やあ、日本だろうと文学だろうと大活躍のワンポイントジョス缶だよ。今日は明治時代の驚異と賛えられる夏目漱石の年号さ。
「いやろくな(1867)時代じゃなかったが、
我は行く一路(1916)文学の路を。」
残念なのは彼がもう少し時代に先駆けた西洋音楽の芸術取り込みを絵画程度に遣ってくれなかったことだけど、そう欲張ってはいけないね。それじゃ、また。
夏目漱石、本名夏目金之助(なつめきんのすけ)は、現在の新宿区喜久井町(きくいちょう)付近で生まれた。父親は当地の名主(なぬし)をしていた夏目小兵衛(こへえ)直克(なおかつ)(1817-1897)。母は「ちゑ(千枝)」(1826-1881)。喜久井町という今日の名称は、夏目家の菊の家紋にもとづいて、明治維新以降に付けられた名称だとされている。時に1867年、慶応3年。翌年に明治元年を控える、動乱の時代であった。
新暦なら2月9日。当時一般だった旧暦に従えば1月5日。庚申(かのえさる)の日に生まれたので、「末は大出世か大泥棒。大泥棒が嫌なら名前に金の字を与えるべし」という迷信があり、金之助という名に定まった。この時直克は、前妻との間に「さわ」(1846-1878)「ふさ」(1852-1915)という二人の娘があり、今の妻との間に
「大一(だいいち)、後に大助(だいすけ)」
「栄之助(えいのすけ)、後に直則(なおのり)」
「和三郎(わさぶろう)、後に直矩(なおただ)」(なおのり、ではなく、なおただ、で良いのか?)
と三人の息子があった。(共に64年に生まれた「久吉」「ちか」という子供は翌年亡くなってしまった。)したがって五男として誕生した末っ子の金之助は、あまり歓迎もされずに、すぐに四谷のとある古道具屋の元に里子に出されてしまった。母親の乳が出ないための処置かもしれないが、当時としては、さほど珍しいことではなかったようだ。
その頃日本は揺れていた。1853年、アメリカのマシュー・カルブレース・ペリーが「ペーリさんのひっつーじー」と歌いながら浦賀に来航したのが原因だ。黒船に大騒ぎの江戸幕府に動揺が走り、1854年には日米和親条約が結ばれ、幕末の激動に突き進んでいったのである。金之助はまさに、江戸時代の終焉と、明治時代の黎明(れいめい)の境界線に、誕生したようなものだった。もちろん緑児(みどりご)が時代のターニングポイントを知ろうはずもないが、知らずとも歴史は進行する。1868年1月27日には鳥羽伏見の戦いで幕府軍が大敗。迫り来る新政府軍は、江戸総攻撃を控えるに到ったのである。勝海舟などの働きによって新政府軍の総攻撃が中止され、5月3日に江戸無血開城がなされた。そうでなければ生まれたばかりの金之助も、火の粉に包まれて黒こげの人生を短く散らさなかったとは限らなかったのである。
1868年10月23日、元号が慶応から明治に変わった。その少し後のことである。里親が不適任だったためか、実家に連れ戻されていた金之助は、改めて塩原昌之助(しおばらしょうのすけ)と妻やすの養子として、夏目家から送り出された。塩原昌之助の父親は四谷大宗寺門前の名主(なぬし)であった。その父親を亡くした昌之助を直克が引き取って後見人として成長させ、父親の後継者として名主にしてやったのである。妻のやすも、もともと夏目家の奉公をしていた女性であったのを、直克が仲人をつとめて二人を結婚させたほどである。この二人には子供が無かったので、金之助が養子に出される運びとなったのであるが、塩原夫婦はもらい子の金之助を不自然な遣り方で、漱石の回想によると真の愛情もなく可愛がっていたという。しかし武士の世を終わらせ、徳川の代(よ)を終わらせた明治維新の改革の嵐は、夏目家や塩原家にも押し寄せてきた。1869年(明治2年)に名主制度が廃止され、行政組織の改編の荒波にのまれることになったからである。
一方、金之助にはもっと重大な危機が訪れた。三歳の時に疱瘡(ほうそう)(つまり天然痘)にかかったのである。幸い死なずには済んだものの、頬と鼻の頭に掻き傷の痘痕(あばた)が残ってしまった。外見を結構気にするお洒落な夏目先生は、後々までこれを気にして、写真にさえ手を加えるほどだったという。
1872年(明治5年)、手続きが済んで金之助は正式に塩原家の長男となった。しかし74年になると大変なことになった。昌之助が、旧幕臣の未亡人であった「日根野(ひねの)かつ」という人と不倫など致し、7歳の金之助は母親やすに連れられて夏目家に転がり込み、すぐ引き払って母子二人で生活を始めたが、それも束の間、やすが離婚を決意したからである。金之助はこの決意の荒波にのまれて、塩原昌之助のもとに送り返されてしまった。ところが塩原昌之助の方では、「かつ」と連れ子の「れん」も一緒に生活を始めていたので、74年暮れから76年の5月頃まで、金之助は不自然な家庭環境の中で小学生生活を送ることになった。「れん」は金之助より一歳年上である。その後塩原家を出た金之助だったが、しばしば塩原家を訪問しており、「れん」とも会う機会もあっただろう。そんな中で金之助が初恋を抱かなかったともかぎらないという噂もあるが、もちろん証拠のない話だ。
76年。直克と昌之助は大げんかをし、これが発端となって金之助は夏目家に引き取られてしまった。しかし今更夏目家に転がり込んでも、居心地の悪さははどうしようもなかった。つまり夏目漱石の幼少時代は幸福とは言い難かったのである。ただし父は冷淡だったが、上の兄と母親は暖かみを持って接してくれたという。
金之助が夏目家と塩原家を往来するため、彼は浅草の戸田学校、市ヶ谷柳町の市ヶ谷学校、神田にある錦華(きんか)小学校と三回も小学校を転校した。その後、1879年(明治12年)3月に神田神保町にある東京府立第一中学校正則科(せいそくか)に入学した。この頃の経緯は「私の経過した学生時代」という漱石のエッセイから引用した方が、分かり易いだろう。
私の学生時代を回顧して見ると、殆《ほと》んど勉強と云う勉強はせずに過した方である。従ってこれに関して読者諸君を益するような斬新《ざんしん》な勉強法もなければ、面白い材料も持たぬが、自身の教訓の為め、つまり這麼《こんな》不勉強者は、斯《こ》ういう結果になるという戒《いましめ》を、思い出したまま述べて見よう。
私は東京で生れ、東京で育てられた、謂《い》わば純粋の江戸ッ子である。明瞭《はっきり》記憶して居らぬが、何でも十一二の頃小学校の門(八級制度の頃)を卒《お》えて、それから今の東京府立第一中学――其の頃一ツ橋に在《あ》った――に入ったのであるが、何時《いつ》も遊ぶ方が主になって、勉強と云う勉強はしなかった。尤《もっと》も此学校に通っていたのは僅《わず》か二三年に止り、感ずるところがあって自《みずか》ら退《ひ》いて了《しま》ったが、それには曰《いわ》くがある。
此の中学というのは、今の完備した中学などとは全然異っていて、その制度も正則と、変則との二つに分れていたのである。
正則というのは日本語|許《ばか》りで、普通学の総《すべ》てを教授されたものであるが、その代り英語は更にやらなかった。変則の方はこれと異って、ただ英語のみを教えるというに止っていた。それで、私は何《ど》れに居たかと云えば、此の正則の方であったから、英語は些《すこ》しも習わなかったのである。英語を修《おさ》めていぬから、当時の予備門に入ることが六《むず》カ敷《し》い。これではつまらぬ、今まで自分の抱《いだ》いていた、志望が達せられぬことになるから、是非|廃《よ》そうという考を起したのであるが、却々《なかなか》親が承知して呉《く》れぬ。そこで、拠《よんどころ》なく毎日々々弁当を吊《つる》して家は出るが、学校には往かずに、その儘《まま》途中で道草を食って遊んで居た。その中《うち》に、親にも私が学校を退《ひ》きたいという考が解ったのだろう、間もなく正則の方は退くことになったというわけである。
他にも「落第」というエッセイの中では
「その頃は英語と来たら大嫌いで
手に取るのも嫌な様な気がした」
と回想している。結局家で反対された金之助は、1881年(明治14年)に3年間で第一中学を中途退学してしまった。その退学の少し前、81年の一月には、母の千枝が亡くなっている。実の母と生活を共に出来た期間は長くは続かなかった。
その81年のうちに、好きな漢学を学べる二松学舎(にしょうがくしゃ)という塾に入学した。大好きな陶淵明(とうえんめい)などを学んでいたが、ふと自己の将来を仰ぎ見れば、開明の世は漢学で生きるにあらず、英語を極めて大学に行かなくっちゃあいけない。改めて翌年神田駿河台の成立学舎(せいりつがくしゃ)に入学した。あわせて家を出て小石川にある新福寺で下宿生活を開始。ここで一年間学習を行った後、晴れて1884年9月から東京大学予備門予科に入学したのである。この時の経緯を、やはり「私の経過した学生時代」のエッセイから引用すると、
「既に中学が前いう如く、正則、変則の二科に分れて居り、正則の方を修めた者には更に語学の力がないから、予備門の試験に応じられない。此等の者は、それが為め、大抵《たいてい》は或る私塾などへ入って入学試験の準備をしていたものである。
その頃、私の知っている塾舎には、共立学舎、成立学舎などというのがあった。これ等の塾舎は随分|汚《きたな》いものであったが、授くるところの数学、歴史、地理などいうものは、皆原書を用いていた位であるから、なかなか素養のない者には、非常に骨が折れたものである。私は正則の方を廃《よ》してから、暫《しばら》く、約一年|許《ばか》りも麹町《こうじまち》の二松学舎に通って、漢学許り専門に習っていたが、英語の必要――英語を修めなければ静止《じっと》していられぬという必要が、日一日と迫って来た。そこで前記の成立学舎に入ることにした。」とある。
今度は神田猿楽町(さるがくちょう)で下宿をすることになった。ここは東京大学へ向かうための学校であり、同級生に南方熊楠(みなみかたくまぐす)、一年上に尾崎紅葉(おざきこうよう)らが居たそうである。さらに同じ下宿(末富屋)には後に満鉄総裁になる中村是公(なかむらこれきみ・よしこと)もいて、生涯の友人関係を結ぶこととなった。当時金之助は彼のことを「ぜこう」と、是公の方では、「金ちゃん」と呼び合う仲だった。他にも橋本左五郎(はしもとさごろう)なども、下宿仲間であったが、彼は新福寺時代から下宿先を共にしている。彼のことは「左五(さご)」と呼んでいたそうだ。
そんな金之助の得意科目は英語と漢学であったというから、いかに早急に英語を体得したか分かる。だが学習馬鹿ではぜんぜんなかった。むしろ勉強よりも水泳や、ボートや器械体操に、寄席通いといった、遊び人金ちゃんとしての生活を全うしていたらしい。
そんな中、1886年にこの大学予備門は第一高等中学校に改められ、金之助もそのまま編入している。ちょうど近代学校制度が成立していく時期だったので、進級制度が安定していないのが、彼の学歴からも読み取れる。この年の7月に腹膜炎に掛かった金之助は、第一高等中学校予科の第二級から第一級に進級するための試験が受けられず、おまけに日頃の学業もさぼりがちであり、落第の憂き目にまであってしまった。中村是公も落第をしてしている。橋本左五郎は、金之助と一緒に東京大学予備門予科を受験した時、金之助が代数をちょいっとばかりカンニングさせてもらった事があったが、金之助は合格したが、左五郎はその時落ちてしまった。このように、当時の試験制度は非常に厳しいものがあったようで、ちょっと遊んでいると、ぶらさがって付いていくのが大変だったようである。
それはともかく、よほどこたえたのだろうか、魂を塗り替えたが如く学習し、その後は首席で通したそうだ。語学だけでなく数学に対して高得点をマークしているのが資料から分かる。しかし数学の証明問題がすべて英語で解答されているのにも驚かされる。いかに徹底した英才教育システムを国家が求めていたことか。
1887年、金之助に才覚を見出していた長男の大助(だいすけ)が亡くなり、続けて次男の直則(なおのり)まで亡くなってしまった。共に結核であった。直矩(なおただ)が家督相続人となるが、人員確保のため金之助を夏目家に復帰させようと父の直克が動き出す。塩原はこれを拒む。すったもんだの後に1888年、それまでの養育費240円が塩原に支払われ、金之助は明治21年に21歳で夏目家に復帰した。(残念ながらジョスカンの没年を記念したものではなかった。)これでようやく夏目金之助になったのであるが、この時昌之助が漱石に対して、「不人情」であってはならない、という書き付けを認(したた)めさせている。これを知った直克は激怒した。たちまち昌之助に絶交を言い渡したが、この一筆を盾にとって、昌之助はイギリス帰りの漱石に、金の無心を迫ることになるだろう。迫り来る無心の猛威に翻弄される漱石の生活は、後に小説化されて「道草」の重要なエピソードとなっている。
この88年、金之助は悩んでいた。第一高等中学校の本科への進学、専攻をどうしようと思案していたのである。
「建築家なら変わり者の自分でも務まり、
美術的趣味も満たされるだろう」
と友に相談する。数学にも自信がある。西洋を越える偉大な建築を造ってみせる。そう意気込んだかどうだか知らないが、金之助が落第したお蔭で同級生となった親友、米山保三朗(よねやまやすさぶろう)がこれに答えて言うよう。
「現日本においてイギリスのセント・ポール大聖堂に匹敵する建築は不可能だが、文学においてなら可能かもしれん」
この言葉によって文科への道を決定したという。もちろんそれだけが理由ではなかったのだろう。漢文など文学への感心は早くから培(つちか)われていたに違いない。こうして9月には、めでたくも本科英文科に入学することになったのである。
さてさて、すでに1884年に大学予備門に入学していた正岡子規(本名正岡常規・つねのり)と、1889年頃から急速接近し始めた。共に寄席通いが大好きであることから、話が弾んだものらしい。接近するやいなや火花が散った。双方共に左利きで弓手(ゆんで)で握手が出来たからだって? いや、まさか、そんな話は聞いたことがない。二人を引きつけたのは双方の才能である。この年に正岡の記した和漢詩文集「七草集」を読んで大いに感心した金之助は、これに対する批評を漢文で送りつけ、その署名に漱石と記して見せたのである。よってここから先は、夏目漱石で伝記を続けることにいたそう。漱石はさらに房総半島旅行の思い出を「木屑録(もくせつろく・ぼくせつろろく)」として漢文にまとめあげた。これを正岡に見せれば、こんどは子規の方が大絶賛。思わず「千万人中の一人」と叫んでしまったのである。なお譲られたのだかどうだか、漱石という号はすでに、正岡子規が使用したことのある名前だった。子規の日記代わりの「筆まかせ」というエッセイの中に、「この号は今は友人のものに変わった」と記されている。しかし悲しいかな、子規が初めて肺結核の診断を受けたのは、この明治22年であった。89年の5月頃に喀血(かっけつ)、結核を知った彼は、啼いて血を吐くという鳥、ホトトギスの異名である子規を自らの号に定めたのである。二人の兄を結核でなくし、最後の兄の直矩も結核を患っていたこともあり、いずれ自分もと考えることもあっただろうか、漱石は子規に見舞いの手紙を送っている。
この1889年は明治史上にも重要な出来事が起きている。1月には改正徴兵令によって、国民皆兵化がなされ、さらに2月11日、大日本帝国憲法が発布されたのである。文部大臣を務めていた森有礼(もりありのり)は、すでに1886年に学位令を制定し、大博士や博士といった学位を定め、教育改革を進めていたが、この2月11日の憲法発布当日に国粋主義者によって刺殺されるという事件もあった。「三四郎」の中では、広田先生の夢のエピソードが、森有礼の葬儀のさいに見た少女の話として語られている。
1890年(明治23年)、同年生まれの漱石と子規は、友共に帝国大学に入学した。(注意、1897年に、日清戦争の賠償金を元に京都帝国大学が出来ると、東京帝国大学と呼ばれるようになっていく。)漱石は文科大学英文学科、子規は始め哲学科、後に国文科に移った。英文科は3年前に新設されたばかりで、この年の入学生は漱石一人である。子規との緊密な友情関係は継続され、互いに感化を与え合った。最良のライバル関係が互いの才能を一層高め合って、手の施しようが無くなってしまうと云う、例のやつである(なんだそりゃ?)。1892年の夏には、子規の故郷である愛媛県松山まで旅行もしている。しかし一方、漱石の神経衰弱の症状が、この頃から始まっているとも考えられる。漱石と子規の間で交わされた、気節論を巡る手紙の遣り取り(91年秋)にも、真の議論を行う生真面目さと共に、すべてにトゲを生じる精神的苦痛のようなものが見いだせるかも知れない。
そんな中、91年7月に直矩の妻「登世(とせ)」が亡くなり、親愛なる女性の死に心を痛めた漱石だったが、一説では幾ばくかの恋心が漱石の中にあったともいわれている。翌年92年には特待生に選ばれて、授業料免除となりながら、主任教授を務めるジェームズ・メーン・ディクソンから依頼されて「方丈記」を英訳するなど、才覚を欲しいままにした。彼が学習に使用したディクソン著作の「英語熟語表現集」には多量の書き込みが残され、学習意欲の高揚を見ることが出来るという。またギリシア哲学、美学美術史などを教えるために、1893年に来日したロシア人ラファエル・フォン・ケーベル(1848-1923)の講義から、大きな影響を受けることになった。後に漱石は、「ケーベル先生」「ケーベル先生の告別」といったエッセイを記している。
この92年には、恐らく兵役を避けるためだろう、戸籍を北海道に移している。1889年に定められた国民徴兵制度を逃れるため、徴兵令が及んでいない地域に戸籍を移すことは、当時の大学生意識の中では特に大層なことでは無かったらしい。この年の5月、漱石は東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師を行うようになった。10月には正岡子規が大学を中退して、12月に日本新聞社に入社している。子規はこの後、日清戦争において従軍記者として大陸に渡り、このときに結核を悪化させてしまうことになる。(ただし到着するとすぐに下関条約が結ばれてしまったようだ。)
翌93年(明治26年)7月、大学を卒業した漱石は続けて大学院に進学。寄宿舎に入ったのがきっかけで、同室にいた大学院生の小屋保治(おややすじ)(1869-1931)との友交が始まったらしい。たちまち東京女子師範附属女学校(お茶の水大学の前身)をこの年卒業した大塚楠緒子(おおつかくすおこ・なおこ)(1870-1910)という女性が関わってくる。詳細は他に任せるが、やがて1895年の始めに保治が大塚家の婿となり二人は結婚。小屋保治は大塚保治となったのである。ところが、楠緒子の婿の候補には漱石も選ばれていたという話もあり、また後々の大塚夫婦との良好な関係が、かえってゴシップを高めたためか、漱石が愛媛松山行きを決意するのは、大塚楠緒子との恋に破れたためであるという一説を生み出すことになった。漱石は二人の披露宴の直後に松山に旅立ったからである。もちろん何の明確な証拠も残されていないが、楠緒子は漱石より早くに小説に手を染るほどの閨秀だったから、知性同士が引かれ合うような可能性だって、まったくないとは言えない。後に彼女が若くして亡くなった時、漱石は「あるほどの菊投げ入れよ棺(かん)の中」と読んでいる。一方保治の方は、1900年から東京帝国大学教授となり美学を教えていたので、「吾輩猫」の登場人物の一人、迷亭のモデルではないかとされる場合もある。そうではなくて、あれは漱石の分身だという説もある。
それはさておき、93年の10月には、東京高等師範学校の英語教師(年俸450円)になった。しかし文学とは何か、英文学とは何かと思い悩み、あまり神経衰弱やら焦燥感が沸き上がるためか、次々と居所(きょしょ)を変更し、学生時代からの友人菅虎夫(すがとらお)の紹介によって、鎌倉の圓覚寺(えんかくじ)で参禅に出かけた。そこで「父母未生(みしょう)以前本来の面目」は何かという公案(こうあん)を出されて、まったく悟り得なかったという。まあ、悟ってしまったら、何一つ作品は残らなかったかも知れないが、ここで知り合った釈宗演(しゃくそうえん)という老師が、漱石葬儀の時に誦経(ずきょう)を行うことになるだろう。
1895年(明治28年)の1月には、大塚保治(おおつかやすじ)と大塚楠緒子が結婚し、漱石はその披露宴に出席した。その少し後、漱石は突如として英字新聞社の記者になるべく、菅虎夫に依頼を持ちかけた。これは不採用に終わったが、菅は代わりに愛媛県の中学校の教師を周旋してくれた。他にも山口高等学校教師の地位を月給100円でという話もあったが、それは断って、月給80円で愛媛県尋常中学校(現在の松山中学校)の英語の教師として東京を後にした。
より低い月給を選択したことに加えて、中学教師と高校教師は格が違うと見なされていたから、この決定には漱石のプライベートな感情が強く反映されているのかもしれない。はたして子規を尋ねて、学生時代にくり出した松山に好意があっただけなのだろうか。漱石自身は知人に対して、金銭を貯めて洋行するため赴任すると説明しているが、とにかく東京を離れたい気持ちはあったのかもしれない。
2007/12/05掲載
2007/12/19改訂
2008/1/24再改訂