万葉集あるいは短歌の作り方 修辞法

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修辞法とは

 面倒(めんど)いので、
   「ウィキペディア」から部分引用します。

 修辞技法(しゅうじぎほう)とは、文章やスピーチなどに豊かな表現を与えるための一連の技法のこと。英語の「figure of speech」やフランス語の「figure de style」などから翻訳された現代語的表現で、かつての日本語では文彩(ぶんさい)、また単に彩(あや)などといっていた。

 修辞技法はギリシア・ローマ時代から学問的な対象として扱われており、修辞学(レトリック、Rhetoric)という学問領域となっている。西洋の古典修辞学者らによってScheme(配列を変えること)とTrope(転義法、比喩)に大別された。

 またその原則は、

・文章がある目的に向かって、統一が取れていること。

・文章が整然と配備されて、脈絡がしっかりしていること。

・深い感銘を与えるために、効果的に仕立てられた表現であること。

 つまり特に、深い感銘を与えるための、様々な技法のことを、「修辞技法(しゅうじぎほう)」と呼ぶというようです。

 以下の紹介は、有用と思われるところを、まとめたもので、網羅的なものではありませんから、参考に眺める程度にご利用ください。修辞学の勉強には、役には立ちませんが、まったく知らない人が、のぞき見するには、ちょうど良いくらいの内容かと思われます。

繰り返しに関するもの

反復法(はんぷくほう)

 同じ言葉や、同じ句を何度も繰り返すことを反復法(はんぷくほう)(レペティション)と言います。特に間に何も挟まず、
     「うるさい、うるさい、うるさい」
のように使用するものを畳語法(じょうごほう)と呼びます。言葉の長さに応じて、畳音法(じょうおんほう)、畳句法(じょうくほう)と使い分ける場合もあります。

 特に短い音のくり返しを、「同音反復」「畳音法」と呼ぶことがあります。
    「さささささ」とか「しとしとしとしと」
といった表現です。同じ言葉、類字の表現のくり返しは、詩的表現の基本ですから、おそらく自然と使用していると思いますが、名称を知っていると、ああこれが何とか技法か、と表現を分類できるのが、ちょっと知識人を気取れます。

 これもまた、短歌に使えそうな表現に、「倒置反復法(とうちはんぷくほう)」というのもあります。
     「春は眠くなる、春は眠くなる」
と言うのではなく、
     「春は眠くなる、眠くなるのは春」
のような反復法です。日本語の場合は、上のように「なるのは春」と入れ替えのために必然的に起こる表現の変化は、同音と見なして良さそうです。

眠い春
  春は眠いな お布団が
    眠りなさいと ささやくのはなぜ

 他にも、「春はあたたかく、春はやさしい」のように、冒頭に同じ言葉を繰り返す「首句反復(しゅくはんぷく)」。逆に文の最後を同じ言葉で繰り返す「結句反復(けっくはんぷく)」など、細部に分類されますが、ともかく、何らかの言葉の反復が行なわれていれば、反復法くらいで構いません。

 また、同音反復ではなく「類音反復(るいおん)」という表現もあります。これだと、同じ表現を利用しながら、
     「しょっぺえ、しょぱい、しょぱーい」
などと表現しても、類似の発声であれば反復という訳です。

同語反復(どうごはんぷく)

 先の例では、基本的には、言葉が一致してる必要がありますが、(日本語による必然的な言い換えは除く、)「同語反復(どうごはんぷく)(トートロジー)」の場合は、「自分だから私なんです」と、指し示す内容が同じ意義であれば、完全に言葉が一致していなくても構いません。
     「しょせん愛とは愛することに過ぎないのだ」
のような表現で、
     「忘却とは忘れ去ることなり」
と言われると、皆がラジオに釘付けになってしまうようなものです。

 類似するものに、「冗語法(じょうごほう)」というものがあります。訴えたいことをより強調したり、わざとぎこちなくしたり、さまざまな理由により、必ずしもその表現の必要ない、同種の内容を加えるものです。たとえば、

「私たち日本人は、
   生まれたての子供から、終末を控える老人まで、
  誰もがその権利を有しているのであります」

のように、ただ「日本人」で十分理解できる文脈に、
  強調のために、詳細な表現を、「日本人」と同じ意味で、
    加えるようなものです。

押韻(おういん)

 「押韻(おういん)(ライミング)」も、類似音の反復と捉えて良いかも知れません。つまり「韻を踏む」とは、類似の発声の言葉を、詩文などの同じヶ所に用いることで、日本語では、完全に同じ言葉を使用する場合と、同じ母音の言葉を使用する場合があります。句や行のはじめの音を揃えるのが「頭韻(とういん)」、終わりを揃えるものを「脚韻(きゃくいん)」と言います。

春風の はかなきものよ
   花の色 はるかな夢を
  はこべ明日へと

 ここで、それぞれの句の頭が「は」で頭韻を踏みますが、句の終わりもまた、母音の「o」で統一されていますから、脚韻と呼んで構わないという理屈です。

文章構成に関するもの

倒置法(とうちほう)

 通常の語順を入れ替えることで、
   本文に詳細を記しました。

パラレリズム

  本文では、「対句(ついく)」「平行法(へいこうほう)」として紹介しました。特に和歌では、「対句(ついく)」と呼ばれるのが普通です。二つの異なる文が、パラレルな関係にあり、ほとんど同じ文の成分を使用しながら、一部の言葉を換えて並ぶものです。

「対句法(ついくほう)」と同意に取られることもありますが、対句というものは、比較的短めの文同士を、相対するように配するものと、捉えられがちですから、かえって「パラレリズム」の一つくらいに捉えた方が、分かりやすいのかも知れません。一例を挙げておけば、

「山は緑にして空は青い」
「空にはツバメが飛び、川には魚が泳ぐ」
「沖では漁師が魚を捕っていた。
   岸では猫が魚を食っていた。」

交錯配列法

 「交錯配列法(こうさはいれつほう)(キアスムス・カイアズマス)」は、言葉で説明すると、非常にややこしいことになりますので、実例を眺めてください。

[A ] 私は旅に立つ。
[B ] かの山を越えて、
[C ] 港より見知らぬ国へと、
[D ] 荒れた海のはるか彼方へ。
[C'] いつか見知らぬ国より、
[B'] その海を渡って、
[A'] 私は旅より帰るだろう。

のような、[ABC]と順次進行してた文章の表現と内容を、[C'B'A']と逆転進行させながら、類似の表現と内容で引き戻すような特殊技法です。この場合、中心軸としての[D ]はあってもなくても構いません。同型反復とは違って、類似の表現であればよいので、上のような長いものではややこしいですが、

わたしのものはすべて宝であり、
  すべての輝きはじぶんのものである。

「わたしのもの」と「じぶんのもの」は内容と表現が類似であり、「すべて宝であり」と「すべての輝き」は、同種の内容の言い換えに過ぎませんから、[AB-B'A']という構造になっている、したがって交錯配列法であるという訳です。

 むしろもっとも簡単なものとして、
     「君は王女で、しもべは私」
のようなものが分かりやすいでしょうか。別に[A-A'][B-B']は同語の言い換えである必要はありません。同じ代名詞同士でもよいですし、同じ遠景にある「山と海」のような関係でもよいのです。従って、
     「山は紅く移り、変わらず青い空」
のような表現も成り立ちます。

 この技法は、キリスト教の「旧約聖書」「新約聖書」で神の構造物を様式化する修辞法として、よく使用されたものです。様式としては、日本ではあまり馴染みのないものかと思われます。

代換法

 入れ替えついでに、「代換法(だいかんほう)(ハイパラジー・ヒパラジー)」も紹介しておきましょう。詳細は割愛(かつあい)。取りあえず、わざと言葉を入れ替えて、正しくはないが意味は通じるような文に変えて、相手の注意を引くものとくらいで、捉えておけばよいでしょうか。

風が吹き荒れ、枝々は乱れた
  ⇒枝々は吹き荒れ、風は乱れた

さくらが咲いて、ほほえみがこぼれた
  ⇒ほほえみが咲いて、さくらがこぼれた

破格構文

 意味がおかしくなった位ではなく、通常の文章構造が、文法として崩れているものを、「破格構文(はかくこうぶん)」と言います。正確には一つの構文の途中で、いきなり別の構文に移り変るときに、文法の整合性が取れなくなるような修辞ですが、あまり深く考えず、文法的におかしいものを、利用するときの言葉として、覚えておけば良いでしょう。

「激しい雨のシャツを着替えなさい」

 「激しい雨の中で、濡れたシャツ」と言うべきところを、言いたいことを述べたくてはしょったために、文法がおかしくなっています。こんな出鱈目にも、ちゃんと修辞の名称が付いている。付いているとなると、わたしたちは使っても、修辞学が保証してくれる。なんともはや、まことありがたいような、システムではありませんか。

比喩(ひゆ)

比喩(ひゆ)

 修辞技法では、「転義法(てんぎほう)(トロープ)」と呼ばれます。「直喩(ちょくゆ)(シミリー)」「隠喩(いんゆ)(メタファー)」「擬人法(プロソポピーア)」などがあります。詳細は本文で示しました。

 他にも、文章の内容全体が、あることの譬えになっているものを「諷喩(ふうゆ)」と言います。『万葉集』の「比喩歌」と呼ばれるジャンルも、歌の内容自体から、別の意図を読み取るというものですから、一種の「諷喩」です。

 また、「換喩(かんゆ、メトニミー)」とは、関連の深い言葉を使用して言い換える比喩で、「生きるのにはご飯が必要」と言って、食事の必要性をご飯で代用したり、文章を書く人をペンに置き換えて、「ペンは強し」などと言うものです。

 「擬声語(ぎせいご)」「擬音語(ぎおんご)」は、「オノマトペ」と呼ばれるもので、本文で解説しましたが、これも音声による比喩と捉えられます。

引喩(いんゆ)

「引喩(いんゆ)」は「比喩」というより「引用」ですが、比喩の要素を含みますので、ここで説明しておきます。ある知られた言葉や、文学作品などの文章、詩などをそのまま利用すれば、「引用(いんよう)」になります。引喩は、その表現をもとに、自らが述べたかった内容へと、移し替えて表現することです。例えば、

「人はパンのみに生きるにあらず」

という聖書の引用をもとに、

「人は銃のみに死ぬにはあらず、
  君の口から発せられる一つ一つの言葉によっても死ぬのである」

などと使用するものです。

表現に関するもの

語句の挿入

 一つの文の中に、全体の内容とは関わりのないこと、例えばある言葉を補足、説明したり、語っている間に、心の思いを描いて見せたりすることで、しばしば、括弧(かっこ)やダッシュなどで括って記されます。

 もちろん、短歌の中にも会話の「」だけでなく、
   挿入句としての()なども使用しても構いませんが、
  むしろスマートなのは、補助記号なしに使用して、
    相手に悟らせる方法です。

取れたての
   ビールの共は 枝豆です
  あらこれ美味しい 食べてください

 括弧が無くても、つまみ食いだと分かるという仕組みです。

省略法(しょうりゃくほう)

 小さいものは、助詞や助動詞を省略する「要語省略(ようごしょうりゃく)」から、同じ表現の省略、故意にある言葉を省略することによって、相手に何らかの意図があるように悟らせるものまで様々です。特に「……(リーダー)」や「―(ダッシュ)」で省略されたことが分かるように、示す場合もあります。

 取りあえず省略してあるものは、すべて含まれますので、文法上の最後の助詞や助動詞を取り去った「体言止め」や、長い言葉を「メタボ」「アポ」なんて縮めるのも省略ですし、「くびき語法」といって、
     「紅い花を摘んだ。黄色い花を摘んだ。青い花を摘んだ。」
のようなくり返しを、
     「紅い花を、黄色い花を、青い花を摘んだ」
とまとめるようなものまで、さまざまです。

「黙説法(もくせつほう)」も省略の一種です。これは、わざと文章を途切れて、「おい、まさかお前……」のように、相手に意図を悟らせたり、言うべきことを言わずに、悟らせたりする方法です。たとえば考え事をしていて、いつの間にか「……」になってしまうとか、怒りのあまり文章が断絶するとか、様々なやり方があります。もっとも強烈なのは、相手の言葉に対して、無言で返すという「……」でしょうか。ただし「しかと法」とは呼ばないようです。

特徴的な表現

「体言止め(たいげんどめ)」
……名詞によって文章を止める方法です。

「反語(はんご)」
……作者の言いたいことをわざと疑問型で提示して、相手に悟らせる方法です。「誰が食べないでいられようか」と言われると、聞き手側が「食べないではいられない」と、確認を取らされたような気分になりますから、強調されるようなものです。

「誇張(こちょう)」
……わざと大げさに表現して、またその部分を際だたせて、過大に誇張、過小に誇張するような表現。そういえば、わたしの執筆した本文にも使用されていますね。

「感嘆(かんたん)」
……特に自らの心情のピークを表明するような表現で、
  時には「!」のマークでそれを明らかにする場合もあります。

「疑惑法(ぎわくほう)・アポリア」
……何らかの意図を持って、つまり純粋の疑問でもないのに、自らの疑問を表明するような表現です。例えば、すでに言いたいことが決まっているのに、「何から話したらよいのだろうか」と疑問の表現をしたり、「わたしの聞き間違いでしょうか」と、相手の言葉に驚いてみせたりするなど、様々です。時には「?」のマークでそれを明らかにする場合もあります。

「列挙法(れっっきょほう)・列叙法(れつじょほう)」
……「まったくお前は、無能、無知、無学、ぐうたら」と連続的に並べて、相手に大打撃を与えたり、「この作業工程は、まずAを行ない、次にBを行ない、さらにCを行ない、」と連続的に並べて、文章をきびきび進行させたりするものです。夏目漱石の「坊っちゃん」の
   「「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被(ねこっかぶ)りの、
     香具師(やし)の、モモンガーの、岡っ引きの、
    わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云うがいい」」
というのも、列挙法ですね。

「換言(かんげん)」
……言葉をわざと言い換えて表現するもの。一度述べたことを、別の言い方で述べる「パラフレーズ」や、わざと簡単に言えることを、回りくどい言い回しにしたり、初心者に説明するために、細やかに説明するような「迂言法(うげんほう)」、直接言うのがはばかられることを悟らせるように述べる、「婉曲表現(えんきょくひょうげん)」などがあります。
  「まったく、いつもどうして、
     そのようなことばかりしているのやら
    わたしにはさっぱり分かりませんよ」
と「馬鹿」のひと言を伸ばしたりもするのです。
   「本当にこんなことになるなんて、
     私もまったく思っておりませんで」
と「死んで驚いた」という表現を婉曲したりもするのです。

「対義結合(たいぎけつごう)(オクシモロン)」
……対比されるような、矛盾を生じるような言葉を結びつけて、ひとつの表現にすること。「うれしい悲しみ」とか、「本当の嘘」とか、「白い闇」とか、面白い表現が生み出される表現です。

 もちろん、これですべてではなく、
   よく使用するところを紹介しているに過ぎません。

論理的推論

 文章表現にこだわっても、文章に一貫性がなければ、優れた表現にはなりませんから、推論表現の方法も修辞学には含まれます。論理的推論とは、論理学の基本となる、
     「演繹(えんえき)、帰納(きのう)、仮説形成(アブダクション)」
に基づいて、推論を行なうということになります。

演繹(えんえき)

 「演繹(えんえき)(ディダクション)」は、すでに正しいとされている一般的、普遍的な前提条件を元にして、個別のもの、特殊なものへの推論を行ない、結論を導き出す方法です。

     「大前提⇒小前提⇒結論」
で説明される、「三段論法(さんだんろんぽう)」というものが、もっとも知られた方法でしょう。

大前提 : 人は必ず死ぬものである。
小前提 : ソクラテスは人間である。
結論  : だからソクラテスは必ず死ぬものである。

 そうして、非論理学の世界では、実は「ソクラテス」はパソコンの名前でした、というオチで、論法が破綻するのも、これまたありがちなお話しです。

 もちろん短歌は、論理学ではありませんから、
  その形式を、うまく利用するに過ぎませんが、

人は誰も
   夜空の海へ 返すなら
  わたしもいつか 星になれたら

のようなものは、普遍的なところから、個人である私を導いて、演繹的に詠まれています。もちろん詩ですから、事実としては、大前提からして間違っていますが、メルヘンの世界では、大前提として生きているという仕組みです。

帰納法(きのうほう)

「帰納法(きのうほう)(インダクション)」は、演繹とは逆に、個別なもの、特殊なものから、一般的・普遍的な規則・法則を導き出そうとする推論です。ただし、高校で習う「数学的帰納法」は実は演繹法だったりします。実際の帰納法は、例えば、

・Aさんは死ぬ。
・Bさんは死ぬ。
・Cさんは死ぬ。

という個別の証拠を重ねていき、「よって人は死ぬ」と導くものです。よってサンプルが多くなれば多くなるほど、確証は増しますが、人魚の肉を食って死ねない人間が出てきたら、破綻してしまう。その危険性から、逃れることは出来ません。つまり最後の「人は死ぬ」は、いつまでたっても「確実性のきわめて高い仮定」に過ぎないとも言えます。

 もっとも短歌で利用するなら、そんなことは知ったことではありませんし、そもそも論理を解き明かすものでもありませんから、そのスタイルだけを拝借して、詠むくらいのものには過ぎません。

いにしえの
   あまたの歌の 今の世に
 残されたなら わたしの歌さえ

 帰納どころか、
  根拠のない願望がいいところです。

仮説形成(かせつけいせい)

 実際の論理の課程では、既成の事実を紡いで達する演繹と、得られたデータを集積して仮説を設け、その精度を高めていく帰納だけからなる訳ではありません。演繹する者は必ず飛躍して、演繹の指向を計りますし、データを集積するものは、サンプルが集まる前から、さまざまな仮説について思いを馳せてしまうものです。

 そのように、これまでの学者が当たり前にやっていたことを、改めて定義したのが、「仮説形成(かせつけいせい)(アブダクション)」というもののようです。(違ってたらごめんなさい。一夜漬けです。)

 つまり、何かを観察すると、ある事実が浮かび上がってくるなら、その次点で積極的に仮説(かせつ)を打ち立ててしまって、それに基づいて証明を進めなさい。考えうる仮説を駆使して、実際は演繹と帰納を利用して、正しい仮説へ近づけ、修正を加え、結論(あるいはそれに近いもの)を導き出しなさい。という仮説の積極的な扱い方のようにしか、私には受け取れませんでした。(ただし冗談抜きで、本当の一夜漬け、というより二時間漬けですから、間違ってるかも知れません。)

 いずれにせよ、ともかく仮説を打ち立てるのには大賛成です。対象物から、根拠のない仮説(それって仮説じゃない気が……)を打ち立てるのは、わたしたちの得意分野ですから。

ひび割れた
    貝殻に浮かぶ 文様(もんよう)は
  わたつみやこの 落書なのかな

ジレンマ・ディレンマ

「両刀論法(りょうとうろんぽう)」という、ややこしい名称もあります。私たちの使用するジレンマと似ています。「AまたはB」であるとき、「AならばC」「BならばC」であるから、結論は「C」であるという導き方です。ただし、論理学でなく、単なる文章に応用するのであれば、少し「C」の部分をはぐらかして、
     「右または左」である時、
     「右ならば殴られ」
     「左ならば蹴られ」
         「どっちにしろひどい目に遭う」
といった、使い方がお勧めです。

夜明けには なみだを流し
  夕焼けに 赤く目を染め
    悲しみは尽きず

循環論法(じゅんかんろんぽう)

「AはBである、よってBはAである」
「AはBである、BはCである、CはAである」
のように、証明になっていない、
  ぐるぐる回る犬っころみたいな論法を差します。

 聖書にある神の声は正しい、
    なぜなら神の声は正しいと聖書に書いてあるからだ。

のようなものは、
  分かりやすいのですが、

 災害に政府の責任はありません。政府は常に災害に対して、万全の体制で臨んでいます。万全の体制で臨んではおりますが、それでも災害というものは起るものですから、災害は政府の責任では無いのであります。

なんてぐるぐる回られると、
  頭がぼやけてきて、ついそうかな、
    なんて騙されてしまうと言う論法です。
  悪徳商法の基礎講座にも含まれていそうです。

パラドックス

 導き出された結論が、事実に反するように思われたり、結論内部に矛盾を生じているのに、行なわれた推論を眺めても、前提も推論も正しそうに見えて、明確に誤りであると判断できないものを、パラドックスと呼びます。

 有名なものは、「ゼノンのパラドックス」といって、人間が亀を追いかける。亀の地点に行くと、亀は以前より先に進んでいるために、以前の地点にはいない。さらに追いかける。人間が次の地点に行くと、亀は以前より先に進んでいるために、亀には追いつけない。つまりいくら続けていっても、人間は亀には追いつけない。というような推論です。

 パラドックスの和訳として一緒にされることも多いですが、「逆説(ぎゃくせつ)」というものは、真理に反することを述べているように見えて、真理を内包しているような表現で、

・「急がば回れ」や「負けるが勝ち」といったことわざ。
・「貧しき者は幸いである」のような見方を変えれば成り立つ真理。

などを表明するものは、
 「逆説」と呼ぶのが分かりやすいかも知れません。

分からない
   それだけを僕は 知っていた
  何も知らない 自分が悲しい

終わり

 以上、適当ながら、
  一般的な修辞の技法を、ひと眺めしてみました。
    それでは。

2016/05/30
2016/06/03 改訂

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