1911年(明治44)年は、文学博士号事件に始まった。文部省から授ける文学博士号を漱石が辞退したのである。2月21日に文部省に手紙を送りつけたので、この日は漱石ファンには記念日扱いされているようだ。双方「受けろ」「嫌だ」で譲らず、結局漱石は「ただの夏目なにがしでありたい」からと説明、政治体制が芸術家を評価することの弊害に思いを致し、これを拒んだのである。実は拒んだどころではない、「現今の博士制度の功少なくして弊多き事を信ずる一人なる事をここに言明致します」とはっきり記している。博士号を頂戴した森鴎外なら驚いて目を丸くするところだ。
そんなすったもんだの2月に漱石は退院したのだが、退院したら驚いた。知らない間に自宅に電灯が敷かれていたからである。十二分の金があるのに、勿体ないからとしぶって、それまではランプで生活していたのだった。6月には夫人と共に長崎への講演旅行、8月にも講演のため関西へ旅行している。ところがこの旅行中に胃潰瘍が再発し、大阪の湯川胃腸病院(後に湯川秀樹が婿養子となることでも知られる)にしばし入院とあいなった。さらに信頼すべき池辺三山は朝日新聞社を辞職し、11月には文芸欄まで廃止にされてしまった。漱石は朝日新聞社に辞意を表明するが、はやまってくれるなと留められる。そんな中、11月中に五女のひな子が急死。その悲しみは「彼岸過迄」の中にエピソードとして取り込まれることとなった。
大陸ではこの年辛亥革命(しんがいかくめい)が勃発、14の省が次々に清朝に対して独立し、翌年1月には孫文を臨時大統領にして中華民国臨時政府が成立。続いて討伐を命じられた袁世凱が臨時政府になびいて、清朝は滅亡。袁世凱が臨時政府大統領の地位を奪うという流れになっていく。
1月から新聞に「彼岸過迄(ひがんすぎまで)」が連載され、題名の通り彼岸過ぎ頃の4月まで掲載が続けられた。しかしそんな中、2月には池辺三山が心臓発作で亡くなってしまった。前年のひな子の死から続いて、「メメント・モリ」(死を思え)の境地いかばかりであったろうか。(・・・どんな文体だ。)大陸では2月12日に宣統帝が退位して、清朝が滅亡。さらに7月には日本に激震が走った。明治という時代を象徴して来た明治天皇が崩御されたからである。元号は大正と改元され、新しい時代を迎えることになった。しかし漱石は、明治という時代の終焉、その時代精神の終焉、そして明治の精神と共に歩んできた自分自身の、やがて訪れるであろう終焉について、深く思うことがあったかもしれない。この時期の平均寿命は恐らく40代前半ぐらいのものである。(ただし乳幼児死亡率や伝染病、格差社会的要因といった状況がある。)
この「時代終焉」のモチーフは、天皇崩御という事件、それから天皇大葬の9月13日に、日露戦争の功労者である乃木希典(のぎまれすけ)が妻と共に自刃(じじん)の殉職をとげた事件を取り込んで、「心」の中で結晶することになった。したがって「心」を、知人を騙して恋人を取った罪悪感による自殺と読み解いただけでは、内容の半身を見落としていることになる。明治という時代精神を背負った人間が、次の時代精神の若者に託した、一種の精神的遺言状という側面が込められているのかもしれないからである。
なおこの年、東京帝国大学独文科学生だった内田百聞(うちだひゃっけん)(1889-1971)が漱石の元を訪れ、山房の一員となっている。後に一家が病気で困った時には、漱石先生が快く200円の金を貸して遣っている。彼は漱石を大変尊敬し、後に全集出版のための原稿を調べ上げる、地味な作業さえ厭(いと)わなかった。そんな百聞が還暦をすぎた後、「まあだ死なないのか、お前さんは」の意味を込めて、摩阿陀会(まあだかい)を誕生日ごとに開いたことは、黒澤明監督の「まあだだよ」を見た人なら誰でも知っている。それは還暦前に旅だった漱石先生に対して、わたくしは未だにという思いが込められていたに違いない。(・・・君の妄想ではないか?)
12月には自宅に電話が取り付けられた。電話の開通は日本では1890年だったが、1910年には10万人が加入者となっている。「吾輩は猫である」の中に金田の豪邸で鼻子が電話をかけるシーンがあったのが印象的だ。この時期の電話は、電話交換手に相手方の電話番号を伝えて、相手方につないで貰うという味のあるものだった。今日でも100番通話や106番(コレクトコール)のように、オペレータに番号を伝えるサービスも存在するので、当時の雰囲気を楽しみたい人は利用してみるとよい。(こら。)
ついでに脱線を極めると、この1912年は富山で米騒動が起こり、またタイタニック号事件もこの年のことである。1896年生まれの宮沢賢治は、後に「銀河鉄道の夜」の中にこの事件を取り込んでいるが、彼が童話を書き始めるのは漱石の死後、1918年頃からだ。
1912年の12月から「行人(こうじん)」の連載が開始したが、翌年に入ると神経衰弱が高まってきた。とうとうある日、次男の伸六を見世物小屋の射的(しゃてき)に参加しなかったという不可解な理由で、いきなり撲って踏み倒してステッキで殴りまくるという愚挙に出た。伸六は心に傷を負った。妻の見るところ、神経衰弱で人格豹変することと、胃潰瘍が互いに結びついているようだった。この時もやはり胃潰瘍が悪化して、文字通り「作者急病のため」3月から連載が中断されてしまったのだ。ようやく9月から連載が再開され、11月にはエピローグをむかえた。なお、かつて学生時代に移籍した北海道籍を東京に戻したのは、この年になってからだそうだ。
1914年(大正3年)は第一次世界大戦勃発の年である。日露戦争後停滞気味の経済が、これによってあまりにも不用意に回復してしまったのは、はたして後の日本にとって好かったのかどうだか。いずれにせよ、新しき者達には新時代の活気のようなものが、戦争によってもたらされたのかもしれない。しかし漱石先生は、古き時代の精神を結晶化させることを目差した。すなわち4月から8月にかけて「心(こころ)」(沖縄風発音「くくる」)が連載されたのである。初めは幾つかの短編を集めたものとして構想されたが、「先生の遺書」が長編的展開を見せたため、
「先生と知り合った私が先生の影に踏み込むほどの好奇心を持って接し、実家に戻って危篤の父親が亡くなろうという間際、明治天皇の死を聞いて死を決意した先生から、遺言状が送られてくる。私は電車に飛び乗った。」
という内容で、その遺書自体が後半半分を占める自立的な小説になっているものだ。その単行本は、一高の教え子だった岩波茂雄が岩波書店を立ち上げるので、ぜひ漱石の本を出したいと熱望して、しかも資金難だったので、漱石が自費出版の形で装丁まで手がけている。
しかし9月にはまた胃潰瘍で入院。11月には有名な「私の個人主義」という講演を学習院で行った。
1月から2月にかけて「硝子戸の中(がらすどのうち)」を連載。3月から京都に旅行したが、またしても胃に苦しめられた。漱石は精神的遺言に続いて、ある意味で作家における遺言的小説ともいえる自伝的小説に取り掛かった。「道草(みちくさ)」である。出版に際しての装丁は橋口五葉に代わり、漱石に絵を指導してもいた友人の津田青楓(つだせいふう)が行うことになった。これが6月から9月にかけて掲載されると、11月には新しき人である芥川龍之介(1892-1927)(あくたがわりゅうのすけ)、久米正雄(1891-1952)(くめまさお)らが初めて、漱石の元を訪れてたりしている。
なお翌年2月に「新思潮」という雑誌に「鼻」を発表した芥川龍之介に対して、漱石が賞賛の手紙を送っている。芥川はその1916年の7月に東京帝国大学英文科を卒業し、幼なじみの「文ちゃん」にプロポーズの手紙を送るのであった。(なんのこっちゃ。)一方の久米は漱石の死後に長女筆子を強引に妻に娶ろうとして、最終的に漱石家出入り禁止をくらっている。筆子はやはり漱石邸に出入りするようになっていた松岡譲(まつおかゆずる)(1891-1969)と結婚してしまったので、久米は誹謗中傷的小説によって松岡の生活に実害を与えてやった。
年末には、他にも日本に戻っていた旧友、中村是公と温泉などに出かけている。
1916年(大正5年)5月から「明暗(めいあん)」の連載を開始した。10月には、晩年知り合いとなり手紙の遣り取りをしていた若い坊さん二人が、漱石邸に1週間ほど滞在。漱石は東京見物をするための小遣いまで与えている。漱石は我(が)の強い現代に、我を離れるための修行をする若者二人に、清水のごときものを感じていたようだ。二人に贈った漢詩付き水墨画は、漱石の水墨画の中でも代表的なものになっている。11月21日には、知人の結婚披露宴に出席して、大好きな落語家の柳家小さん演じる「うどん屋」まで堪能。奥さんが禁じていた南京豆まで口にして大満足だったが、翌日の昼頃「明暗」の原稿の上に倒れているのが発見され、すぐに病院に運ばれた。言わんこっちゃない、胃潰瘍が悪化したのである。胃が病んでいるのにいろいろなものを食べたがる漱石だったが、胃の内部で2度の大出血を起こし容態(ようだい)は悪化。写真に撮ると病気が治ると聞きつけた子供の案にすがる思いでこっそりとられた写真は、生前最後の写真となった。12月9日、死に臨んでも食欲を見せる漱石が、最後に口に含んだのは赤酒だったという。(三四郎が熊本で呑んでいたという例の赤酒である。)漱石はこの日の午後6時45分に亡くなったのである。完成すれば文学史上驚異的な作品になったであろう「明暗」は、未完のまま、今日でも正統の完成を密かに待ち望んでいる。
亡くなった夜、森田草平のすすめでデスマスクが取られ、妻の希望により翌日遺体の解剖が行われた。1425gの脳みそと胃が医科大学に寄附された。これは今日でもホルマリンに漬けにされて、東京大学医学部に眠っているそうである。12日には葬儀が行われ、28日に雑司ヶ谷墓地に埋葬された。戒名は「文献院古道漱石居士」。
全集の出版は岩波茂雄により岩波書店を中心にして行われることになった。死後漱石の遺品や山房を保存し、漱石の思い出を残すために中心的に活動したのは、松岡譲と小宮豊隆だったが、漱石の蔵書3000冊などは小宮豊隆の尽力によって東北帝国大学附属図書館に収められることになった。東京帝国大学への寄付は取りやめとなったのだが、これは非常な幸いだった。やがて東京は大空襲で焼け野原となってしまったからである。東北大学はさらに日記やメモ書き、試験問題、草稿などを集め、今日の東北大学附属図書館の「漱石文庫」が誕生することになった。なお、葬儀の様子は芥川龍之介が「葬儀記」として書いているのが、これ自体作品になっていて読む価値がありそうだ。(非常に短いもので、青空文庫にも載っている。)
・漱石の名は、「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」という中国の故事に由来する。もともとは「晋書」に記され、唐の学習書である「蒙求(もうきゅう)」の中に「孫楚漱石(そんそそうせき)」として収められ、有名な逸話となった。孫楚は西晋(せいしん)(265-316)時代の人で、大した才能を持った人物だったが、下級貴族の出身だったらしく、後に出世に苦しむことになった。名門貴族の王済(おうさい)という友人があり、二人がまだ若かった頃の逸話である。
・すなわち、孫楚が王済に向かって、世俗を離れ隠居生活を送りたいものだと話していた時、「石を枕として流れに口をすすぐ」ような暮らしがしたい、と述べようとして、誤って「石で口をすすぎ、流れに枕する」ような生活を送りたいと言ってしまったのである。王済がたちまち、「どうして流れに枕して、石で口すすぐことが出来ようか」と笑うと、頑固者の彼は「流れに枕するのは、耳を洗うため、石ですすぐのは歯をきれいにするためさ」といって済ましていたという。
・ここから強情を張り屁理屈を通すことや、負け惜しみが強いヘソ曲がりのことを、「漱石枕流」と呼ぶようになった。また、口車の旨い孫楚の言動から、流石(さすが)という言葉が生まれたという。
・ところが、この「流れに枕して」というのは、許由(きょうゆう)、巣父(そうほ)の伝説に掛け合わされているという話もある。これは伝説に残る古代中国の皇帝、堯(ぎょう)の時代の逸話である。大洪水の伝説や、ゲイが九つの太陽を射落とした伝説が有名だが、こんな伝説がある。許由(きょうゆう)、巣父(そうほ)は堯に仕えていたが、堯が許由に帝位を譲るという噂を聞いた時、許由は「耳が汚れた」といって慌てて川で耳をすすいだ。川で牛に水を与えようとしていた巣父は、これを知って「そんな汚れた川の水は飲ませられない」と牛を引き返させたのである。あっぱれ高潔(こうけつ)の士というわけだが、この逸話にかけて、孫楚は「流れに枕して」と言ったのではないかという話だ。そうだとすると、「石で口をすすぎ」にも隠れた意味が込められているのでは無いかと疑いたくなるが、私には分からない。
・[個人的な見解]
それ以前に、「石にすすぎ流れに枕する」という間違いは、日本語だけでなく中国語でも、言い間違いとしてはあまりにも洗練されすぎているように思われる。つまりうっかり起こった間違いとしては、捻りが効きすぎていて、むしろわざと間違えたように、私には思われるのである。あるいは王済が突っ込みを入れることを考慮して、わざと言い間違えて、「流れに枕するのは、耳を洗うため」と言い返すことによって、許由や巣父のような高潔の士になりたいものだという意味を表したのかも知れない。その誘導に感心した王済が、後々「流れと石の逸話」をさすがだと語っているうちに、「流石」という言葉が生まれたのだと、そんなことを妄想さえしたくなるくらいだ。あるいはそんな策略もなく、一般の人は「石に枕し、流れにすすぐ」のに対して、私は「石で口をすすぎ、流れに枕する」ような生活をしたいという宣言をしただけで、それがあまりにも唐突で王済には通じなかっただけかもしれない。偶然の言い間違いよりは、非常に確信的発言であるように思われる。もちろん私が勝手に思っているだけで、うっかり間違えたのかも知れないのである。現実には得(え)てして銘文のような言い間違いも起きるものであるから。
・後に孫楚はようやく40歳にして官職に就いて、最後にはどこぞの太守になっている。一方、王済は武帝(司馬炎、在位265-289)の側近として力を振るったが、後に謀られて失職。やけを起こして、馬の柵全体を銭で覆い尽くすなどの意味不明の放蕩浪費を極めて、最後には亡くなってしまったそうである。孫楚はその王済の葬儀に出ている。
・「蒙求」は戦前は知られた漢書だったので、漱石枕流の逸話から子規が漱石の号を見いだしたり、夏目金之助が自分のペンネームを夏目漱石としても、少しも不思議ではなかったのである。反骨精神みなぎる金之助にとっては、まさにうってつけの名称だった。
・夏目漱石の作品には、順序の入れ替え、当て字等言葉遊びの多用が見られる。例「単簡」(簡単)、「笑談」(冗談)、「八釜しい」(やかましい)、「非道い」(ひどい)、「浪漫」(ロマン)、「沢山」(たくさん)、「流石」(さすが)等。「兎に角」(とにかく)のように一般的な用法として定着したものもある。
・「新陳代謝」、「反射」、「無意識」、「価値」、「電力」、「肩が凝る」等は夏目漱石の造語である。
2007/12/07改訂
2007/12/23改訂
2008/01/31再改訂