紀貫之『土佐日記』-原文とその朗読

紀貫之『土佐日記』-、その原文と朗読

紀貫之 『土佐日記』 朗読版
………

土佐日記の現代語訳

………

土佐日記の概説

土佐日記 (とさにっき)
………
写本について
………

紀貫之(きのつらゆき)について

紀貫之の年号暗記(そればっかやね)
……… 花に(872)
紀氏(きのし)について
………蘇我氏の始祖とされる蘇我石川(そがのいしかわ)らと共に、(いくぶん伝説めいてはいるものの)武内宿禰(たけ/たけし/たけの/うちのすくね)の子であるとされる紀角(きのつの)を始祖とする紀氏(きうじ)の出身。武内宿禰は、孝元天皇(こうげんてんのう)の子孫を父に、紀伊国造(きのくにのみやつこ)の一族である影媛を母とするとされる。これは紀伊国(和歌山県あたり)に古代より君臨した豪族である紀氏、後に大和王権における紀伊国造(きのくにのみやつこ)と呼ばれる一族と、王権の結びつきを示唆するものであり、これによって紀貫之の系譜につらなる紀氏は、武門の家柄として王権に仕えたという。
………奈良時代の頃からその地位を拡大し、一時は天皇との血縁関係から勢力を誇り、あるいは蝦夷遠征で知られる紀船守(きのふなもり)(731-792)や紀古佐美(きのこさみ)(733-797)などを排出するが、平安時代には藤原北家の勢力に押され、紀名虎(きのなとら)(?-847)の時、娘を天皇と結ばせることにより勢力回復を図るも、文徳天皇と静子の間に生まれた皇子(みこ)である惟喬親王(これたかしんのう)(844-897)は、藤原良房(よしふさ)(804-872)を外祖父に持つ惟仁親王(これひとしんのう)との継承争いに敗れ、惟仁親王は清和天皇(せいわてんのう)(在位858-876)となり、惟喬親王はその即位の歳である858年に、大宰権帥(だざいのごんのそち)となり、以下官職を歴任していくこととなった。
………この惟喬親王に仕えたものが在原業平(ありわらのなりひら)であり、『伊勢物語(いせものがたり)』の主人公とされる人物である。(『古今和歌集仮名序』に記される六歌仙の選抜が不可解であるところに目を付けて、この在原業平をも含む『六歌仙』とは、惟喬親王に仕えた者たちの中から撰ばれた歌人たちである、とする説もあるらしい)
………そんな紀氏だが、866年の『応天門の変(おうてんもんのへん)』により、時の大納言伴善男(とものよしお)が真の放火犯であるとされ流罪となった際、共犯者として紀豊城(きのとよき)が安房国 (あわのくに)(千葉県先端部)に流され、連座するものとして紀夏井(きのなつい)が土佐国(とさのくに)(現在の高知県あたり)へ流されると、政権内での権力を失った。この事件は、藤原氏による大伴氏、紀氏などの排斥の意図があったとされているが、以後紀氏は、漢詩をたくみにこなした紀長谷雄(きのはせお)(845-912)が宇多天皇(うだてんのう)のもとで活躍する他は、政権での回復は果たせず、貫之や、その従兄弟にあたる紀友則(きのとものり)のように、歌人など文芸的な活躍をするくらいのものであったという。
紀貫之の生涯略歴
………

土佐日記、リンク

ウィキペディア
………「土佐日記」の概説
ウィキペディア
………「紀貫之」の概説
青空文庫
………青空文庫に納められた「土佐日記」。1906年の出版物に基づくもの。
土左日記翻字データベース
………「渋谷栄一研究室」にある、藤原定家筆写による「土左日記」のデータベース。
「土左日記」(青谿書屋本)翻刻と校訂
………「苔径庵」のサイト内にある、青谿書屋本「土左日記」の翻刻と校訂
千人万首 紀貫之
………「やまとうた」のなかの「紀貫之」の和歌紹介

[Topへ]