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・高浜虚子が自ら主催する雑誌「ホトトギス」に、俳句の入門書的な手引きとして、大正二年十一月号(1913年)から「俳句とはどんなものか」に続いて連載されたもの。翌年『俳句の作りやう』として出版。俳句の作り方における入門書として、現在でも有意義なため、朗読を試みんとて朗読するもの。下はインデックスと、要点の本分引用のみ。
・こちらは、自サイトの俳句の作り方のコンテンツ。
⇒「万葉集はじめての俳句の作り方」
まず十七字を並べること
[朗読1]
俳句を作ってみたいという考えがありながら、さてどういうふうにして手をつけ始めたらいいのか判らぬためについにその機会無しに過ぎる人がよほどあるようであります。私はそういうことを話す人にはいつも、
何でもいいから十七字を並べてごらんなさい。
とお答えするのであります。
中にはまた、俳句を作るがために参考書も二、三冊読んでみたし、句集も一、二冊読んでみたが、どうもまだどうして作ったらいいのか判らぬという人があります。そういう人には私は、
どうでもいいからとにかく十七字を並べてごらんなさい。
とおすすめするのであります。何でもかまわん十七字を二、三句並べてみて、その添削を他に請うということが、俳句を作る第一歩であります。謡を習うのでも三味線を弾くのでもまず皮切[(かわきり)最初にすえるお灸のこと、そこから、「物事の始め、手始め」]をするということがその芸術に足を踏み入れる第一歩でありますが、実際はこの皮切がおっくうなために、句作の機会を見出(みいだ)しかねておる人が多いようであります。
とにかく十七字を並べてみるに限ります。けれども十七字を並べるというだけでは、漠然として拠(よ)り所がないかもしれません。それで私はとりあえずこうおすすめします。
「や」「かな」「けり」のうち一つを使ってごらんなさい、そうして左に一例として列記する四季のもののうち、どれか一つを詠んでごらんなさい。
元日 門松 萬歳 カルタ 松の内 紅梅 春雨 彼岸 春の山 猫の恋 時鳥(ほととぎす) 牡丹(ぼたん) 清水 五月雨 富士詣(もうで) 七夕 秋風 目白 椎(しい)の実 秋の暮 時雨(しぐれ) 掛乞(かけごい) 牡蛎(かき) 枯尾花 鐘冴(さ)ゆる
こう言ってもまだ諸君は、どんなふうに十七字にするのかちょっと見当がつかないのに困るかもしれません。そこで私は無造作にこれを十七字にするお手本をお見せしましょう。
[作例の後]
私は出まかせにこれらの句を作ってみました。少し俳句を作ったことのある人から見たら、あまりやりっ放し過ぎると言って非難されることと信じますが、俳句が決してむずかしいものでなく、無造作にできるものであることを明らかにするために、もっとも手近い例としてこういう句作を試みてみたのであります。いい句を作ってお目にかけたのではなく、無造作に作ってお目にかけたのです。もし今までおっくうに思われていた方々も、こういう実例を見て、それでは一つおれも試みてみようかという気になられたならば、結構なのであります。
季題の一例として私は二十五題を前に揚げたのでありますが、季題はまだこのほかにいくらでもあるのであります。それは季寄(きよせ)なり歳時記なりをごらんになったらすぐ判ります。
切字(きれじ)の一例としては「や」「かな」「けり」の三つを前に揚げて、私はこの三つの作例をお目に掛けたに過ぎませんが、切れ字もなおこのほかにいくらでもあります。それも古人なり今人(こんじん)なりの句集をごらんになったらすぐお判りになります。「俳句とはどんなものか」でも申し上げましたように、意味と調子との切れるために使われた動詞なり副詞なりが、たいがい切字として用いられるのであります。
[その例の後]
近来俳句についての拘束を打破してかかることを主張するものがありますが、詩壇には何の拘束もない別の天地のあることを忘れてはいけません。拘束のない自由の天地を喜ぶ人は広い詩壇にはいるのがよいではありませんか。比較的拘束の多い俳句の天地にはいって強いて拘束打破を称(とな)えるのは愚かなことであります。私は十七字、季題という拘束を喜んで俳句の天地におるものであります。この拘束あればこそ俳句の天地が存在するのであります。いったん俳句の門に入って後にはまた格に入って格を出(い)ずるの法もあります。狭いはずの十七字の天地が案外狭くなくって、仏者が芥子(けし)粒の中に三千大千世界[(さんぜんだいせんせかい)仏教において、すべてを内包する世界すべてのこと]を見出(みいだ)すようになるのであります。
題を箱でふせてその箱の上に上って天地乾坤を睨めまわすということ
[朗読2]
俳句はどういうふうにして作ったらいいのか、といってたずねる人があったら、どうでもいいから作ってごらんなさいと、とりあえずお答えするのでありますが、それにしても何か頼るところがなければ作りようがないではないかと呟(つぶや)かれる人が多うございます。今回はそのたよるところのものを一つお話ししてみようと思います。
たとえばここに「年玉」という一つの題を得て句を作るという時分に、どうしたら年玉の句ができるでしょうか。「年玉や」とか「年玉かな」と言ったところでどうもそれだけでは句にならん、何とか方法はないか、という時に、そこに大体二つの方法があると言ってさしつかえないと思います。
その方法をお話しする前に、とにかく年玉というものを考えてみることをおすすめいたします。というのは主として年玉についての過去の経験を考えてみるのであります。記憶を辿(たど)ってみるのであります。[以下省略]
[作例の後に]
価値問題は別として、とにかく十七字の形を備えた俳句らしいものができぬことはないのであります。
が、しかし私のお話ししようと思う二つの方法というのは、いずれもこんな句よりはせめて一歩先に歩を進める方法なのであります。その方法は二つあるから、どちらか一つを取ってごらんなさいとおすすめしようというのであります。他の一つは次章にゆずり、その一つの方をお話ししようと思います。
昔芭蕉の弟子に許六(きょりく)という人がありました。その人が句作法としてこういうことを言っています。
ある題を得たならば、その題を箱でふせて自分はその箱の上に上り、天地乾坤(けんこん)を睨(ね)めまわすがよい。
[中略]まず一応年玉のことは忘れてしまうがいい、年玉は箱でふせて、それは見ぬようにして、さて天地乾坤を見渡してみて何か別の面白いものを見出してこい、[中略]年玉のいい句を作るのには、あまり年玉に拘泥し過ぎていると動きがとれなくなってしまってつくりにくいから、それよりもいい配合物を求めるがいい、そうしてその配合物と年玉とを結びつけて句を作るがいい、とこういうのであります。
[作例の後]
こうやってでき上がった句と、前に年玉についてのただ古い知識や経験やをたどって作った句とをくらべてみると、少なくとも年玉ばかりを考えていたのでは思いもつかない趣向をこの配合法によって得るということだけは照明ができたことと考えるのであります。
こういう句作法は、感興とか感激とかをもととする方面の作者からいうと、まことにあきたらない句作法で、自分の脳裏から生まれ出たものでなく、何だか借り物らしい心持がすることと考えますが、それは必ずしもそうではないのであります。[中略]その作者の頭脳の働くことは材料一切を頭の中からしぼり出した場合と決して径庭(けいてい)[隔たりのはなはだしいこと。かけ離れていること]はないのであります。[中略]
この配合法の得は陳腐、平凡を避けやすいという点にあります。しかしながらその弊は身に沁(し)み込むような趣の深い句はどうしてもできにくいという点にあります。[以下略]
じっと眺め入ること
[朗読3]
芭蕉の弟子のうちでも許六(きょりく)という人は配合に重きを置いた人で、題に執着しないで、何でも配合物を見出してきて、それをその題にくっつける、という説を主張していることは前章に述べた通りでありますが、それと全然反対なのは去来(きょらい)であります。去来は配合などには重きを置かず、ある題の趣に深く深く考え入って、執着に執着を重ねて、その題の意味の中核を捕えてこねばやまぬという句作法を取ったようであります。
この後者の句作法の方をさらに二つに分けてみることができます。その一は目で見る方で、
じっと眺め入ること
であります。その二は、心で考える方で、
じっと案じ入ること
であります。
まずその「じっと眺め入ること」の方をお話ししましょう。[中略]
この「じっと物に眺め入ること」によって新しい句を得ようとする努力を、写生といいます。
写生というと何でも目で見たものをそのままスケッチすればいいというふうに心得ている人がありますが、そうではありませぬ。[中略]
「じっと眺め入る」ということもやがては「じっと案じ入る」ということに落ちて行くのであります。が、ここにはかりに二つに分けて、その「じっと案じ入る」という方は後廻(あとまわ)しとし、「じっと眺め入ること」について私の経験談の一つを実例としてお話ししてみようと思います。
[その実例の後に]
写生ということは、手帳と鉛筆とをもって野外を散歩すればいいくらいに心得てこの「じっと物に眺め入ること」を軽蔑(けいべつ)している人があるならば、決して正しい意味の写生をすることはできないのであります。[以下略]
じっと案じ入ること
[朗読4]
ちょっと見てすぐ句にするとか、ちょっと考えてすぐ句にするとかいうことは、言葉それ自身が表すように軽薄なことであります。句作をしようとする場合、物を見るには「じっと眺め入ること」が必要であるし、物を考えるには「じっと案じ入ること」が必要であります。「じっと眺め入ること」は前章にお話ししましたから今度は、
じっと案じ入ること
についてお話しをしようと思います。
昔の俳句の大家はたいがいじっと案じ入った人であります。俳句などというものは当意即妙[(とういそくみょう)すぐさまの機転の利くこと。気が利いていること]で頓知(とんち)さえあればできるもののごとく心得ている人がずいぶんありますが、そうではありません。むしろ頓知などという言葉とは反対に、一心にものに案じ入ることによってできるのであります。
芭蕉の弟子にはいろいろの人がありました。が、中でもっとも頓知というようなことに遠かった人は去来(きょらい)のように考えられます。この人の俳句を見るといかにも愚鈍らしいところがみえます。愚鈍といったところで、むしろいい意味の愚鈍でいやに才走ったところは少しもなく、実直な、鈍重な風格を備えているのであります。
近代人の句にはいかなる人の句にもこの鈍重の趣を欠いております。これは時代の相違もあることで、今の人に元禄時代の去来のような句を作れと言ったところでそれは無理かもしれませんが、しかしその鈍重の趣を欠く理由の一つはこのじっと案じ入ることの修業が足りない点があります。
試みに去来の句を二、三句抜き出してきてその辺の消息を少しお話ししてみましょう。
湖の水まさりけり五月雨 去来
これは去来の句といえば誰も第一に持ち出すほど有名な句でありますから、まずこの句について吟味してみましょう。句意はきわめて明白で五月雨の降るころ近江(おうみ)に行ってみると、あの広大な琵琶(びわ)湖の水が降り続く雨のために増しておった、というのであります。
ちょっとみるとただ事実をありのままに言ったものととれますが、しかしよくみると、この句には去来のじっと案じ入った心のあとが力強く引証されています。[中略]ただ湖面を眺めた刹那(せつな)の漢字は雨が濛々(もうもう)と降っておるとか、水が濁ったように見えるとかいう方がむしろ強くって、決して湖水の水嵩が高まったというような感じはそう強いものとは考えられません。[中略]ただぼんやりと広漠たる湖上に眺め入って、同時に降り続くこのごろの五月雨のことに案じ入って、「こう降ってはこの湖水の水も増すであろう」と考え、そう思って見るともう湖水の水が一尺も二尺も膨れあがっているように感じられ、その時去来は、
湖の水まさりけり五月雨
というこの句を得たものであろう、とこう考えるのであります。[以下略]
埋字(一)
[朗読5]
かりそめにも俳句を作る以上は古人のやらなかった境地に足を踏み込まなければ駄目だ、とこういう議論に私は反対いたしません。けれどもそれは初めただ一生懸命にやっているうちに、自分の予測しなかったほど心眼が明らかになってきて、今までほとんど意識せずにやってきたことがすでに古人の範疇(はんちゅう)を脱して、一境地をひらいておったというようなのがいいのでありまして、鈍根(どんこん)[性根の鈍いこと。才知の鈍い性質(対義語:利根)]はいくらやるつもりでかかって何もできないで終るのであります。[中略]
「清さん。」
と子規居士(こじ)は振りかえりました。
「何ぞな。」と私は居士の顔を見つめました。今までは写生句を作ることが唯一の目的で、二人は手帳を出してはできた句を書きつけ書きつけしてほとんど無言で歩いておったのであります。
『鍋提げて』という上五字があるとしてその下に十二文字をくっつけてごらん。どうでもいいから、冬の季でも春の季でもかまわん。まあ作ってごらん。[中略]
鍋提げて淀(よど)の小僧を雪の人
居士はこの句を示しまして、
「その初めの五字を取った『鍋提げて』なんかちょっと思いもよらん言葉のように思われるけれど、こういうふうに句になるところをみるとそう不自然にも思われん。この句はおおかた写生句だろうと思う。実際淀の小橋を鍋提げて通りつつあったのを見て作ったものであろう。けれどもその初五字の『鍋提げて』だけを抜き出してきてみると、ちょっと尋常ではない言葉のように思える。お前の句にしたところで、『田螺掘るなり町外れ』だけでは平凡だが、その前に『鍋提げて』と置いてあるためちょっと変わった句になっておる」
こんなことを話して居士は笑いました。私もこのことに興味を覚えて、それからつづけさまに、写生のことはそっちのけにして、その日はこの種の句作のみに耽(ふけ)りました。あるいは上五字と下五字とを聞いて中七字を案じたり、上十二字を聞いて下五字を案じたり、下十二字を聞いて上五字を案じたりしました。それは多くの場合けっして原句よりもいい句はできませんでしたが、それでもとても普通の句作では思いもつかぬ意外な言葉を見出したり、また意外な辺に考えが飛んだりして、句作の修練の上には得るところが多ございました。ことに古人の、句を作る上に決して一言半句をもいやしくもしていないということが、それらによっても証明されました。もし古人の措辞[(そじ)詩や文章などの言葉の使い方]が十分の推敲(すいこう)を経ていないものであったら、中には古人の句よりもいい句ができる場合もありそうなものでありますが、それはほとんど絶無であったのであります。
たとえば
大名をとめて○○○の月夜かな
この欠字になっているところをなんでもいいから植物の名前で埋めてみよ、ということであって、私はいろいろの植物をもってきましたが、居士は、どうしても大名らしいという点から原句に及ばぬ、もっと考えてみよ、といって承知しませんでした。そうして私の言ったうちでは比較的「牡丹(ぼたん)」「芭蕉(ばしょう)」などがその感じに近いところがあると言いました。
大名をとめて牡丹の月夜かな
大名をとめて芭蕉の月夜かな
それからもう一歩一歩と大名にふさわしい植物を尋ねて行きましたが、どうしても考えがつきませんでした。とうとう最後にこれは「蘇鉄(そてつ)」であると聞いた時になるほど蘇鉄でなけりゃならぬ、たしかにそれは動かぬところである、とつくづく感心したことでありました。
大名をとめて蘇鉄の月夜かな
蘇鉄は厳として盤石(ばんじゃく)の如く動きません。[中略]
私はここに左の問題を出しておきますから、志のある人はこれに応じてめいめいの作を寄せてごらんになったらよかろうと思います。
大蟻の○○○○○○○暑さかな
右の句の中七字を埋めること。たとえ原句を知りおる人も原句と違う文字を埋めてみるべし。
蟻の道○○○○○より続きけり
右の句の欠字を埋めること。注意前句と同様。
生きて世に……………………
右上五字として、その他は自由に句作すべし。注意前句と同様。
埋字(二)
[朗読6a 「大蟻の」]
[朗読6b 「蟻の道」「生きて世に」]
[前回の問題に対して寄せられた句に対する解説の章]
古い句を読むこと 新しい句を作ること
[朗読7]
古人の句を読む方がようございますか、作る方がようございますか、という質問を私はしばしば受けます。
今の若い人たちの頭に一つの大きな迷いがあります。あらゆる芸術を通じてそれがあるのであります。それは何かと申しますと「新」ということであります。それらの若い人たちは何でも新しければいいと思っています。新しいことを私も悪いとは申しませぬが、果たして「何が新しいか」ということも十分に研究せずにただ新しければいいと思っている人が十中八九であります。
新しいと申すことは古いことを十分に研究した上で申すべきことでります。「新」ということは相対のことであります。十分に古いことを研究せねば何が新しいのだか古いのだか判ろうはずがありません。初めて俳句を作るものが俳句の約束をも了解せずにただ文字を羅列して新しがったところで、一般の俳句界には通用しないことであります。伝統文芸としての従来の俳句の真価を了解せずにおいて、「ただ自然より直接に新しいものを探り来たれ」と言ったところで、世間に通用しないことであります。新しいということは古いものを熟知した上で初めて意味ある言葉となるのであります。「古人の句を見ることなかれ」ということはとりもなおさず、いずれが新、いずれが陳かの研究をすることなかれ、ということであります。これほど無意味な言葉はないのであります。
そこで結論はきわめて簡単であります。新しい句を作ろうと思えば古人の句先輩の句を読まねばなりません。十分に古人の句先輩の句を研究して古人や先輩はどういう俳句を作っておったかということを研究して、それからその古人や先輩の手の及んでいなかった方面に手をつけて新しい句を作るようにしなければなりません。「古人の句に接するな。古人の句を読むな」ということは、この点から申しますと「新古の判断さえつかぬ人になれ」ということになるのであります。先人の足跡を踏まぬという心掛けは結構でありますが、その先人の足跡を十分に究めぬということは非常な不覚であります。すなわち新しい句を作るという立場からいって、ぜひとも古い句先進の人の句を研究しなければならないのであります。[中略]
私はどうでもいいからただ十七字を並べてご覧になるがよかろうということをまず一番に申し上げました。それはいつも躊躇(ちゅうちょ)して空しく歳月を過ごしてしまう人のために、ともかく十七字を並べてご覧になることをおすすめいたしたのであります。その上はじっとものを見、じっと物に案じ入り、十分に自然の研究をすることが何より大事と存じます。しかもただ自然を見、自然を玩味し来ったかということをも十分に調べてみて、まず古人の門下生となり、しかして藍(あい)より青い古人以上の立派なお弟子になる心掛けが肝要であります。[終わり]
2011/2/10-3/1