歌う百人一首 005番「奥山に」

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歌う百人一首 005番「奥山に」

小倉百人一首 005番「奥山に」

奥山に
  もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の
 声聞く時ぞ 秋はかなしき
          猿丸大夫(さるまるたいふ/だゆう)

[奥山へと
   もみじを踏み分けながら入って
  鳴いている鹿の
    声を聞く時こそ
      秋はかなしいものですね]

 作者の猿丸大夫は、古今和歌集の序文にいにしえの歌人として登場するものの、詳細不明な人物で、ここに紹介されている和歌も、古今和歌集においては「よみ人知らず」とされています。序文で登場させた歌人の作品を、あえて「よみ人知らず」にするのも変な話です。この和歌は『寛平御時后宮歌合』『新撰万葉集』でも「よみ人知らず」になっていますから、むしろ「よみ人知らず」の和歌が、後に猿丸大夫に結びつけられただけのようです。

 鳴く鹿は、妻をもとめる牡鹿の鳴き声が特徴的なので、秋の風物詩とされているものですが、例えば「秋の悲しさ」を詠めと言われて、「奥山」「紅葉」「鳴く鹿」と、わびしさを誘うところを持ち込みながら、それを「目には青葉山郭公初松魚」のようにただ並べただけでなく、まるで鹿が妻をもとめて奥山へ踏み入るように「もみぢ踏みわけ」と動的に捉えたところに、下句の「声を聞く時」という情景が、臨場感を持って感じられます。

 そうしてやはり4句目の「声を聞く時」という設定から、それを余所に聞いて秋を感じている詠み手の姿が浮かんできます。決して、妻をもとめてにしろ、侘びをもとめてにせよ、自らがもみぢを踏み分けて、奥山をあゆんでいる訳ではありません。それでも、それが聞こえるくらいの近しさにはあって、そうしてそれを聞きながら秋を悲しんでいる。

 この詠み手と鹿との距離感においても、初句の「奥山に」が重要な役割を果たしています。その声は、むしろ遠くから響いてくるのであって、しかも「もみぢ踏みわけ」奥山に向かう鹿の印象が、一方では詠み手に「人恋しさ」(鹿にとっては鹿恋しさですが)をつのらせると同時に、自分に寄り添う声であるよりは、乖離した鳴き声の様相を強くして、それが秋の寂寞感を誘うようです。

現代語パラフレーズ

奥山に
  もみじ踏みわけて 鳴く鹿の
 声を聞く時 秋のかなしみ

大和物語へのいざない

 鹿との距離感が大切なら、リリシズムにおいては百人一首のものが勝りますが、スケールの大きさとユニークさなら、『大和物語』の「檜垣の御(ひがきのご)」の和歌がすぐれています。

 もっともこちらは、貴族たちに無茶ぶりをされて、あり得ない上の句を出されて、「下の句をつけてみろ」と言われたときの切り返しですから、百人一首のような完成された作品としての詩興よりも、即興的な機知を感じさせるものですが、それでもリリシズムもこもります。そうしてユニークです。

大和物語128段「秋の山辺やそこに見ゆらむ」

2018/09/02

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