万葉集はじめての短歌の作り方 その二

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朗読ファイル

万葉集はじめての短歌の作り方 その二 表現について

[朗読ファイル その一]

 さて、前回で最低限度、短歌は作れる仕組みですが、それはもちろん理屈上のことで、慣れないうちは、たった一つの落書きさえ、まとめようと思うたびにすり抜けて、なんだかもどかしいくらいです。そのうえ、慣れないうちほど、初めに浮かんだ表現、一度書いた内容が、ありがたいものに思われて、そこから離れる事も出来ないで、でもなんだかしっくり来なくて、ようやくちょっと手直ししては、それもなんだか物足りない。

 ですから、完成させなくてよいのです。
  ともかく形になったら、次の短歌です。
   しかも短歌でなくてもかまいません。
    沢山込めすぎて、収拾が付かなくなったら、
     四行詩にしてもかまいません。
    内容がスカスカに思えたら、
   俳句にまとめてもいいのです。
  それも「かな」や「けり」はいりません。
 現代語のままで十分です。
  それからまた次の短歌を、
   描いてみるのが上達です。

大いなるワンパターン

 とはいえ、三十一字のとりとめもない落書になって、ちっとも短歌のように思えないという悩みは、尽きることはありません。そんな時は、万葉集でもっとも一般に使用され、初心者の絶対的なアシストになるばかりか、最高の表現にまで使用可能な、「短歌の黄金定型」(大いなるワンパターン)を使用すると良いでしょう。

 これはきわめて簡単なもので、三十一字をとりとめもなく作詩する代わりに、あらかじめ前半と後半で、伝えるべき事を二つに分けてしまいます。その際三句目は、前半に所属しても構いませんし、後半に所属しても構いません。あるいはまた、接続語のように、二つを繋いでも構いませんから、

前半三句+後半二句
前半二句+後半三句
前半二句+接続表現+後半二句

を基本パターンとして定めてしまい、短歌を詠むときは、その枠を利用して詠むことに、あらかじめ決めておきます。すると例えば、ある日、窓を開いたらすがすがしい朝だった時に、短歌を詠みたくなったとします。それを、とりとめもなく描写するのではなく、

[前半に窓辺の描写]+[後半にすがすがしいという思い]

と黄金パターンに描写の大枠を当てはめてから、
 作詩をはじめるという方針です。その際さらにお奨めなのは、
  心情表現(ここでは「すがすがしい」)の方を、例えば、

すがすがしいな朝におはよう

と決めてしまって、
 あとはそれに相応しい描写を、
  窓辺の光景から描き出します。

アンテナに朝日が差して初夏の風
鳥たちの朝日を浴びてかろやかに
雪いちめん白い息はく青い空

などとまとめれば、

アンテナに 朝日が差して 初夏の風
  すがすがしいな 朝におはよう

鳥たちの 朝日を浴びて かろやかに
  すがすがしいな 朝におはよう

雪いちめん 白い息はく 青い空
  すがすがしいな 朝におはよう

と、比較的簡単に短歌が作れます。しかもこの黄金パターンの利点は、これを使用するだけで[前半]+[後半]という二つの内容の固まりが生まれますから、より文が構造的になり、つまりは様式を整えられた短歌という詩型にふさわしい表現に、自動的に置き換えられるという点にあります。

 ですから皆さまも、特に初めのうちは、この「大いなるワンパターン」を大いに利用してみると良いかと思います。その方が、とりとめもなく三十一字を模索するよりもずっと早く、すぐれた短歌が詠めますし、ずっと早く、短歌の様式を自らのものにすることが出来るでしょう。そうしてこのパターンは、「黄金定型」に過ぎませんから、将来どれほど優れた短歌を詠むのにも、利用できる短歌の「根本定型」に過ぎないものです。あえて嫌厭(けんえん)[嫌って嫌がること]すべき理由は存在しません。

代名詞、および擬音語・擬態語

 さて、ここからは『万葉集』の作品を取り上げながら、
  初心者が陥りやすい注意点を、
   具体的に指摘していこうかと思います。

 日常会話で多用されるものに、「あなた」「わたし」あるいは「こそあど言葉」のような代名詞(だいめいし)があります。(実はこれは、名詞の代りに使用しているという、定義自体が誤りで、日常会話ではそれが常態で、名詞で呼ぶ方が、かえって定義し直した呼び方になるくらいですが……)日常会話は、目の前の相手となされるものですから、それで通じるのですが、詩として第三者が眺めたとき、その部分が不明瞭な、したがって詩として不十分なように思われがちなのも事実です。

 また、音声を文字に直した、雨が「ざあざあ」とか、扉を「どんどん」などは擬音語(ぎおんご)、あるいは「擬声語(ぎせいご)」と呼ばれます。音声のないものを、雪が「しんしん」とか、氷が「つやつや」とか表現したものを「擬態語(ぎたいご)」と呼びます。全部まとめて、フランス語の「オノマトペ」という呼び方をする場合もあります。

 これらも日常会話でしばしば使用されますが、わずか三十一字で終了する短歌で使用すると、心情がそのまま伝わりやすい反面、表現が散漫になる傾向もはらんでいます。たとえば、

ざあざあと
   雨は降ります ざあざあと
 泥にはねられ 傘もなくして

 ちょっとざあざあしすぎて、
  しつこい感じを受ける人もいるのではないでしょうか。

ざあざあと
   降ります雨の 夕暮は
 ざあざあと降る 傘もなくして

ざあざあと
   夕ぐれ雨の 濡れねずみ
  忘れ傘して ざあざあと降る

ざあざあと
   傘もなくして ざあざあと
  ざあざあざあざあ 雨は降ります

などすると、それぞれ印象が変わってくる。
  つまりは、言葉のくり返しのリズムとの兼ね合いで、
 効果的にもなり、散漫にもなるのですが、
   あまり安易に使用すると、
     だらしなく聞こえるのも事実です。

 また「かくかく」「しかじか」なども、多くのことを込められる一方で、取りあえず取りまとめてみたような、安易な印象を与えかねず、明治になってから、なぜにか流行った「かにかくに」なども、おそらくは『万葉集』の模倣でしょうか、これと同種の言葉です。たとえば、

かにかくに
   我がたましいは たまきはる
 いのちなりけり 燃ゆる夕暮

もちろんこれは、やっちゃいけない例です。
   こんなのをやっている人には、
      あめ玉貰っても、付いていっちゃ駄目です……

 このような言葉は、安易に使用すると、自分だけが納得しているような、不明瞭な和歌に陥ったり、わざわざ短詩型を選んだ意義を、ルーズに貶める結果にもなりかねません。たとえば万葉集にも、次のような和歌は、意味は伝わってきますが、この短歌が、今日まで残されるべき価値と言えば、ちょっと許(もと)ないくらいです。

かにかくに ものは思はじ
   朝露の 我(あ/わ)が身ひとつは
  君がまに/\
          よみ人しらず 万葉集11巻2691

あれこれと 思い悩んだりはいたしません
  朝露のように はかないこの身ひとつは
    あなたのこころのままに

  「あれこれと考えないよ」
というと、様々なことをひっくるめられるので、便利な表現ではありますが、特に短かい詩で使用すると、その詩が伝えたい心情の中心を、ぼやけさせる原因にもなるようで、この和歌にしても、せっかく、

「朝露のようにはかないわたしの身ですが、
   あなたにゆだねたいと思います。」

 という構想が定まっているのですから、
   あれこれ悩まない、といった付加価値は切り捨てて、
    「朝日が差して風に溶けゆく朝露の」
のような、(現代語ですみませんが、)下句に焦点を定めたような上の句にすれば、散漫な印象はまぬがれたかと思われます。もっとも、この種の過ちは、短歌の名作(と言われているもの)の中(うち)にもあるようで、

かにかくに
  祇園(ぎをん)はこひし 寐(ぬ)るときも
 枕の下を 水のながるる
          吉井勇(よしいいさむ) 『酒(さか)ほがひ』

 これなどは、せっかくの下の句を、安易な上の句がないがしろにしている、悲しい例のように思われ、言葉の扱いのぞんざいさが無念でなりません。(ただし悪いものではありません。上の句次第では、当代の秀歌にもなれたものを、傷が出来たくらいの意味です。)

 それはともかく、
  万葉集の表現は、
   「あれこれ考えません、わたしはあなた任せです」
という内容に、「朝露の(ような)」が加えられただけですから、これくらいなら私たちでも、いますぐ真似出来そうです。ただ三句目の「朝露の」という気の利いた表現が、なかなかどうして、浮かんでこないように思えたなら、名作とも思えないこの和歌も、侮りがたいものがあるのかもしれませんね。

いなだきに
   きすめる玉は 二つなし
 かにもかくにも 君がまに/\
          市原王(いちはらのおおきみ) 万葉集3巻412

髪のいただきに
  秘蔵した宝玉は 二つとありません
    どうしようとこうしようと あなたのままに

  これも先ほどのものとよく似ています。
 下の句が散漫なうえに、宝玉が何を指すのかも分かりませんから、状況の説明でもなければ、短歌だけでは意味が受け取りにくい。それでも、先ほどのものよりも優れてるように感じるのは、「いなだき」つまり「いただき」に隠したたった一つの玉は、どのようにするのもあなた任せです。という着想が、きわめてユニークなものですから、聞き手の好奇心が誘発されるからに他なりません。

 すると私たちの方で、読み手が何らかの意図で、このような詠み方をしたのではないかと感じ、なんらかのシチュエーションを妄想に浮かべてしまいますから、日常語の語りで、独りよがりに散漫な表現をしたような、先ほどの短歌のようには響きません。故意のはぐらかしがあるように感じられます。

 それが理由で、不体裁には思われませんが、本質的に散漫な下の句の傾向は変わりませんから、優れた短歌とは言えません。これに対して、「祇園はこひし」の短歌の場合は、二句目以下が優れた内容になっていますから、これらとは同列にあるものではなく、逆に名作になりきれなかった、初句がちょっと恨めしいくらい。作品としては鑑賞する価値を有したものになっています。

この月の
  こゝに来たれば 今とかも
 妹(いも)が出で立ち 待ちつゝあるらむ
          よみ人しらず 万葉集7巻1078

この今出ている月が ここの場所に来たから
  約束の時間は ちょうど今だわ
    あいつはそう思って
  外に立って 待っているだろうか

 この和歌も、
  「この月」「ここに来たら」
などの表現が何を差しているのか、
  詠み手にしか分りません。
    たしかに、それがちょっと散漫な印象を、
      この詩に与えてはいるのですが……

 この場合、実はそれが狙いでも有る訳です。
   「この月がここに来たら」
なんて、詠み手の語りなら、独りよがりで意味が分かりにくいなあ。そう思うところに、「妹(いも)は外に立って、待っているだろうか」と続きますから、なるほど、上の句は詠み手ではなく「恋人の語り」、または心情を描いたものかと悟らされます。つまり上の句は、

「今日のお月様が、あの印の場所にさしかかった頃、
   来てくれるって、あの人は約束してくれたから」

 そんな恋人の心情を、ありのままに表現させるために、わざと「この」「ここに」などの代名詞を多用したのだと悟る時、たちまちそれが妹(いも)の声として、すんなりと心に響いてくるのは、もちろん、全体構造がつかみ取れたからには過ぎません。けれども一方では、どうしても、その表現がもたらす、散漫な印象が残るのも事実です。

風の歌
  もう聞こえない とぼ/”\と
 仕事帰りの あの人この人
          即興歌 時乃旅人

 もちろん代名詞などが、すべての場合に悪いというつもりは、まったくありません。効果的な用法が、和歌を高めることだって多いのです。これから眺める二つの短歌は、そのすぐれた例、とまでは行きませんが、このくらいの表現になれば、語りかけとの兼ね合いを付けた、様式化された和歌にはなっているのではないでしょうか。

こゝにして 家やもいづち
   白雲(しらくも)の たなびく山を
 越えて来にけり
          石上卿(いそのかみきょう) 万葉集3巻287

ここにあって
   ふるさとの家は どちらの方角だろう
  あの白雲の たなびく山を
    越えては来たけれど

[「白雲」には「知らず」の意を掛けることがある]

春の野に
  霞たなびき 咲く花の
    かくなるまでに 逢はぬ君かも
          よみ人しらず 万葉集10巻1902

春の野原に
  霞はたなびいて 咲いている花が
    このようになるまで
  逢ってくれないあなたです

 やはりちょっと、不明瞭な印象は残るようです。
  では、せっかくなので、
   またノートを取り出してみましょう。
    日付と見出しもチェックです、
   それから指示語や代名詞を使って、
  自由に落書をするのが息抜きです。


これそれあれ
   どれがお似合い? ここそこら
  あっちもこっちも 春はおしゃれ着
          即興歌 時乃遥

つかの間コラム 「大和言葉について」

 かつての和歌は、大和言葉の使用に頑(かたく)なにこだわっていました。大和言葉というのは、大陸からもたらされた外来語、つまり漢語の発音ではない、我らが島で、古くから使用されていた言葉のことです。つまりは「大河(たいが)」という発音は、もともと(現在でいうところの)中国の発音をそのまま利用したものに過ぎませんから使用せず、「おおきなかわ」であれば使用出来るという訳です。このように説明すると、今の私たちには、面倒で狭苦しいことをしているように感じられますが、当時は今よりはるかに、それらの発音は外来語として響きましたから、今日で考えるところの、英語の発音は持ち込まないで詠みましょう。くらいの意味しかなかったかもしれません。

 それがいつしか伝統として、形骸化して、表現の足かせになってしまう。それを打ち破るべく、せっかく明治維新後の改革の中で、文芸の表現も移り変ったのに、煮え切らずに過去に囚われて、いつともつかない過去の表現をもてあそぶ、謎のサークルまで生まれて来た。一方ではその反動として、過去など学ぶのは面倒なものだから、表層的な入れ子だけを利用して、ただ散文の落書きを、三十一字に押し込めた、安っぽい imitation がネット上にあふれ出し、ブログのコマーシャルと一体化して、造花の花の華やいだ。というのが、おおざっぱな現在までの流れでしょうか。

 もちろん現代語で詠むわたしたちに、表現上の制約はありませんから、大和言葉に固執する必要などありません。ただわたしたちの言語は、島に孤立しているためもあり、敗戦はしましたが、征服されたことはありませんから、世界でもまれに見る、変化に乏しい言語なのです。その根幹は、私たちが古語で混乱するわりには、実はあまり変化していません。ですから大和言葉を使用すると、文脈内での言葉全体の均質性が高くなり、それゆえ日常生活においても、心情と結びついた表現を求めると、たちどころに大和言葉が優位になってしまいます。

つまり、沈む太陽がきれいな時には
     「なんてきれいな Sunset だろう」や
     「なんてきれいな 日没 だろう」
などと表現されても、本当にそう感じたのだろうか、
  違う意図があるように、意味的に判断してしまい、
     「なんてきれいな 夕日 だろう」
     「なんてきれいな 夕焼け だろう」

と大和言葉で発言されると、心情を表明したものとしてナチュラルに受け取れる。現在でも詩や詩的表現、また歌詞などで大和言葉が優位に働きがちなのは、わたしたちの言語感覚に基づいているに過ぎなくて、つまりは意識してやっているのではなく、勝手にそうなってしまうだけのことですから、実は「大和言葉しか使用しない」という、和歌のスタンスは、現在の私たちにとっても、きわめて分かりやすくて、しかも心情を表明するための作詩にとっては、「もっともたやすくそれらしい短歌を作る」ための、貴重なアドバイスにもなっているのです。

 これは何も日本語に限ったことでなく、例えばシェイクスピアの詩でも、心情のピークになると外来語に由来する表現が少なくなり、古英語(こえいご)にさかのぼる表現が優位に働くなど、外国の詩の表現にも見られる傾向に過ぎません。

 ですからもしあなたが、短歌を作って、どことなくしっくり来ない表現があったとしたら、案外それを「大和言葉」に改めてみたら、素敵な表現に移し替えられることもあるかと思います。その意味で、「大和言葉だけを使用する」という提言を、安易に古いものと脱ぎ捨てるような、前世紀的な発想はもはや終わりして、絶対ではないけれど素敵なアドバイスくらいに捉え直して、座右の銘にしておくのは、ちっとも悪いことではありません。
 ただそれだけの、
   脱線コラムでした。

 ところで、大和言葉と呼ばれているものの中にも、『万葉集』の時代などよりはるか昔に、大陸からもたらされた表現が、なじんだものがあるようです。あまり大和だましいなどと、安易に叫ばない方が良いかも知れませんね。

主情主義(しゅじょうしゅぎ)

[朗読ファイル その二]

 みずからの感情ばかりがあふれ出て、
   聞き手をあきれさせるような醜態は、
     本来なら初学にありがちな、
   若気の至りのような過ちではあります。

大好き
  交差点の 真ん中で
 叫んでみたいな あなた大好き

愛してる
  愛してるただ それだけの
 愛してるでも 叫びたりなくて

くやしいよ
  くやしいあいつに また負けた
 許せないのは 俺のプライド

 ところが、いつの頃からでしょう、
  このようなあさましい失態を、
   はなから軽蔑するような、ビニール栽培、
    要領よくした、均質化されたプチトマトが、
   見た目ばかりはうつくしく、
  野生種をけなすような市場です。。

 要領なんかはどうでもいい、
    つべこべ言わずに駆けだして、
   泥にまみれて、叫んでみるがいい。

 わたしは あなたに勧めます
  こざかしい もっともらしいものを 体裁よく
   情緒もなくて せっせと粘土細工して
    こね回すのではなくって もっとあふれかえる
     みずからの 心情をそのままに
    ありったけ 書いてみることが大切なのだと

 そして、そのような、あふれかえる心情を、その心情のともし灯を消すことなく、まるでマグマの上に、氷の城を築くようにして生まれたものが、すぐれた詩の正体なのであって、干からびちまった情緒から、まがいものしたそれらしい、偽物の壺をこねこねと、こね回すような老いらくの、穢されちまった言葉から、ろくな三十一文字(みそひともじ)など生まれてこないのだということを。

 まがい物の正体を知りたければ、
   サークルの雑誌を開いてみれば、
  すぐに分かるかと思います。
    わたしはその手の雑誌を開いたときの、
   得体の知れない不気味な感じを、
     今も忘れることが出来ません。
    言葉をもてあそんでいやがる。
      そんな不気味さです。

 ですから、あなたがたはむしろ、もっと思ったことを沢山、感じたことをそのままに、はじめは恥知らずなのが素敵です。飽きるまで、書いて、書いて、書きまくってくださったらよいと思います。もちろん、あなたが大人であっても、叫ぶのは恥ずかしいことではありません。叫べないのが恥ずかしい事です。よれよれのお婆ちゃんになっても、泣きわめくのが命です。そんなことすら出来ないのが、ビニールハウスのみじめさです。飾り物なら結構です。仲間のお城に向かうでしょう。猿まねもせず、へつらわず、周囲のあきれるのも物とせず、文法がくずれさっても構わない、ぶちまけてみるのが愉快です。

 そのうちおのずから、分かってきます。
  感情の表出が、不体裁に思えてきます。
   その時はじめて、あなたは次のステップに、
  歩んでいったらよいのです。なぜなら……

 そのあふれるばかりの心情こそ、
   それを表現に統制して、様式化することこそ、
  まがいものした落書きではない、
    詩を生みなす原動力なのですから。

     「ここらでちょっとひと休み、
        ランチタイムでもしませんか?」
浜あそび
   踏ませる波の 軽やかさ
 サンドイッチな あなたわたくし
          即興歌 時乃旅人

  さて、恥ずかしいくらいの、
   思いあふれた短歌は出来たでしょうか。
    自分を正直に晒すこと、
     せっかくですから今ここで、
      それに慣れてしまいましょう。
     大丈夫です、そのノート、
    隠しておけば誰も見ませんから。
      (たぶん。)

その一

 とはいえ、ここでは次の段階、情緒の統制について、軽く眺めてみるのもよいでしょう。万葉集にも、ちょっと独りよがりに、感情をあらわにして、当人ばかりは深刻ですが、傍から見たらおかしいような和歌も、いくつも収められています。たとえば……

闇の夜は 苦しきものを
  いつしかと 我(あ/わ)が待つ月も
    早(はや)も照らぬか
          よみ人しらず 万葉集7巻1374

闇の夜は 切なさで胸がくるしいくらい
   いつになったらと わたしが待っている月よ
  早く照らしてくれないか

 「闇の夜は苦しい」
   「わたしを照らすのはあなたしかいない」
そんな心情を白状したものでしょうか。あるいはまた、月さえ昇れば、明かりを頼りに、あの人のもとに向かえると願うものでしょうか。結句で「早く照らないか」という、焦りをそのままぶちまけてしまったことによって、「闇の夜」「待つ月」など、わずかに比喩を試みようとした作詩も無駄に終わり、率直すぎる焦燥から、なんだか独りよがりな、感情の爆発に終わってしまいました。

その二

今は我(あ)は
   死なむよ我妹(わぎも) 逢はずして
 思ひわたれば 安けくもなし
          よみ人しらず 万葉集12巻2869

今はわたしは 死んでしまうよ
  愛する人よ 逢わないで
    思い続けて おだやかじゃいられない

 万葉集の作者のために言っておきますが、酔っぱらっているわけじゃありません。おそらくこれは、わざとせっぱ詰まった恋の瞬間を、描写することによって、表現のリアルを試したかったものと……ええ、きっと、そう思われます。なにしろ、鳴き猫も黙るというあの『万葉集』ですから、こんな、しどろもどろの和歌なんかあり得ない。そうに決まっていますが……

 酔っぱらいの心情を、
  酔っぱらいの心情のまま、
   おぼつかなく記しているように見せて、
  その実、詩としての体裁に再構築するのは、
 中原中也の得意技(あるいは必殺技?)でしたが、この作者は残念ながら、肝心の詩にするというところでつまずいています。あまりにも、さ迷う心情そのままを提出したために、当たり前ですが聞き手には、まさに、恋に溺れてノートに書き殴ってしまった、落書きそのものにしか見えないからです。それを突き詰めれば……

……わたしが先ほど擁護したのが嘘で、
    恋に駆られた青年かなにか、本当にその場で、
      衝動に駆られて、詠んでしまったのではないか、
    それならそれで、ユニークでおもしろいのですが。

  詩としての必然性、
 つまり、日常会話や日常の心理そのままなら、和歌などにせず、散文で記せば良いのに、というむなしさが、聞いているうちに浮かんで来ますから、なるほど主観まかせの表現は、表現としては拙いという事実は、なかなか避けられそうにありません。

  ただ、何度も繰り返しますが、
 和歌でも歌の歌詞でも、初めのうちは思いをありったけ、描き出すことをお奨めします。学生に限らず、あなたが何歳(いくつ)であってもです。そこで訴えるべきことを持たなかったら、おそらく次のステップに進んでも、なにも描き出せないのではないでしょうか。

 その後でたとえば、私のくだらない紹介でも読みながら、手直しをしてみるのも良いでしょう。ただし、『万葉集』の作品について言うならば、こんな詩ばかりではうんざりしますが、玉石混淆(ぎょくせきこんこう)、様々なレベルの和歌が並べられているなかに、時々こんな率直すぎる短歌が並べられていると、うれしくなってしまうのも事実です。アンソロジーというものは、必ずしも均質的に、すぐれた詩が並んでいるから、すぐれているとは言い切れない。全体としての価値が、また別に存在する。その意味で、バラエティー豊かな『万葉集』というものは、驚異的な集であると言えるでしょう。

 ところで、「玉石混淆」というのは、普通はつまらない物とすぐれた物が混ざり合っている意味ですが、『万葉集』の場合は玉にも価値がある。石にも違った価値がある。しかも玉と石の間に、どちらに区分してよいのやら、分からないような差異のある鉱物が連なっていて、結局最後には、すべてをひっくるめて愛さずにはいられないような、呪術的な魅力が籠もるようです。なんて言ったら、褒めすぎでしょうか。

 やれやれ、
  どうやらわたし自身が、
   この項目に釣られるみたいに、
  みずからを主観に委ねているようです。
 次の短歌へ移りましょう。

その三

夢(いめ)のみに
  見てすらこゝだ 恋ふる我(あ)は
    うつゝに見てば ましていかにあらむ
          よみ人しらず 万葉集11巻2553

夢にだけ見ても こんなに恋しくなるわたしは
    実際にあの人をみたら
   さらにどうなってしまうんだろう!

 これもなかなか溺れています。
  「まして、いかにあらん」
なんて、短歌としては熟れない表現が、
 かえってその心情を、うまく表現しているようですが、
  「夢で逢うだけで苦しいのに、
    実際にあったら胸が張り裂けてしまう」
なんて言われたら、今世紀の乙女(おとめ)でなくても、「変な奴」とあきれられて、手紙は破かれ、メールは破棄されてしまうかもしれません。(ただし、不公平なことに、相手の容姿次第では素敵と思われることもあるようです。)一方、私たちからすると、万葉の人々も、こんな若気の至りで叫んでしまうような、たましいの持ち主であることが悟られ、共感も湧いてきます。

その四

妹に恋ひ
  我(あ/わ)が泣くなみだ しきたへの
 木枕(こまくら)通り 袖さへ濡れぬ
          よみ人しらず 万葉集11巻2549

あの人が恋しくて わたしが泣くなみだは
   しきたへの枕さえ 通るほどの流れとなって
  いつしか わたしの袖を濡らすだろう
     (ただし原文の意は「袖さえ濡れた」と完了)

 これまでのように、
  感情一辺倒ではありません。
 涙が枕を濡らし抜けて、袖まで濡れてしまう。
さらに「しきたへの」というのは、「枕」という言葉だけに掛かり、それを修飾するような言葉、つまり「枕詞(まくらことば)」になっています。ですから、思いを再構築して、詩にゆだねようとして、思考を重ねた形跡が見られます。ところが……

  今度は、着想に溺れて、
   それをうまくまとめる表現力がいたらず、
  下手なデッサンで描いてしまうという、
 初心者のおかしがちな、
  別の罠にはまってしまったようです。

 つまり「恋しくて袖が濡れる」(袖が濡れるのは、恋に泣く時の「和歌」の定石です)という、訴えたい心情はあるのですが、それをどう詠もうか悩んだ末に、「枕さえ濡れ、袖まで濡れる」という着想に行き着きます。特に初心者にありがちなことですが、どうしても閃(ひらめ)いた着想を、逃れることが出来ません。それを表現するすべも知りません。ですから、よりによって、

「なみだはまず枕に流れ、
   それだけでは留まらず、
     枕を抜けて、ついには袖まで濡らした」

 なるほど、たいした泣きっぷりではあります。洪水のごとき泣きっぷりではありますが、比喩が「木枕通り」など、わざとらしくも大げさにして、しかも中途半端に具体的ですから、人工的に考えた嘘であることがバレバレです。たちまち「どう詠もうかと思い悩んで、たどり着いた嘘か」と悟れますから、聞いている方は興ざめです。ましてそれが恋の相手であったら、
  なんて詩情のかけらもない、
    わざとらしいジェスチャーをする、愚鈍の男かと、
      振られるような結末を迎えることでしょう。

その五

[朗読ファイル その三]

小治田(おはりだ)の
  板田(いただ)の橋の 壊(こほ)れなば
    桁(けた)よりゆかむ な恋ひそ我妹(わぎも)
        よみ人しらず 万葉集11巻2644

小治田の
  板田の橋板が 崩れ去っても
    橋桁を伝って行くぞ
  恋しがるなよな お前

 こちらは、すでに愛し合っているので、
   「恋しがるんじゃない」
といった内容です。なかなかに情熱的ですが、同時に変に具体的です。濁流を泳ぎ渡るとでも言いそうなところを、あるいは実際に、橋の踏み板が崩壊したことがあったのでしょうか。それが落ちたら、橋桁を渡って行くと述べています。それでこれまでとは逆に、大げさに言うべきところを、中途半端に具体的に述べたために、「かならず逢いに行くぞ」という決意表明にはなりきれていない。桁も無ければあきらめそうな、思いに尺度が生まれてしまったような、ふっきれないところが、わずかに残ります。

 もとより恋人同士ですから、これくらいでも「あら素敵」と、思って貰えるような甘えはあります。そして変なところでリアルなのが、実はしばしば万葉集に見られる傾向でもあるのですから、この短歌も、ユニークなものとして、あながちに、捨て去るものではありません。それでも尺度は傷として残りますが。

 ところで、
  そろそろお気づきでしょうか、
   少しずつ良いものへと、
  紹介をすすめているようです。

その六

天の川
  瀬々(せぜ)に白波 高けども/高けれど
    たゞ渡り来ぬ 待たば苦しみ
          よみ人しらず 万葉集10巻2085

天の川は
  瀬ごとに白波が 高かったけれど
   まっすぐ渡ってきましたよ
     待っているのは耐えられなくって
               By 彦星

 みずからの行為を語って、最後を感情に閉ざすようなやり方は、短歌をまとめるときの、もっとも簡単なフォームにもなりますから、覚えておくと良いでしょう。それはつまり「すごくうれしい」「かなしくなります」などの表現や、あるいはもう少し客観性を持たせて、「それが悲しさ」「今はむなしさ」などとして、結句を閉ざすやり方です。

 この和歌も「待っているのは苦しい」などという、主観的なことを記してはいますが、四句までが「荒波を越えて渡ってきた」という、状況の提示、自分の行為だけを記しておいて、最後だけ心境を加えますから、あふれる思いから主観的表現に陥ってしまったような、これまでの和歌とは異なり、短歌としての様式と、心情のバランスが取れているように感じられます。

 もっとも、「苦しい」なんて表現は、あからさまな気がしますが、それは今のわたしたちがそう感じるので、当時の聞き手の「苦しい」から受ける印象は、また違っているかもしれません。当時の表現とは、言葉自体が、ニュアンスを変えているものも多いくらいで、あるいは古文の授業で習わされる、「おかし」が「趣深い」といった意味になることを、思いだしてくだされば良いかと思います。

 とはいえ、ちょっと安っぽく感じるのは、せっかく全体の構成から、結句を思いの表現にまとめるという方針が採られているのに、それまでの記述に引きずられて、「待っているのが苦しくて」と、主観的な感情の表出に、説明的な煮え切らなさが残るせいかもしれません。あるいは「君に逢いたくて」とか「待ち切れなくって」などストレートに思いを表現していたら、印象も変わったのではないでしょうか。

 せっかくここで、結句を感情にまとめることを紹介しましたので、四句までは(比較的)客観的に今の状況や、自分の行為などを説明して、結句を「うれしい」や「かなしい」など、喜怒哀楽と結びついた表現で、まとめる短歌を作ってみましょう。人の作品を読んでいるときは、あるいはこれくらいならと思っても、いざ自分が詠んでみると、なかなかままならないことが多いものです。そんな時は、わたしの紹介してきた『万葉集』の作品も、なかなか見所のある作品だったと、思い直していただければうれしいです。もっとも単純に、自分のがうまいと思うかも知れませんが……
 それはそれで、大いに結構かと思います。


うわさの彼に
  逢わせてくれると うそついた
 あなたのいい訳 ちょっとうれしい
          提出歌 時乃遥

その七

 次は、『万葉集』の最終的な編纂者ではないかともされる、
   大伴家持(おおとものやかもち)(718-785)の作品を二つほど。

思はぬに
   妹(いも)が笑(ゑ)まひを 夢に見て
  心のうちに 燃えつゝそ/ぞをる
          大伴家持 万葉集4巻718

思いがけなく
  恋人の笑顔を 夢に見て
    胸のうちが 熱く燃えているのです

佐保山(さほやま)に
   たなびく霞 見るごとに
 妹(いも)を思ひ出で 泣かぬ日はなし
          大伴家持(おおとものやかもち) 万葉集3巻473

葬儀をした佐保山に
  たなびいている 霞を見るたびに
    妻のことを思い出して
  泣かない日はありません

  「心のなかで燃えている」
 やら「思い出して泣かない日はありません」
だなんて、なんて感傷的な人なのだ。
 これが『万葉集』でもすぐれた作者にあげられる、
  大伴家持の姿なのか。

 などと思うほど、皆さまは『万葉集』に深入りしていないかもしれません。この人は多情の人、大伴旅人(おおとものたびと)の息子であるだけに、なかなかに、和歌を詠むときの情動の大きな人なのです。

 前にわたしは、「はじめのうちは、大きな感情にゆだねて詠むように」とお奨めしましたが、つまりはこの人も、心情の大きな人であって、そういう人が、知識と技巧を研ぎ澄ませて、感情をうちに秘めたまま、和歌として隙のない表現を完成する。だからこそ、わたしたちも引かれるのであって、それを言うならば、『百人一首』の選者としておなじみの、藤原定家(ふじわらのさだいえ)(1162-1241)にしたところで、決して芸術至上主義者やら、美的基準至高主義者などではありません。それぞれに、なかなかに熱い詩人たちには、違いないのですが……

 先の家持の和歌は、
  さすがにちょっと、安易な感傷性がちらつくでしょうか?
   そうであるならば、体裁はちょっと劣りますが、
    この章のまとめには、次の和歌くらいが良さそうです。

その八

行かぬ我(あれ/われ/わ)を
   来むとか夜も 門閉(かどさ)さず
  あはれ我妹子(わぎもこ) 待ちつゝあるらむ
          よみ人しらず 万葉集11巻2594

行くことの出来ないわたしを
  来ると思って夜になっても 門さえ閉めずに
 ああ わたしのあの人は
   今も待っているのではないだろうか

   みずからの感情は「あはれ」くらいに留め、
    「あの人は待っているだろうか」
と、待ち続ける相手を思いはかるようにして、本当は自分も逢いたくてたまらないという心情を、裏に宿している。もとより感情を表現するのが悪くて、このようなひねった和歌がすぐれている訳ではありませんが、ちょっと大げさな直情の表出よりは、相手のこころを推し量った分、あふれる思いをこらえているような感じが出て、恋しさがにじみ出てくるようで好印象です。

 ただしこの作品でまとめるのは、これまでの主情主義に対して、
  ちょっと逃げているようでもありますから、
   最後に主情主義をもってして、
  隙のない作品をひとつ。

その九

何せむに いのち継ぎけむ/いのちは継(つ)がむ
   我妹子(わぎもこ)に 恋せぬ先に/恋ひぬ先にも/恋ひざる先に
 死なましものを
          よみ人しらず 万葉集11巻2377

なんのために
   いのちをつないできたのだろう
 あの人に恋する前に
    死んでしまえばよかった

[万葉集のテキストは、何しろ古いものですから、諸本(しょほん)によって食い違いがあり、さらに漢字だけを使用していますから、読解にも違いがあります。ですからたとえば四句目は、解説によって「恋せぬさきに」であったり「恋ざるさきに」であったりしますが、「あの人に恋をする前に」という本質は変わっていませんから、ここでは気にしないことにいたします。]

   「恋をする前に死ねばよかったのに、
     なんのために生き続けるのだ」
 かなり大げさなことを言っていますが、その文脈を入れ替えて、まず「なんのために生き続けるのだ」と言い切ってから、「恋する前に死ねばよかった」という理由を述べています。これによって、組み立てられた文章のように感じられ、日常会話で泣き言を聞かされているようには響きません。整え直された、役者の台詞のように感じられる。あとはその内容と話し方が、様になっているかどうかで、受ける印象も変わってきますが、抽象的な表現で統一が取れていて、なかなかどうして、シェイクスピアの一行に紛れていても、おかしくはないくらいではないでしょうか。

 ちなみにこのように、通常の文脈を意識的に入れ替えて、聞き手の印象に訴えるようなやり方を、倒置法(とうちほう)と言います。修辞(しゅうじ)[言葉の修飾方法]については、後で改めて説明しますが、取りあえずこの和歌を、主情主義の良(りょう)としておきましょう。

つかの間コラム 歌詞(うたことば)と歌枕(うたまくら)

[朗読ファイル その四]

 和歌は、大和言葉で詠むのが良いとされ、歌に相応しい表現が求められましたが、その中で、このような場合には、このような言葉を使うべきである。このような詠み方をすべきである。という手引きのようなものが生まれました。それを「歌枕(うたまくら)」と言います。また、歌にふさわしいとされた表現のなかには、和歌以外では使用されない詞も含まれました。それらは「歌詞(うたことば)」と呼ばれます。

 能因法師(のういんほうし)(988-1050/1058)の記した『能因歌枕』では、「山はあしびきと言う」といった枕詞の説明から、「いなおおせ鳥は秋を詠む」といった言葉の解説。河を詠むなら「吉野川」「竜田川」「大井川」といった、詠まれるべき地名の説明などが混じり合って、和歌を詠むのに相応しい、言葉についての手引きをしています。

 一部だけ、現代語にして眺めてみましょうか。
   次のようになっています。
     「若菜とは、えぐ、すみれ、なずななどを言う。
        さわらびも言うことがある。荒れた畑に生える。」
     「やえむぐらとは、荒れた所に這い掛かる雑草を言う」

 あるいは、後半には、
     「国々の所の名称。山代国(やましろのくに)
        おとは山、ふしみ山、ふか草山……」
などと、地名を列挙したものがあり、
 後には、この地名だけが、
  「歌枕(うたまくら)」と呼ばれるようになっていきます。

 さらには、
     「正月……鶯、ねの日、うづち、梅がえ、霞」
などのように、月ごとに詠むべき内容を記した、「季寄せ(きよせ)」まで記してありますから、まさに和歌のための言葉の手引きを、「歌枕」と呼んだような感じです。

 また源俊頼(みなもとのとしより)(1055-1129)の記した、『俊頼髄脳(としよりずいのう)』には、すべてを異名(いみょう)の名のもとに、「山をあしひきと言う」といった枕詞の説明から、「ほととぎすは、しでのたおさと言う」「蛙はかわずと言う」といった、和歌に相応しい歌詞(うたことば)の説明までを加えています。

 そのまま、名詞として使用出来るものを、
  いくつか抜き出してみましょうか。
     「内裏」 ……「ももしき」
     「下人」 ……「やまがつ」
     「海底」 ……「わたのはら」
     「庭水」 ……「にはたづみ」
     「鶴」  ……「あしたづ」⇒「たづ」
     「蛙」  ……「かはづ」
     「鹿」  ……「すがる」
     「猿」  ……「ましこ」
など、いろいろ記してあります。

 やがてもう少し後になると、「歌枕(うたまくら)」というものは、もっぱら和歌に詠まれるのに相応しい地名のことを指すようになり、今現在もそのように捉えられています。
 以上、勅撰和歌集時代の豆知識でした。

感動詞(かんどうし)など

 前に見た「かにかくに」やら、主観的な恋のため息とも関連しますが、「ああ」とか「ええ」とか、あるいは「はい」やら「いいえ」、さらには「冗談じゃない」「なるほどね」のような表現。会話の際にしばしば使用する、それ自身で完了していて、あいだを繋いだり、情緒を表明したり、返事をするような言葉も、うまく使用すれば効果的ですが、安易に持ち込むと、詩型をだらしないものにしかねません。

  ただし、また同じ話になりますが、
 そのようなことは、詩作を続けていれば、いずれ見えてくるものなので、初めての方はむしろ、「ああもういいや」と思ったら、そのまま「ああもういいや」。「そうなんだ」と思ったら、そのまま「そうなんだ」。感じたことを素直に記した方が、最終的な目的地には早道です。それらしいものを、骨董品の壺とありがたがるのは、乏しくなった情緒を侘寂(わびさび)と履(は)き違えるような、干からびちまった者どもに、任せておけばよいのですから。(必ずしも実年齢を意味しません。十代でもそんな人はよく見かけます。)
 ではさっそく、皆さまも、
   また、いくつか作ってみましょうか。

     「俺様も参加するぜ」
めろんぱん
   ちぇっなんだよ あんこかよ
  食ってられっか ビール飲ませろ
          いつもの彼方

 やれやれ、大分下卑てきました。
  ところで「よしゑやし」という表現は、
   「ああ、もういい」「どうとでもなれ」
  といった連語ですが、
 万葉集でしばしば目にするので、
  二首ほど比べてみようかと思います。

あかときと
  鶏(かけ)は鳴くなり よしゑやし
    ひとり寝(ぬ)る夜は 明けば明けぬとも
          よみ人しらず 万葉集11巻2800

夜明けが始まると
 にわとりが鳴いていやがる
  ああ、勝手にするがいいさ
   ひとりで寝ている夜は
  明けるなら明けちまえ

 例えば、三句目に「枕詞(まくらことば)」[ある特定の言葉を導くために決められた、多くは五文字の修飾語]を使用して、異なる文脈の「上の句」と「下の句」を、橋渡しするような方針は、万葉集でよく見られるのですが、これはその代りに、「ああ、もういい」というひとり言を、そのまま使用したものです。

 詰まるところは、恋人がいないので、夜が明けたからといって、別れの寂しさもないものですから、「別に構わない、勝手にしろ」と言っている。その焦点として、三句目の「よしゑやし」は置かれているのです。

 一方では、おもての内容から、ニワトリが鳴く時刻まで、詠み手が眠れずに、寝床でごろごろしながら、片思いにでも悶(もだ)えていた。そんな情況が推察されるものですから、「よしゑやし」といういらだちは、この短歌の心情表現として、効果的であると言えるでしょう。

 ただそれを、あまりにも当事者の、その場の心情そのままに詠みなして、「よしゑやし」と吐いてしまったものですから、詠み手のいらだちが、たまたま三十一字になっただけのように、つまりは「つぶやき」そのものであるように感じられ、短歌という詩型によって、作品として残されるべき、必然性を乏しくしているのも事実です。

 つまり、慣れない人が聞いても、理由は良くは分からないけど、それほど価値があるようには聞こえないのは、それがあなたの語り言葉と、(古語のことは横に置いて、)何も変わらないからに過ぎません。それだけに分かりやすくて、受け止めやすい内容ですが、詩として残されるべき、存在意義をあやうくしてもいる訳です。

  しつこく繰り返しますが、
 わたしたちが個人で、みずからの心象を残しておく短歌としては、存在意義など気にせずに、このように思ったことを、三十一字(みそひともじ)にまとめてみるのが良いのです。言葉をこね回したり、添削したりされたりして、欣喜雀躍(きんきじゃくやく)[まるで雀がおどるみたいに喜ぶこと]するような、非文学的活動に比べたら、はるかに芸術的な営みのうちに、身を委ねていると言えるでしょう。けれども、もし、それ以上のものを作りたいと思ったら……

 伝えたい思いをないがしろに、
   言葉をもてあそぶ蛇の道ではなく、
     ゆたかな思いを込めるがままの、
       かけがえのない短歌に詠みなして、
     わたしたちの道を、歩んで行きたいものですね。

よしゑやし
  恋ひじとすれど
    秋風の 寒く吹く夜(よ)は
  君をしぞ思ふ
          よみ人しらず 万葉集10巻2301

ああ もういい
  恋なんかするもんか
    (そう思いながらも)
 秋風の 寒く吹く夜にはまた
   あなたことを 考えてしまうのでした

  先ほどの「よしゑやし」とは異なり、
 こちらは「ああもう恋なんかするか」と、上の句が提示した主観は回想へと移り、そうは思っても「秋風が寒く吹く夜は」と、自らの状況を客観的に捕らえつつ、最後の取りまとめも、「やっぱり君が好きだ」といった主情には走らずに、「あなたの事を考えます」と改まった表現にすることによって、上の句の「ああもうどうにでもなれ」という主観と、ちょっとだけ引いた客観性のバランスが保たれている。
 このあたりこそ、
  初学の、手本とすべきところでしょう。

 ところで、手本というと真似るものだと思うかも知れませんが、小手先に真似ても意味がないのは、「それらしいもの作成委員会」の例を見ても明らかです。ただ、このような表現もあるということ、例えばこの和歌を何度も唱えて、心の隅にでも留め置かれたら、ある時あなたの記した言葉のなかに、ふと生きることもあるだろう。そのくらいの手本です。

 だからといって、実際にある短歌を手本に、似たような落書きをすることも有用です。ただ自分の表現としてこなれない限り、そのなれの果てが、まがいものしたオブジェに過ぎないことを、分かってさえいれば十分です。なにを遣っても、そうそうマイナスになることはありませんが、唯一の過ちは、みずからの本当の言葉と、そうでないものの区別が付かないことでしょうか。そのことを忘れなければ、踏み外すこともないだろうと思います。

 そのような訳で、先ほどの真似でも構いませんし、みずからの独創でも構いません。次に向かう前に、それ自身で完結している「短い投げかけの言葉」を利用して、いくつか短歌を詠んでみましょう。
 文法の勉強ではないので、感動詞である必要はありません。もちろん「おいおい」「はいはい」「こんにちは」などを使用しても良いですし、「そうですか」「知りません」「ご勝手に」など、ひと言くらいの独立語を使用しても構いません。もっと簡単に言うなら、とにかくひと言で返す表現を、折り込んで詠めばよい訳です。


こんにちは
  となりの垣の 鳳仙花
    水やりするは 還暦のひと
          時乃遥

風を痛み
  我が魂と 唄ったら
    うっせえタコと 風呂で怒鳴られ
          いつもの彼方

       急に静まる 湯気のわびしさ
               時乃旅人

言葉の繰り返し

[朗読ファイル その五]

 類似の言葉や、同じ言葉のくり返しは、詩を様式化する際の常套手段ですが、これほど短い詩型ですから、中途半端に使うと、おなじことを繰り返して、内容を乏しくしただけ、という失態にもなりかねません。それを、手っ取り早く理解するためには、わたしの解説などよりも、またちょっと立ち止まって、同じ言葉を二度、三度くり返しながら、自分で短歌を詠んでみるのが一番です。

 つまりは、
  「春ですね」「春ですね」やら、
    「春ですね」「春なのです」といった、
      同じような言葉を繰り返すやり方です。
   さっそく試して見ましょう。


秋ですね 食欲の増す 季節です
  食欲の増す 季節なのです

もう三時 あいつはこない
  もう三時 もう許さない
    許してやらない

 どうでしょうか、
  読み返してみると、
   くどくどしいところが残りませんか。
    もし、そうでなければあなたには、
   ここでのお話しは、必要ないかと思われますが、
  次に『万葉集』の例を見てみましょう。

天の原(あまのはら) 振(ふ)り放(さ)け見れば
  天の川 霧立ちわたる
    君は来(き)ぬらし
          よみ人しらず 万葉集10巻2068

天空を 振り仰ぎ見れば
  天の川には 霧が立ち渡っている
    (あれは櫂のしずくかもしれない)
  あなたが来たようです

 これは同じというより、類似の表現ですが、
   「天の原 振り放け見れば 川霧の」
くらいで十分なところを、くどくどしく言い直した感じが濃厚です。逆に「天の川霧立ちわたる」とするなら、冒頭の「天の原」は必要ありません。「天の原」「天の川」にそれぞれ続く文章が、効果的な対比であったり、同じ韻を踏むなり、同型反復の面白みが勝るようだと、言葉のリズム遊びが生きてきますが、それすらないので、安易に言い直したように響きます。

 しかもこの和歌は、冒頭の内容だと、地上から天空を振り仰ぐようなイメージなのに、下の句の内容は、天の川を渡ってきた彦星を待つ、織り姫のイメージになっていますから、なおさら焦点が定まらず、したがって「天の原」「天の川」の反復が、詩の内容を悪くしてしまっている。それで、なおさら空しく響くようです。
 そのため頭で解釈をしなければならなくなって、織り姫があらためて見渡したら霧が立っていたとか、天の川が霧に包まれたように見えるころ、結句だけは地上のあなたを待っていたとか、余計な判断をしなければなりませんから、はぐらかされたような印象が残ります。

海底(うなぞこ)に
   眼のなき魚(うを)の 棲(す)むといふ
 眼の無き魚の 恋しかりけり
          若山牧水(わかやまぼくすい) 『路上』

海の底には
  眼のない魚が 棲んでいるという
 眼のない魚は 恋しいものです

  ついでなので、これは近代のもの。
 くり返しのリズムとしては、必ずしも悪くない例ですが、上の句の提示が、非日常的で想像力に訴える、つまりは魅力的であるがために、下の句への期待が高まるところへ、ただの同型反復から恋しいと締めくくってしまうので、聞かされる方は不本意なままに放置される。つまり着想の物足りなさを、誤魔化したような印象が残ります。もう少し具体的に言うなら、くり返しのリズムよりも効果的なもの、下の句を駆使すれば、得られたであろう可能性を、生かし切れなかったのが不満です。

秋萩に 置ける白露
  朝な/\ 玉としぞ見る
    置ける白露
          よみ人しらず 万葉集10巻2168

秋萩に 置かれた白露を
  朝が来るたびに 真珠みたいに思うよ
    置かれた白露を

  「秋萩に置かれた白露。それは朝ごとに、
    白玉のように眺める、白露である」
と白露を二度定義しながら、一度目は場所を、二度目は日時と、自らの行為を述べている。構図が定まっているうえに、普通なら最後を「白露である」と締めくくりそうなところを、
  「秋萩に置かれた白露。それは朝ごとに、
     白玉のように眺める、置かれた白露」
と二句目と韻を踏むことによって、完全に様式化された、すきのない構造物になっています。それでいて、内容は謡いものみたいに、素朴で明快で、なんの憂いもない。それだから、言葉を繰り返した事が、生きていると思われます。

 ただし、傷があったとしても、こちらよりも、「眼のなき魚」の方に引かれる人はいるかと思われます。それはむしろ、思いついた着想の勝利、ではないでしょうか。自分が好きだと思う気持ちは、私のたわごとなどに耳を貸さず、心からそうでないと思うまでは、大切になさったらよいかと思います。

  ところで「眼のなき魚」の短歌、
 自分でもどうしたらよいか考えていて、気がついたのですが、若山牧水もそのことを自覚していて、結句をどのようにするか悩みに悩んで、あきらめて妥協したのではないでしょうか。四句までがすばらしい表現なのに、その結句にすべき言葉が、なかなか見あたらないのです。それで結局、何らかの妥協をせざるを得なくなってしまいます。もしよろしかったら、あなたがたも、結句を考えて見るのはいかがでしょう。もはやそれは、初心者のための、宿題にはなりませんが……

海底(うなぞこ)に
  眼のなき魚の 棲むといふ
 眼のなき魚の 棲める水底(みなぞこ)

 お粗末さまでした。

               (つゞく)

2016/05/03
2016/05/16 改訂
2017/02/02 朗読掲載

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