか)。浦戸より漕ぎ出でて、大湊(おほみなと)[高知県南国市の前浜あたりかともされる。歴史家の言ふ、所在の査定こそ至急の命題であると。詩人の答ふ、そんなのどうでもいいさと]を追ふ[目指す]。このあひだに、早くの守(かみ)の子[かつての土佐守の息子]、やまぐちのちみね、酒・よきものども持て来て、船にいれたり。ゆく/\飲み食ふ。

 廿九日(はつかあまりここぬか)。大湊にとまれり。医師(くすし)ふりはへて[わざわざ、ことさらに]、屠蘇(とうそ)・白散(びやくさん)[底本漢字表記。次も同様]・酒くはへて持て来たり。こゝろざし[ここでは、相手を思いやる気持ち、誠意などの意]あるに似たり。

[「屠蘇」「白散」は元日に飲めば、一年の邪を払う効果があるとされた。どちらも酒に混ぜて飲む。「屠蘇(とそ)」あるいは「屠蘇散(とそさん)」は今日でも正月準備品としてよく見かける。]

 元日(ぐわんにち)[承平(しょうへい・じょうへい)五年元日。西暦では935年の2月6日]。なほおなじ泊(とまり)[船の停泊所。みなと]なり。白散をある者、夜(よ)の間(ま)とて、後で飲もうとして船屋形(ふなやかた)にさしはさめりければ、風に吹きならさせて、海にいれて溶けて消えてしまい、え飲(の)まずなりぬ[「え」+「打消」で「~出来ない」「~出来なかった」]。芋(いも)し[里芋]・荒布(あらめ)[コンブ科の海草で、ワカメよりも固くて荒いための名称]も、歯固(はがた)め[正月に固いものを食べて歯を丈夫にするものとして中国に由来。日本ではやがて鏡餅を中心として、大根・押し鮎・勝栗(かちぐり)などをいただく儀式となっていった。もちろんベビー用品ではない]もなし。かうやうのものなき国なり[船の中を国に見立てたという解釈もあり。幾分ロマンチックな解釈か?]求めしもおかず。ただ押鮎(おしあゆ)[塩漬けの鮎。全体、下注]のくちをのみぞ吸(す)ふ。この吸ふ人々のくちを、押鮎もし思ふやうあらむや。
「今日(けふ)はみやこのみぞ思ひやらるゝ」
「小家(こへ)のかどの注連縄(しりくべなは)の鯔(なよし)の頭(かしら)[しめ縄に着いている小ぶりの鰡(ぼら)の頭]、柊(ひひらぎ)[葉っぱがジグザクしてトゲトゲしい柊は、モクセイ科モクセイ属であり、古事記にも登場するくらい古来のものである。その花は冬の季語。クリスマスケーキなどに乗せられるセイヨウヒイラギは、まったく別の科であるそうだ]らいかにぞ」
とぞ、いひあへなる[「いひあへるなる」の短縮。発音「いひあへんなる」か?]

[押鮎の部分。これをどのようにして当時食したかは知らず。ともかく異性の口を求めるようにして押鮎の口へ吸い付いたという趣旨で、日本におけるキスの記述の初めともされる。他にも後には女性性器の比喩などもあり、一方では世俗歌の掲載もあり、コンメディアデッラルテのコメディーキャラのような「かじ取」の存在は、直後の文学作品に登場人物を捜すのが、あるいは難しいくらいのものかもしれず、きわめて時代を超えたような作品に思えるのは、あるいは逆に過去の自由の精神が、中世に硬直化したためであり、かえって万葉集の精神に近いだけなのだろうか。それとも紀貫之の個性が、きわめてユニークなものなのだろうか]

 二日(ふつか)。なほ大湊にとまれり。講師(かうじ)[底本漢字表記]、物(もの)・酒、おこせたり[「おこす」は贈ってくるの意]

 三日(みか)。おなじところなり。もしかしたら風波(かぜなみ)の方でしばし出発を待てと惜(お)しむこゝろやあらむ。こゝろもとなし[待ち遠しくていらだたしい]

 四日(よか)。今日もまた風吹けば、え出(い)で立たず。まさつら、酒・よき物(もの)、たてまつれり[上位の人に差し上げる。の意味の謙譲語なので、前の国司らよりもずっと位の低いものかと思われる。あるいは水軍などや?]。この、かうやうに物もて来る人に、なほしもえあらで[「直す(なほす)」は「好ましいように整える」、「え」+「打消」は「~出来ない」の意味なので、「好ましいものを整えることも出来ないので」]、いさゝけわざ[いささかの返礼]せさす。けれども与えるべき物もなし。にぎはゝしき[ものが沢山あって華やかで活気にあふれたような様子]やうなれど、実際は負(ま)くるこゝちす。

 五日(いつか)。相変わらず風波やまねば、なほおなじ所(ところ)にあり。人々、絶(た)えずとぶらひ[見舞い、訪問]に来(く)。

 六日(むゆか)。昨日(きのふ)のごとし。

 七日(なぬか)になりぬ。おなじ湊(みなと)[泊(とまり)と違い、今日の港の意味よりも、川や海の水の出入り口、すなわち「水門(みなと)」の意味合いが濃い。そこから「船の停泊するところ」あるいは「物事が行き着く所」といった意味が派生している]にあり。今日(けふ)は白馬(あをむま)[「白馬の節会」という宮廷行事を指す。もとは毛なみの黒くて「青」と呼ばれるような駿馬を鑑賞するための行事だったものが、やがて白馬(はくば)の鑑賞に変えられた後も、名称だけは「あおうま」として残されたもの]を思へど、かひなし。白馬の姿はなく代わりにただ波の白きのみぞ見ゆる。かゝるあひだに、人の家(いへ)の、池(いけ)と名(な)あるところ[現在の高知県高知市池のあたりかとも]より、鯉(こひ)はなくて[鯉は古来から日本に生息し、人工的な水のたまり場である池には、この時期すでに鯉(こい)がお馴染みになっていたようだ。もっともカラフルな錦鯉の人工的な探求は19世紀に起こったものであるとか。いずれにせよ、この池という家からの贈りものには鯉はなくて]、鮒(ふな)よりはじめて[もちろん食用としてである]、川のも海のも、こと物(もの)ども、長びつ[棒を通して二人で担ぐための長方形の木箱]に担(にな)ひつゞけておこせたり[かつぎ続けて贈ってきた]共に贈られてきた若菜(わかな)[今日では新暦で行うことが多いが、一月七日の「若菜摘み」の行事。春の七草を摘んできて食すもの。今日はこれを七草がゆにするが、当時の「七草がゆ」は一月十五日に小豆などの穀物をもって粥とするもので、「若菜摘み」では若菜をお吸い物みたいにしていただいたという]ぞ、今日をば知らせたる。歌あり。その歌、

あさぢふの 野辺(のべ)にしあれば 水もなき
   池に摘みつる 若菜なりけり

[背丈の低い、すなわち浅(あさ)い茅萱(ちがや)の生(お)ふる、
そんな野辺であればこそ水さえないような
池というところに摘んだ、若菜なのですよ]

いとをかしかし[大変おもむき深いことです]

 この池といふは所(ところ)の名なり[初めに曖昧な記し方をして、ここで答えを出すような文章構成法に着目するもよし]家柄のよき人の、男(をとこ)につきてみやこより下(くだ)りて、この地に住みけるなり。この長びつの物は、みな人(ひと)、童(わらは)までにくれたれば、誰もがお腹いっぱい飽(あ)きみちて、船子(ふなこ)[=船員、水夫]どもは、腹鼓(はらつづみ)を打(う)ちて、海をさへおどろかして、波立てつべし[「つべし」で推量や予想を表現する。「波を立ててしまうに違いない」。ここは腹鼓の冗談の勝ってるところなので、シリアスに捕らえすぎず、初めから立っている波を、お腹いっぱい腹鼓の船員たちのせいにして、このようにからかったと捕らえた方が、読解力に勝るかと思われる]

 かくて[「さて」と改めたニュアンスで捕らえるよりも、前の一例のようにというニュアンスを込めて「このようにして」「こうして」と捕らえた方がよい。つまりは「こんな具合でありまして」といったところか]、このあひだに事多(ことおほ)かり。今日(けふ)、破子(わりご)[ひのきの白木(しらき)、つまり削ったまま塗装していない板、などで作った蓋付きの携帯食物入れ。幾つかの区画が仕切り板で区切られる。ずばり今日のお弁当箱]お供のものに持たせて来たる人、その名などぞや、いま思ひ出でむ[「今に思い出しましょうが」だが、「わざわざ思い出すには及ばない」くらいのニュアンスが含まれるかと思われる]。この人、歌よまむと思ふこゝろありてなりけり。とかくさまざまなことを言ひ/\て、タイミングを見計らって、
「波の立つなること」
と憂(うる)へいひて[「憂いて言って」だが、ここでも執筆者のニュアンスとしては「憂いのポーズたっぷりにことさらに言って」]、よめる歌、

ゆくさきに 立つ白(しら)なみの こゑよりも
  おくれて泣かむ われやまさらむ

[あなたの向かう先に立つ白波の声の響きよりも、
遅れ残されて泣きましょう、このわたくしの声の方が、
はるかに勝ることでありましょう]

[白波の響きを露骨な擬人法で「声」としたうえに、その声よりもわたしの嘆きは勝っていることでしょう、という戯画的な誇大表現を全うしたこの和歌は、同時に「泣かむ」「まさらむ」というぎこちない口調によって、周囲の失笑を誘うに相応しい作品に仕上がっている。さらに「方丈記」において白波が盗賊の暗喩であるような解釈がこの時代にあったとすれば、「あなたの向かう先に立つ盗賊どもの声よりも」というニュアンスを、意図せずに込めてしまったとも解釈できるそうだが、はたしていかがか]

[ちなみに、この人物は、和歌も品性も贈りものもすべてを含めて、先の長ひつを担わせた池の婦人と対比されている。大きな長びつを担わせて贈りものをし、しかもそこには相応しい若菜さえも込められ、その和歌にちなんだ歌が添えられるという理想的な池の婦人に対して、こちらの方はという執筆態度である。すると、もたせて来たという「破子(わりご)」には、せこせこした贈りものというニュアンスが込められていることになる。さらに、見え透いた態度で下手な和歌をわめき散らしたことが、すぐれた池の婦人の贈りものに対して、大いに人々の興を削いだには違いない。すると、次の部分の「持ってきたものよりは、歌はどのようなものでしょう」というひと言は、「持ってきたものは優れているのに」などではなく、もっとキツイ表現を潜ませているということになる。「持ってきたものもずいぶんであるのに、よりによってその歌はなんなのよ」という読みが出来るからである]

とぞよめる。白波に勝ると言うだけあっていと大声(おほごゑ)なるべし。持て来たる物よりは、歌はいかがあらむ。この歌を、これかれ表面上は讃えて憐(あは)れがれども、内心では不快感を覚えて、ひとりも返(かへ)しせず。しつべき人[つまり見送られる代表であるはずの、元国司などが含まれる]もまじれゝど、これをのみいたがり[これを褒め称えるばかりで]、物をのみ食ひてどれほど待っても歌は返さず、夜更(よふ)けぬ。この破子の歌主(うたぬし)、
「まだ、まからず[退去せず]
といひて立ちぬ。ある人の子の童(わらは)[ここに「土佐日記」の主要登場人物のひとりがまた顔を出す。はじめに登場した婦人が、女性かどうかすら明らかにされなかったように、ここではただ「童」とだけ記されるが、ここでの扱いと、後の記述から類推されるところ、ひるがえってここでの「童]はしばしば登場する「女の童」であることが、ぼんやりと把握させられてくる、というような寸法である」なる、ひそかにいふ。
「まろ[わたし。誰でも使用可能だが、中古の例には女性の例が多いそうだ]、この歌の返しせむ」
といふ。そばの人々おどろきて、
「いとをかしきことかな。よみてむやは[読めるのかな]
「よみつべくは、はやいへかし」
[読めたのなら、はやく言ってみなさいよ]
といふ。
「『まからず』とて立ちぬる人が戻るのを、待ちてよまむ」
とて求めけるを、夜更(よふ)けぬとにやありけむ[「夜が更けたからでしょうか」背後に「それとも別の事情でもあったのでしょうか」というニュアンス]、やがて[そのまま]去(い)にけり。

「そも/\、いかゞよんだる」
と、人々は童の歌が気になって、いぶかしがりて問(と)ふ。この童(わらは)、さすがに恥(は)ぢていはず。しひてどんな歌を詠んだのかと問へば、いへる歌、

ゆく人も とまるも袖(そで)の なみだ川(がは)
  汀(みぎは)のみこそ 濡(ぬ)れまさりけれ

[去りゆく人も、とどまる人もその袖には、
なみだの川が流れだすことでしょう
その川の水際(みぎわ)ばかりが、
あふれる涙に、ますます濡れていくことでしょう]

[結局、破子の人は立ち去って戻らなかったが、この人の和歌に対して「しつべき人」すら歌を返さないというのは、あるいはきわめて大きな失礼にあたり、つまりは不快感の表明にあたるのではないだろうか。そうであるならば、今か今かと期待していた破子の人が、夜も更け頃になって、ようやく和歌の返答などする気はないのだという相手の態度を察知して、その体裁の悪さから、はっきりと挨拶もせずに、逃げるように帰って行ったその様子を、前の部分は表現したものかもしれない。つまりはしっぽを巻いて逃げ帰った体である]

[その破子の和歌に対して、この和歌はどうであろうか。別離の哀しみを、あふれる涙は川となり、袖にあふれてますます濡らしていく。というのは幾分か仰々しく、やはり破子の歌に対して安い比喩を共有しているかと思われる。つまりは子供が詠んだものだけに、情緒を吐露するための比喩が単純すぎて、幾分か大げさな戯画のような側面を、逃れきっていない。つまりは優れてこなれた和歌というものには、なりきっていない。それはそれとして、それながら……]

[その中にあっても、この二つの和歌には、きわめて大きな優劣の差違があり、それを子供の方が全うしているものだから、人々は子供が歌を詠んだというばかりではなく、その見るべき処のある返答歌にはっとなったのである。まず提出された歌に対して、初めの「行く」と最後の「勝らむ」「勝りけれ」を合わせているのは言うまでもないが、まず破子の上の句が極言すれば「海の波よりも」という安っぽい比喩に過ぎず、「とどまって泣いているわたしの声の方が勝っているだろう」と、まるで自慢話のような不可解な取りまとめへと陥っているのに対して、この童の上の句は、それだけでも、
「ゆく人も、とどまる人も」
と自分自身ではない、離別の際の人々の感慨へと抽象化させたうえで、
「その袖にはなみだの川」
と繋ぐので、きわめてデリケートな比喩表現に昇華されている。つまりは、
「行く先の白波の響きよりも大きな声」
という露骨な比喩ではなく、
「行く人も留まる人も袖には、
川をあふれたようななみだ、
その水ぎわ」
と下の句の初めに 仰々しい「海の白波の響き」に対して、「涙の川のみぎわ」という、実際の泣くという行為に対する連想としてはよりスケールの近しい対象を、「(海の)白波」と「川のみぎわ」という対比の元に生みなしている。そればかりでなく、「濡れ勝りけれ」のうちには、ますます濡れていくイメージのうらに、「なみだの川のみぎわ」くらいの表現の方が、あなたの大げさなジェスチャーよりも「勝っている」よという応答すらも込めている。]

となむよめる。こんな子供がかくは言ふことが出来るものか。うつくしければ[可愛らしければ]にやあらむ、いと思はず[思いがけない]なり。
「童言(わらはごと)にては、なにかはせむ[(返答の歌として送ったからといって)何になるであろうか]。媼(おむな)・翁(おきな)[おじいさん・おばあさん]、手捺(てお)しつべし[署名をしてあげるがいい]。悪(あ)しくもあれ、いかにもあれ、便(たよ)りあらばやらむ[歌が悪くても、そうでなくても、ともかく便りをする機会があれば送ってやろう]
とて、おかれぬめり。

 八日(やうか)。障(さは)ること[差し支えのある事柄]ありて、なほおなじ所(ところ)なり。今宵(こよひ)、月は海にぞ入(い)る[紀貫之のいたと推定されるあたりでは、この時、月は海には入らないのだそうだ。以下の部分を創作するための、執筆時の虚構かもしれない]。これを見て、在原(ありわらの)業平(なりひら)の君(きみ)の、
「山の端(は)にげて 入(い)れずもあらなむ」
といふ歌なむ思ほゆる。もし海辺にて詠(よ)まゝしかば、
「波立(なみだ)ちさへて 入れずもあらなむ」
とも詠みてましや。

[在原業平(ありはらのなりひら)(825-880)は、平城天皇(へいぜいてんのう)の皇子のひとりである阿保親王(あぼしんのう)の五男。『伊勢物語』の主人公と信じられてきた人物で、この歌は、その物語にも載せられた、
「あかなくに まだきも月の かくるゝか
  山の端にげて いれずもあらなむ」
(飽きないうちにはやくも月は隠れるものか
山と空との境界線が逃げて
月が入らなければ良いのに)
それを海辺で詠んだなら、
「あかなくに まだきも月の かくるゝか
波立(なみだ)ちさへて 入れずもあらなむ」
(飽きないうちにはやくも月は隠れるものか
白波の立つのに遮られて、
月が入らなければ良いのに)
とでも詠んだものでしょうか。という意味。]

 いま、この歌を思ひ出(い)でゝ、ある人のよめりける、

てる月の ながるゝ見れば あまの川
  出(い)づる水門(みなと)は 海にざりける

[照り映える月は流れゆき、
(あの歌にあるように)
西へと消えて行くのを見れば、
月を流し去るような天の川、
その流れ出る水門(みなと)もまた
海にこそあるように思われる]

とや。

室津(むろつ)へ

 九日(ここぬか)のつとめて[早朝]。大湊(おほみなと)より奈半(なは)の泊(とまり)[現在の高知県安芸郡奈半利町(あきぐんなはりちょう)にあった泊(とまり)、つまり船の停泊する今日の港のこと]を追はむとて、漕ぎ出(い)でけり。これかれの人々互(たが)ひに、土佐の国の境(さかひ)のうちはとて、見送りに来る人あまたがなかに、ふぢはらのときざね、たちばなのすゑひら、はせべのゆきまさ[前の二人は以前に出]等(ら)なむ、前国守が御館(みたち)より出(い)でたうびし日より[「お館をお出になった日から」女官として前国守に、というよりは彼女の言動からは、前国守の妻に仕えるものとして、「御館」「給(たう)びし」といった尊敬語を使用している]、こゝかしこに追ひ来る。この人々ぞ、こゝろざし[誠意、愛情]ある人なりける。この人々の深きこゝろざしは、この海にも劣(おと)らざるべし。

[次の部分、これで最後の別れとなって、土佐の国を、見送りの人々を、今こそ本当に離れゆく、という感慨を含めたもの]

 これより今は、漕(こ)ぎ離(はな)れてゆく。これを見送らむとてぞ、この人どもは追ひ来(き)ける。かくて漕ぎゆくまに/\[漕ぎゆくにつれて]、海のほとりにとまれる見送りの人も遠(とほ)くなりぬ。あちらからは船の人も見えずなりぬ。岸にも見送りの人の言ふことあるべし。船にも送られるわたしたちの思ふことあれど、かひなし[無駄なこと、どうにもならない]。かゝれど[そうであるけれども。意味としては、言葉はもう伝わらないけれども]、この歌をひとりごとに離別の歌にして止(や)みぬ。

思ひやる こゝろは海を わたれども
  文(ふみ)しなければ 知らずやあるらむ

[あなたを思いやるこころばかりは、
たとえば海を渡るとしても、
文を交わすことさえ出来ないものですから、
この思いも知られはしないのでしょうか]

[渡れども文しなければ」に「渡れども踏しなければ」、つまり海を踏んで渡ることは出来ないので]という意味を掛けたもの]

 かくて、宇多(うだ)[底本漢字表記]の松原(まつばら)[宇多の松原の場所、推定あれども定説にいたらずとか]を行(ゆ)き過(す)ぐ。その松の数いくそばく[=「いくばく」「いくそばくそ」、どのくらい、どれほど、数多く、などの意]、幾千歳(いくちとせ)[幾千年、何千年]へたりと知らず。もとごとに波うち寄せ、枝(えだ)ごとに鶴(つる)[和歌には一般に田鶴(たづ)と詠まれることの多い鶴が、次の和歌も含めて「つる」と読まれるのは、コウノトリのことを「鶴」と詠んだという説あり。鶴が松の枝ごとに飛びかようのは変である]ぞ飛びかよふ。おもしろしと見るに、黙って見ていることに堪(た)へずして、船人(ふなびと)[船員を指すわけではない。船に乗っている人の意]のよめる歌、

みわたせば 松の末(うれ)ごとに すむ鶴は
   千代のどちとぞ 思ふべらなる

[見わたすと、松の枝の末(すえ)ごとに住んでいる鶴は、
色も変わらず長寿を全うする松のことを、
千年の友達とでも思っているようだ]

[写実に劣り空想(そのうちの理想)的観念に勝るこの和歌は、紀貫之が「土佐日記」の執筆の二十年くらい前に詠んだ屏風歌、
「わが宿の松のこずゑにすむ鶴は
   千代の雪かと思ふべらなり」
を改変したものである。それを「ところを見るにえ勝らず」つまり「この場所を見るときの感興に、勝るところがない」と次に続けたのは、幾つかの解釈が出来るように思われる。
 まず、これは屏風歌などに相応しい理想を重視したような和歌が、実際の風景に接したときの感興には勝らないものである、いつわりの情緒性に過ぎないものであると、自らのかつての和歌に対して、皮肉を込めて諭したのだと読み解くことが出来るかも知れない。
 しかし一方で、屏風歌に相応しい体裁、つまり紀貫之の屏風歌の、「わが宿の」「千代の雪」というような、実際の行為や日常的な感慨を伴わず、屏風のイメージに相応しい理想を歌った和歌の形式を、
「見わたせば」という実際に寄り添った行為、「千代の友達かと思う」といった日常的情緒性に近しい感慨に読み替えてしまったために起こった問題。すなわち和歌には場に及んでそれぞれに相応しい形式や、叙し方があるものを、誤った叙し方を行ったために、この和歌は実際の風景から遊離した、中途半端なものへと貶められてしまった。と読み解くことも出来るかも知れない。
 つまり、写実を全うしないがゆえに中途半端な歌である、と読み解くか、形式を弁えないために中途半端な歌であると読み解くか、ということであるが、いずれにせよ「ところを見るにえ勝らず」の意味は、この様な実景とその感興に対しては、これは相応しい和歌ではない。ということになる。
 ただし、これを写実を蔑ろにした屏風歌などの理想的な和歌は、写実的な和歌に劣るものであると、断じたと取るのは、おそらく現代的なうがちであり、危険であるように思われる]

とや。この歌は、ところを見るにえ勝(まさ)らず。

 かくあるを見つゝ、漕ぎゆくまに/\、山も海もみな暮れ、夜更(よふ)けて、西東(にしひむがし)も見えずして、天気(てんけ)[原文「てけ」だが、呉音の「てんけ」の撥音無表記とされる]のこと、かぢ取(とり)のこゝろに任(まか)せつ。男(をのこ)も慣(な)らはぬは[船に乗り慣れないものはということ]、いともこゝろ細(ぼそ)し。まして女(をむな)は、船底(ふなぞこ)に頭(かしら)をつきあてゝ、音(ね)をのみぞ泣く[音ばかりに泣く、つまり声を上げて泣くこと]。かく思へば、船子(ふなこ)、かぢ取は、舟歌(ふなうた)[実際に土佐よりの帰途、あるいは土佐にて採取された舟歌か?]うたひて、なにとも思へらず。そのうたふ歌は、

春の野にてぞ 音(ね)をば泣く
  若すゝきに 手切る 切る
 摘(つ)んだる菜を
  親や まぼるらむ
   しうとめや 食ふらむ
  かへらや

[春の野原よ 声に泣きます
   若いすすきに 手を切りながら
  懸命に摘みおえた菜ものさえ
    親は むさぼるのでしょう
   しゅうとめは 食べるのでしょう

     (まるでそれを当然のようにして
        わたしのことを軽んじながら……)
  さあ、帰らなければ……]

[「まぼるらむ」の「まぼる」は「まほる」かもしれず、語彙完全には明らかにされず、「食べる」「むさぼり喰らう」の意味かとも推測される。あるいは当時の菜摘歌か、それをもとにした俗歌か]

夜(よ)んべの うなゐもがな
  銭乞(こ)はむ
 そらごとをして おぎのりわざをして
    銭も 持(も)て来(こ)ず
  おのれだに 来ず

[夕べの 坊やったら
   お金を貰わなくっちゃ
  嘘でたらめで 後から払うだなんて言って
    そのお金も持ってこないし
   自分さえ来やしない]

[「うなゐ」は本来は、髪を首のあたりで切りそろえた、幼い子供の髪型で、そのままそのような子供を指すものだが、以下の歌詞から、本当の子供ではなく、そんな子供みたいな奴のくせして、というニュアンスが受け取れる。「おぎのり」は「おぎのる」が掛け買い、後払いの意味であるようなことが、日葡辞書(1603年)にある。この手の歌の裏側には、大抵は相手の男性に打ち負かされててしまった女性側の、未練という名の愛しさと憎しみの混じり合うような感情がゆだねられているのは、あるいは人間というものの、本質なのかも知れず。]

[院政期に花開くように見える今様と、その母体である、ある種のアウトロー、たとえば遊女や芸人の文化と、その歌の響きが、すでに紀貫之の時代にはちまたに息づいていたかと思わせるような、傀儡(くぐつ)めいた歌詞である。あるいは農村的ではなく、ちまた的なある種の民衆文化は、もっと古くからみなぎっていて、それを徐々に取り込み、また記していったものが、今日残された貴族中心の古代文芸の様相なのかも知れない。そのちまたの遊女めいた歌を、さらにひとつ前の「菜を取る女性の歌」を、なんでまた、よりによって粗野な海の男たちが、合唱してしているからこそ、不安がる人々のこころにも、ようやく笑いが生まれて来るのである。この若い女性の唄うであろう歌を、船乗りたちが女装の心持ちで唄うところに、このシーンの滑稽の核心はひそんでいる。つまりは紀貫之はその滑稽を意図的に織り込んだものであると思われる。
 その滑稽もあって、はじめて次の部分で、海の荒れるのに比して、こころがすこしは慰められるという記述が行われるのだが、それにもかかわらずさらに次の情景で、「ここち悪しみして」おだやかになることが出来ない者がいる、という締めくくりまで含めると、きわめて周到な情景描写が練られていることに驚かされる。単純な対比と言ってしまえばそれまでだが、執筆者の意図を露骨に悟らせずにして、すらすらと記してみせる手際は見事である。実際のところ、現代の文筆家は、往々にしてこれより下手な叙し方をする。
 蛇足かもしれないが、この船員たちと同じように、紀貫之も女に自らを見立てて、この土佐日記を執筆しているのは、なかなかに興味深いことであると言える。この女に見立てて自らを述べることは、もちろん和歌でしばしば行われていることであることは言うまでもない。]

これならず多(おほ)かれども書かず。

 これらを、人のわらふを聞きて、海は荒(あ)るれども、こゝろはすこし凪(な)ぎぬ[「なぎぬ」とはおだやかになるの意味]。かく行(ゆ)き暮らして、泊(とまり)にいたりて、翁人(おきなびと)[老人、おじいさん]ひとり、専女(たうめ)[「老女」「おばあさん」のことをこう言ったらしい]ひとり、あるがなかに、こゝち悪(あ)しみ[つまり船酔い]して、物もゝのしたばで、ひそまりぬ。

[最後の部分「ものしたばで」は「ものし給はず」の意味で、「食事もお取りなさらずに」くらいの意味。「給ばで」と尊敬語になっているのは、本来であればすでに老人と呼ばれるべき紀貫之、つまり前土佐守(ある人)と、その妻を指すからであるが、自分を女性に見立てて虚構文学を打ち立てた紀貫之は、前土佐守(ある人)とその夫人、「翁人」と「専女」とを分離させたように思われる。つまりは前に登場した「女の童とその翁、媼」と、わざわざ記し方を変えたこの部分の「翁人」と「専女」とは、必ずしもイコールの関係で結ばれないように、故意に執筆されているのであって、またよく言われるここに登場する「女の童」が、もしも実際の日記であるならば、紀貫之の娘であったにしても、これは子供に死なれた哀しみに更ける前土佐守と、その夫人の子供であってはならない、そのような叙し方はしていないからである。つまりは、そのように日記をベースにしながらも、虚構のうちに創作されたものこそ、土佐日記であると言える]

 十日(とをか)。今日(けふ)はこの、奈半(なは)の泊(とまり)にとまりぬ。

 十一日(とをかあまりひとひ)。あかつきに船を出(い)だして、室津(むろつ)[高知県は室戸岬(むろとみさき)の西側に位置する、現在の室津あたりだろうとされる]を追ふ。人みな、まだ寝(ね)たれば、海のありやうも見えず。暗くて海岸線も分からないのでただ月を見てぞ、西東(にしひむがし)をば知りける。かゝるあひだに、みな夜明(よあ)けて、手あらひ[顔や手を洗うこと、風呂もなければ足などの汚れを拭うのも、日課になっていたかもしれず]、例(れい)のことゞも[毎朝やるべきこと、くらいの意味]して、昼(ひる)になりぬ。

[つまり仮託された女性執筆者は、恐ろしさを船員たちの舟歌にすこし安らかにされた後も寝られずに、あるいはうとうとするくらいで、翌朝を迎えた訳である]

 今(いま)し、羽根(はね)[室戸岬へ向かう西岸に位置する。室津に向かう途中にあり、現在の同名の地がそれであるらしい]といふところに来(き)ぬ。わかき童(わらは)[次の記述と合わせると、男の童っぽく聞こえる。女の童のすぐ近くにいるのは、遊び仲間くらいのものか。船の規模から大勢の子供がいるとも思えず、あるいは子供は男と女の二人かも知れず]、このところの名を聞きて、
「羽根といふところは、鳥の羽のやうにやある」
といふ。まだをさなき童(わらは)の言(こと)なれば、人々わらふ時に、ありける女童(をむなわらは)[「ありける」は「そこにいた」と読み解くか、あるいは前に「ある人の子の童」が歌を詠んだものを、「あの歌詠みの女童が」と言ったニュアンスを含むと読み解くか、むしろ読者の自由にゆだねられているかとも思われる]なむ、この歌をよめる。

まことにて 名に聞くところ はねならば
  飛ぶがごとくに みやこへもがな

[本当に、「はね」「はね」と名前に聞かれるように、
  羽根があるのならば、
   まるで空を飛ぶようにして、みやこに帰れるのかなあ]

[羽根という土地が、実際に羽根であったなら、それで飛んで帰りたいというのは、通常であれば安っぽい言葉遊びに思われるものだが、これを幼い女の子が歌ったということ、しかも「飛ぶがごとくに」など、父親か養育者かは分からないが、成人男性の使うような漢語的表現で述べてみたということ、さらに人々のこころがみやこを憧れるが故に、「ああ、本当に羽根があったらなあ」という感慨を即座に呼び起こしたことが、この和歌を好意的に取らせる要因ともなっている。理に適っているという点に置いて、この女童の機転は、きわめて才知にあふれる物であると言えるかも知れない。結局どれほど優れた和歌であっても、臨機に会わなければ、嘲笑を買うばかりである。その点、前回の子供の和歌と大いに通じるところがあり、この和歌が、前回の童と同一人物によって詠われたのではないかという感慨を、わたしたちに起こさせる原動力ともなっているのかもしれない。漢語表現ということについて考えると、冒頭の「まことにて」とは「真名(まな)」つまり漢語で、と表現したのかなどと疑ってみたくもなってくる]

とぞいへる。男(をとこ)も女(をむな)も、「いかでとく京(きやう)へもがな[どうかして早く京のみやこへ帰りたいなあ]」、と思ふこゝろあれば、この歌、よしと言う訳にはにはあらねど、「げに[まったくだ]」と思ひて、人々忘れず。

 この羽根といふところ問ふ童(わらは)のついで[「おまけ」の意味ではない。それに続いてといった意味。童の歌に続いて、夫人が和歌を詠んだためにこう言ったもの]にぞ、また[前回に記した時の気持ちを踏まえたもの]むかしへ人(びと)を思ひ出(い)でゝ……いづれの時にか忘るゝ……今日(けふ)はまして、母(はゝ)の悲しがらるゝことは。くだりし時の人の数足(かずた)らねば、古歌(ふるうた)に、
「数は足らでぞ、帰るべらなる」
といふことを思ひ出でゝ、人のよめる、

世のなかに 思ひやれども 子を恋ふる
  思ひにまさる 思ひなきかな

[世の中にはさまざま思うことはありますが
子どもを恋しいと思う親ごころの
その思いに勝る思いというものはないでしょう]

といひつゝなむ。

[女童と夫人が、執筆者のすぐ側にあるところからも、前回の童の和歌に際しての「ある人の子の童」のあるのは、この女童が紀貫之の娘でるという類推へと繋がるが、それは舞台裏の推測であり、物語として読み解く場合は、むしろ「亡き子の母親」と「女童」が親子関係であるとの読み取りは、作者の故意に不明瞭にした事柄、すなわち解釈しきれない領域であるかと思われる。この部分でわざわざ「今日はまして、母の悲しがらるゝことは」というのは、この子の母親を暗示したのではなく、むしろ「土佐日記」の最後の部分に登場する表現、「こゝに、むかしへ人の母」というのと同様に、この執筆者である女性が、仕えるべき夫人が母親であったことをよく知っているために、彼女へ寄り添って「亡き子の母親であったこの方の、悲しがらるゝことは」と記したのであり、それはこの部分の少し前に「むかしへ人を思ひ出でゝ」とあることから、「むかしへ人の母の悲しがらるゝことは」と繰り返すことを避けたものである。さらにこの執筆者の記述が、一貫して母親であったはずの夫人に対しては、きわめて情緒的に寄り添って身近にその心情をいたわろうとするもの、すなわちは身内的な記述方法であるのに、この女童に対しては、おなじだけ近しい距離にあるように記していないことからも見て取れる。逆にそのような創作を行うことによって、紀貫之は、この女童と亡き子の母親とを、見事に分離しているのであって、それを混同するのは、いささか読みが甘いと言わなければならない]

[和歌の直前の「人のよめる」は、消去して和歌を母親の吐露とした方が今日としては分かりやすい気がする。この解釈としては、夫人に寄り添う「人のよめる」として、前土佐守の和歌ととらえることも可能で、後々繰り返される二人の嘆きのワンシーンととらえたくなるが、実際はどうであろうか。別の読み方をすれば、「人のよめる」というのは「かつて誰かが詠んだ歌」であり、それを思い出しては、自らの気持ちに寄り添うものとして夫人が言ってみたようにもとらえられる。けれども最後の部分「いひつゝなむ」、これは果たして続く言葉を省略して余韻を高めたに過ぎないものだろうか。むしろ大きな枠構造としての倒置法がなされていて、この「いひつゝなむ」は「今日はまして、母の悲しがらるゝことは」へと掛かるように思われる。この際、「人のよめる」は「誰かの詠んだ歌」を繰り返したとしても構わないが、「その人のよめる」つまり「亡き子の母のよめる」とした方が、遙かに詩情に勝るかと思われる。そもそも和歌自体が、きわめて情緒的吐露に勝っていて、哀しみさえも技巧や抽象的な詠みへゆだねる傾向のある前土佐守、つまり夫人の良人(おっと)には似つかわしくない和歌であることも、全体を母親のシーンとする傾向を強めているのではないだろうか]

室津(むろつ)

 十二日(とをかあまりふつか)。雨降らず。「ふむとき」「これもち」が船[これらの人々が誰であるか不明。記述としては純日記風なので、事実を記したものかと思われる。つまりはこれらを合わせて三艘で旅をしたのか、他にも船があったのかは分からない。ただし後に川を指し登る記述もあるように、それほど大きな船ではない]の遅れたりし。奈良志津(ならしづ)[現在、奈良師(ならし)の地名を残すところがそれとされる]より室津(むろつ)に来(き)ぬ。

[目的地に到着したが、休息の必要もあり、また「ふむとき」「これもち」の船が遅れたものだから、室津に留まるということだが、これから先、大いに天候不順に悩まされることになる]

 十三日(とをかあまりみか)のあかつきに、いさゝかに雨降る。しばしありてやみぬ。女(をむな)これかれ、湯浴(ゆあ)み[湯や水を浴びること、海を見晴らせる室津川の河口あたりかと言う]などせむとて、あたりのよろしきところに下(お)りてゆく。海を見やれば、

雲もみな 波ぞと見ゆる 海女(あま)もがな
   いづれか海と 問ひて知るべく

[流れる雲はどれもがまるで、波のように見えます
ここに海女(あま)がいてくれたらいいのですが
水平線の上と下と、どちらが本当の海であるか
たずねて知りたいと思います]

[室津が室戸岬の西側であれば、海は西側であるから、波と見間違う雲もまた西側の空にある。これをあかつきの西空とする必要はない。上の部分はあくまで「あかつき」に雨が降ったと言っているのであって、それがしばし続いて止んだものである。雨が上がったので女らは湯浴みに出たのであるが、まだ雲がどんよりと覆い尽くしていて、白波と見分けもつかないほどの有様だった。けれども、湯浴みがてらに遊んでいると、ようやくその雲も薄れていって、夕暮れて月が昇れば「十日あまりなれば月おもしろし」と続くからである。わずかこればかりの記述によって、雨雲が曇天へと移り変わり、効果的に和歌を挟み込みながら、晴れ渡る月の宵へと導く手際は、きわめて効率的で、無駄がないように思われる。
 それはさておき、このような一日の時間軸に照らし合わせても、女らの湯浴み遊ぶ時間を考えても、もちろん当時社会の知識が乏しすぎて、明確なことは言えないのだが、今日風に読み解くと、むしろ午前中くらいに雨があがったので、湯浴みをおこない、そのまま遊びほうけていると、まだ日の短い時期であるから、はやくも日は沈み、次第に肥ゆく月も眺められたというくらいの時間感覚で把握したくなるような記述である。
 それにしても寒い季節である。湯浴みはわずかな時間であり、そのまま下り立ちて遊んでいたのかもしれず、つまりは「さて、十日あまりなれば、月おもしろし」の後に、葦陰に戯れたのではなく、このひと言は、しがない挿入句なのかもしれない。けれども印象としては、夕暮れまで遊んでいたように思われる。
 ……ここまで記してようやく気がついたのだが、雨が「しばしありてやみぬ」というのは、早くに止んだわけではなく、また湯浴みに向かったのも、雨上がりの後すぐではなかったのかも知れない。このあたり、雨の記述多く、雨に関わる天候不順で出向が叶わないものであるから、「月おもしろし」などの晴れ渡る空をイメージする執筆は、待ちわびる船出をさえ重ねている、そんな感慨すら読み取れるかも知れない。
 閑話休題。つまりは、夕暮れもちかくになってはじめて湯浴みに向かったのだが、西空には雨雲の残りが、ちょうど波と見分けがつかないようになって残されていて、けれどももはや反対の空は雲を払い、やがては月も美しく見え始める頃に、湯浴みを行った際に、葦陰の暗がりであるものだから、はしたなくも「見せける」ということなのかもしれない。
 すると波のように見えるという雲は、鱗雲やら、たなびく雲の流れあうような、むしろ晴れと近しい雲であり、曇天などではないからこそ、次第に深く成りゆく紺碧の空と雲の様子が、水平線の白波に対して、もう一つの海のように見え、ついあのような和歌となった、ということかもしれない。「雲もみな」というからには、「雲がさまざまに見られる」ような印象を受け、波とあるからには、ところどころに白立ちしているように思われる。これだと曇天の覆い尽くす雲とはまるで様相が異なってくる]

[続く部分の、即時的描写によって湯浴みには、執筆者たる女性も下り立ったことが分かる。したがってこの和歌を、不特定な女性と詠むよりは、むしろ執筆者の和歌と思いたくなるような、記述的傾向を持った和歌である]

となむ歌よめる。

 さて、十日(とをか)あまりなれば、月おもしろし。
船に乗りはじめし日より、船にはくれなゑ濃く、よき衣(きぬ)を、日頃であれば大変好むはずの女ら着ず。それはなぜかと尋ねれば「海の神(かみ)に拐かされ、連れ去られることを怖(お)ぢて」といひて、……それなのにどうしたことか……今は、なにの葦陰(あしかげ)にことづけて[なにほどの葦の陰にかこつけて、の意味に「なにの悪し」を掛けている。「なに悪いことがあるのよ」と言葉を付けて]、ほや[]のつまの「いずし」[貽貝(いがい)の鮨]「すしあはび」[あわびを鮨にしたもの]をぞ、こゝろにもあらぬ脛(はぎ)にあげて見せける。

[「ホヤ」はごつごつした岩に取り付く、動物らしからぬ海の動物である。その姿を言葉だけで説明するには骨が折れるが、検索すればその姿はすぐに分かる。とにかく変わった奴であるが、これが男性諸君の持つ「ごっつい奴」の象徴だと見なされたもの。その「ホヤ」をメインの食事とするならば、そのつま、つまり「取り合わせ」に添えられたのが「いずし」「すしあわび」であると言ったのものだが、もちろんこれらは、「ホヤ」の妻である女性の皆さまの「ホヤ」さえ受け入れてしまう部分の比喩に他ならない。したがって、湯浴みして、ああけっぴろげに見せまくってしまったのだと言っているのである]

[鮨といっても、にぎり寿司ではない。塩と米飯で発酵させ長期保存を可能にした「なれ鮨」で、この時代は酸っぱくなった米の方は食べなかったようだ。ルーツは東南アジアにさかのぼる]

[この部分、「古今和歌集」の「誹諧歌(ひかいか)」というユニークな滑稽を歌った和歌の部に、
   いつしかと またく心を はぎにあげて
     あまのかはらを けふやわたらん
           藤原兼輔
とあるをふまえたもの、あるいはそれと戯れた部分とされる。紀貫之は藤原兼輔のもとに仕えていたことがある]

 十四日(とをかあまりよか)。あかつきより雨降れば、おなじところに泊(と)まれり。船君(ふなぎみ)の提案により、節忌(せちみ)す。精進物(さうじもの)なければ、午時(むまどき)よりのちに、かぢ取の昨日(きのふ)釣(つ)りたりし鯛(たひ)に、銭(ぜに)なければ、米(よね)を取りかけて落ちられぬ。

[さて、ここでいよいよ「船君」と呼ばれる人物が登場する。前土佐守の帰路の船団であればこそ、その船君は前土佐守であろうはずのところを、この「土佐日記」を一個の純粋な文学として読み解いた場合、そのような記し方はされていない。この時点では、おそらくは執筆者も構想を練っていなかったかもしれないものの、この船君は、すぐに執筆者の生みなした、かぢ取と渡り合う、重要なコメディーキャラとして活躍を見せ始めることになる。ここでは仮に、前土佐守の父親や先輩格の何ものかが、気の晴れない前土佐守の代わりに、あるいは前土佐守の配慮から、船君となっていたと解釈しておくことにしよう。道化役としての船君は、その和歌も含めてすべてが、前土佐守とは別人のように記されているからである]

 かゝることなほありぬ。かぢ取、また鯛もて来(き)たり。米(よね)、酒、しば/”\くる。かぢ取、けしき悪(あ)しからず。

 十五日(とをかあまりいつか)。今日(けふ)、あづきがゆ煮(に)ず。くち惜(を)しく、なほ日の悪しければ、ゐざるほどにぞ、今日(けふ)二十日(はつか)あまり経(へ)ぬる。いたづらに日を経(ふ)れば、人々海をながめつゝぞある。女(め)の童(わらは)のいへる。

立てば立つ ゐればまたゐる 吹く風と
  波とは思ふ どちにやあるらむ

いふかひなき者(もの)の言へるは、いと似つかはし。

 十六日(とをかあまりむゆか)。風波(かせなみ)やまねば、なほおなじところに泊(と)まれり。たゞ海に波なくして、いつしか御崎(みさき)といふところ渡らむ、とのみなむ思ふ。風波、とにゝやむべくもあらず。ある人の、この波立(なみた)つを見てよめる歌、

霜だにも 置かぬかたぞと いふなれど
  波のなかには 雪ぞふりける

 さて、船に乗りし日より今日(けふ)までに、二十日(はつか)あまり五日(いつか)になりにけり。

また室津(むろつ)へ

 十七日(とをかあまりなぬか)。曇(くも)れる雲なくなりて、あかつき月夜(づくよ)、いともおもしろければ、船を出(い)だして漕(こ)ぎゆく。

 このあひだに、雲のうへも海の底(そこ)も、おなじごとくになむありける。むべもむかしの男(をとこ)は、
「棹(さを)は穿(うが)つ、波のうへの月を、
  船はおそふ、海のうちの空を」
とはいひけむ。聞きざれに聞けるなり。また、ある人のよめる歌、

みなそこの 月のうへより こぐ船の
   棹(さを)にさはるは 桂(かつら)なるらし

これを聞きて、ある人のまたよめる、

かげ見れば 波の底なる ひさかたの
  空漕ぎわたる われぞわびしき

かく言ふあひだに、夜(よ)やうやく明けゆくに、かぢ取ら、
「黒き雲、にはかに出(い)で来(き)ぬ。風吹きぬべし。御船(みふね)返(かへ)してむ」
といひて船返(かへ)る。このあひだに雨降りぬ。いとわびし。

 十八日(とをかあまりやうか)。なほおなじところにあり。海荒(あら)ければ、船出(い)ださず。

 この泊(とまり)、遠(とほ)く見れども、近(ちか)く見れども、いとおもしろし。かゝれども苦(くる)しければ、なにごとも思(おも)ほえず。男(をとこ)どちは、こゝろやりにやあらむ、唐歌(からうた)などいふべし。船も出(い)ださで、いたづらなれば、ある人のよめる、

磯(いそ)ふりの 寄する磯には としつきを
  いつともわかぬ 雪のみぞふる

この歌は、常(つね)にせぬ人の言(こと)なり。また人のよめる、

風に寄(よ)る 波の磯には うぐひすも
  春もえ知らぬ 花のみぞ咲く

 この歌どもを、すこしよろしと聞きて、船の長(をさ)しける翁(おきな)、月日(つきひ)ごろの苦(くる)しきこゝろやりに詠める、

立つ波を 雪か花かと 吹く風ぞ
  寄せつゝ人を はかるべらなる

 この歌どもを、人のなにかと言ふを、ある人聞きふけりてよめり。その歌、よめる文字(もじ)、卅文字(みそもじ)[三十の表記には「卅」「丗」などがあり]あまり七文字(なゝもじ)。人みな、えあらで笑(わら)ふやうなり。歌主(うたぬし)、いと気色悪(けしきあ)しくて怨(ゑ)ず[読み「えんず」か?]。まねべども、えまねばず。書けりとも、え読み据(す)ゑがたかるべし。今日(けふ)だに言ひがたし。ましてのちには、いかならむ。

 十九日(とをかあまりこゝぬか)。日悪(ひあ)しければ、船出(い)ださず。

 廿日(はつか)。昨日(きのふ)のやうなれば、船出(い)ださず。みな人々、憂(うれ)へ嘆(なげく)。苦(くる)しくこゝろもとなければ、たゞ日の経(へ)ぬる数(かず)を、今日(けふ)幾日(いくか)、廿日(はつか)、卅日(みそか)と数(かぞ)ふれば、および[]も損(そこ)なはれぬべし。いとわびし。夜(よる)はいも寝ず[これは「寝(い)も寝(ね)ず」で「寝るも寝られず」の意]

 廿日(はつか)の夜(よ)の月出(い)でにけり。山の端(は)もなくて、海のなかよりぞ出(い)で来(く)る。かうやうなるを見てや、むかし阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)といひける人は、唐土(もろこし)にわたりて、帰(かへ)り来にける[「青谿書屋本」以外はすべて「きにける」ではなく「きける」と記す。あるいは「きんける」と発音すべきか?]時に、船に乗るべきところにて、かの国人、馬(むま)のはなむけし、わかれを惜(を)しみて、かしこの唐詩(からうた)[=漢詩]つくりなどしける。

 飽(あ)かずやありけむ、廿日(はつか)の夜(よ)の月出(い)づるまでぞありける。その月は海よりぞ出(い)でける。これを見てぞ、仲麻呂(なかまろ)の主(ぬし)、
「わが国に、かゝる歌をなむ、神代(かみよ)より神もよむたび[]、今は上(かみ)・中(なか)・下(しも)の人も、かうやうにわかれを惜(を)しみ、よろこびもあり、悲(かな)しびもある時には詠(よ)む」
とて、よめりける歌、

あをうなばら ふりさけ見れば 春日(かすが)なる
   三笠(みかさ)の山に いでし月かも

とぞよめりける。

 かの国人(くにびと)、聞(き)き知るまじく思ほえたれども、言(こと)のこゝろを男文字(をとこもじ)にさまを書き出(い)だして、こゝの言葉伝(つた)へたる人[=今日風なら「通訳の人」]に言(い)ひ知らせければ、こゝろをや聞き得(え)たりけむ、いと思ひのほかになむ、めでける。唐土(もろこし)とこの国とは、言(こと)異(こと)なるものなれど、月の影(かげ)はおなじことなるべければ、人のこゝろもおなじことにやあらむ。

 さて今、その昔(かみ)を思ひやりて、ある人のよめる歌、

みやこにて 山の端に見し 月なれど
  波よりいでゝ 波にこそいれ

 廿一日(はつかあまりひとひ)。卯の刻(うのとき)ばかりに船出(い)だす。みな人々の船出(い)づ。これを見れば、春の海に秋の木の葉しも、散(ち)れるやうにぞ[講談社学術文庫では「て」になっているが、確認取れず]ありける。おぼろけの願(ぐわん)[底本漢字表記]によりてにやあらむ、風も吹かず、よき日出(い)で来て、漕(こ)ぎゆく。

 このあひだに、使(つか)はれむとて、つきて来る童(わらは)あり。それがうたふ舟歌(ふなうた)、

なほこそ
 国のかたは 見やらるれ
  わがちゝはゝ ありとし思へば
 かへらや

とうたふぞ哀(あは)れなる。

 かくうたふを聞きつゝ漕(こ)ぎ来るに、黒鳥(くろとり)といふ鳥、岩(いは)のうへに集(あつ)まりをり。その岩のもとに波(なみ)、白(しろ)くうち寄(よ)す。かぢ取のいふやう、
「黒鳥のもとに、白き波を寄す」
とぞいふ。この言葉、なにとはなけれども、ものいふやうにぞ聞(き)こえたる。人のほどにあはねば、とがむるなり。

 かく言(い)ひつゝ行(ゆ)くに、船君(ふなぎみ)なる人、波を見て、
「国よりはじめて、海賊(かいぞく)報(むく)ひせむといふなることを思ふうへに、海のまた怖(おそ)ろしければ、頭(かしら)もみな白(しら)けぬ。七十(なゝそじ)八十(やそじ)は、海にあるものなりけり、

わが髪(かみ)の 雪といそべの しら波と
  いづれまされり 沖(おき)つ島守(しまもり)

かぢ取、この返歌を言えるものなら言へ」

 廿二日(はつかあまりふつか)。昨夜(よんべ)の泊(とまり)より、異泊(ことゞまり)を追ひてゆく。はるかに山見ゆ。歳(とし)九(こゞの)つばかりなる男(を)の童(わらは)……歳よりは幼(をさな)くぞある……この童、船を漕ぐまに/\、山もゆくと見ゆるを見て、あやしきこと、歌をぞよめる。その歌、

漕ぎてゆく 船にて見れば あしひきの
  山さへゆくを 松は知らずや

とぞいへる。をさなき童のことにては、似つかはし。

 今日(けふ)、海荒(あら)げにて、磯(いそ)に雪降り、波の花咲けり。ある人のよめる、

波とのみ ひとつに聞けど いろ見れば
  雪と花とに まがひけるかな

 廿三日(はつかあまりみか)。日てりて曇(くも)りぬ。このわたり、海賊の怖(おそ)りありといへば、神仏(かみほとけ)を祈(いの)る。

 廿四日(はつかあまりよか)。昨日(きのふ)のおなじところなり。

 廿五日(はつかあまりいつか)。かぢ取らの、「北風悪(あ)し」といへば船出(い)ださず。「海賊追ひ来(く)」といふこと、絶えず聞こゆ。

 廿六日(はつかあまりむゆか)。まことにやあらむ、「海賊追ふ」といへば、夜中(よなか)ばかりより船を出(い)だして漕(こ)ぎ来る。路(みち)に、手向(たむ)けするところあり。かぢ取して幣(ぬさ)たいまつらするに、幣の東(ひむがし)へ散(ち)れば、かぢ取の申(まう)してたてまつる言(こと)は、
「この幣の散る方(かた)に、御船(みふね)すみやかに漕がしめたまへ」
と申(まう)したてまつる。これを聞きて、ある女(め)の童(わらは)のよめる、

わたつみの ちふりの神に 手向けする
  幣(ぬさ)の追ひ風 やまず吹かなむ

とぞよめる。

 このあひだに、風のよければ、かぢ取いたく誇(ほこ)りて、船に帆(ほ)あげなどをしてよろこぶ。その音(おと)を聞きて、童(わらは)も媼(おむな)も、いつしかとし思へばにやあらむ、いたくよろこぶ。このなかに、淡路(あはぢ)の専女(たうめ)といふ人のよめる歌、

追ひ風の 吹きぬるときは ゆく船の
  船手(ほて)うちてこそ うれしかりけれ

とぞ。天気(ていけ)[あるいはここも読みは、前にならって「てんけ」か?]のことにつけて祈る。

 廿七日(はつかあまりなぬか)。風吹き、波荒(あら)ければ、船出(い)ださず。これかれ、かしこく嘆(なげ)く。男(をとこ)たちのこゝろなぐさめに、唐詩(からうた)に「日をのぞめば、みやこ遠(とほ)し」などいふなる言(こと)のさまを聞(き)きて、ある女(をむな)のよめる歌、

日をだにも 天雲(あまぐも)ちかく 見るものを
  みやこへと思ふ 道のはるけさ

また、ある人のよめる、

吹く風の たえぬ限(かぎ)りし 立ち来れば
  波路(なみぢ)はいとゞ はるけかりけり

 日ひと日(ひ)、風やまず。つまはじきして寝(ね)ぬ。

 廿八日(はつかあまりやうか)。よもすがら、雨やまず。今朝(けさ)も……

 廿九日(はつかあまりこゝぬか)。船出(い)だしてゆく。うら/\と照(て)りて、漕(こ)ぎゆく。爪(つめ)のいと長(なが)くなりにたるを見て、日を数(かぞ)ふれば、今日(けふ)は子の日(ねのひ)[底本「子日」と漢字表記。次も]なりければ切(き)らず。正月(むつき)なれば、京(きやう)の子の日(ねのひ)のこと言(い)ひ出(い)でゝ、「小松(こまつ)もがな」といへど、海(うみ)なかなれば、かたしかし。ある女(をむな)の書きて出だせる歌、

おぼつかな けふは子の日か 海女(あま)ならば
  海松(うみまつ)をだに 引(ひ)かましものを

とぞいへる。海にて子の日の歌にては、いかゞあらむ。また、ある人のよめる歌、

けふなれど 若菜も摘(つ)まず かすが野の
  わが漕(こ)ぎわたる 浦(うら)になければ

かく言ひつゝ、漕ぎゆく。

 おもしろきところに船を寄せて、
「こゝやいづこ」
と問(と)ひければ、
「土佐(とさ)の泊(とまり)」
といひけり。むかし、土佐といひけるところに住みける女(をむな)、この船にまじれりけり。そが言(い)ひけらく、
「むかし、しばしありしところの、なぐひ[]にぞあなる[読み「あんなる」か?]。あはれ」
といひて詠(よ)める歌、

としごろを 住みしところの 名にし負(お)へば
  来寄(きよ)る波をも あはれとぞ見る

 卅日(みそか)。雨風吹かず。
「海賊は夜(よる)、歩(ある)きせざなり[読み「せざんなり」か?]
と聞きて、夜中(よなか)ばかりに船を出(い)だして、阿波(あは)の水門(みと)をわたる。夜中なれば、西東(にしひむがし)も見えず。男女(をとこをむな)、からく神仏(かみほとけ)を祈(いの)りて、この水門(みと)をわたりぬ。

 寅卯(とらう)の刻(とき)ばかりに、沼島(ぬしま)といふところを過ぎて、たな川(がは)といふところを渡(わた)る。からく急(いそ)ぎて、和泉(いづみ)の灘(なだ)といふところに至(いた)りぬ。今日(けふ)、海に波に似たるものなし。神仏(かみほとけ)の恵み、かうぶれるに似たり。

 今日(けふ)、船に乗(のり)りし日より数(かぞ)ふれば、卅日(みそか)あまり九日(こゝぬか)になりにけり。いまは和泉(いづみ)の国に来ぬれば、海賊(かいぞく)ものならず。

 二月一日(きさらぎひとひ)。朝(あした)の間(ま)、雨降る。午刻(むまどき)ばかりにやみぬれば、和泉(いづみ)の灘(なだ)といふところより出(い)でゝ、漕ぎゆく。海のうへ、昨日(きのふ)のごとくに風波見えず。黒崎(くろさき)の松原(まつばら)を経(へ)てゆく。ところの名は黒く、松のいろは青(あを)く、磯の波は雪のごとくに、貝(かひ)のいろは蘇芳(すはう)に、五色(ごしき)[底本漢字表記]に今、ひと色ぞ足(た)らぬ。

 このあひだに、今日(けふ)は、箱の浦(はこのうら)といふところより綱手(つなで)引きてゆく。かく行(ゆ)くあひだに、ある人のよめる歌、

たまくしげ 箱(はこ)の浦波 立たぬ日は
   海をかゞみと たれか見ざらむ

 また、船君(ふなぎみ)のいはく、
「この月(つき)まで、なりぬること」
と嘆(なげ)きて、くるしきに堪(た)へずして、
「人もいふこと」
とて、こゝろやりにいへる、

引く船の 綱手(つなで)のながき 春の日を
  四十日(よそか)五十日(いか)まで われは経(へ)にけり

聞く人の思へるやう、
「なぞ[読み「なんぞ」か?]、たゞごとなる」
と、ひそかに言(い)ふべし。
「船君(ふなぎみ)の、からくひねり出(い)だして、よしと思へることを、怨(ゑ)じもこそし給(た)べ」
とて、つゝめきてやみぬ。にはかに、風波高ければ、とゞまりぬ。

 二日(ふつか)。雨風(あめかぜ)やまず。日ひと日、夜もすがら、神仏(かみほとけ)を祈(いの)る。

 三日(みか)。海のうへ、昨日(きのふ)のやうなれば、船出ださず。風の吹くことやまねば、岸の波立ちかへる。これにつけて、よめる歌、

緒(を)を縒(よ)りて かひなきものは 落ちつもる
  なみだの玉(たま)を 貫(ぬ)かぬなりけり

かくて、今日(けふ)暮(く)れぬ。

 四日(よか)。かぢ取、
「今朝(けさ)、風、雲の気色(けしき)、はなはだ悪(あ)し」
といひて、船出(い)ださずなりぬ。しかれども、ひねもすに波風立たず。このかぢ取は、日もえ計(はか)らぬ、かたゐなりけり。

 この泊(とまり)の浜(はま)には、くさ/”\のうるわしき[「うるはしき」と書く方が一般的だが、同時代に同例あり]貝(かひ)、石など多(おほ)かり。かゝれば、たゞむかしの人をのみ恋ひつゝ、船なる人[次の歌に「おりて拾はむ」とあるので、降りる前の状態、すなわち船の人と言ったもの]のよめる、

寄する波 うちも寄せなむ わが恋ふる
  人わすれ貝(がひ) おりて拾(ひろ)はむ

といへれば、ある人の堪(た)へずして、船のこゝろやりに詠(よ)める、

わすれ貝(がひ) 拾(ひろ)ひしもせじ しらたまを
  恋ふるをだにも かたみと思はむ

となむいへる。女子(をむなご)のためには、親、幼(をさな)くなりぬべし。
「玉(たま)ならずもありけむを」
と人いはむや。されども、
「死(し)し[発音「しんし」か?]子、顔(かほ)よかりき」
といふやうもあり。

 なほおなじところに、日を経(ふ)ることを嘆(なげ)きて、ある女(をむな)のよめる歌、

手をひてゝ さむさも知らぬ いづみにぞ
  汲(く)むとはなしに 日ごろ経(へ)にける

 五日(いつか)。今日(けふ)、からくして、和泉(いづみ)の灘(なだ)より、小津(おづ)の泊(とまり)を追ふ。松原(まつばら)、目もはる/”\なり。これかれ、苦しければよめる歌、

ゆけどなほ ゆきやられぬは 妹(いも)が績(う)む
  をづの浦なる 岸のまつばら

 かくいひつゝ来るほどに、
「船とく漕(こ)げ、日のよきに」
ともよほせば、かぢ取、船子(ふなこ)どもにいはく、
「御船(みふね)より、おふせ[]給(た)ぶなり。朝北(あさきた)の出(い)で来(こ)ぬさきに、綱手(つなで)はや引け」
といふ。この言葉の歌のやうなるは、かぢ取のおのづからの言葉なり。かぢ取は、うつたへに、われ、歌のやうなること、言ふとにもあらず。聞く人の、
「あやしく、歌めきても言ひつるかな」
とて書き出(い)だせれば、げに卅文字(みそもじ)あまりなりけり。

「今日(けふ)、波な立ちそ」
と人々、ひねもすにいのる験(しるし)ありて、風波(かぜなみ)立たず。今(いま)し、かもめ群れゐて、あそぶところあり。京(きやう)の近づくよろこびのあまりに、ある童(わらは)のよめる歌、

いのり来る 風間(かざま)と思ふを あやなくも
  かもめさへだに 波と見ゆらむ

といひて行(ゆ)くあひだに、石津(いしづ)といふところの松原(まつばら)おもしろくて浜辺(はまべ)遠(とほ)し。

 また、住吉(すみよし)のわたりを漕ぎゆく。ある人のよめる歌、

いま見てぞ 身をば知りぬる 住の江(すみのえ)の
  松よりさきに われは経(へ)にけり

[底本「すみの江」と漢字表記。次も同じ]

 こゝに、むかしへ人(びと)の母(はゝ)、ひと日、かた時もわすれねば詠める、

すみのえに 船さし寄せよ わすれ草(ぐさ)
  しるしありやと 摘(つ)みてゆくべく

となむ。うつたへに、忘れなむとにはあらで、恋(こひ)しきこゝちしばし休(やす)めて、またも恋(こ)ふるちからにせむ、となるべし。

 かくいひて、眺(なが)めつゝ来るあひだに、ゆくりなく風吹きて、漕げども/\、しりへ退(しぞ)きに退(しぞ)きて、ほと/\しく、うちはめつべし。かぢ取のいはく、
「この住吉の明神(みやうじん)[「明神」底本漢字表記]は、例の神ぞかし。欲しきものぞ、おはすらむ」
とは今めくものか。さて、
「幣(ぬさ)をたてまつり給(たま)へ」
といふ。言ふにしたがひて、幣たいまつる。かくたいまつれゝども、もはら風やまで、いや吹きに、いや立ちに、風波のあやふければ、かぢ取のまたいはく、
「幣には御(み)こゝろのいかねば、御船(みふね)もゆかぬなり。なほうれしと思(おも)ひ給(た)ぶべきもの、たいまつり給(た)べ」
といふ。また言ふにしがたひて、
「いかがはせむ」
とて、
「眼(まなこ)もこそふたつあれ、たゞひとつある鏡(かゞみ)をたいまつる」
とて、海にうちはめつれば、口惜(くちを)し。さればうちつけに、海は鏡のおもてのごとなりぬれば、ある人のよめる歌、

ちはやぶる 神のこゝろを 荒(あ)るゝ海に
  かゞみをいれて かつ見つるかな

いたく、住の江(すみのえ)、わすれ草(ぐさ)、岸の姫松(ひめまつ)などいふ神にはあらずかし。目もうつら/\、かゞみに神のこゝろをこそは見つれ。かぢ取のこゝろは、神の御(み)こゝろなりけり。

 六日(むゆか)。みをつくしのもとより出(い)でて、難波(なには)に着きて、川尻(かはじり)に入(い)る。みな人々、媼(おむな)、翁(おきな)、額(ひたひ)に手をあてゝよろこぶこと、ふたつなし。かの船酔(ふなゑ)ひの淡路(あはぢ)の島の大御(おほいご)、「みやこ近くなりぬ」といふをよろこびて、船底(ふなぞこ)より頭(かしら)をもたげて、かくぞ言へる。

いつしかと いぶせかりつる 難波潟(なにはがた)
  葦(あし)漕(こ)ぎそけて 御船(みふね)来(き)にけり

いと思ひのほかなる人のいへれば、人々あやしがる。これがなかに、こゝち悩(なや)む船君(ふなぎみ)、いたくめでゝ、
「船酔(ふなゑ)ひ、し給(たう)べりし御顔(みかほ)には、似ずもあるかな」
といひける。

 七日(なぬか)。今日(けふ)、川尻(かはじり)に船入(い)り立(た)ちて漕(こ)ぎのぼるに、川の水干(ひ)て悩(なや)みわづらふ。船ののぼること、いとかたし。

 かゝるあひだに、船君(ふなぎみ)の病者(ばうざ)[底本漢字表記]、もとよりこち/”\しき人にて、かうやうのこと、さらに知らざりけり。かゝれども、淡路(あはぢ)専女(たうめ)の歌にめでゝ、みやこ誇(ぼこ)りにもやあらむ、からくしてあやしき歌、ひねり出(い)だせり。その歌は、

来(き)と来(き)ては 川のぼり路(ぢ)の 水を浅(あさ)み
  船もわが身も なづむ今日(けふ)かな

 これは、病(やまひ)をすれば詠(よ)めるなるべし。ひと歌にことの飽(あ)かねば、今ひとつ、

とくと思ふ 船なやますは わがために
  水のこゝろの 浅(あさ)きなりけり

 この歌は、都[ここの「みやこ」は底本漢字表記]近くなりぬるよろこびに堪(た)へずして、言へるなるべし。淡路(あはぢ)の御(ご)の歌に劣(おと)れり。
「ねたき、言はざらましきものを」
と悔(くや)しがるうちに、夜(よる)になりて寝(ね)にけり。

 八日(やうか)。なほ川のぼりになづみて、鳥飼(とりかひ)の御牧(みまき)といふほとりに泊(と)まる。今宵(こよひ)、船君(ふなぎみ)、例(れい)の病(やまひ)おこりて、いたく悩(なや)む。ある人、あざらかなるもの持(も)て来(き)たり。米(よね)して返(かへ)りごとす。男(をとこ)ども、ひそかにいふなり。
「飯粒(いひぼ)して、もつ釣(つ)る」
とや。かうやうのこと、ところ/”\にあり。

 今日(けふ)は節忌(せちみ)すれば、魚(いを)不用(ふよう)[底本漢字表記]

 九日(こゝぬか)。こゝろもとなさに、明(あ)けぬから、船を引きつゝのぼれども、川の水なければ、ゐざりにのみぞゐざる。このあひだに、わだの泊(とまり)のあかれの所(ところ)といふところあり。米(よね)、魚(いを)など乞(こ)へば行(おこな)ひつ。

 かくて、船引きのぼるに、渚(なぎさ)の院(ゐん)[底本漢字表記。次も同じ]といふところを見つゝゆく。その院、むかしを思ひやりて見れば、おもしろかりける所(ところ)なり。しりへなる岡(をか)には、松の木どもあり。なかの庭には、梅の花咲(さ)けり。こゝに人々のいはく、
「これ、むかし名高(なだか)く聞こえたるところなり。故(こ)[底本「故」次も含めて漢字表記]惟喬親王(これたかのみこ)の御供(おほむとも)に、故在原業平(ありはらのなりひら)の中将(ちうじやう)[底本漢字表記]の、

世のなかに 絶(た)えて桜の 咲かざらば
  春のこゝろは のどけからまし

といふ歌、よめるところなりけり」

 今、今日(けふ)ある人、ところに似たる歌よめり。

千代(ちよ)経(へ)たる 松にはあれど いにしへの
   声(こゑ)のさむさは 変(か)はらざりけり

またある人のよめる、

きみ恋(こ)ひて 世を経(ふ)る宿(やど)の 梅の花
  むかしの香(か)にぞ なほにほひける

といひつゝぞ、みやこの近づくを、よろこびつゝのぼる。

 かくのぼる人々のなかに、京(きやう)よりくだりし時に、みな人、子[底本漢字表記]どもなかりき。いたれりし国にてぞ、子[底本漢字表記]産(う)める者(もの)どもありあへる。人みな、船の泊(と)まるところに、子を抱(いだ)きつゝ降(お)り乗(の)りす。これを見て、むかしの子の母、かなしきに堪(た)へずして、

なかりしも ありつゝ帰(かへ)る 人の子を
  ありしもなくて 来るが悲(かな)しさ

といひてぞ泣きける。父もこれを聞きて、いかゞあらむ。かうやうのことも、歌も、好(この)むとてあるにも、あらざるべし。唐土(もろこし)もこゝも、思ふことに堪(た)へぬ時のわざとか。

 今宵(こよひ)、鵜殿(うどの)といふところに泊(と)まる。

 十日(とをか)。障(さは)ることありて、のぼらず。

 十一日(とをかあまりひとひ)。雨いさゝかに降(ふ)りてやみぬ。かくて、さしのぼるに、東(ひむがし)の方(かた)に、山の横ほれるを見て、人に問へば、「八幡の宮(やはたのみや)」といふ。これを聞きてよろこびて、人々拝(をが)みたてまつる。山崎(やまざき)の橋見ゆ。うれしきこと限(かぎ)りなし。

 こゝに、相應寺(さうおうじ)[底本漢字表記]のほとりに、しばし船をとゞめて、とかく定(さだ)むることあり。この寺の岸(きし)ほとりに、やなぎ多(おほ)くあり。ある人、このやなぎの影の、川の底に映(うつ)れるを見てよめる歌、

さゞれ波 寄するあやをば 青柳(あをやぎ)の
  影の糸して 織るかとぞ見る

 十二日(とをかあまりふつか).山崎に泊(と)まれり。

 十三日(とをかあまりみか)。なほ山崎に。

 十四日(とをかあまりよか)。雨降る。今日(けふ)、車(くるま)京(きやう)へ取りにやる。

 十五日(とをかあまりいつか)。今日(けふ)、車(くるま)率(ゐ)て来(き)たり。船のむつかしさに、船より人の家にうつる。この人の家、よろこべるやうにて、饗(あるじ)したり。この主(あるじ)の、また饗(あるじ)のよきを見るに、うたて思ほゆ。いろ/\に返(かへ)りごとす。家の人の出(い)で入(い)り、にくげならず。ゐやゝかなり。

 十六日(とをかあまりむゆか)。今日(けふ)の夜(よう)さつかた、京(きやう)へのぼるついでに見れば、「山崎のこひつのゑ」も、「まがりのおほぢのかた」も、変はらざりけり。「売り人(びと)のこゝろをぞ知らぬ」とぞいふなる。

 かくて京(きやう)へゆくに、島坂(しまさか)にて人、饗(あるじ)したり。かならずしも、あるまじきわざなり。立ちて行(ゆ)きし時よりは、来(く)る時ぞ、人はとかくありける。これにも返(かへ)りごとす。

 夜(よる)になして、京(きやう)には、入(い)らむと思へば、急(いそ)ぎしもせぬほどに、月出(い)でぬ。桂川(かつらがは)、月の明(あか)きにぞ渡る。人々のいはく、
「この川、飛鳥川(あすかがは)にあらねば、淵瀬(ふちせ)さらに変はらざりけり」
といひて、ある人のよめる歌、

ひさかたの 月に生(お)ひたる かつらがは
  そこなる影も 変はらざりけり

またある人のいへる、

天雲(あまぐも)の はるかなりつる かつらがは
  袖(そで)をひてゝも 渡りぬるかな

またある人よめり。

かつらがは 我がこゝろにも かよはねど
  おなじ深さに 流(なが)るべらなり

 京(きやう)のうれしきあまりに、歌もあまりぞ多(おほ)かる。

 夜(よ)ふけて来(く)れば、ところ/”\も見えず。京(きやう)に入(い)り立ちてうれし。

 家にいたりて、門(かど)に入(い)るに、月明(あか)ければ、いとよくありさま見ゆ。聞きしよりも、まして言ふかひなくぞ、こぼれ破(やぶ)れたる。家にあづけたりつる人のこゝろも、荒れたるなりけり。中垣(なかがき)こそあれ、ひとつ家のやうなれば、のぞみて預(あづ)かれるなり。さるは、便(たよ)りごとに、物も絶へず得(え)させたり。今宵(こよひ)、「かゝること」と、声高(こわだか)にものも言はせず。いとはつらく見ゆれど、こゝろざしはせむとす。

 さて、池めいてくぼまり、水つけるところあり。ほとりに松もありき。五年(いつとせ)六年(むとせ)のうちに、千年(ちとせ)[底本「千とせ」と表記]や過ぎにけむ。片方(かたへ)はなくなりにけり。今生(お)ひたるぞまじれる。おほかたの、みな荒れにたれば、「あはれ」とぞ人々いふ。

 思ひ出(い)でぬことなく、思ひ恋(こひ)しきがうちに、この家にて生まれし女子(をむなご)の、もろともに帰(かへ)らねば、いかゞは悲しき。船人(ふなびと)もみな、子(こ)たかりてのゝしる。かゝるうちに、なほ悲しきに堪(た)へずして、ひそかにこゝろ知れる人といへりける歌、

生(む)まれしも かへらぬものを わが宿(やど)に
  小松(こまつ)のあるを 見るがゝなしさ

とぞいへる。なほ飽(あ)かずやあらむ。また、かくなむ。

見しひとの 松の千とせに 見ましかば
  とほく悲しき 別れせましや

 忘れがたく、口惜(くちを)しきこと多(おほ)かれど、え尽(つ)くさず。とまれかうまれ、とく破(や)りてむ。

         [おわり]

奥書(おくがき)

[底本(そこほん/ていほん)この後に記]

     蓮花王院(れんげわうゐん)本云々
嘉禎二年八月廿九日以紀氏正本
書写之一字不違(これ一字違はず書き写す)
不読解事(読み解せぬこと)少々在之(少々これあり)
権中納言 <花押>

外題(げだい)

 「土左日記」と表記。

大島 雅太郎(おおしま まさたろう、1868年1月25日(慶應4年/明治元年1月1日) - 1948年(昭和23年)6月9日)は、戦前の三井合名会社理事、蒐書家、慶應義塾評議員、日本書誌学会同人。 源氏物語の写本の収集家で知られるが、鎌倉時代からの古写本の収集に努め、その膨大なコレクションは青谿書屋(せいけいしょおく)と称した。戦後の財閥解体で公職追放となり、旧蔵書は散逸した。雅号は景雅、性恭謙温良。 目次

2013/4/1~

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