1903年(明治36年)1月22日。神戸港から東京に戻った漱石は驚いた。義父の中根重一は政界を引退し、事業に失敗して苦境に立たされ、我が妻子は生活支援も貰えず、着物を質に流してその日暮らしの有様だったからだ。漱石は、管虎雄らの手を借り新居を探すことから始めた。そして3月3日、以前森鴎外が住んだこともある、本郷区駒込千駄木町57番地に引っ越した。この家こそ、2度も空き巣に入られて、黒猫が住み着いて、「吾輩は猫である」を生み出すことになる、記念のために現在は愛知県の明治村に保存されている、あの家である。さらに神経衰弱を理由に3月31日付で熊本第五高等学校を辞職。東京での再出発を整えた。
さて、漱石は4月に第一高等学校講師を年俸700円で、さらに帝国大学文科大学英文科の講師を年俸800円で受け持つことになった。(合計年俸1500円。)帝国大学への就任には大塚保治が手を貸している。帝国大学英文科の講師は日本人初のことで、それまでは外国人が教えていた。つまり小泉八雲(こいずみやくも・ラフカディオ・ハーン)の後任として、アーサー・ロイド、上田敏と共に採用されたのである。漱石の着任前に、文科大学長がラフカディオ・ハーンに対して、ハーンの受け持ちを減らして漱石を入れようとした経緯があり、ハーンが渋ったため彼を解雇してしまうという事件があった。留任運動まで繰り広げた学生達の中には、漱石に対して反感を抱く者も多かったのである。すこし異なるが、「三四郎」の中で広田先生を帝国大学に入れようとした与次郎の計略が失敗し、洋行をした別の日本人が外国文学科に赴任してしまう一件が思い起こされる。
また、漱石のあまりにも論理的な講義に反発する者達もいたそうだ。(「文学論」のような講義をされては、今日だってたまらない学生は多々いるだろう。)さらに、語学の土台が不十分だとして基礎から教えようとすれば、そんなものは文学講義ではないと憤る生徒達。職務に自信を持てない漱石は、6月には一度辞職願いをさえ提出している。しかし一方大学では「18世紀英文学の講義」「シェークスピア作品の講義」などを行い、特に日本でもシェイクスピア劇が興行され始めていたこともあり、作品講義は他科の学生が聴講するほど人気を博したそうだ。これらの講義は、後に「文学論」「文学評論」「英文学形式論」の三冊が出版されたことによって、その内容をうかがい知ることが出来る。
さて、第一高等学校でささいな事件があった。直前に予習を行わない藤村操(ふじむらみさお)を2回にわたり叱りつけたら、5月22日に「巌頭之感(がんとうのかん)」を書き残して、華厳の滝から飛び降り自殺をしてしまったのだ。もちろん叱られたショックで自殺をしたわけではない。もっと大きな煩悶(はんもん)に身もだえしつつ亡くなったのである。この自殺はウェルテル効果(ゲーテが小説の中でウェルテルを自殺させたら、自殺が流行ってしまったという罪な奴。)によって模倣者を生みだし、エリート学生の憂鬱として社会欄に取り上げられる事件となった。まあ、漱石も自分の叱責が直接原因ではないとは思ったろうが、ある種の精神状態に引き金を引く手助けをしたような心持ちがしたのだろう。後々までこれを気にしていたという。
藤村操の「巌頭之感」(漢字は適当に仮名化)
悠々たるかな天壤(てんじょう)、
遼々たるかな古今、
五尺の小躯(しょうく)をもって比大をはからむとす。
ホレーシヨの哲学
ついに何らのオーソリチィーを価(あたい)するものぞ。
万有の真相はただ一言(いちごん)にして悉(つく)す、
曰(いわ)く「不可解」。
我この恨(うらみ)を懐(いだ)いて煩悶(はんもん)、
ついに死を決するに至る。
すでに巌頭に立つに及んで、胸中何らの不安あるなし。
始めて知る、大いなる悲觀は大いなる樂觀に一致するを。
(明治36年5月22日)
漱石が翌年2月8日に寺田虎彦に宛てたハガキの詩
(藤村操を追い掛ける彼女という立場で書いたらしい)
藤村操女子(ふじむらみさおじょし)作
「水底(みなそこ)の感」
水の底、水の底。
住まば水の底。
深き契り、深く沈めて、
永く住まん、君と我。
黒髪の、長き乱れ。
藻屑もつれて、ゆるく漾(ただよ)ふ。
夢ならぬ夢の命か。
暗からぬ暗きあたり。
うれし水底。
清き吾等に、
譏(そし)り遠く憂透らず。
有耶無耶の心ゆらぎて、
愛の影ほの見ゆ。
そんなこともあり、直接は留学時代からの精神状態もあって、1903年6月頃、ひどい神経衰弱に落ち入ってしまった。すでに帰国直後、長女の筆子が五厘銭を盗んだと思いこんで、いきなりおぶちなさったことがあったが、今や言語道断の大暴れ、妻に手を出したかどうかは知らないが、手当たり次第に物を投げまくって、わめき散らして、書斎を崩壊に陥(おとしい)れたこともあった。妊娠中の鏡子は、子供達の手を握りしめて、恐ろしい夫から避難するために、2ヶ月実家に逃れる事態となった。今日ならドメスティック・バイオレンス(DV)加害者として被告となる可能性もあるくらいだ。どうやら漱石は発作が高じると、身内の者に対してだけ阿修羅の一面を垣間見せ、癇癪玉を炸裂させ、罵りの言葉を投げつけ、ものに当たり散らし、症状が現れると顔つきまで変わってしまうが、家族や下女以外が目撃する機会はまず無いといったもので、実際にある種の精神病だったのかもしれない。
妻の鏡子はお嬢育ちで、家事は苦手だし、朝寝坊だし、思ったことはダイレクトに口に出す率直な方だったらしいが、漱石との離婚を勧められても、「私が嫌いで暴力を振るうなら離婚しますが、病気のためなら別れません」と、天晴れ妻の鏡を宣言したという。漱石との仲も平常時には悪くなかったらしいが、にもかかわらず悪妻として祭り上げられたのは、後に「漱石の思い出」を口述して松岡譲筆で出版した内容が、あまりにも漱石を貶(おとし)めると弟子達に思われたことが主因(しゅいん)である。
10月頃には精神安定を兼ねて水彩画を習い始めている。11月には三女栄子(えいこ)が誕生したが、相変わらず発作が高じて二女の恒子を「時々狂的にいじめる」と、妻は回想している。もちろん妻も「いじめ」られていたが、「いじめ」は言葉の暴力であったようだ。
・・・何だか陰鬱(いんうつ)になってきた。ここは家族を離れることにしよう。親しい弟子である寺田寅彦は、この年帝国大学を卒業すると大学院に進み、翌年1904年からは理科大学の講師としてそのまま大学に所属することになった。
2月に開戦した日露戦争を避けて日本に逃(のが)れて来た訳では無いだろうが、夏になると一匹の真っ黒な子猫が漱石家に紛れ込んだ。漱石はこれを留め置くこととし、当初は追い出そうとつとめた鏡子も、この猫が福猫だとのうわさを聞くと、それなりに大切に扱いだした。こうして黒猫は漱石邸の住人となったのである。
4月からは明治大学の講師も兼任し始めた漱石だったが、高浜虚子から勧められ、小説も掲載していた「ホトトギス」に作品を載せることにした。黒猫の視線を題材にさくさくと書き上げて、冗長に過ぎるところを高浜の進言により訂正し、「山会(やまかい)」という文学会で虚子が朗読すると好評を博し、翌年1月号の巻頭を「吾輩は猫である」が飾ったのである。当初は「猫伝」にしようかと悩んでいたのを、虚子の進言により「吾輩は猫である」に決定したという。内容は、拾われた名無しの猫が、珍野苦沙弥(ちんのくしゃみ)邸で見たり聞いたり行動した事を、取り留めもなく記述したものである。小説家であり牧師でもあった、イギリス人のローレンス・スターン(1713-1768)の作品「トリストラム・シャンディーの生涯と意見」(未完)に対するシンパシーもあって、主たる筋書きの無い物語、あるいは脱線に生き甲斐を見いだす物語りを嗜好(しこう)している。西欧の筋書きあらずの作品の中でも、スターンのものはきらめく存在らしかったが、「吾輩」も「トリストラム」も人気が高じて続編が作られていった点からも、この方針が説明できるだろう。(ただし「トリストラム」にはスーパープロットのようなものが存在するようだ。)登場人物は、例えば珍野苦沙弥とその家族は夏目漱石一家をモデルに、水島寒月(みずしまかんげつ)は当人も知る寺田寅彦をモデルにしたりしている。
これが好評で「ホトトギス」の売り上げが変わるほどだったので、一回読み切りの筈が翌年1906年8月まで、全11回を数えることになった。すぐさま上中下巻が単行本として販売されると、他の作家もこれを真似して「吾輩」シリーズを書き始め、これがなかなか後を絶たない程だった。劇や講談にまでなって漱石を驚かせている。なお単行本は、装丁(そうてい)と表紙を橋口五葉(はしぐちごよう)に、挿絵をフランス留学を行った2人の洋画家、浅井忠(あさいちゅう)、中村不折(なかむらふせつ)に依頼。西洋流の美術的書籍を目論んだ。実際出来上がったものは書生チックなアマチュア性から抜け出せたかどうだか。洋書的要素を取り入れた新しい書籍として、日本で初期の試みの一つになっている。彼らのうち、特に橋口五葉は後々まで漱石の本の装丁を行い、漱石専用の原稿用紙のデザインまで考案した。漱石は「三四郎」執筆の頃からこの、「吾輩専用の原稿用紙」(漱石山房原稿用紙という)を使用して創作を行ったのである。
この時期、漱石は本格的に小説的なものに手を染めた。「吾輩」を載せた「ホトトギス」が出版された1905年1月には、「帝国文学」に「倫敦塔(ろんどんとう)」を、「学燈」に「カーライル博物館」を掲載。4月には「ホトトギス」に「幻影の盾」、11月には「中央公論」に「薤露行(かいろこう)」を発表するなど、教師の仕事を続けながら立て続けに作品を掲載している。
この年9月にポーツマス条約が調印され日露戦争が終結、賠償金を取れずに日比谷焼き打ち事件が勃発するなどの事件が起きている。夏目家においては12月に四女愛子(あいこ)が誕生したが、女の子ばかり生まれるので管虎雄に宛てて「次へ次へと嫁入る事を考えるとゾーツとするね」と書き送った。
またこの年、小宮豊隆(こみやとよたか)(1884-1966)が東京帝国大学文学部の独文科に入学。やがて漱石宅を訪れるようになる。彼は卒業してドイツ文学者となり、同時に漱石を崇め、漱石死後は伝記や作品解説を残すことになった。また英文科で漱石の生徒であった鈴木三重吉(すずきみえきち)(1882-1936)は、漱石に長文の手紙を送りつけて師弟文通が始まったが、神経衰弱に悩まされ能美島(のうみじま)で療養中の出来事をもとに「千鳥」という短編小説を記し、これを読んだ漱石から絶賛されて「ホトトギス」にも掲載された。彼はこの後、1815年頃まで小説家として歩んでいくこととなった。その後は児童文学に生きる道を見いだして、1918年に「赤い鳥」という児童文学誌を創刊。日本における児童文化運動の父となったのである。三重吉は「古事記」を児童でも理解できるように書き改めた「古事記物語」の作者としても知られている。
1906年4月、ついにあの「坊っちゃん」が「ホトトギス」に掲載された。一気呵成(いっきかせい)に約2週間で完成されたらしいこの作品は、書き直しが少ないことでも知られている。最近では「直筆(じきひつ)で読む坊っちゃん」まで出版され、その走り出すイマジネーションの片鱗をお茶を飲みながら楽しむことも可能だ。
さらに9月には「新小説」に20世紀孤高(ここう)の文学作品として名高い「草枕」が、10月には「中央公論」に「二百十日」が掲載されるなど、次々に創作を行っていった。創作時間が貴重に思えるので、自分を慕って集まる生徒や弟子達に対して、毎週木曜午後3時以降を面会日と致すと宣言したところ、「木曜会」と呼ばれるようになった。第1回の会合は10月11日である。創作を続ける漱石は、次第に作家として生きたいと思い始めていた。12月の鈴木三重吉宛の手紙には
「僕は一面において俳諧的文学に出入すると同時に
一面において死ぬか生きるか、
命のやりとりをするような維新の志士のごとき
烈しい精神で文学をやってみたい」
と記している。新しい道への憧れは日々高まっていたのかも知れない。
そんな1906年(明治39年)の12月。彼は結構気に入っていた千駄木の家を離れ、本郷区駒込西方町10番地ろの7号の家を借りて転入した。この転居は「三四郎」の中で、広田先生が西方町10番地への3号に引っ越す話として非写実的なパロディにされている。またこの年、漱石の教え子で「木曜会」の一員となった野上豊一郎(のがみとよいちろう)(1883-1950)が、野上弥生子(のがみやえこ)(1885-1985)(名称変化は省略)と結婚している。野上弥生子も何度か漱石邸を訪問し、「明暗」「縁」(えにし)といった小説を読んで貰うと、翌年初めに批評文が送られてきた。「縁」(えにし)の方は漱石の手配で「ホトトギス」に掲載され、作家としてのデビューを果たしている。彼女は日本でも知られた女性文筆家として、第二次大戦を遙かに超えて、1985年亡くなるまで活躍することになるだろう。一方旦那の方は卒業の翌年、1909年に法科大学の講師となった。
大陸の方では、この年南満州鉄道株式会社が設立された。日露戦争で利権を獲得したため、本格的に活動を開始。後に太平洋戦争に敗れ去るまで、満州経営において中心的役割を果たすことになった。その初代総裁は後藤新平(ごとうしんぺい)だったが、腹心の一人である中村是公も副総裁として赴任することになった。彼は1908年に後藤新平が逓信大臣(ていしんだいじん)となると、目出度く総裁の地位を手に入れた。それで漱石が大陸に招かれ、海外旅行を楽しむことになるのである。
1900年には小学校の授業料廃止など、教育制度の発達によって庶民知性の向上が着実に進んでいた。その上あの日露戦争である。戦況報告を待ち望む声が高まり、日刊新聞紙の購読数も大きく増大した。新聞社は政治や評論から日常事件までを扱った、総合的な近代新聞として体制を整え、その一貫として小説欄の花形作家が期待されていたのである。期待されていたばかりではない。日露戦争が終わって部数急上昇が望めない中で、各新聞社とも経営戦略の刷新(さっしん)が急務だったからである。おりしもこの年の1月には、賠償金を得られぬまま拡大する軍事費に、日露戦争時の戦費調達の外債の返済など、様々な要因が重なって、経済恐慌が湧き起こっていた。以後中小企業の没落と大企業による独占資本が進行して行くのである。そんな中、読売新聞が漱石を自社の作家としようとして、月給60円しか提示できずに失敗。朝日新聞社が漱石との交渉に乗り出した。
1907年(明治40年)の3月に東京朝日新聞の主筆、池辺三山(いけべさんざん)が漱石邸を訪問し、漱石は彼の信頼に足る人柄に動かされ、朝日新聞社への入社を決意した。三山はすでに前年に二葉亭四迷(1864-1909)の大阪朝日から東京朝日への転入に尽力し、1906年10月からは二葉亭の小説「其面影」が連載されていたのであった。
これによって漱石は、教授となる内示(ないじ)を受けていた東京帝国大学へ辞表を提出し、他の教職も全て退くことにした。心身を新たにするつもりか、3月末から4月には京都や大阪に旅行に出かけ、その後、5月3日の朝日新聞に、漱石の「入社の辞」が掲載されたのである。エリートの最高権威である大学教師を蹴って、作家の道を歩むという選択は、当時としては驚嘆するべき出来事だったようだ。月給は200円。ほかに盆と暮れにはボーナスも出る。(合わせて年俸2800円。帝国大学の月給が150円。また池辺三山の月給が170円だった。二葉亭四迷の月給は100円。)日刊で全100回分ほどの小説を年2回という条件であった。このことから、漱石ファンの間では5月3日は憲法記念日ではなく、入社記念日として親しまれている。
<<明治人の俸給>>
・・・<<コインの散歩道>>のサイト内のこちらのページに当時の俸給の詳細が記されている。
余談になるが、この西方町時代には大好きな銭湯に出かけて、ばったり二葉亭四迷に出くわすことがあったそうである。しかし四迷は1908年に朝日新聞特派員としてロシアに赴任し、翌年病のために帰国途中にして亡くなっている。思えば、1887年に第一編が出された二葉亭四迷の「浮雲(うきぐも)」こそ、言文一致体で書かれ近代日本文学の幕開けとされる作品であった。
2007/12/06掲載
2007/12/21改訂
2008/01/26再改訂