万葉集はじめての短歌の作り方 その五

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万葉集はじめての短歌の作り方 その五 様式化と推敲

[朗読ファイル その一]

 学生時代の歌詞の落書きを、
  後から見たら恥ずかしかった。
 そんな経験はあるでしょうか。それは心情が、大人になった自分に劣るのではありません。むしろありったけの思いのまま、率直すぎる表現で、思うすべてを描き出しているのが、表現力も豊かになった現在、しかも、心情を精一杯に表現することなど、あまり無くなっているものですから、余計に恥ずかしく感じられてしまうのです。

 けれども一方で、同じ中学生同士であるとしても、当人が傑作だと思い込んだ程には、まわりの友だちは感動してくれない。そんな経験はないでしょうか。それはまだ、自らが主観的に記した時の、自らの受け取り方と、第三者が客観的に眺めた際の、その表現の受け取り方との間に、橋渡しが出来ていないのが原因です。つまり日常生活で、一緒に試合に勝ったり、一緒に美味しいものを食べたり、くだらない話をして笑い合っている、その心情のままでは、当人たちにしか共感は出来ませんから、もし同じように共感させるためには、何らかの共鳴を引き起こすための、手続きが必要になってくるのです。

 先ほどの中学生が、自らの詩にうぬぼれたのは、主観を自らと共有しているからに過ぎません。逆に友だちが引いたのは、主観を共有していない、第三者の立場にあるからに他なりません。この時、友だちは、あなたが他人の作品を読む際に、当然のようにしていること、あなたとは切り離された一つの作品として、あなたの詩を眺めていたに過ぎないのです。そうしてあなた自身も、友だちの書いた一大傑作に、あきれかえった経験があるのなら……

 どうして呆れ返ったのか、改めて考えて、それに理由を付けさえすれば、それはもう批評(ひひょう)です。そうしてそれが、中学生くらいの感覚でも、たやすく起るということは、批評の勉強などを、改めてしなくても、あなた方は日頃から、自らの言語感覚に基づいて、第三者の立場で判断を下していて、つじつまが合っているとか、意味が分からないとか、うまい表現であるくらいの、批判能力は備わっているということにもなります。その理由はきわめて簡単で、私たちは誰もが、現代語を利用して生きているから、中学生くらいになればもう、これまでの経験に基づいて、判断を下すことが出来るのです。そうであるならば……

 すでにあなたがたは、自らの作った詩も、第三者として批評する能力を有している。ただ自らの主観で描いた作品を、自らの主観から切り離して、捉えることに慣れていないので、つい自分の作品だけは、先ほどの中学生がそうであったのと同じように、主観のまま眺め続けてしまう。特別の目をして眺めてしまう。初心者のうちは、そのような傾向がつきまとうようです。

 しかし実際の作品は、第三者が捉えるものですから、主観的に思いを表現すること、客観的に捉え直すことが結びつかないと、すぐれた短歌は、描き出すことが出来ません。そこでここからは、伝えたい思いはそのままに、より第三者が読んでも、作品として共感できるように、すぐれた作品であると感じられるように、着想を練り上げ、自らを批判して、短歌を推敲していく方法を、学んで行こうかと思います。

 ですがこれもまた、
  書籍など購入して、お勉強するようなものではありません。
 先ほども述べましたように、それをするための素養は、すでに私たちには備わっているからです。あとはこの酔いどれの、くだらない話でも聞きながら、実践するのが早道です。沢山詠んで、沢山唱え、他人の作品を吟味して、楽しんでいるうちにいつの間にやら、「なんだか知らねえ」、上達しているのが遊びです。ただその前に少しだけ、言葉の定義が必要です。わたしの話も少しだけ、込み入ってくるのが残念です。

様式化

心情

 「感情」というと、分かりきった気がして、
   喜怒哀楽くらいしか考えませんが、
    たとえば[ウィキペディア]の[感情]の項目を引用すると、

崇拝、諦め、驚き、楽しみ、悲しみ、怒り、苦悶、いらだち、不安、覚醒、魅力、優しさ、慈悲、軽蔑、満足、敗北、落胆、意気消沈、欲望、希望、絶望、失望、嫌悪、恍惚状態、困惑、熱中、嫉妬(ジェラシー)、羨望、多幸感、興奮、恐怖、フラストレーション、罪悪感、幸福、憎悪、ホームシック、恐怖、敵意、恥、ヒステリー、心酔、情緒不安定、侮蔑、激昂、孤独、寂しさ、憧れ、愛、愛憎、性欲、メランコリー、パニック、情欲、プレジャー、傲慢、残念、拒絶、良心の呵責、ルサンチマン、羞恥心、人見知り、衝撃、悲痛、悪意、善意、同情(共感)、哀れみ、苦しみ、驚愕、スリル、執念、心配、熱心、熱意

 大丈夫です。
  別に心理学や言語学に踏み込むつもりではありません。
   (だから定義が違うなどと言われても困ります)
 なるほどこれだけあれば、直接感情を示したつもりにはならなくても、短歌を詠む際のなんらかの「心的指向性」は説明が付いてしまう。ただそのことを、分かりやすく「現物」を持ち出して、眺めてみたに過ぎません。本来これらは「感情」であって、言葉で表現される以前の心の状態には過ぎませんが、実際にはその「感情」が言語化されて、「うれしい」とか「たのしい」と表現されたものを、私たちは日常的に「感情」と呼んでいるようです。(というより言語化しないと、呼びようがありませんから。)

 ですが実際は、何もないところに「感情」だけは存在しません。喜びであろうと、悲しみであろうと、痛みであろうと、心配であろうと、原因が存在して、その結果として「感情」が存在します。それで、感情を起こさせた要因と感情が結びついたものを、ここで「心情(しんじょう)」と定義します。(これも私が勝手に定義しているだけのことです。念のため。)

     「夕日がきれいだ」(感動)
     「彼に逢えてうれしい」(喜び)
     「邪馬台国に行きたい」(希望)

 しかし短歌のために定義するものですから、最小限度である必要はありません。感情の原因となった直接の状況まで含めて、簡単にまとめたもの。

     「窓から見える夕日がきれいだ」
     「一週間ぶりに彼に逢えてうれしい
     「タイムスリップして邪馬台国に行きたい」

 このくらいの感慨を、
  短歌の出発点としての、
   「心情」としておきましょう。
  これが短歌の始点として、
 もっとも伝えたい思いと云うことになります。

(定義主義者ならこれにもまた、別の名称を付けるかも知れませんが、
  はっきり言って、なんの意味もありません)

着想

 心情をもとにして、ある詩形にするために、表現すべき内容をまとめ揃えたものを、「着想(ちゃくそう)」と呼びます。これも難しいことはなくて、「その一」で紹介した、

今日は夕日がきれいだったなあ

という「心情」では、短歌を作るのにみじかすぎるので、
  もう少し、その時の思いを細かくして、

夕日がさあ
  いつもより赤くてきれいだったから、
    ついずっと見てたらさあ

 というのがもうすでに、
   すぐに短歌に出来ますから「着想」です。
  さらに続けて、第三者が詠むためのものとして、
    ノートに記してみてくださいとも、
     「その一」で解説しました。

夕方ちょっと窓を開けたら、
   夕日がいつもより真っ赤でした。
  あまりきれいなものだから、
     ついじっと眺めていました。

 これで十分に「着想」です。
  また、一つのことを沢山述べるより、
   別のことを詠んだ方が効果的だと考えて、

家に戻ったら誰もいなくて、
  寂しくなって、二階に駆け上って、
 窓から眺めた夕日がきれいでした。

 とすれば、むしろ短歌には多いくらいの着想で、
  これをうまく取りまとめて、
   [着想]⇒[推敲された着想]とさらに練り上げて、
  短歌にするのが楽しみなくらいです。

 つまりは、心情の置かれた状況をさらに説明したり、主観的に感じていたことを、第三者が詠んで分かりやすいように、地名を具体的にしたり、表現を話し言葉から改めたり、その心情が起る経緯を説明したり、別の感情を加えたり、逆に情緒的な表現は排除して、和歌の外に含みとして暗示させたりと、あらゆる方針を持って、おおよそ短歌に定める内容を描き出すことを、「着想」と言います。

 ですから、初心者のうちは、第一回目に紹介した、初めの夕日の着想のような、ちょっと状況をふくらませ、客観性を加えるくらいが着想になりますが、慣れてきたら、先ほど見た、階段を駆け上る短歌のように[状況]を加えたり、あるいは[過去の回想]を加えてから夕日を眺めるなど、心情をどのように表現したら効果的であるか、自由に着想をまとめられるようになるかと思います。

 また、ここでは仮に、段階的に説明をしますが、慣れれば慣れるほど、どのような形式にするか、比喩を使用してみるか、倒置を使用するか、擬音を込めるか、わざと語りかけるように表現するか、あえて思いとは反対のことを述べて、詠み手に悟らせるか。つまりはこれまで説明してきた、あらゆるものをひっくるめて、おおよそのアウトラインを、描き出すことが出来るようになってきます。つまり、
     [心情]⇒[着想]という段階や、これから説明する、
     [着想]⇒[様式化]という段階を経ずに、
「心情を様式化しながら着想をまとめていくと短歌が完成している。それを元に推敲を重ねる」というのが、実際の制作に近いかと思われますが、ここでは私たちが離陸しやすいように、段階的に話を進めていくことにします。それに段階的に定義しておくと、完成している短歌を読み解くときにも便利なものですから、あなた方が詠むのに慣れてきてからでも、決して無駄にはならないと思います。

 さて、こんな風に説明すると、大変な事のように思われますが、実際のところは今まで通りです。あなたは心の赴くままに、どのように心情をまとめても、あるいは、これまでの修辞の、何を使用しても、三十一字にはまとまるには違いありません。その思い浮かんだアイディアの中から、もっとも心情をうまく伝えられそうなところを、描いてみせれば良いだけのことです。

 ただ皆さまは、いつも自らの短歌に対して、常に「批判の心」を持って、それが第三者から見て、ちゃんと意味が通じるものであるか、自らの主観に依存しない、効果的な表現になっているのか、もしそれが自分の作品ではなくて、誰かに手渡されたものだとしたら、どのように評価するのか。
 つまりは批評の精神だけを、
  忘れないでくださったらよいのです。

様式化

[朗読ファイル その二]

 勅撰和歌集の時代には、さかんに和歌の「心(こころ)」と「姿(すがた)」という事が論じられました。以上の「着想」までが、彼らの述べるところの「心」であるとするならば、それを実際に言葉として表現することは、「姿」と呼ぶことが出来るかもしれません。簡単な図式化をすれば、

[感情]⇒[心情]⇒[着想]⇒[表現(言葉と修辞)]
    (初めの「感情」は、定義のための定義で、かえって邪魔ですね。)

のようになるでしょうか。
 ただし短歌の場合は、表現することと、詩の形式に当てはめることが、一体になっているので、着想を詩型に表現することを、ここでは「様式化(ようしきか)」と定義します。その後、さらに推敲をしますから、

[心情]⇒[着想]⇒[様式化]⇒[推敲]⇒[完成]

くらいになるでしょうか。
[着想]のところで説明した通り、実際の創作は慣れれば慣れるほど、[着想]と[様式化]の区別が付かなくなってきますし、着想のひらめきに導かれて、[心情]を移し替えたりと、渾然一体とした考察のうちに、詩が生まれてくるようになります。

 それではこの図は、あまり役に立たないかというと、必ずしもそうではありません。完成された詩には、[心情]も[着想]も[修辞や表現]も備わっていますから、仮にこのように詩が成り立つものとして、解説を加えたり、批評を加えるのには便利です。ただこの順番が、便宜上に過ぎないという事を、分かってさえいれば十分です。

 お暇な方は、今あるノートブックに、
 [感情]⇒[心境]⇒[心情]⇔ 
       [外題]⇒[心情]⇔ 
            [解説]⇔ [着想] ⇔[修辞]⇔[推敲]⇔[完成]
                        ⇔[修辞]⇔[推敲]⇔[保留]
                        ⇔[修辞]⇔[推敲]⇒[破棄]
                        ⇔[修辞]⇒[破棄]
                        ⇒[破棄]

 などと落書きして、遊んでみるのも良いかも知れません。この[着想]や[修辞]のところを、さらに詳細に分けると、網の目の配列が生まれて、大変なことになりそうですし、[心境][着眼]などのオリジナルの項目を設けたり、[⇒丸めて飲み込む][⇒引退表明][⇒自害](逸話では存在します)なんてコマンドを付け加えてみるのも愉快です。

 なるほど、遊びと思ってやっているうちは、まことに面白い暇つぶしです。ただ時々いるのです。このようなプロセスを詳細に記して、それをもとに解き明かすことが、作品の解明だと真面目に思い込んで、懸命に書籍一冊分したためて、人生を無駄にしているような人たちが。もっとも、そんなものを、買って読んでいる輩(やから)の方が、いけてないもの金魚です。

 そうそう、大切なコマンドを忘れていました、
     [⇒妥協]
というものです。
 冗談めいていますが、時には必要なものとして、
  覚えて置くと便利です。いやむしろ、
   絶対に覚えておくべきです。
    覚えておかなければなりません。

 どうしても、この表現が気になるのだけれど、どれほど考えても、その表現しか浮かばないような場合、短歌ではしばしば、すぐれた詠み手であっても、実行されるコマンドです。また内容次第では、そこまで突き詰めなくてもよい場合なども、あっさりとこのコマンドに、終止符を打つこともあります。わたしなどは、お気に入りに登録しているくらいですが、以前に解説した、「眼のなき魚」の短歌なども、あるいはその代表例なのかも知れませんね。

内容による構造化

 とはいえ、実際は、心情を着想に膨らませるくらいでも、あまりにも漠然としていて、方針が立たなくて、あれかな、これかな、と悩みに悩んで、時間ばかりが無駄に過ぎてゆく。ましてそれを様式化するなど思いもよらない。という人もあるかも知れません。

 悠遠(ゆうえん)の昔、私が短歌を読み始めた頃は、こんな手引きすらなく、誰の短歌を手本にするでもなく、勝手に作り始めたようなものでしたから、最初のうちは、あるいはかなり長い期間、内容はまとまらない、表現はいつまでも定まらない、ようやく出来たと思って、素敵な詩だと感心して、翌日読んだらあまりのお粗末に、あきれかえっては振り出しに戻り……とまあ、思い詰めるほどの事もありませんでしたが、言葉の浮かべ方すら、よく分からないくらいでした。

 ですから皆さまが、
  同じように悩んでいても、
   ちっとも気にすることはありません。
    思い詰めないで落書きをしているうちに、
     少しずつ変わっているくらいの、
    カタツムリしたテンポです。
   とはいえ何か、道しるべは欲しいもの。
  それではどうすれば良いか。

 そんなあなたに、
  お奨めの方法があります。

(なんだか、この項目を記していたら、怪しいトレード教材でも売りつける、ビジネスマンの気持ちがしてきました。だますつもりなどありませんが、話の持って行き方が似ています。なんだかちょっと笑えます。)

 しかもこの方法は、どれほどベテランになっても利用できますし、手っ取り早くそれらしい短歌を作るのにも最適です。それはつまり、漠然と考えるのを止めにして、考える方向を定めてしまってから、考えるという……
 説明だけ聞いていると、
  なんの事やらさっぱり分からない、
   そんな方法なのですが……

 つまり短歌を作るときに、全体をいくつかの内容に分けて捉えます。それをどのように配して、全体を築くか、そのアウトラインを定めます。それを元に、着想をまとめて行くと、効率的に凝った内容を、表現することが出来るという仕組みです。説明を聞いているとややこしいですが、実際はきわめて簡単です。
 先ほどの「夕日がきれい」の例を取り上げてみましょう。

今日は夕日がきれいだったなあ

この、もっとも単純な心情をふくらませて、
  漠然とノートに改めながら、

夕焼けが 窓を開けたら 真っ赤です
 あまりきれいで 眺めていました

と短歌を作りましたが、
  ただ漠然と全体をふくらませる代わりに、あらかじめ、
     [その時の状況]⇒[心情]
     [昨日の雨]⇒[今日の夕日]
などと、表現のアウトラインを定め、図式化します。
 それを元にして、

洗濯を 取り込みかけの ベランダに
 なんてきれいな 今日の夕焼け

昨日まで 憂うつな雨の 雲も去り
 なんてきれいな 今日の夕焼け

と描くと、着想もずっと定めやすいですし、構図や意図がはっきりしますから、少ない労力ですぐれた短歌を詠むことが可能になります。このアウトラインは、それこそ、どのようなものでも構いません。

[過去]⇒[未来]
[あいつ]⇒[わたし]
[抽象的]⇒[具体的]
[沖のこと]⇒[浜のこと]

 思いつく限り、いくらでも存在しますし、そのいくつかを掛け合わせて、漠然と考えていたのではたどり着けないような、凝った表現にたどり着くこともおそらく可能かと思われます。やり方のコツとしては、たとえば夢を見ていて、目が覚めたとします。そこで、とりとめもなくそのことを記す代わりに、先に、

[夢の出来事]⇒[起きてから]

などまとめます。
 そしてこの、きわめて大まかな図式を足がかりにすると、
  夢の内容や起きた後の状況、心境などから、
 より具体的な着想が浮かびやすいですから、

[夢の中の幸福]⇒[起きた後のむなしさ]
[空を飛ぶ夢]⇒[ベットから落ちていた]
[夢から覚めたら]⇒[また夢だった]

など自分にあったものが、漠然と考えているときよりは明確に、たやすく浮かんで来ると思います。ある程度内容が定まったら、この図式化をもとに、まず着想を記して、そこから改めて倒置してみるかなど、様式化をはかればよいのです。

 ただ慣れてきたら、すでに内容はブロックに図式化されているものですから、これをどのような様式にするかを考えながら、つまりは着想と様式化を一緒に行いながら、短歌を仕上げるのが効率的です。例えば上の「夢」の図式ならば、「目覚めたらひとりぼっちで」と開始して、夢を後ろに倒置させるのか。「空飛ぶ夢」と「ベットから落ちた」ことを類似の表現で対比させながら、結句にまとめるのか。あるいは四句分を使用して、普通の叙し方でまとめて、どこかに局所的な比喩を枕詞のように折り込んでみようか。あるいはまた、

[夢の中の幸福]⇒[起きた後のむなしさ]⇒[それが定めか]

など、さらに構成を複雑にしてみるか。
 つまりは内容のブロックを組み立てるような感覚で、着想を描き出すうちに、同時に様式化も行ってしまい、最後に言葉を整え、推敲をすればよいというやり方です。

 このやり方のすぐれた所は、
  「夕日がきれい」くらいの心情しかなくても、
  一度抽象的な内容を挟んでから、記憶を元に具体化すれば
      [対比を利用] ⇒[昨日の雨][今日の夕日がきれい]
      [状況を利用] ⇒[ベランダで]あるいは[手すりから]など
と、言葉全体を漠然と考えるより、はるかに構成が見渡せて、着想も浮かびやすいという点にあります。あるいはまた、[あえて相応しくない状況を対比]といったコマンドを先に入力してしまえば、それがきっかけになって、たとえば別の日に見た猫の死骸を、夕ぐれの情景のなかに取り込んでみせるような、そのままでは思いもよらないような発想が、たやすく手に入れられるという利点もあります。

 この内容のコマンドは、初めは[状況][回想]など大枠を定め、そこから次第に詳細にしていけば良いですし、[回想・併置]などと、アイディアが浮かんだ時点で、コマンドを増やしてまとめていけば良いのです。次第に具体化していけば、もうそれは、最終的な表現そのものに、近づいてしまうのも便利です。

 そのような訳で、内容のブロック化と、その配備を利用する方法は、初心者にも構成のしっかりした、短歌らしい作品を作りやすくするために、お奨めのやり方ですので、さっそく忘れる前に、いくつか図式化を利用しながら、短歌を詠んでみるのが素敵です。

 ところで、このような図式化による構造の定め方は、より長い詩、例えば歌詞を作る時や、さらには小説などを作るときに、おおざっぱなアウトラインくらいではなく、かなり突き詰めた、図式を作ってしまってから、内容を描き出すのにも便利です。短歌や俳句くらいでしたら、見取り図が無くても、慣れれば詠めますが、長篇の詩や散文になると、どうしても内容が散漫になりがちですから。

 とはいえ、私自身、こんなやり方は、
  紹介するためにはじめて思いついたようなもので、
   実践したことがないのが……
  つかの間振りしたいかさまです。

つかの間コラム 文字遊び

 ちょっと息抜きでもしましょうか。
  和歌の時代から、言葉遊びの短歌というものも存在します。当時の和歌はひらがな書きで、濁音(だくおん)の表記は記入しませんでしたから、掛詞や言葉遊びが、簡単に出来たのが理由です。ですから、今日にやる場合も、発声の清濁(せいだく)は、区別しないのが便利です。

折句(おりく)

 そのうち、「折句(おりく)」というものは、例えば、

折からも
  さゝら春雨 けぶり島
    西へきざした はるか夕映え

という、なんだか分からない、謎の短歌が送られて来たので、しばらく悩んでいましたが、試しに各句の冒頭の文字を拾い集めると、「おさけには」(お酒には)と文字が詠み込まれていた。このような技法を「折句」と言います。けれども、なんだか文章が途中のようで気になります。それで、和歌を平仮名にして、

りから
さらはるさ
ぶりじ
しへきざし
るかゆうば

 試しに句の終わりの言葉も集めてみましたら、「もめまたえ」なんだかよく分かりません。しばらく悩んでいたら、逆から読めば「えだまめも」と読めることが分かりました。それで、それぞれの句頭と句尾を取って、ぐるりと巡るように読めば、
     「お酒には枝豆も」
と書かれていることが分かりました。

 それで、このように句頭だけでなく、
  句尾も利用した折句のことを、
   特に「沓冠(くつかぶり)折句」と呼びます。
  もっとも有名で、しかも優れたものは、

夜もすずし 寝ざめのかりほ たまくらも
  まそでも秋に へだてなきかぜ
          吉田兼好

の沓冠折句で、先ほどのように言葉を取り出すと、
   「よねたまへ、ぜにもほし」(米をくれ、銭も欲しい)
となっている、世界一繊細な?「物乞いの歌」ではないでしょうか。

物名(もののな)

 他にも、「物名(もののな)」という言葉遊びもあります。読まれた短歌のなかに、普通の文脈とはわざと異なるようにして、別の言葉を折り込みます。読まれる言葉は、まったく関係がなくても、和歌の思いに寄り添うものでも構いません。これも清音濁音、また大文字小文字などは、考慮に入れなくて構いません。例えば、「万葉集」という言葉を折り込むならば、

ビジネスマン
  容姿優
良 騙されて
 三十万の 壺を買わされ

 のように、安っぽい内容なのがお気楽です。
  もちろん、もっと芸術性を持たせてもよいのです。
   けれどあまり詰めると、無駄に疲れます。
    時には手抜きが息抜きです。
   芸術的なものとしては、
  『古今和歌集』の次の例などは、
 「きちかうのはな」つまり「桔梗(ききょう)」を折り込んで、

秋近(あきちこ)う 野はなりにけり
  しら露の おける草葉も
    色かはりゆく
        紀友則 古今集440

 秋の花を折り込んで、
  詩の内容に寄り添いながら、
 相互に高めあっているのが魅力です。

尻取り

 もちろん「尻取り」も言葉遊びです。
  句尾から句頭へおなじ言葉を続けて、
   最後の句尾から初句の句頭へと返します。

君が来て
  手紙をくれた たのしさに
    似顔絵かえす
  素敵な息抜き

 皆さまも、アイディアに煮詰まったり、
  友だちに冗談で送るときには、
   大いに利用してください。
  それだけのコラムでした。

推敲について

[朗読ファイル その三]

 「推敲(すいこう)」とは、皆さま自身の言語感覚に基づいて、自らの短歌に「自己批判」を加え、不十分であるところ、物足りないところを改め、さらには、より良い表現をもとめて、着想から練り直し、時には心情にまでさかのぼり、さらなる詩文にすることを言います。

「推敲」という言葉は、もともとは中国の逸話で、詩人が他人に尋ねて、詩文を改めた故事にもとずいています。ですからあなた方も、自己批判ばかりでなく、第三者に見てもらって、その人の意見を参照に、自らの表現に生かすことは、非常に有意義かと思います。なにしろ第三者というものは、自分と主観を共有していない、もっとも批評するに相応しい立場に、置かれた人たちのことですから。

 ただし、良からぬ添削先生がたの、本質とはなにも関わりのない、お言葉の読み替えなどをなさっては「ほほ」と頬笑みかけるような、いかがわしい扉に足を踏み入れ、あなたの作品を捧げものにすることは、チャックモール、人生を台無しにするようなものですから、お止めなさった方が良いでしょう。それより普通の言語感覚を持った、あなたの知人やら、家族に尋ねたらよいかと思います。彼ら、彼女らがおかしいと思ったら、それは当たり前の言語感覚にもとずく、第三者の意見として、大いに聞くべきところがあると思いますから。
 ただしもちろん、最終的に判断するのは自分です。

動く言葉、動く表現

 これから、第三回の最後に示した、「初学の手本」を利用しながら、より良い表現のために「推敲」をするには、どうしたらよいのか、具体的に見ていこうと思います。その際、推敲の手がかりとして、「表現が動く」ということを、一つの指針にすると好いでしょう。

  「表現が動く」
というのは、自らの主観を(なるべく)離れて、批判精神を持って短歌を眺めた時、あるいはこのヶ所は、必要ないのかも知れない。他の言葉に置き換えられるかも知れない。他の表現の方がうまくいくかも知れない。別の場所に移し替えられるかも知れない。そのように感じる部分のことです。

 やり方はきわめて簡単です。
  あなたの感覚がすべてです。
 まず口に出して唱えます。何度か唱えるのが良いでしょう。すると、明確な理由は分からなくても、ちょっと語りかけに、不自然なところがある場合があります。あるいはちょっと、拙く感じるところがあります。そうしたらあなたは、どうせ取り返しがつくものには過ぎませんから、自分の感覚を信じて、その部分を訂正箇所と定めて、言葉を練り直して見たら良いのです。これを繰り返して、不自然な言葉が見られないようにしていきます。これが第一段階です。

  唱えても不自然はありませんが、
 何となく物足りなく感じたら、それぞれの句で立ち止まって、その表現が本当に必要なのか、外せないものか考えます。外せるように思えたら、それを外して残りの着想をもとに、短歌を再構成することが可能です。また外せないにしても、類似の違った表現が、浮かんで来るような場合があります。そのような場合には、表現を置き換えてみます。これが、第二段階です。

 そのようにして、必要のない言葉を捨て去り、より良い表現に移し替えて、語られているすべての言葉に、必然性が感じられたら、今はもう、それ以上の推敲は適いませんから、短歌は完成したということになります。あるいは、違和感がぬぐい去れなくて、けれども、どう直しようもない袋小路に迷い込んだら、今は保留としておくのが良いでしょう。

実践

  お待たせしました。
 説明が長引いて大変辛かった。こんなことなら、添削先生の方がマシだった。そんな方もあるかも知れませんが……執筆していた私は、もっと辛かった。こんな面倒な落書きをするほど、生活にゆとりはないのです。春の日暮(ひぐ)れてがっかりです。いや違った、早くも初夏の気配です。けれどもようやく解放です。実践ならまだしも、悩みもなくてサクサクです。キーのテンポにまさります。酒を得たような魚です。

初学の手本より その一

春の野に 心のべむと
  思ふどち 来(こ)し今日の日は
    暮れずもあらぬか
          よみ人しらず 万葉集10巻1882

[春の原で 心をのびのびさせようと
   気のあった仲間同士 来た今日の日が
  ずっと暮れなければいいのに]

 心情は「仲間同士の今日が暮れなければいいのに」くらいでしょうか。状況を加えながら、実際に仲間に語りかけるとしたら、「せっかく春野でのびのびしようと、集まった今日の日が、暮れるのは嫌ですね」くらいになりますが、その思い出を留めたくて、寝る前に日記でも取り出して、
     「春の野でのびのびしようと思って、
        気の合う仲間たちと、訪れた今日の日が、
          暮れなければいいと思った」
と、その時の情景を、回想したくらいの着想です。

 つまりは私たちの、初めの目標としては、理想の表現になっている。もちろんだからこそ選んだのですが、「暮れたくない」という結句の心情が、「思ふどち」(仲間同士)を気の合うものに感じさせ、二句目の「心のべむと」という表現は、ただのびのびするばかりでなく、春の穏やかさや、日の延びたイメージも感じさせ、ありきたりの記し方ではありますが、心情に深みを感じさせてくれます。それがひるがえって、結句の思いを誠(まこと)にも感じさせている。

  「動く表現、動く言葉」
ということで見たらどうでしょうか。
 先ほど眺めたように、「心のべむと」「思ふどち」などの表現と、結句の「暮れずもあらぬか」は、それぞれが結びつきあって、全体の詩情を豊かにしていますから、そのままがふさわしいように思われます。また、意味だけを残して、ちょっとした言い換えをしても、本質的には変わらなそうです。

 冒頭の「春の野に」は、確かに言い換えは可能ですが、せっかく二句目が、春のイメージを込めているのですから、あまり曖昧に悟らせるより、明快に「春の野に」と提示してしまった方が、情景も定まって良いようです。

  では「来し今日の日は」はどうでしょう。
 これは事実を述べたものではありますが、そこで詠んでいる以上、「来た」ことは明らかですから、「来し」という表現は余分です。また「今日」と言って「日は」と重ねるのは、もちろん強調した意味はありますが、少しくどくどしい気配もします。もう少し言い換えると、字数のすき間を埋めたような気配が、わずかにこもります。

 なぜなら、四句目がたとえば「語り合った今日は」でも「笑い合った今日は」でも、次々に代替案が浮かんで来ますから、なぜもっともさえない、ようやく事実を言いなしたような表現をあえて選んだのか……それはもちろん、その場の語りかけらしく表現したには違いありませんが、短歌として眺めざるを得ない、第三者の視点から読んでみると、そこがマイナスの印象となって、短歌の評価を少し落としている。

 それで結論を述べれば、
  この短歌は「四句目がまだ動く」ように思われます。
   ありきたりの感慨ではなく、
  もう少しユニークな表現をすれば、
 短歌の価値をあげられたような無念が残る。
  そこが傷になっているかと思われます。

 さらにもう少し、着想を引き戻して、同じくらいの語り口調で再現するにしても、「日は暮れずもあらぬか」ではなく「春は暮れずもあらぬか」のようなまとめ方もありますから、なおさら「来し今日の日は」という表現は、消し去っても構わないような、作りかえの余地がありそうな気にさせられます。

 それではさっそく、
   私たちもこの作品をどう推敲できるか、
     実際に試して見ることにしましょう。
   もちろん万葉語では(私が)不可能ですから、
 現代語の短歌に直します。

春の野に 心伸ばそうと
  仲間して 来た今日の日が
    暮れませんように

 今回は「推敲」ですから、もとの言葉や、もとの意味に、囚われる必要はありません。もとの短歌の、たとえば四句目だけを手直しするのも推敲ですし、上の句と下の句を入れ替えても良いのです。また思いだけを取って、大きく作り替えても構いません。ただ慣れないうちですから、ある程度元の表現を残して、推敲してみるのがお勧めです。


のびやかな あそびの原に
   友だちと 語らう春が
  暮れませんように

 そうですね、
   はじめはそのくらいが推敲です。
  少しずつ直していきましょう。

その二

わが背子(せこ)が
   使ひを待つと 笠も着ず
 出(い)でつゝそ/ぞ見し 雨の降らくに
          よみ人しらず 万葉集11巻2681

[あなたからの
   使いが来るの待って 笠もつけないで
     外に出たまま待っていました
   雨が降っているのに]

  「雨の中、あなたの使いを待っていた」
 それをもとに、
  「雨が降っているのに、
    あなたの使いを待って、
     外に出て眺めていました」
くらいが着想です。「あなたの使いを待って、雨に濡れてたんだから」くらいなら話し言葉ですが、改めて日記にでも、思いを認めたような印象です。これを元に、様式化をはかりますが、先ほどの短歌のようには、着想をそのまま記さず、まず相手への呼びかけにもなる「わが背子が」を冒頭に移して、「雨が降っていたのに……」と結句の先に余韻を残すように「雨の降らくに」を結句に移し、
     「あなたの使いを待って、
        外に出て眺めていた。
          雨が降っているのに……」
とアウトラインを定めました。
 これにより文脈に「強い切れ」が生じますから、
  結句の雨の印象が、深く焼き付けられる仕組みです。

 これだけなら「四句切れ」になりそうですが、しばしば短歌の胆ともなる三句目に、状況を説明する「笠も着ず」を加えましたから、情景描写が鮮明になると同時に、加えられた「笠も着ず」への逸脱により、二句目か三句目に「中程の切れ」が発生するような効果が生まれます。

君からの
   使いを待って 笠も着ずに
 外で眺めてた 雨が降るのに

 これによって、文章構成が複雑になり、ちょっと凝った表現のように感じられますが、同時に「使いを待って眺めた」「笠も着ないで眺めた」「外に出て眺めた」と三回状況を確認しながら、眺めていましたを表現することになり、とりとめもなく思いを巡らすような、待ち尽くす印象を込めることにも、成功しているようです。実は「雨が降っているのに眺めた」も、その状況確認の一つなのですが、同時に全体を包括して、思いを巡らしながら待ち尽くす女性の、雨に濡れながらという、小さな悲劇性を確定させる、キーワードにもなっている。

 つまり、今も待ち続けているような余韻が残されるのは、もちろん倒置法を使用したこともありますが、このように状況をひとつひとつ、全部で四回も確認しながら、思いを巡らせているように、着想を様式化した手際によって、聞き手の印象が、操作されていることもあるのです。

 なんだか、「よみ人しらず」の和歌ですし、さも主情に溺れて、雨に打たれているだけのように思われましたが、その実このような、深い心理戦が展開されている。これが「初心者の手引き」に過ぎないとすると、これより優れた短歌とは、いったいどのような表現を極める物だろうか。なんだか末恐ろしい気持ちもしてきますが……

 では、はたして、
  この短歌は、もはや推敲の余地はないものでしょうか。
 確かに、それぞれの言葉がこれほど効率的に、有用なパーツとして機能していて、それがきれいに揃ってはじめて、女性の心情が描き出されているのであれば、安易に四句目を動かして、「出でつつそ見し」は安っぽい表現だとして改めると、全体が壊れてしまうことにもなりかねません。むしろ局所的な弱みなどは、全体構成の強みによって、正当化されてしまいそうです。けれども……

   全体構成を捉えたからこそ、
  それを踏まえながら、推敲を加えることは可能です。
 たとえば挿入句のように、半ば文脈から独立している「笠も着ず」を、それと同種の別の表現に改めたとしても、文脈は揺るぎません。また、やはりちょっと、説明的傾向が感じられる「出でつつそ見し」も、「見し」が全体を集約していることが分かったからには、「外に出ながら」の代わりに「濡れながら」くらいに変更しても、やはり文脈は揺るがないということになります。そしてもし、「濡れながら見ています」の方が、「笠もささず」「濡れながら」「雨が降るのに」と縁のある表現を、連続的に使用するときの、効果においてまさり、より良い表現に思えたならば、あらためる余地は、大いにあるのではないでしょうか。

わが背子(せこ)が
   使ひを待つと 笠もせず
 濡れつゝそ見し 雨の降らくに

その三

我(あ/わ)が恋ひし/恋ふる
   ことも語らひ なぐさめむ
 君が使ひを 待ちやかねてむ
          よみ人しらず 万葉集11巻2543

[わたしが恋しがっている
   そんなことを話しては せめて気を紛らわせるような
  あなたの使いの人を 待ちかねているのですが]

  「あなたの話をしたくて、使いを待ってます」
くらいの心情でしょうか。使いが来ても、あなたに逢えないことは分かっていますが、その上で待ちわびる思いですから、「あなたの話をしたくて」も、心情に含めてしまって構いません。それをきわめて素直に、

「わたしが恋しがっていることだけでも語らって、
   心のなぐさめにしようと思って、
      あなたの使いを待ちかねていました。」

と日記にでも記したような着想です。
 一つ前の、こだわり抜いた表現と違って、私たちの日常語と変わらない、思いを平坦に記したものに過ぎません。それはつまり、私たちがはじめに理想とした表現ではありますが、ありきたりであるという事は、言葉の持つ必然性は薄いものですから、もし動くということを考えれば、それこそ全体が、どうにでも動かせるくらいには過ぎません。たとえば、「なぐさめ」からでも「待ちかねて」からでも、ちょっと倒置でも加えて、表現にこだわりを見せれば、もっと良くなるような疑惑が湧いてくる。

 素直で、ストレートに心情が伝わってきますが、これまで私たちが見てきたこと、あまりにも日常的な表現では、短歌としてのアイデンティティに乏しくなる。という弊害を、この短歌は持っているようです。その上で、あえて散漫なところをあげれば、冒頭の「我が」は本当に必要なのか、さらには二句めの「ことも語らひ」における「ことも」という表現は、無駄ではないのか。などをあげることが出来るかも知れません。その辺りを軽く手直しするだけでも、印象はずっと良くなるかと思われます。

 ただし同時に、作品としての価値を高め、日常的な直情から離れるということは、直接相手に伝えたい思いの真実性を、薄めることにもなりますから、自分だけに語られたような詩の魅力を、損なうことにもなる訳で、そのあたりのバランスは、中々に難しいものではあります。

 それでは「ことも」の部分だけは残したまま、
  現代語の短歌にしてみますから、
   みなさまはもしよろしかったら、
  そこを中心に、推敲をしてみるのはいかがでしょう。
 もちろん、大きく替えたって構いません。

恋慕う
  ことも語って 慰めたくて
    君の使いを 待ちわびています


恋しさを
   発散するため ぼこぼこに
 君の使いを うちのめしてやるぜ
          帰ってきた彼方

 あう。
  そんなのは、
   短歌じゃないっす。

その四

[朗読ファイル その四]

     「花を詠む」
島廻(み)すと 磯(いそ)に見し花
  風吹きて 波は寄すとも
    採らずはやまじ
          よみ人しらず 万葉集7巻1117

[島を舟で巡るうちに 磯に見たあの花を
   たとえ風が吹いて 波が荒れたとしても
  採らないではいられるものか]

  「船から磯に見かけた花を取りたいなあ」
くらいな心情です。もっとも万葉集のものは、あるいは磯にある藻の喩えである可能性がありますが、ここでは荒磯で近づけないところに、素敵な花が咲いているように解釈しておきます。この短歌は、心情は簡単ですが、それを着想にするに際して、ちゃんと構成が練られています。すなわち、
     [事実の描写]⇒[仮定の描写]⇒[決意]
という、簡単なアウトラインを描いて、[決意]を[仮定]によって強調するという、効果を踏まえた構想が練られていますから、なるほど初心者の理想にはなっています。

 ただ、このくらいの感慨なら、現代の私たちでも、それほど熟練しなくても、表現できるのではないか。くらいにも感じられるのは、「島を巡ると磯に見えた花」「風が吹いて波が寄せても」と、言葉さえ満足に使えれば、詩人でなくても簡単に記せるような、ありきたりの表現に過ぎなくて、しかも心情をちょっと飾るくらいの、気の利いた台詞もありませんから、要するに表明された決意だけで、心情をまとめているに過ぎない。つまりは、日常的な散文を記しているのと、あまり変わらないからかも知れません。

 それでも詩情を感じるのは、「島を廻って磯で見つけた花」という着眼点が、わたしたちの心に浮かぶと、感興を催すものであることも、大きな原因になっています。おおよそ、表現が同じであっても、聞き手の感興の差によって、短歌自体の評価に、差が出てしまうのは避けられません。

 それは、雪や桜を詠われれば、それだけで心地よく感じてしまい、雹(ひょう)やドクダミを詠われれば、ちょっと変わったことのように感じてしまい、隕石や珪藻(けいそう)を詠われれば、何かあるなと身構えてしまう。そんな私たちの、日常感覚に基づくものには違いないのです。ですから、興を催すような着想を撰ぶということも、特に訴えたいことがあるわけでもない、自由な短歌作りの際には、有効な戦略だと言えるでしょう。

 ところでこの短歌で、
  もっとも動きやすいのはどこでしょう。
 実はせっかく決意表明をしている結句が、もっともこの短歌の弱いところで、「取らないでは止めない」という説明ではなく、「取らないでいられようか」「取ってみせるぞ」のような、心情を強く表わした言葉で締めくくれば、情景を心情に移した、良い短歌になったのではないかと思われます。(あくまでも、今日的な解釈に過ぎません。念のため。)

 他にも、一二句と三四句を入れ替えて、(現代語で失礼しますが、)
      「風が吹いて 波は寄せても
         島を巡り 磯に見た花を
           取らないでいられようか」
の構造と、どちらの方が良かったのかなど、
 まだまだ、改めて考えるべき、
  推敲の余地はありそうです。

 では、せっかくですから、
  ここでまた、ノートでも取り出してみましょうか。
   もちろん現代語でよいので、
     「島をめぐり磯に見た花を、
        風が吹いて波が寄せても、
          取らずにはいられない」
をもとに、短歌を詠んでみましょう。別に「島をめぐる」のかわりに「船で見て」でも構いません。言葉は自由に捉え直して良いので、自分ならどう描き出すか、試して見ることにしましょうか。もちろんわたしも参加です。


島めぐり 磯見の花は
  吹き荒れる 高波岩を
    登りつくして
          即興歌 時乃旅人

     「かた過ぎでは?」
船を降りて
  あの花欲しくて 風の打つ
    しぶく岩場を のぼりゆく人
          即興歌 時乃遥

  むむ。
   どうやらわたしの出る幕では、
  なかったようですね。
 ちょっと修行してきます。

その五

海人娘女(あまをとめ)
   棚なし小舟(をぶね) 漕ぎ出(づ)らし
 旅の宿りに 楫(かぢ)の音(おと)聞こゆ
          笠金村(かさのかなむら) 万葉集6巻930

[漁師の娘らが
   棚無しの小舟を 漕ぎ出しているようだ
  旅の宿まで 楫の音が聞こえてくる]

  「旅の宿りに楫の音が聞こえてきます」
くらいでしょうか。「海人娘女の棚なし小舟」が漕いでゆくのだろうか、と空想することにより、[想像][現実]の対比が生まれます。それを[現実]⇒[想像]ではなく、倒置して[想像]⇒[現実]に定めることにより、一人闇の中で音だけを聞いている、詠み手に焦点を定めながら短歌を終える。というのが着想のアウトラインになっています。

 様式化においては、それがただの船ではなく、海人娘女(あまおとめ)の船であることを、冒頭に提示することによって、女性を恋しがるひとり旅が推察され、楫の音だけが聞こえるという結句の寂しさと呼応する。さらに「海人」「小舟」「漕ぎ」「楫の音」と縁語によって、(この短歌を単独で見た場合は、)海旅であるように感じさせますから、四句目の「宿り」という表現も「船宿り」でもあるかのように捉えられます。

 それで心情もこもり、構成もしっかりしていて、なにより浮かび来る情景が、感興を催しますが、問題点も残ります。それは口に唱えて見ると分かると思いますが、あまりにも説明が過剰であるために、意味としては「情景」も「心情」も伝わって来るのですが、肝心な語りかけ自体から、その気持ちがちっとも伝わってこない。何しろ、
     「海女の、娘子の、棚のない、小舟が、漕いで、出るようだ」
     「旅の、宿に、楫の、音が、聞こえる」
くらいの説明文ですから、いくら当時は「海人娘女」で一つの言葉、「棚なし小舟」で一つの言葉と言い訳しても、納得させられるものではありません。

 つまりは、たとえば初めの二句を「海人娘女、楫の音聞こゆ」とでもして、三句四句のことまで、全部まとめてしまって、残りで宿りの心情を表明すれば、音だけしか聞こえないのですから、冒頭の「海人娘女」が推量に過ぎないことも、明らかに悟れるくらいのもので、いずれにしても、必要のないことを詳細に語りすぎている印象は残ります。近代の作品で述べるなら、

木に花咲き
   君わが妻と ならむ日の
 四月なかなか 遠くもあるかな
          前田夕暮(ゆうぐれ) 『収穫』

木に花が咲いて
  あなたがわたしの妻と なるであろう日の
 四月はなかなかに 遠く感じられてなりません

 この和歌が、黙読しているとすばらしく思われるのですが、実際に口に出して唱えると、余計な説明を加えすぎているような興ざめが、わずかに込められるのと同じような失態で、それほど大きなものでもありませんが、作り込んだ割には、心に響かない嫌いがあります。

 推敲については、むしろ先ほど述べたように、大きく練り直して、「海人娘女、楫の音聞こゆ」とまとめて、残りで宿りの心情を描くなど、着想から改めるのが、回り道のようでいて、一番の近道のように思われます。

その六

住吉(すみのえ)の 岸に家もが
   沖に辺(へ)に 寄する白波(しらなみ)
  見つゝ偲(しの)はむ
          よみ人しらず 万葉集7巻1150

[住吉(すみよし)の海岸に 家があればなあ
   沖に岸辺に 寄せる白波を
     眺めながら しみじみと出来るのに]

 「ここ(住吉の岸)に家があれば、
    ずっと波を見ていられるのに」
ほとんど思いついた心情を、すらすらまとめようなものですが、はじめの二句で[願望]を、残りの三句でその[理由]付けをしています。三句目では「沖に辺に」と一句内での[対句(ついく)]を使用。大したものではありませんが、このくらいの表現でも、ちょっと詩的に聞こえます。

 ここでは、今日で言うところの住吉大社[住吉神社の総本社。下関の住吉神社、博多の住吉神社とともに「日本三大住吉」の一社(ウィキペディア)]のある、住吉(すみのえ)の岸であることが、ただ白波の寄せるだけではない、神を崇めるような印象を持ち込ませますから、日常語から離れた表現もあまりありませんが、心地よく感じることが出来るのです。これもまた、シチュエーションの勝利と言えるでしょうか。

 次にこの作品に、動かせるところはあるか、
  推敲すべきところはあるかを眺めてみます。
 まず冒頭の二句は、地名も岸も家も、それから願望を表わす「もが」という表現も、この心情を表現するためには、詠み変える余地はなさそうです。四句目は神聖なイメージの籠もる「白波」であることが、冒頭の「住吉」と調和しているくらいですし、こだわりの表現が置かれることも多い三句目は、先ほど見たように、この短歌のなかで、もっとも凝った表現をしていて、沖と浜辺に寄せるということが、情景全体を定める、キーポイントになっているくらいです。

 あとは既存の表現を廃止して、たとえば「白木綿の花(しらゆうのはな)」などを持ち出して、白波を喩えた方が効果的かという問題になりますが、かえって「沖に辺に」という写実の方が、何気ない風景を見ていたいような心情が押し出され、淡々とした記述をしている、この短歌には調和します。「住吉」と「白波」にしたところで、結びつきがあるともないとも、分からないくらいのところに、ただ海を眺めている、詠み手の心情が伝わって来るようなものですから、三句目に余計な虚飾を加えると、ちょっと嘘っぽい方向へ、短歌を悪くする恐れがあります。

 それは結句も同様で、全体の調子から、強い感情表明は浮き足立ってしまい、平坦な心のままで「見ながら偲ぼう」と語るくらいが、もっとも相応しいように思われるのならば……つまりこの場合は、どこかを動かして、推敲を重ねても、「ここに家があればずっと波が見られるのに」くらいの、淡々とした感興を、大げさなものに貶(おとし)めてしまう可能性が高いようです。

 つまりこの作品は、この表現で完結している。確かに、凝った文章ではありませんし、ありきたりの語りしかしていませんが、物足りないところはどこにもなく、この状態で、良い作品になっているのではないでしょうか。

その七

我が宿の
  萩花(はぎはな)咲けり 見に来ませ
    いま二日(ふつか)だみ
  あらば散りなむ
          巫部麻蘇娘子(かむなぎべのまそおとめ) 万葉集8巻1621

[わたしの家の 萩の花が咲いていますよ
     見にいらっしゃい
   あと二日もしたら 散ってしまうでしょうから]

 この短歌は、「その三」の「初学の手本」のところで紹介しましたように、下の句に明確な意図を含んで詠まれたものです。しかもこの表現から、疎遠の社交辞令ではなく、親しい間柄が推察されるばかりで、ある特定の状況下で詠まれたものですから、それをたとえば、「社交辞令であるならば、かようにすべきである」などと、大御所の添削を加えても、実際のシチュエーションに対しては、なんの意味も無いことになります。

 それなら作品としての価値には乏しいかというと、
  必ずしもそうではなく、第一、
   第三者である私たちが詠んでも、
    いろいろ推し量れて面白いでしょう?
   それは一つの立派な短歌の価値だと言えるでしょう。
  推敲という点で述べれば、四句を変更したら、
 台無しになるというくらいのもので、
  あらためるほどのものはありません。
   はなから作品の価値が軽いものは、
    軽い表現が相応しいのですから。

その八 宿題

 宿題なんて言葉は、学生時代は大嫌いでしたが、千歳(ちとせ)の松も生い変わるほどの歳月が流れれば、懐かしくも響くものです。そんな時はあえて、宿題を出してみるのも悪くはありません。(懐かしくない人には悪いですが……)

 さて、最後に二首、「織り姫」と「彦星」の短歌が残りました。
「七夕(たなばた)」は、巻第十の夏の部は、「七夕」のためにあるのかと思われるくらい、『万葉集』でもっとも好まれた歳事(さいじ)の一つです。その際ちょっとユニークなのは、必ずしも船で渡らずに、彦星が浅瀬を踏み渡るような和歌も多いことで、当時の天の川に対する、人々の意識を知ることが出来ます。

 そこでこの二首を、わたしがなるべく原意を損なわないように、現代語の短歌にしておきます。皆さまはこの、現代語の短歌に基づいて、まずは[心情]を書き出してみましょう。それから、おおざっぱでよいのですので、わたしがこれまでしてきたように、それがどのように[着想]となり[様式化]されたかを、
     [A]⇒[B]
     [B]⇒[C]
くらいの図式化でもよいので、
 ノートに落書きしてみましょう。
  そうして今回の総仕上げに、
   それを添削してみましょう。
  ではどうぞ。

いまあなたが
  振り仰いでは 嘆くでしょう
 清い月夜に 雲よなびくな
          by織り姫

天の川
  波は立っても この船で
    さあ漕ぎ出そう 夜の更ける前
          by彦星

終了証書

  基礎的な「短歌の作り方」の講座は、これで終了です。
 後は皆さまが、なるべく沢山の短歌を詠み、唱え、優れた作品を読み、批評して、少しずつ表現のコツを、つかみ取っていくしかありません。同時に自分のお気に入りのスタイルを、身につけていくのが素敵です。

「修辞」の方法などを、詳細に学んでも、そのような本質的な学習に比べたら、腹の足しにもならないくらいですが、一応「修辞技法」のあらましは、巻末に「付録」として掲載しておきますので、暇つぶしに参照にしてみるのも良いでしょう。

 次回からは、短歌の日常的な使用方法から、短歌以外の詩型へと足を伸ばして、歌人ではなく詩人になるための、お話しをしていこうかと思います。「短歌の作り方」の基礎的な話は、ここで終わりますので、ここで完了として、今までのノートを閉ざしても問題はありません。そのような人たちには、ここで「さようなら」と言って、卒業証書を手渡しましょう。そして、そうでない人には、ただひと言、

               (tuzuku)

2016/05/20
2017/03/25 改訂+朗読

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