小倉百人一首の朗読 三

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二十一

今来むといひしばかりに長月(ながつき)の
有明(ありあけ)の月を待ち出でつるかな
    素性法師(そせいほうし)

・今来るよとあなたが言ったばかりに長月(旧暦九月)の、夜更けて昇るという有明の月を、待つことにもなってしまったのです。(あなたに逢うために……)

  今来ると言われたばかりに長月の
  有明の月を待ちわびるのです

二十二

吹くからに秋の草木のしをるれば
むべ山風をあらしといふらむ
    文屋康秀(ふんやのやすひで)

・吹くやいなや、秋の草木の萎れてしまう。なるほど、山おろしの風を嵐といって、草野を荒らすと掛けるのだろう。

・「あらし」に「嵐」と「荒らし」を掛けている。また「山風」が「嵐」の分解であるともいう。

  吹くやいなや秋の草木も萎れれば
  その山風をあらしと呼ぶのだ

二十三

月見れば千々に物こそ悲しけれ
わが身ひとつの秋にはあらねど
    大江千里

・月を見れば、限りなく物悲しさが湧いてくる。私ひとりのための秋ではないのだろうが。(まるで私のための秋のような気がしてならないのだ。)

・効果的な倒置の例。上の句、下の句を逆にすると普通の文章になる。別にたいしたこっちゃない。

  月見れば千々に求める哀しみを

  わたしひとりの秋ではなくても

二十四

このたびは幣(ぬさ)も取りあへず手向山(たむけやま)
紅葉の錦(にしき)神のまにまに
    管家(かんけ)

・このたびの旅は、神に祈るための幣(ぬさ)さえも取りそろえることもなく(奈良山の)手向山にまで来てしまいました。幣を捧げるというこの山に。ですから美しい紅葉の錦織りなすところを、神のまにまに捧げたいと思うのです。

・「たび」が「度」「旅」の掛詞。「幣」は道の神である「道祖神」に奉るための切幣(きりぬさ)(色とりどりの紙切れ布きれくらい)で、幣束のしっかりしたものではないらしい。だから紅葉葉に合わさるのだろう。「まにまに」の後ろに捧げるの意味が省略されている。

  このたびは幣も持たずに手向山
  紅葉の錦を神のまにまに

二十五

名にし負はば逢坂山(あふさかやま)のさねかづら
人に知られでくるよしもがな
    三条右大臣(さんじょうのうだいじん)

・「さ寝(共に寝る)かずら」という名前すら背負っているほどの、逢坂山(滋賀県大津市)の「さねかづら(ツタで広がる薄い色の花、真っ赤な実で知られる植物)」。そのツタを手繰られるみたいにして、あなたのもとへ行く方法があったらなあ。

・「逢坂山」には「逢う」が、「さねかずら」には「さ寝(共寝)」が、「くる」には「来る」と「繰る」が掛け合わされている。「来る」は女性側から見た「来る」であるというが、異説もある。

  名を負うなら逢坂山(あふさかやま)のさねかづら
  人に知られず手繰り会えたら

二十六

小倉山峰のもみぢ葉心あらば
今ひとたびのみゆき待たなむ
    貞信公(ていしんこう)

・(京都市の)小倉山の峰のもみじ葉よ、お前どもに心があるならば、今一度あるはずの天皇のみゆき(行幸)を待っていて欲しいものだ。

・宇田上皇が藤原忠平をかいして、息子の嵯峨天皇の行幸を誘い込んだ時の歌。上皇の行幸に続いて行われる、天皇の行幸まで散るのを待って欲しいと歌っている。

  小倉山峰のもみじ葉心あれば
  今ひと度の行幸(みゆき)を待ってよ

二十七

みかの原わきて流るるいづみ川
いつ見きとてか恋しかるらむ
    中納言兼輔(ちゅうなごんかねすけ)

・(京都府の)みかの原を分けるように、湧きて流れるいづみ川(今の木津川)。その「いつ見」の名称のように、いつ見たからといって、あなたが恋しいのであろうか。

・上の句が「いつ見」に掛かる序詞。また「わきて」には「分けて」 と「湧いて」の意味が掛詞。

  みかの原湧けば流れるいづみ川
  いつ見てからか恋しさつのるよ

二十八

山里は冬ぞ寂しさまさりける
人目(ひとめ)も草もかれぬと思へば
    源宗干朝臣(みなもとのむねゆきあそん)

・山里は冬こそ淋しさがまさるものだ。人目も遠ざかり、草も枯れると思うものだから。

・上の句と下の句が倒置関係。人目で山里への訪問を言い表し、「かれ」には枯れるだけでなく、人目が「離れ」るという意味を掛詞にしている。

  山里は冬こそ淋しさまさります
  人目も草も枯れると思えば

二十九

心あてに折らばや折らむ初霜の
置きまどはせる白菊の花
    凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)

・あてずっぽうに、折れるものなら折ってみようか。初霜の白く置かれて、分からなくなってしまった白菊の花を。(いいや折ることなど出来ませんとも。)

  心のまま折れたら折れと初霜の
  置き迷わせる白菊の花

三十

有明のつれなく見えし別れより
暁(あかつき)ばかり憂きものはなし
    壬生忠岑(みぶのただみね)

・有明の月が夜明けも知らなぬような、そんな素知らぬふりをして女と別れた帰り道、暁(まだ夜明け前のくらいころ)ほどに辛いものはないことである。

  有明のつれなく見える別れから
  暁ほどの憂鬱もないのさ

2010/1/15

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