松尾芭蕉 「奥の細道」 の朗読

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おくのほそ道(松尾芭蕉)朗読

・原文の題は、「奥の細道」ではなく「おくのほそ道」とされる。

・原文に句読点、カギ括弧、段落などは存在しないので、これらは便宜上のものに過ぎません。

・テキストのうち、[緑色]は意味の説明、青文字は本文ではなく、意味を読み取りやすく補った言葉。

・朗読は角川書店「ビギナーズ・クラシックス」の「おくのほそ道」による。すべてにルビが振られ、内容も非常にうまくまとめられた導入用のおすすめの一冊となっているため。テキストの底本は、角川ソフィアの「新版 おくのほそ道」に寄るところの西村本にもとづく。原典版など考えると、わたくしの金と時間が儚くも足りないため、やむを得ずする処置なり。歴史的仮名遣いについても、今日学究的に正しいとされることが、芭蕉の時代に正しかったのであるかなど考えると、はなはだややこしくなるので、「歴史的仮名遣い」なるものに従うつもりなり。おまけに、本来は存在しない章の名称などは「新版 おくのほそ道」に寄る。

・どうでもよいが、角川書店「ビギナーズ・クラシックス」の「おくのほそ道」の199頁における「ここそさうそつ」のルビは「こころさうそつ」の誤りではないだろうか。133頁にも「船を下す」のルビに「ふたをくだす」とある。単なる誤植か? ちなみに、うちにあるのは十八版発行也。

朗読ファイルについて(見出し)

[1] 出発~栃木県那須まで
[2] 福島県白河~宮城県岩沼まで
[3] 宮城県仙台~宮城県石巻まで
[4] 岩手県平泉~山形県酒田まで
[5] 秋田県象潟(さきがた)~石川県山中温泉まで
[6] 石川県山中温泉~最後まで

 李白の詩にもあるように、月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行かふ年も又旅人也[李白の「春の夜に桃李園(とうりえん)に宴するの序」による]舟を操る者は舟の上に生涯をうかべ、馬方など馬の口とらへて老をむかふる物[物=者]は、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。李白・杜甫・西行・宗祇といった古人も多く旅に死せるあり。

 予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)[ちぎれ雲、はぐれ雲]の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、旅に出ては海浜(かいひん)にさすらへ、上方への旅より戻った去年(こぞ)の秋[「笈の小文」「更科紀行」などを残す旅行から戻った元禄元年(1988年)の秋]深川の我が家である江上(かうしやう)の破屋(はをく)に、蜘(くも)の古巣をはらひてやゝ年も暮、年も改まって春立る霞の空に、陸奥の入口である白河の関こえんと、得体も知れず気持ちを揺さぶるというそゞろ神の物につきて心をくるはせ、旅路の安全を司るという道祖神(だうそじん)のまねきにあひて取もの手につかず、ついにはもゝ引の破(やぶれ)をつゞり、笠の緒付かへて、足を鍛える灸所ともいう三里に灸すゆる[「すうる」の誤りか]より、松島の月先(まづ)心にかゝりて、住る方(かた)は人に譲り、さっそく弟子の杉風(さんぷう)[杉山杉風(1647-1732)魚商人]が別墅(べつしよ)[下屋敷、芭蕉庵の近くにあった]に移るに、

草の戸も住替る代ぞひなの家

(華やかさと縁遠かった私の草庵も、人を住み替えて、今度は子供もあろうか、ひなまつりの家ともなればこそ)[ひな=春]

面八句(おもてはちく)[百韻連句における発句から始まる最初の八句]を庵の柱に懸置(かけおく)。

旅立

 弥生(やよひ)も末の七日(なぬか)[陰暦3月27日、西暦1689/5/16]、明(あけ)ぼのゝ空朧々(ろうろう)としておぼろげに、月は明けゆくなかに残るという在明(ありあけ)の月にて光おさまれる物から[源氏物語の一節、正しくは「光をさまれるものから」ひかりの薄れていく様をさす]、不二(ふじ)の峰幽(かすか)にみえて、上野・谷中(やなか)といった名所の桜の花の梢(こずゑ)、又いつかは見ることも出来ようかと心ぼそし。

 むつまじき友人らかぎりは、宵よりつどひて、共に舟に乗て送る。千じゆ[=千住・今日の東京都足立区]と云(いふ)所にて船をあがれば、前途(せんど)に広がる旅路三千里のおもひ胸にふさがりて、幻(まぼろし)のようにはかないこのちまたに離別(りべつ)の泪(なみだ)をそゝぐ。

行春や鳥啼(とりなき)魚(うを)の目は泪

(去りゆく春を惜しんで、鳥は啼き、魚の目にはなみだの溜まるように、皆はこの離別を惜しんでくれたことであるよ)[行春=春]

 是(これ)を携帯用の筆記用具である矢立(やたて)の使用によって旅記に記す初(はじめ)として出発しようとするも、行道(ゆくみち)なほすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄(まで)はと見送なるべし。

草加

 ことし、元禄二とせ(ふたとせ)[1689年]にや。奥羽長途(あううちやうど)の行脚(あんぎや)[徒歩で巡り歩いて修行する・旅をすること]、只(ただ)かりそめに思ひたちて、遙かかなたの呉天(ごてん)[中国、呉の国の空]向かえばやがては年老いるであろう白髪の恨(うらみ)を重ぬといへ共(ども)、噂や知識としては耳にふれて、いまだ自分ではめに見ぬさかひを旅して、若(もし)生て帰らばどれほどすばらしいかと、定なき頼(たのみ)の末をかけ、其日(そのひ)漸(やうやう)草加[埼玉県草加市]と云(いふ)宿(しゆく)にたどり着にけり。

 痩骨(そうこつ)[やせ細って、骨張った]の肩にかゝれる旅の荷物、先(まず)くるしむ。余計な物を持たずに只(ただ)身すがらに[身ひとつに]と出立侍(いでたちはべる)べきところを、渋紙(しぶがみ)製の防寒着である帋子(かみこ)一衣(いちえ)は夜の防ぎとして荷に収め、ゆかた・雨具・墨(すみ)・筆のたぐひ、あるはさりがたき[辞退しきれない人の]餞(はなむけ)などしたるは、さすがに打捨がたくて、結局は旅行く路次(ろし)の煩(わづらひ)となれるこそわりなけれ[やむを得ない]

室の八島(むろのやしま)

 室(むろ)の八島[栃木県惣社町大神神社(そうじゃまちおおみわじんじゃ)]に詣(けい)す。同行(どうぎやう)の弟子である曾良(そら)[河合曾良(1649-1710)]が曰(いわく)、

「此(この)室の八島の神は、木の花(このはな)さくや姫の神[オオヤマツミの神の娘。ニニギの命(みこと)の妻となり、ホデリ・ホスセリ・ホヲリの命を生む]と申て(まうして)、富士山本浅間神社(ふじやまもとせんげんじんじゃ)と一躰也(いったいなり)。ニニギの命に懐妊を疑われ、扉のない無戸室(うつむろ)に入(いり)てみずからを焼けずと予言して焼(やき)給ふそのちかひのみ中に、火々出見(ほほでみ)のみこと生れ給ひしより、ここを室の八島と申(まうす)。又(また)、煙と言えば室の八島と歌を読習し(よみならわし)侍(はべ)るも、この謂也(いはれなり)」

 将(はた)[ここでは「さらに」「それから」くらいの意味]、『このしろ』[ニシン科の魚で、鮨ネタとしても知られる。成長するとコハダなど呼ばれる。焼くと人体を焼く匂いがするとされた]といふ魚を喰らうを禁ず。そのような縁記(えんぎ)[=縁起]の旨(むね)、世に伝ふ事も広く一般に知られ侍(はべり)し。

日光(にっこう)

 卅日(みそか)、日光山の梺(ふもと)に泊る。その宿のあるじの云けるやう、

「我名を仏五左衛門(ほとけござゑもん)と云。万(よろず)正直を旨とする故に、人かくは申侍(もうしはべる)まゝその名を頂戴しているようなものです。一夜(いちや)の草の枕[草枕(くさまくら)、つまり草を枕とするような旅の仮寝のこと]も、何の気遣いもなく打解(うちとけ)て休み給へ」

と云(いふ)。いかなる仏の濁世塵土(ぢよくせぢんど)[濁り穢れた塵のような世の中]に示現(じげん)[仏教用語。人々を救済するために仏がさまざまな姿でこの世に現れること]して、かゝる桑門(さうもん)[出家して僧となるもの。僧侶]の乞食順礼(こつじきじゅんれい)ごときの私のような人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとゞめてみるに、唯(ただ)無知無分別(むちむふんべつ)にして正直偏固(へんこ)の者也(ものなり)。孔子の云うような剛毅朴訥(がうきぼくとつ)[剛毅は意志が強く挫けないこと。朴訥は質朴で口数が少なく飾り気のないこと]の仁に近きたぐひ、気稟(きひん)の清質[天から授けられた清らかな性質]、尤(もつとも)尊(たふと)ぶべし。

 卯月朔日(ついたち)[四月一日]日光の御山(おやま)に詣拝(けいはい)す。往昔(そのかみ)、比御山を「二荒山(ふたらさん)」と書しを、真言宗(しんごんしゅう)の空海大師(くうかいだいし)この御山を仏山として開基(かいき)の時、「日光(につくわう)と改め給ふ。千歳(せんざい)未来[千年の未来]をさとり給ふにや。今比御光(いまこのみひかり)一天(いつてん)にかゝやきて、恩沢(おんたく)[恩恵、恵み]八荒(はつこう)[東西南北およびそれぞれの間の四方向を合わせて云う。つまり全世界]にあふれ、四民(しみん)安堵(あんど)して暮らせるほどの栖(すみか)穏(おだやか)なり。猶(なほ)憚(はばかり)多くてこれ以上は書き記すことも出来ないほどだと思って、筆をさし置ぬ。

あらたふと青葉若葉の日の光

[東照宮もある修験道の山である日光、その名のように日の光が山々に差し込んで、青葉若葉を照らし出しているのは、仏を拝むような心持ちで尊いようにさえ思えてくるものだ。(季語)青葉若葉ー夏]

 黒髪山(くろかみやま)[日光の主峰である男体山(なんたいさん)のこと]は霞かゝりて、雪いまだ白し。

剃捨て(そりすてて)黒髪山に衣更(ころもがへ)  曾良(そら)

[黒髪を剃り捨て、僧服を纏って旅を始めたわたしの決意。それを思い起こさせるように四月一日、今こそ更衣の季節を迎えたことであるよ。(季語)更衣ー夏]

 曾良は河合氏(かはひうじ)にして、惣五郎(そうごらう)と云へり。私の草庵のトレードマークでもあった芭蕉(ばせう)の下葉(したば)に軒をならべて、予が薪水(しんすい)[たきぎと水。炊飯のこと]の労をたすく。このたび、松しま・象潟(さきがた)の眺(ながめ)共にせん事を悦び、且(かつ)は羈旅(きりょ)の難(なん)をいたはらんと、旅立(たびだつ)暁(あかつき)、髪を剃(そり)て僧服である墨染(すみぞめ)にさまをかへ、惣五(そうご)を改(あらため)て宗悟(そうご)とす。仍て(よつて)黒髪山の句有(くあり)。「衣更」の二字、力ありてきこゆ。

 廿余丁(にじふよちやう)、山を登つて滝有。李白にあやかって云うなら、岩洞(がんとう)の頂(いただき)より飛流(ひりう)して百尺(はくせき)、千岩(せんがん)の碧潭(へきたん)[みどりの淵、つまり滝壺]に落たり。岩窟(がんくつ)に身をひそめ入て、滝の裏よりみれば、「うらみの滝」と申伝(まうしつた)へ侍(はべ)る也(なり)。

暫時(しばらく)は滝に籠(こも)るや夏(げ)の初(はじめ)

[四月半ばから七月半ばまで行われる夏行(げぎょう)、つまりあの夏籠(げごもり)の僧たちをならって、しばらくの間はたわむれに「うらみの滝」の裏側にしぶきを浴びながら、(本格的に打たれるでもなく僧たちの姿を演じるみたいに)籠もっていようか、夏行(げぎょう)の始めの今であればこそ。(季語)夏(げ)ー夏]

那須野(なすの)

 那須の黒ばね[栃木県那須郡黒羽町。当時は一万八千石の城下町だった]と云所(いふところ)に知人(しるひと)あれば、是(これ)より野越(のごえ)にかゝりて、直道(すぐみち)[真っ直ぐ行ける近道]をゆかんとす。遥(はるか)に一村(いつそん)を見かけてそこを目ざして行(ゆく)に、雨降(あめふり)日暮(ひくる)る。農夫の家に一夜(いちや)をかりて、明(あく)れば又(また)野中(のなか)を行く。

 そこに、野飼(のがひ)の馬あり。 草刈(くさかる)をのこになげきよれば、野夫(やぶ)といへども、さすがに情(なさけ)しらぬには非(あら)ず。

案内するだけの暇は無いんだがいかゞすべきや。されども此野(このの)は道が縦横(じゆうわう)にわかれて、うゐ/\敷(うひうひしき)[正記には「うひうひしき」]旅人の迷いに迷って道ふみたがへん。あやしう侍れば[心配ですから、の意味]この馬を貸してやろう、此馬のとゞまる所にて馬を返し給(たま)へ」

と、かし侍(はべり)ぬ。

 ちひさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独(ひとり)は小姫(こひめ)にて、名を「かさね」と云(いふ)。聞(きき)なれぬ名のやさしかりければ[優雅な名前に感じられたので、の意味]

かさねとは八重撫子(やへなでしこ)の名成(ななる)べし  曾良

[この子の名前は「かさね」だってさ。きっと、よく名付けられるみたいに、可憐な花びらを八重に重ねた撫子(なでしこ)の花から付けられた名前に違いないよ。(季語)撫子ー夏]

[ひょっとして女の子は名前を云ったのではなく、馬を「貸そうね」と叫んでいただけだったのではないかと、著しく邪推してしまった。そうでなければ、「貸さねえ」からもう返せコラ、なんてね。]

 頓(やがて)人里に至れば、馬を借りた代金としてのあたひを鞍つぼに結付(むすびつけ)て馬を返しぬ。

黒羽(くろばね)

 黒羽の館代浄坊寺(くわんだいじょうぼうじ)何がしかの方に音信る(おとづる)。 思ひがけぬあるじの 悦び(よろこび)、日夜語(かたり)つゞけて、其(その)弟 桃翠(たうすい)など云が、朝夕勤(つとめ) とぶらひ、自(みづから)の家にも伴ひて、親属(しんぞく)の方(かた)にもまねかれ、日をふるまゝに、 ひとひ郊外に逍遥して、犬追物(いぬおふもの)の跡を一見し、那須の篠原(しのはら)をわけて、玉藻 (たまも)の前の古墳をとふ。   それより八幡宮に詣(もうづ)。 与一扇の的を射し時、「別しては我国氏神正八まん(わがくにのうぢ がみしょうはちまん)」とちかひしも、此(この)神社にて侍(はべる)と聞ば、感応(かんのう)殊(ことに) しきりに覚えらる。 暮(くる)れば桃翠宅に帰る。  修験光明寺と云有(いふあり)。 そこにまねかれて、行者堂を拝す。       夏山に 足駄(あしだ)を拝む 門途哉(かどでかな)      「雲厳寺(うんがんじ)」  当国雲岸寺のおくに、仏頂(ぶっちょう)和尚山居(さんきょの)跡あり。      竪(たて)横の 五尺にたらぬ草の庵(いほ)むすぶもくやし 雨なかりせば と、松の炭して岩に書付(かきつけ)侍りと、いつぞや聞え給ふ。 其跡みんと雲岸寺に杖を曳(ひけ)ば、 人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打(うち)さはぎて、おぼえず彼麓(かのふもと)に到る。  山は おくあるけしきにて、谷道遥に、松杉黒く苔したゞりて、卯月の天 今猶寒し。 十景尽(つく)る所、 橋をわたつて山門に入(いる)。  さて、かの跡はいづくのほどにやと、後(うしろ)の山によぢのぼれば、石上(せきしょう)の小庵岩窟に むすびかけたり。 妙禅師(みょうぜんじ)の死関(しくわん)、法雲(ほふうん)法師の石室をみるごとし。      木啄(きつつき)も 庵はやぶらず 夏木立   と、とりあへぬ一句を柱に残(のこし)侍りし。      「殺生石・遊行柳」  是より殺生石(せつしやうせき)に行(ゆく)。 館代より馬にて送らる。 此口付(このくちつき)のおのこ、 「短冊 得させよ」と乞(こふ)。 やさしき事を望侍る(のぞみはべる)ものかなと、      野を横に 馬牽(ひき)きむけよ ほとゝぎす  殺生石は温泉(いでゆ)の出(いず)る山陰(やまかげ)にあり。 石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶の たぐひ、真砂(まさご)の色の見えぬほどかさなり死す。  又、清水ながるゝの柳は、蘆野(あしの)の里にありて、田の畔(くろ)に残る。 此(この)所の郡守  戸部(こほう)某(なにがし)の、「此柳(このやなぎ)みせばや」など、折おりにの給ひ聞え給ふを、 いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳(このやなぎ)のかげにこそ立より侍(はべり)つれ。      田一枚植えて 立去る 柳かな   

再2012/02/15~

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