太宰治「ダス・ゲマイネ」の朗読

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朗読テキストについて

[緑]はTokinoSirenの記入。
・すいません、下読みもしないぶっつけ朗読なんで、声のトーンの記述と声質が噛み合っていなかったりします。
・朗読用には新潮文庫を使用。掲載には青空文庫を使用。
・朗読はちょっとだけピアノ伴奏付き。

インデックス

一 幻燈
二 海賊
三 登竜門

ダス・ゲマイネ

一 幻燈

     当時、私には一日一日が晩年であった。

 恋をしたのだ。そんなことは、全くはじめてであった。それより以前には、私の左の横顔だけを見せつけ、私のおとこを売ろうとあせり、相手が一分間でもためらったが最後、たちまち私はきりきり舞いをはじめて、疾風のごとく逃げ失せる。けれども私は、そのころすべてにだらしなくなっていて、ほとんど私の身にくっついてしまったかのようにも思われていたその賢明な、怪我の少い身構えの法をさえ持ち堪《こた》えることができず、謂《い》わば手放しで、節度のない恋をした。好きなのだから仕様がないという嗄《しわが》れた呟《つぶや》きが、私の思想の全部であった。二十五歳。私はいま生れた。生きている。生き、切る。私はほんとうだ。好きなのだから仕様がない。しかしながら私は、はじめから歓迎されなかったようである。無理心中という古くさい概念を、そろそろとからだで了解しかけて来た矢先、私は手ひどくはねつけられ、そうしてそれっきりであった。相手はどこかへ消えうせたのである。

 友人たちは私を呼ぶのに佐野次郎左衛門、もしくは佐野次郎《さのじろ》[江戸時代中頃の下野国佐野の農民で、吉原の遊女である八橋に惚れ込んで、愛想を尽かされて彼女らを惨殺した]という昔のひとの名でもってした。

「さのじろ。――でも、よかった。そんな工合いの名前のおかげで、おめえの恰好もどうやらついて来たじゃないか。ふられても恰好がつくなんてのは、てんからひとに甘ったれている証拠らしいが、――ま、落ちつく」

 馬場がそう言ったのを私は忘れない。そのくせ、私を佐野次郎なぞと呼びはじめたのは、たしかに馬場なのである。私は馬場と上野公園内の甘酒屋で知り合った。清水寺[清水観音堂、寛永寺開創の天海が1631年に建立。清水寺から千手観音座像が移された]のすぐちかくに赤い毛氈《もうせん》[獣の毛を加工して作った毛織物の敷物]を敷いた縁台[えんだい・木などの台で外に出して涼んだりするためのもの]を二つならべて置いてある小さな甘酒屋で知り合った。

 私が講義のあいまあいまに大学の裏門から公園へぶらぶら歩いて出ていって、その甘酒屋にちょいちょい立ち寄ったわけは、その店に十七歳の、菊という小柄で利発そうな、眼のすずしい女の子がいて、それの様が私の恋の相手によくよく似ていたからであった。私の恋の相手というのは逢うのに少しばかり金のかかるたちの女であったから、私は金のないときには、その甘酒屋の縁台に腰をおろし、一杯の甘酒をゆるゆると啜《すす》り乍ら[ながら]その菊という女の子を私の恋の相手の代理として眺めて我慢していたものであった。ことしの早春に、私はこの甘酒屋で異様な男を見た。その日は土曜日で、朝からよく晴れていた。私はフランス叙情詩の講義を聞きおえて、真昼頃、梅は咲いたか桜はまだかいな。たったいま教ったばかりのフランスの叙情詩とは打って変ったかかる無学な文句に、勝手なふしをつけて繰りかえし繰りかえし口ずさみながら、れいの甘酒屋を訪れたのである。そのときすでに、ひとりの先客があった。私は、おどろいた。先客の恰好が、どうもなんだか奇態[きたい・風変わりな様子]に見えたからである。ずいぶん痩《や》せ細っているようであったけれども身丈《みたけ》は尋常であったし、着ている背広服も黒サアジ[梳毛糸(そもうし)などを用いて綾織(あやおり)りした服で無地が多い]のふつうのものであったが、そのうえに羽織っている外套《がいとう》がだいいち怪しかった。なんという型のものであるか私には判らぬけれども、ひとめ見た印象で言えば、シルレル[フリードリヒ・シラーのこと]の外套である。天鵞絨《ビロード》[ベルベットのこと。毛を立たせた柔らかいさわり心地と光沢を持つ]と紐釦《ボタン》がむやみに多く、色は見事な銀鼠《ぎんねず》[銀鼠色・灰色に銀を帯びたくらい]であって、話にならんほどにだぶだぶしていた。そのつぎには顔である。これをもひとめ見た印象で言わせてもらえば、シューベルトに化け損ねた狐である。不思議なくらいに顕著なおでこと、鉄縁の小さな眼鏡とたいへんなちぢれ毛と、尖《とが》った顎《あご》と、無精鬚《ぶしょうひげ》。皮膚は、大仰な言いかたをすれば、鶯《うぐいす》の羽のような汚い青さで、まったく光沢がなかった。その男が赤毛氈の縁台のまんなかにあぐらをかいて坐ったまま大きい碾茶《ひきちゃ》[抹茶のこと]の茶碗でたいぎそうに甘酒をすすりながら、ああ、片手あげて私へおいでおいでをしたでないか。ながく躊躇《ちゅうちょ》をすればするほどこれはいよいよ薄気味わるいことになりそうだな、とそう直覚したので、私は自分にもなんのことやら意味の分らぬ微笑を無理して浮べながら、その男の坐っている縁台の端に腰をおろした。

「けさ、とても固いするめを食ったものだから」わざと押し潰《つぶ》しているような低いかすれた声であった。「右の奥歯がいたくてなりません。歯痛ほど閉口なものはないね。アスピリン[アセチルサリチル酸、解熱・消炎・鎮痛などの効果を持つ。頭痛の鎮痛などによりアメリカ二十年代に大量に摂取されたそうだ]をどっさり呑めば、けろっとなおるのだが。おや、あなたを呼んだのは僕だったのですか? しつれい。僕にはねえ」私の顔をちらと見てから、口角に少し笑いを含めて、「ひとの見さかいができねえんだ。めくら。――そうじゃない。僕は平凡なのだ。見せかけだけさ。僕のわるい癖でしてね。はじめに逢ったひとには、ちょっとこう、いっぷう変っているように見せたくてたまらないのだ。自縄自縛[じじょうじばく・自分の言動などで自分の行動が取れなくなってしまうこと]という言葉がある。ひどく古くさい。いかん。病気ですね。君は、文科ですか? ことし卒業ですね?」

 私は答えた。「いいえ。もう一年です。あの、いちど落第したものですから」

「はあ、芸術家ですな」にこりともせず、おちついて甘酒をひと口すすった。「僕はそこの音楽学校[今の東京芸大だが彼は何科なのだろうか]にかれこれ八年います。なかなか卒業できない。まだいちども試験というものに出席しないからだ。ひとがひとの能力を試みるなんてことは、君、容易ならぬ無礼だからね」

「そうです」

「と言ってみただけのことさ。つまりは頭がわるいのだよ。僕はよくここにこうして坐りこみながら眼のまえをぞろぞろと歩いて通る人の流れを眺めているのだが、はじめのうちは堪忍できなかった。こんなにたくさんひとが居るのに、誰も僕を知っていない、僕に留意しない、そう思うと、――いや、そうさかんに合槌《あいづち》うたなくたってよい。はじめから君の気持ちで言っているのだ。けれどもいまの僕なら、そんなことぐらい平気だ。かえって快感だ。枕のしたを清水がさらさら流れているようで。あきらめじゃない。王侯のよろこびだよ」ぐっと甘酒を呑みほしてから、だしぬけに碾茶の茶碗を私の方へのべてよこした。「この茶碗に書いてある文字、――白馬《ハクバ》驕《オゴリテ》不行《ユカズ》[唐の詩人、崔國輔(さいこくほ)の『少年行』の一節。鞭を忘れて白馬が進まないんで柳の枝を折った、そんな遊興帰り、女との別れ際の情、くらいの意味のようである]。よせばいいのに。てれくさくてかなわん。君にゆずろう。僕が浅草の骨董屋《こっとうや》から高い金を出して買って来て、この店にあずけてあるのだ。とくべつに僕用の茶碗としてね。僕は君の顔が好きなんだ。瞳《ひとみ》のいろが深い。あこがれている眼だ。僕が死んだなら、君がこの茶碗を使うのだ。僕はあしたあたり死ぬかも知れないからね」

 それからというもの、私たちはその甘酒屋で実にしばしば落ち合った。馬場はなかなかに死ななかったのである。死なないばかりか、少し太った。蒼黒《あおぐろ》い両頬が桃の実のようにむっつりふくれた。彼はそれを酒ぶとりであると言って、こうからだが太って来ると、いよいよ危いのだ、と小声で附け加えた。私は日ましに彼と仲良くなった。なぜ私は、こんな男から逃げ出さずに、かえって親密になっていったのか。馬場の天才を信じたからであろうか。昨年の晩秋、ヨオゼフ・シゲティ[1892-1973]というブダペスト生れのヴァイオリンの名手が日本へやって来て、日比谷の公会堂で三度ほど演奏会をひらいたが[1932年12月、前年にも来日してその時は大成功を収めている。演奏会には小林多喜二なども聞きに行っていたようだが、彼は翌年初めに亡くなっている]、三度が三度ともたいへんな不人気であった。孤高|狷介《けんかい》[頑固で意志を曲げないこと。狷介孤高などとも使う]のこの四十歳の天才は、憤ってしまって、東京朝日新聞へ一文を寄せ、日本人の耳は驢馬《ろば》の耳だ、なんて悪罵《あくば》したものであるが、日本の聴衆へのそんな罵言の後には、かならず、「ただしひとりの青年を除いて」という一句が詩のルフラン[リフレイン・同一詩句の繰り返し部分]のように括弧でくくられて書かれていた。いったい、ひとりの青年とは誰のことなんだとそのじぶん楽壇でひそひそ論議されたものだそうであるが、それは、馬場であった。馬場はヨオゼフ・シゲティと逢って話を交した。日比谷公会堂での三度目の辱かしめられた演奏会がおわった夜、馬場は銀座のある名高いビヤホオルの奥隅の鉢の木の蔭《かげ》に、シゲティの赤い大きな禿頭《はげあたま》を見つけた。馬場は躊躇せず、その報いられなかった世界的な名手がことさらに平気を装うて薄笑いしながらビイルを舐《な》めているテエブルのすぐ隣りのテエブルに、つかつか歩み寄っていって坐った。その夜、馬場とシゲティとは共鳴をはじめて、銀座一丁目から八丁目までのめぼしいカフエを一軒一軒、たんねんに呑んでまわった。勘定はヨオゼフ・シゲティが払った。シゲティは、酒を呑んでも行儀がよかった。黒の蝶ネクタイを固くきちんと結んだままで、女給たちにはついに一指も触れなかった。理智[=理知、理性と知恵]で切りきざんだ工合いの芸でなければ面白くないのです。文学のほうではアンドレ・ジッドとトオマス・マンが好きです、と言ってから淋しそうに右手の親指の爪を噛《か》んだ。ジッドをチットと発音していた。夜のまったく明けはなれたころ、二人は、帝国ホテルの前庭の蓮《はす》の池のほとりでお互いに顔をそむけながら力の抜けた握手を交してそそくさと別れ、その日のうちにシゲティは横浜からエムプレス・オブ・カナダ号に乗船してアメリカへむけて旅立ち、その翌《あく》る日、東京朝日新聞にれいのルフラン附きの文章が掲載されたというわけであった。けれども私は、彼もさすがにてれくさそうにして眼を激しくしばたたかせ[しばたたく、しきりにまばたきをする]ながら、そうして、おしまいにはほとんど不機嫌になってしまって語って聞かせたこんなふうの手柄話を、あんまり信じる気になれないのである。彼が異国人と夜のまったく明けはなれるまで談じ合うほど語学ができるかどうか、そういうことからして怪しいもんだと私は思っている。疑いだすと果しがないけれども、いったい、彼にはどのような音楽理論があるのか、ヴァイオリニストとしてどれくらいの腕前があるのか、作曲家としてはどんなものか、そんなことさえ私には一切わかって居らぬのだ。馬場はときたま、てかてか黒く光るヴァイオリンケエスを左腕にかかえて持って歩いていることがあるけれども、ケエスの中にはつねに一物もはいっていないのである。彼の言葉に依れば、彼のケエスそれ自体が現代のサンボル[シンボルのフランス語]だ、中はうそ寒くからっぽであるというんだが、そんなときには私は、この男はいったいヴァイオリンを一度でも手にしたことがあるのだろうかという変な疑いをさえ抱くのである。そんな案配であるから、彼の天才を信じるも信じないも、彼の技倆《ぎりょう》を計るよすが[ゆかり、縁]さえない有様で、私が彼にひきつけられたわけは、他にあるのにちがいない。私もまたヴァイオリンよりヴァイオリンケエスを気にする組ゆえ、馬場の精神や技倆より、彼の風姿や冗談に魅せられたのだというような気もする。彼は実にしばしば服装をかえて、私のまえに現われる。さまざまの背広服のほかに、学生服を着たり、菜葉服[工場労働者などの青色の作業着]を着たり、あるときには角帯に白足袋という恰好で私を狼狽《ろうばい》させ赤面させた。彼の平然と呟くところに依れば、彼がこのようにしばしば服装をかえるわけは、自分についてどんな印象をもひとに与えたくない心からなんだそうである。言い忘れていたが、馬場の生家は東京市外の三鷹村|下連雀《しもれんじゃく》にあり、彼はそこから市内へ毎日かかさず出て来て遊んでいるのであって、親爺は地主か何かでかなりの金持ちらしく、そんな金持ちであるからこそ様様に服装をかえたりなんかしてみることもできるわけで、これも謂わば地主の悴《せがれ》の贅沢《ぜいたく》の一種類にすぎないのだし、――そう考えてみれば、べつだん私は彼の風采《ふうさい》[見かけ上の姿]のゆえにひきつけられているのでもないようだぞ。金銭のせいであろうか。頗《すこぶ》る言いにくい話であるが、彼とふたりで遊び歩いていると勘定はすべて彼が払う。私を押しのけてまで支払うのである。友情と金銭とのあいだには、このうえなく微妙な相互作用がたえずはたらいているものらしく、彼の豊潤の状態が私にとっていくぶん魅力になっていたことも争われない。これは、ひょっとしたら、馬場と私との交際は、はじめっから旦那と家来の関係にすぎず、徹頭徹尾[てっとうてつび、始めから終わりまで]、私がへえへえ牛耳られて[ぎゅうじる、ある人や組織を自由に扱う]いたという話に終るだけのことのような気もする。

 ああ、どうやらこれは語るに落ちたようだ。つまりそのころの私は、さきにも鳥渡《ちょっと》言って置いたように金魚の糞《ふん》のような無意志の生活をしていたのであって、金魚が泳げば私もふらふらついて行くというような、そんなはかない状態で馬場とのつき合いをもつづけていたにちがいないのである。ところが、八十八夜[立春から八十八日目。珍しく中国ものでない日本独自の雑節・ざっせつ]。――妙なことには、馬場はなかなか暦に敏感らしく、きょうは、かのえさる、仏滅[六曜(ろくよう)は、暦注の一つで、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口の6種(ウィキペディアより)]だと言ってしょげかえっているかと思うと、きょうは端午だ、やみまつり[東京都府中市大國魂神社の例大祭で5月5日に闇の中を神輿が練り歩く]、などと私にはよく意味のわからぬようなことまでぶつぶつ呟いていたりする有様で、その日も、私が上野公園のれいの甘酒屋で、はらみ猫、葉桜、花吹雪、毛虫、そんな風物のかもし出す晩春のぬくぬくした爛熟の雰囲気をからだじゅうに感じながら、ひとりしてビイルを呑んでいたのであるが、ふと気がついてみたら、馬場がみどりいろの派手な背広服を着ていつの間にか私のうしろのほうに坐っていたのである。れいの低い声で、「きょうは八十八夜」そうひとこと呟いたかと思うともう、てれくさくてかなわんとでもいうようにむっくり立ちあがって両肩をぶるっと大きくゆすった。八十八夜を記念しようという、なんの意味もない決心を笑いながら固めて、二人、浅草へ呑みに出かけることになったのであるが、その夜、私はいっそく飛びに馬場へ離れがたない親狎《しんこう》[親しんでなれなれしくすること。親交]の念を抱くにいたった。浅草の酒の店を五六軒。馬場はドクタア・プラアゲ[ウィルヘルム・プラーゲはドイツ人で現在の東京大学のドイツ語教師。欧州の法律に基づいて1931年からオケや放送局などに著作権使用料の請求を開始した]と日本の楽壇との喧嘩《けんか》を噛んで吐きだすようにしながらながながと語り、プラアゲは偉い男さ、なぜって、とまた独りごとのようにしてその理由を呟いているうちに、私は私の女と逢いたくて、居ても立ってもいられなくなった。私は馬場を誘った。幻燈を見に行こう[遊女街へ行こうというような意味]と囁《ささや》いたのだ。馬場は幻燈を知らなかった。よし、よし。きょうだけは僕が先輩です。八十八夜だから連れていってあげましょう。私はそんなてれかくしの冗談を言いながら、プラアゲ、プラアゲ、となおも低く呟きつづけている馬場を無理、矢理、自動車に押しこんだ。急げ! ああ、いつもながらこの大川を越す瞬間のときめき。幻燈のまち。そのまちには、よく似た路地が蜘蛛《くも》の巣のように四通八達していて、路地の両側の家々の、一尺に二尺くらいの小窓小窓でわかい女の顔が花やかに笑っているのであって、このまちへ一歩踏みこむと肩の重みがすっと抜け、ひとはおのれの一切の姿勢を忘却し、逃げ了《おお》せた罪人のように美しく落ちつきはらって一夜をすごす。[このあたりの描写から主人公の性格を読み取ることは可能である]馬場にはこのまちが始めてのようであったが、べつだん驚きもせずゆったりした歩調で私と少しはなれて歩きながら、両側の小窓小窓の女の顔をひとつひとつ熟察していた。路地へはいり路地を抜け路地を曲り路地へ行きついてから私は立ちどまり馬場の横腹をそっと小突いて、僕はこの女のひとを好きなのです。ええ、よっぽどまえからと囁いた。私の恋の相手はまばたきもせず小さい下唇だけをきゅっと左へうごかして見せた。馬場も立ちどまり、両腕をだらりとさげたまま首を前へ突きだして、私の女をつくづくと凝視しはじめたのである。やがて、振りかえりざま、叫ぶようにして言った。

「やあ、似ている。似ている」

 はっとはじめて気づいた。

「いいえ、菊ちゃんにはかないません」私は固くなって、へんな応えかたをした。ひどくりきんでいたのである。馬場はかるく狼狽《ろうばい》の様子で、[実際はかなりの狼狽を感じたものと思われる]

「くらべたりするもんじゃないよ」と言って笑ったが、すぐにけわしく眉をひそめ、「いや、ものごとはなんでも比較してはいけないんだ。比較根性の愚劣」と自分へ説き聞かせるようにゆっくり呟きながら、ぶらぶら歩きだした。あくる朝、私たちはかえりの自動車のなかで、黙っていた。一口でも、ものを言えば殴り合いになりそうな気まずさ。自動車が浅草の雑沓《ざっとう》のなかにまぎれこみ、私たちもただの人の気楽さをようやく感じて来たころ、馬場はまじめに呟いた。

「ゆうべ女のひとがねえ、僕にこういって教えたものだ。あたしたちだって、はたから見るほど楽じゃないんだよ」

 私は、つとめて大袈裟《おおげさ》に噴きだして見せた。馬場はいつになくはればれと微笑《ほほえ》み、私の肩をぽんと叩いて、

「日本で一番よいまちだ。みんな胸を張って生きているよ。恥じていない。おどろいたなあ。一日一日をいっぱいに生きている」

 それ以後、私は馬場へ肉親のように馴れて甘えて、生れてはじめて友だちを得たような気さえしていた。友を得たと思ったとたんに私は恋の相手をうしなった。それが、口に出して言われないような、われながらみっともない形で女のひとに逃げられたものであるから、私は少し評判になり、とうとう、佐野次郎というくだらない名前までつけられた。いまだからこそ、こんなふうになんでもない口調で語れるのであるが、当時は、笑い話どころではなく、私は死のうと思っていた。幻燈のまちの病気もなおらず、いつ不具者になるかわからぬ状態であったし、ひとはなぜ生きていなければいけないのか、そのわけが私には呑みこめなかった。ほどなく暑中休暇にはいり、東京から二百里はなれた本州の北端の山の中にある私の生家にかえって、一日一日、庭の栗の木のしたで籐《とう》椅子にねそべり、煙草を七十本ずつ吸ってぼんやりくらしていた。馬場が手紙を寄こした。[この辺りから私こと主人公の消失、馬場の浸食が加速されてくるようだ]

 拝啓。

 死ぬことだけは、待って呉れないか。僕のために。君が自殺をしたなら、僕は、ああ僕へのいやがらせだな、とひそかに自惚《うぬぼ》れる。それでよかったら、死にたまえ。僕もまた、かつては、いや、いまもなお、生きることに不熱心である。けれども僕は自殺をしない。誰かに自惚れられるのが、いやなんだ。病気と災難とを待っている。けれどもいまのところ、僕の病気は歯痛と痔《じ》である。死にそうもない。災難もなかなか来ない。僕の部屋の窓を夜どおし明けはなして盗賊の来襲を待ち、ひとつ彼に殺させてやろうと思っているのであるが、窓からこっそり忍びこむ者は、蛾《が》と羽蟻《はあり》とかぶとむし、それから百万の蚊軍。(君|曰《いわ》く、ああ僕とそっくりだ!)君、一緒に本を出さないか。僕は、本でも出して借金を全部かえしてしまって、それから三日三晩くらいぶっつづけにこんこんと眠りたいのだ。借金とは宙ぶらりんな僕の肉体だ。僕の胸には借金の穴が黒くぽかんとあいている。本を出したおかげでこの満たされぬ空洞がいよいよ深くなるかも知れないが、そのときにはまたそれでよし。とにかく僕は、僕自身にうまくひっこみをつけたいのだ。本の名は、海賊。具体的なことがらについては、君と相談のうえできめるつもりであるが、僕のプランとしては、輸出むきの雑誌にしたい。相手はフランスがよかろう。君はたしかにずば抜けて語学ができる様子だから、僕たちの書いた原稿をフランス語に直しておくれ。アンドレ・ジッド[1869-1951、小説家、「背徳者」「狭き門」など]に一冊送って批評をもらおう。ああ、ヴァレリイ[ポール・ヴァレリー、1871-1945]と直接に論争できるぞ。あの眠たそうなプルウストをひとつうろたえさせてやろうじゃないか。(君曰く、残念、プルウストはもう死にました。)コクトオ[ジャン・コクトー、1889-1963]はまだ生きているよ。君、ラディゲ[レイモン・ラディゲ、1903-1923]が生きていたらねえ。デコブラ先生[モーリス・デコブラ、1885-1973]にも送ってやってよろこばせてやるか、可哀そうに。

 こんな空想はたのしくないか。しかも実現はさほど困難でない。(書きしだい、文字が乾く。手紙文という特異な文体。叙述でもなし、会話でもなし、描写でもなし、どうも不思議な、それでいてちゃんと独立している無気味な文体。いや、ばかなことを言った。)ゆうべ徹夜で計算したところに依ると、三百円で、素晴らしい本が出来る。それくらいなら、僕ひとりでも、どうにかできそうである。君は詩を書いてポオル・フォオル[(1872-1960)フランスの詩人]に読ませたらよい。僕はいま海賊の歌という四楽章からなる交響曲を考えている。できあがったら、この雑誌に発表し、どうにかしてラヴェルを狼狽させてやろうと思っている。くりかえして言うが、実現は困難でない。金さえあれば、できる。実現不可能の理由としては、何があるか。君もはなやかな空想でせいぜい胸をふくらませて置いたほうがよい。どうだ。(手紙というものは、なぜおしまいに健康を祈らなければいけないのか。頭はわるし、文章はまずく、話術が下手くそでも、手紙だけは巧い男という怪談がこの世の中にある。)ところで僕は、手紙上手であるか。それとも手紙下手であるか。さよなら。

 これは別なことだが、いまちょっと胸に浮んだから書いておく。古い質問、「知ることは幸福であるか」

  佐野次郎左衛門様[#地から3字上げ]馬場数馬。

二 海賊

     ナポリを見てから死ね!

 Pirate [ピラート、フランス語で「海賊」]という言葉は、著作物の剽窃《ひょうせつ》[人の説や言葉を盗んで自分のものとして発表すること]者を指していうときにも使用されるようだが、それでもかまわないか、と私が言ったら、馬場は即座に、いよいよ面白いと答えた。Le Pirate, ――雑誌の名はまずきまった。マラルメやヴェルレエヌの関係していた La Basoche[ラ・バゾッシュ], ヴェルハアレン一派の La Jeune Belgique[ラ・ジュヌ・ベルジック], そのほか La Semaine, Le Type[ラ・スメーヌ・レ・ティプ]. いずれも異国の芸苑《げいえん》[学芸の社会]に咲いた真紅の薔薇《ばら》。むかしの若き芸術家たちが世界に呼びかけた機関雑誌。ああ、われらもまた。暑中休暇がすんであたふたと上京したら、馬場の海賊熱はいよいよあがっていて、やがて私にもそのまま感染し、ふたり寄ると触ると Le Pirate についての、はなやかな空想を、いやいや、具体的なプランについて語り合ったのである。春と夏と秋と冬と一年に四回ずつ発行のこと。菊倍判[きくばいばん、菊判というサイズを倍にしたもの(304×218、304×227)、現在JIS(Japanese Industrial Standards)規格外]六十頁。全部アート紙。クラブ員は海賊のユニフォオムを一着すること。胸には必ず季節の花を。クラブ員相互の合言葉。――一切誓うな。幸福とは? 審判する勿《なか》れ。ナポリを見てから死ね! [18.19世紀の古典ブーム、イタリアブームの情熱の中に、美しさと伝統を持ったナポリを見てから死ねと云う言葉が流行りだしたそうだ]等々。仲間はかならず二十代の美青年たるべきこと。一芸に於いて秀抜の技倆を有すること。The Yellow Book [イエロー・ブック。ジョン・レインとエルキン・マシューズが発行人となった季刊文芸雑誌で、挿絵をオーブリー・ビアズリーが担当した。十九世紀末の芸術運動の先端として、退廃とも前衛とも議論を巻き起こした雑誌]の故智[こち、故人の行った知略]にならい、ビアズレイに匹敵する天才画家を見つけ、これにどんどん挿画をかかせる。国際文化振興会なぞをたよらずに異国へわれらの芸術をわれらの手で知らせてやろう。資金として馬場が二百円、私が百円、[ええ加減で済まないところ、大学出の初任給で五十円くらいの時代か]そのうえほかの仲間たちから二百円ほど出させる予定である。仲間、――馬場が彼の親類筋にあたる佐竹六郎という東京美術学校の生徒をまず私に紹介して呉れる段取りとなった。その日、私は馬場との約束どおり、午後の四時頃、上野公園の菊ちゃんの甘酒屋を訪れたのであるが、馬場は紺飛白《こんがすり》の単衣《ひとえ》に小倉の袴《はかま》という維新風俗で赤毛氈の縁台に腰かけて私を待っていた。馬場の足もとに、真赤な麻の葉模様の帯をしめ白い花の簪《かんざし》をつけた菊ちゃんが、お給仕の塗盆を持って丸く蹲《うずくま》って馬場の顔をふり仰いだまま、みじろぎもせずじっとしていた。馬場の蒼黒い顔には弱い西日がぽっと明るくさしていて、夕靄《ゆうもや》がもやもや烟《けむ》ってふたりのからだのまわりを包み、なんだかおかしな、狐狸[こり、ひそかに悪事を企むような]のにおいのする風景であった。私が近づいていって、やあ、と馬場に声をかけたら、菊ちゃんが、あ、と小さく叫んで飛びあがり、ふりむいて私に白い歯を見せて挨拶したが、みるみる豊かな頬をあかくした。私も少しどぎまぎして、わるかったかな? と思わず口を滑らせたら、菊ちゃんは一瞬はっと表情をかえて妙にまじめな眼つきで私の顔を見つめたかと思うと、くるっと私に背をむけお盆で顔をかくすようにして店の奥へ駈けこんでいったものだ。なんのことはない、あやつり人形の所作でも見ているような心地がした。私はいぶかしく思いながらその後姿をそれとなく見送り縁台に腰をおろすと、馬場はにやにやうす笑いして言いだした。

「信じ切る。そんな姿はやっぱり好いな。あいつがねえ」白馬驕不行の碾茶の茶碗は流石《さすが》にてれくさい故をもってか、とうのむかしに廃止されて、いまは普通のお客と同じに店の青磁の茶碗。番茶を一口すすって、「僕のこの不精髭を見て、幾日くらいたてばそんなに伸びるの? と聞くから、二日くらいでこんなになってしまうのだよ。ほら、じっとして見ていなさい。鬚がそよそよと伸びるのが肉眼でも判るほどだから、と真顔で教えたら、だまってしゃがんで僕の顎を皿のようなおおきい眼でじっと見つめるじゃないか。おどろいたね。君、無智ゆえに信じるのか、それとも利発ゆえに信じるのか。ひとつ、信じるという題目で小説でも書こうかなあ。AがBを信じている。そこへCやDやEやFやGやHやそのほかたくさんの人物がつぎつぎに出て来て、手を変え品を変え、さまざまにBを中傷する。――それから、――AはやっぱりBを信じている。疑わない。てんから疑わない。安心している。Aは女、Bは男、つまらない小説だね。ははん」へんにはしゃいでいた。私は、彼の言葉をそのままに聞いているだけで彼の胸のうちをべつだん何も忖度《そんたく》[他人の心を推し量ること]してはいないのだというところをすぐにも見せなければいけないと思ったから、

「その小説は面白そうですね。書いてみたら?」

 できるだけ余念なさそうな口調で言って、前方の西郷隆盛の銅像をぼんやり眺めた。馬場は助かったようであった。いつもの不機嫌そうな表情を、円滑に、取り戻すことができたのである。

「ところが、――僕には小説が書けないのだ。君は怪談を好むたちだね?」

「ええ、好きですよ。なによりも、怪談がいちばん僕の空想力を刺激するようです」

「こんな怪談はどうだ」馬場は下唇をちろと舐めた。「知性の極というものは、たしかにある。身の毛もよだつ無間《むけん》奈落《ならく》[絶え間もない底の底の地獄くらいの意味]だ。こいつをちらとでも覗《のぞ》いたら最後、ひとは一こともものを言えなくなる。筆を執っても原稿用紙の隅に自分の似顔画を落書したりなどするだけで、一字も書けない。それでいて、そのひとは世にも恐ろしい或るひとつの小説をこっそり企てる。企てた、とたんに、世界じゅうの小説がにわかに退屈でしらじらしくなって来るのだ。それはほんとうに、おそろしい小説だ。たとえば、帽子をあみだにかぶっても気になるし、まぶかにかぶっても落ちつかないし、ひと思いに脱いでみてもいよいよ変だという場合、ひとはどこで位置の定着を得るかというような自意識過剰の統一の問題などに対しても、この小説は碁盤のうえに置かれた碁石のような涼しい解決を与えている。涼しい解決? そうじゃない。無風。カットグラス。白骨。そんな工合いの冴《さ》え冴《ざ》えした解決だ。いや、そうじゃない。どんな形容詞もない、ただの、『解決』だ。そんな小説はたしかにある。けれども人は、ひとたびこの小説を企てたその日から、みるみる痩せおとろえ、はては発狂するか自殺するか、もしくは唖者《おし》[あしゃ、発話障害者のこと]になってしまうのだ。君、ラディゲは自殺したんだってね。コクトオは気がちがいそうになって日がな一日オピアム[アヘンのこと。コクトーはラディゲが死んだ1923年以降10年くらいアヘンに浸かってしまった]ばかりやってるそうだし、ヴァレリイは十年間、唖者になった。[文芸に不快感を感じて遠ざかっていたことがある]このたったひとつの小説をめぐって、日本なんかでも一時ずいぶん悲惨な犠牲者が出たものだ。現に、君、――」

「おい、おい」という嗄れた呼び声が馬場の物語の邪魔をした。ぎょっとして振りむくと、馬場の右脇にコバルト色の学生服を着た背のきわめてひくい若い男がひっそり立っていた。

「おそいぞ」馬場は怒っているような口調で言った。「おい、この帝大生が佐野次郎左衛門さ。こいつは佐竹六郎だ。れいの画かきさ」

 佐竹と私とは苦笑しながら軽く目礼を交した。佐竹の顔は肌理《きめ》も毛穴も全然ないてかてかに磨きあげられた乳白色の能面の感じであった。瞳の焦点がさだかでなく、硝子《ガラス》製の眼玉のようで、鼻は象牙《ぞうげ》細工のように冷く、鼻筋が剣のようにするどかった。眉は柳の葉のように細長く、うすい唇は苺《いちご》のように赤かった。そんなに絢爛《けんらん》たる面貌にくらべて、四肢の貧しさは、これまた驚くべきほどであった。身長五尺に満たないくらい、痩せた小さい両の掌は蜥蜴《とかげ》のそれを思い出させた。佐竹は立ったまま、老人のように生気のない声でぼそぼそ私に話しかけたのである。

「あんたのことを馬場から聞きましたよ。ひどいめに遭ったものですねえ。なかなかやると思っていますよ」私はむっとして、佐竹のまぶしいほど白い顔をもいちど見直した。箱のように無表情であった。

 馬場は音たかく舌打ちして、「おい佐竹、からかうのはやめろ。ひとを平気でからかうのは、卑劣な心情の証拠だ。罵《ののし》るなら、ちゃんと罵るがいい」

「からかってやしないよ」しずかにそう応えて、胸のポケットからむらさき色のハンケチをとり出し、頸《くび》のまわりの汗をのろのろ拭きはじめた。

「あああ」馬場は溜息《ためいき》ついて縁台にごろんと寝ころがった。「おめえは会話の語尾に、ねえ、とか、よ、とかをつけなければものを言えないのか。その語尾の感嘆詞みたいなものだけは、よせ。皮膚にべとつくようでかなわんのだ」私もそれは同じ思いであった。

 佐竹はハンケチをていねいに畳んで胸のポケットにしまいこみながら、よそごとのようにして呟いた。「朝顔みたいなつらをしやがって、と来るんじゃないかね?」

 馬場はそっと起きあがり、すこし声をはげまして言った。「おめえとはここで口論したくねえんだ。どっちも或る第三者を計算にいれてものを言っているのだからな。そうだろう?」何か私の知らない仔細《しさい》があるらしかった。

 佐竹は陶器のような青白い歯を出して、にやっと笑った。「もう僕への用事はすんだのかね?」

「そうだ」馬場はことさらに傍見《わきみ》をしながら、さもさもわざとらしい小さなあくびをした。

「じゃあ、僕は失敬するよ」佐竹は小声でそう呟き、金側[きんがわ、外側を金で作ったもの]の腕時計を余程ながいこと見つめて何か思案しているふうであったが、「日比谷へ新響[新交響楽団]を聞きに行くんだ。近衛[近衞秀麿(このえひでまろ)(1898-1973)]もこのごろは商売上手になったよ。僕の座席のとなりにいつも異人の令嬢が坐るのでねえ。このごろはそれがたのしみさ」言い終えたら、鼠のような身軽さでちょこちょこ走り去った。

「ちえっ! 菊ちゃん、ビイルをおくれ。おめえの色男がかえっちゃった。佐野次郎、呑まないか。僕はつまらん奴を仲間にいれたなあ。あいつは、いそぎんちゃくだよ。あんな奴と喧嘩したら、倒立《さかだ》ちしたってこっちが負けだ。ちっとも手むかいせずに、こっちの殴った手へべっとりくっついて来る」急に真剣そうに声をひそめて、「あいつ、菊の手を平気で握りしめたんだよ。あんなたちの男が、ひとの女房を易々と手にいれたりなどするんだねえ。インポテンス[男子の重要なる突起物が使用不能に陥ってぐすんと遣り切れない病]じゃないかと思うんだけれど。なに、名ばかりの親戚《しんせき》で僕とは血のつながりなんか絶対にない。――僕は菊のまえであいつと議論したくねえんだ。はり合うなんて、いやなこった。――君、佐竹の自尊心の高さを考えると、僕はいつでもぞっとするよ」ビイルのコップを握ったまま、深い溜息をもらした。「けれども、あいつの画だけは正当に認めなければいけない」

 私はぼんやりしていた。だんだん薄暗くなって色々の灯でいろどられてゆく上野広小路の雑沓の様子を見おろしていたのである。そうして馬場のひとりごととは千里万里もかけはなれた、つまらぬ感傷にとりつかれていた。「東京だなあ」というたったそれだけの言葉の感傷に。

 ところが、それから五六日して、上野動物園で貘《ばく》[ウマ目バク科で豚のような体で鼻が伸びたような動物。中国由来の悪夢を食らう伝説の動物も同じ漢字で表す]の夫婦をあらたに購入したという話を新聞で読み、ふとその貘を見たくなって学校の授業がすんでから、動物園に出かけていったのであるが、そのとき、水禽《みずどり》の大鉄傘[だいてっさん、と読むのが正しいようだ]ちかくのベンチに腰かけてスケッチブックへ何やらかいている佐竹を見てしまったのである。しかたなく傍へ寄っていって、軽く肩をたたいた。

「ああ」と軽くうめいて、ゆっくり私のほうへ頸をねじむけた。「あなたですか。びっくりしましたよ。ここへお坐りなさい。いま、この仕事を大急ぎで片づけてしまいますから、それまで鳥渡《ちょっと》、待っていて下さいね。お話したいことがあるのです」へんによそよそしい口調でそう言って鉛筆を取り直し、またスケッチにふけりはじめた。私はそのうしろに立ったままで暫《しばら》くもじもじしていたが、やがて決心をつけてベンチへ腰をおろし、佐竹のスケッチブックをそっと覗いてみた。佐竹はすぐに察知したらしく、

「ペリカンをかいているのです」とひくく私に言って聞かせながら、ペリカンの様様の姿態をおそろしく乱暴な線でさっさと写しとっていた。「僕のスケッチをいちまい二十円くらいで、何枚でも買って呉れるというひとがあるのです」にやにやひとりで笑いだした。「僕は馬場みたいに出鱈目《でたらめ》を言うことはきらいですねえ。荒城の月の話はまだですか?」

「荒城の月、ですか?」私にはわけがわからなかった。

「じゃあ、まだですね」うしろむきのペリカンを紙面の隅に大きく写しながら、「馬場がむかし、滝|廉太郎《れんたろう》[1879-1903]という匿名で荒城の月という曲を作って、その一切の権利を山田耕筰[1886-1965]に三千円で売りつけた」

「それが、あの、有名な荒城の月ですか?」私の胸は躍った。

「嘘ですよ」一陣の風がスケッチブックをぱらぱらめくって、裸婦や花のデッサンをちらちら見せた。「馬場の出鱈目は有名ですよ。また巧妙ですからねえ。誰でもはじめは、やられますよ。ヨオゼフ・シゲティは、まだですか?」

「それは聞きました」私は悲しい気持ちであった。

「ルフラン附きの文章か」つまらなそうにそう言って、スケッチブックをぱちんと閉じた。「どうもお待たせしました。すこし歩きましょうよ。お話したいことがあるのです」

 きょうは貘の夫婦をあきらめよう。そうして、私にとって貘よりもさらにさらに異様に思われるこの佐竹という男の話に、耳傾けよう。水禽の大鉄傘を過ぎて、おっとせいの水槽のまえを通り、小山のように巨大なひぐまの、檻《おり》のまえにさしかかったころ、佐竹は語りはじめた。まえにも何回となく言って言い馴れているような諳誦《あんしょう》口調であって、文章にすればいくらか熱のある言葉のようにもみえるが実際は、れいの嗄《しわが》れた陰気くさい低声でもってさらさら言い流しているだけのことなのである。

「馬場は全然だめです。音楽を知らない音楽家があるでしょうか。僕はあいつが音楽について論じているのをついぞ聞いたことがない。ヴァイオリンを手にしたのを見たことがない。作曲する? おたまじゃくしさえ読めるかどうか。馬場の家では、あいつに泣かされているのですよ。いったい音楽学校にはいっているのかどうか、それさえはっきりしていないのです。むかしはねえ、あれで小説家になろうと思って勉強したこともあるんですよ。それがあんまり本を読みすぎた結果、なんにも書けなくなったのだそうです。ばかばかしい。このごろはまた、自意識過剰とかいう言葉のひとつ覚えで、恥かしげもなくほうぼうへそれを言いふらして歩いているようです。僕はむずかしい言葉じゃ言えないけれども、自意識過剰というのは、たとえば、道の両側に何百人かの女学生が長い列をつくってならんでいて、そこへ自分が偶然にさしかかり、そのあいだをひとりで、のこのこ通って行くときの一挙手一投足、ことごとくぎこちなく視線のやりば首の位置すべてに困《こう》じ果てきりきり舞いをはじめるような、そんな工合いの気持ちのことだと思うのですが、もしそれだったら、自意識過剰というものは、実にもう、七転八倒の苦しみであって、馬場みたいにあんな出鱈目な饒舌《じょうぜつ》を弄《ろう》することは勿論できない筈だし、――だいいち雑誌を出すなんて浮いた気持ちになれるのがおかしいじゃないですか! 海賊。なにが海賊だ。好い気なもんだ。あなた、あんまり馬場を信じ過ぎると、あとでたいへんなことになりますよ。それは僕がはっきり予言して置いていい。僕の予言は当りますよ」

「でも」

「でも?」

「僕は馬場さんを信じています」

「はあ、そうですか」私の精一ぱいの言葉を、なんの表情もなく聞き流して、「今度の雑誌のことだって、僕は徹頭徹尾、信じていません。僕に五十円出せと言うのですけれども、ばからしい。ただわやわや騒いでいたいのですよ。一点の誠実もありません。あなたはまだごぞんじないかも知れないが明後日、馬場と僕と、それから馬場が音楽学校の或る先輩に紹介されて識《し》った太宰治とかいうわかい作家と、三人であなたの下宿をたずねることになっているのですよ。そこで雑誌の最後的プランをきめてしまうのだとか言っていましたが、――どうでしょう。僕たちはその場合、できるだけつまらなそうな顔をしてやろうじゃありませんか。そうして相談に水をさしてやろうじゃありませんか。どんな素晴らしい雑誌を出してみたところで、世の中は僕たちにうまく恰好をつけては呉れません。どこまでやっていっても中途半端でほうり出されます。僕はビアズレイでなくても一向かまわんですよ。懸命に画をかいて、高い価で売って、遊ぶ。それで結構なんです」

 言い終えたところは山猫の檻のまえであった。山猫は青い眼を光らせ、脊《せ》を丸くして私たちをじっと見つめていた。佐竹はしずかに腕を伸ばして吸いかけの煙草の火を山猫の鼻にぴたっとおしつけた。そうして佐竹の姿は巖のように自然であった。

三 登竜門

     ここを過ぎて、一つ二銭の栄螺《さざえ》かな。

「なんだか、――とんでもない雑誌だそうですね」

「いいえ。ふつうのパンフレットです」

「すぐそんなことを言うからな。君のことは実にしばしば話に聞いて、よく知っています。ジッドとヴァレリイとをやりこめる雑誌なんだそうですね」

「あなたは、笑いに来たのですか」

 私がちょっと階下へ行っているまに、もう馬場と太宰が言い合いをはじめた様子で、お茶道具をしたから持って来て部屋へはいったら、馬場は部屋の隅の机に頬杖《ほおづえ》ついて居汚く[「寝汚い・いぎたない」で「眠りこけてなかなか目を覚まさない意味」、ここでは眠り気取りの風采と、まさに汚い居方で座り込んだ様子を掛けて「居汚く」と表現したと思われるが、現在ではその用法も市民権を得つつあるようにも思える]坐り、また太宰という男は馬場と対角線をなして向きあったもう一方の隅の壁に背をもたせ細長い両の毛臑《けずね》を前へ投げだして坐り、ふたりながら眠たそうに半分閉じた眼と大儀そうなのろのろした口調でもって、けれども腹綿は恚忿《いふん》[「憤ること」の意味の「忿恚」(ふんい)を入れ替えたもの。「恚る」(ふしこる)で「いきどおる」の意味。「忿」も「いきどおる」の意味]と殺意のために煮えくりかえっているらしく眼がしらや言葉のはしはしが児蛇の舌のようにちろちろ燃えあがっているのが私にさえたやすくそれと察知できるくらいに、なかなか険しくわたり合っていたのである。佐竹は太宰のすぐ傍にながながと寝そべり、いかにも、つまらなそうに眼玉をきょろきょろうごかしながら煙草をふかしていた。はじめからいけなかった。その朝、私がまだ寝ているうちに馬場が私の下宿の部屋を襲った。きょうは学生服をきちんと着て、そのうえに、ぶくぶくした黄色いレンコオトを羽織っていた。雨にびっしょり濡れたそのレンコオトを脱ぎもせずに部屋をぐるぐるいそがしげに廻って歩いた。歩きながら、ひとりごとのようにして呟《つぶや》くのである。

「君、君。起きたまえ。僕はひどい神経衰弱らしいぞ。こんなに雨が降っては、僕はきっと狂ってしまう。海賊の空想だけでも痩せてしまう。君、起きたまえ。ついせんだって僕は太宰治という男に逢ったよ。僕の学校の先輩から小説の素晴らしく巧い男だといって紹介されたのだが、――何も宿命だ。仲間にいれてやることにした。君、太宰ってのは、おそろしくいやな奴だぞ。そうだ。まさしく、いや、な奴だ。嫌悪の情だ。僕はあんなふうの男とは肉体的に相容れないものがあるようだ。頭は丸坊主。しかも君、意味深げな丸坊主だ。悪い趣味だよ。そうだ、そうだ。あいつはからだのぐるりを趣味でかざっているのだ。小説家ってのは、皆あんな工合いのものかねえ。思索や学究や情熱なぞをどこに置き忘れて来たのか。まるっきりの、根っからの戯作者《げさくしゃ》だ。蒼黒《あおぐろ》くでらでらした大きい油顔で、鼻が、――君レニエ[アンリ・ド・レニエ(1864-1936)、フランスの小説家]の小説で僕はあんな鼻を読んだことがあるぞ。危険きわまる鼻。危機一髪、団子鼻に墮そうとするのを鼻のわきの深い皺《しわ》がそれを助けた。まったくねえ。レニエはうまいことを言う。眉毛は太く短くまっ黒で、おどおどした両の小さい眼を被いかくすほどもじゃもじゃ繁茂[はんも、草木が生い茂ること]していやがる。額はあくまでもせまく皺が横に二筋はっきりきざまれていて、もう、なっちゃいない。首がふとく、襟脚[えりあし、襟首のところの髪の生え際のこと]はいやに鈍重な感じで、顎《あご》の下に赤い吹出物の跡を三つも僕は見つけた。僕の目算では、身丈は五尺七寸、体重は十五貫[1貫3.76kg]、足袋は十一文[1文約2.4cm]、年齢は断じて三十まえだ。おう、だいじなことを言い忘れた。ひどい猫脊《ねこせ》で、とんとせむし[背が曲がってもどらない病気]、――君、ちょっと眼をつぶってそんなふうの男を想像してごらん。ところが、これは嘘なんだ。まるっきり嘘なんだ。おおやま師[山師(やまし)、つまり投機的行為をする人、さらに欺いて利益を得る人、詐欺師の意味もある。それに「大」を付けたもの]。装っているのだ。それにちがいないんだ。なにからなにまで見せかけなのだ。僕の睨《にら》んだ眼に狂いはない。ところどころに生え伸びたまだらな無精鬚《ぶしょうひげ》。いや、あいつに無精なんてあり得ない。どんな場合でもあり得ない。わざとつとめて生やした鬚だ。ああ、僕はいったい誰のことを言っているのだ! ごらん下さい、私はいまこうしています、ああしていますと、いちいち説明をつけなければ指一本うごかせず咳ばらい一つできない。いやなこった! あいつの素顔は、眼も口も眉毛もないのっぺらぼうさ。眉毛を描いて眼鼻をくっつけ、そうして知らんふりをしていやがる。しかも君、それをあいつは芸にしている。ちぇっ! 僕はあいつを最初|瞥見《べっけん》[ちらっと見ること]したとき、こんにゃくの舌で顔をぺろっと舐《な》められたような気がしたよ。思えば、たいへんな仲間ばかり集って来たものさ。佐竹、太宰、佐野次郎、馬場、ははん、この四人が、ただ黙って立ち並んだだけでも歴史的だ。そうだ! 僕はやるぞ。なにも宿命だ。いやな仲間もまた一興じゃないか。僕はいのちをことし一年限りとして Le Pirate に僕の全部の運命を賭《か》ける。乞食になるか、バイロン[ジョージ・ゴードン・バイロン(1788-1824)、イギリスのロマン派詩人、「チャイルド・ハロルドの巡礼」などで知られる]になるか。神われに五ペンスを与う。佐竹の陰謀なんて糞《くそ》くらえだ!」ふいと声を落して、「君、起きろよ。雨戸をあけてやろう。もうすぐみんなここへ来るよ。きょうこの部屋で海賊の打ち合せをしようと思ってね」

 私は馬場の興奮に釣られてうろうろしはじめ、蒲団を蹴《け》って起きあがり、馬場とふたりで腐りかけた雨戸をがたぴしこじあけた。本郷のまちの屋根屋根は雨でけむっていた。

 ひるごろ、佐竹が来た。レンコオトも帽子もなく、天鵞絨《ビロード》のズボンに水色の毛糸のジャケツを着けたきりで、顔は雨に濡れて、月のように青く光った不思議な頬の色であった。夜光虫は私たちに一言の挨拶もせず、溶けて崩れるようにへたへたと部屋の隅に寝そべった。

「かんにんして呉れよ。僕は疲れているんだ」

 すぐつづいて太宰が障子をあけてのっそりあらわれた。ひとめ見て、私はあわてふためいて眼をそらした。これはいけないと思った。彼の風貌(ふうぼう)は、馬場の形容を基にして私が描いて置いた好悪ふたつの影像[えいぞう、彫刻や絵画に表された姿]のうち、わるいほうの影像と一分一厘の間隙《かんげき》もなくぴったり重なり合った。そうして尚さらいけないことには、そのときの太宰の服装がそっくり、馬場のかねがね最もいみきらっているたちのものだったではないか。派手な大島|絣《がすり》の袷《あわせ》に総絞り[そうしぼり、生地全体を絞り染めにしたもの]の兵古帯《へこおび》[以下、服装の説明は省略]、荒い格子縞のハンチング、浅黄の羽二重の長襦袢《ながじゅばん》の裾がちらちらこぼれて見えて、その裾をちょっとつまみあげて坐ったものであるが、窓のそとの景色を、形だけ眺めたふりをして、

「ちまたに雨が降る」と女のような細い甲高い声で言って、私たちのほうを振りむき赤濁りに濁った眼を糸のように細くし顔じゅうをくしゃくしゃにして笑ってみせた。私は部屋から飛び出してお茶を取りに階下へ降りた。お茶道具と鉄瓶とを持って部屋へかえって来たら、もうすでに馬場と太宰が争っていたのである。[馬場に肩入れする主人公の口調に誤魔化されないようにすると、実際は馬場が一方的に喧嘩をふっかけていて、しかも支離滅裂なところを、注意されてますますいきり立っているのがよく分かると思う]

 太宰は坊主頭のうしろへ両手を組んで、「言葉はどうでもよいのです。いったいやる気なのかね?」

「何をです」

「雑誌をさ。やるなら一緒にやってもいい」

「あなたは一体、何しにここへ来たのだろう」

「さあ、――風に吹かれて」

「言って置くけれども、御託宣[ごたくせん、人の口を借りて神の言葉を伝えること。転じてくどくどと勿体ぶった話し口調]と、警句と、冗談と、それから、そのにやにや笑いだけはよしにしましょう」

「それじゃ、君に聞くが、君はなんだって僕を呼んだのだ」

「おめえはいつでも呼べば必ず来るのかね?」

「まあ、そうだ。そうしなければいけないと自分に言い聞かせてあるのです」

「人間のなりわいの義務。それが第一。そうですね?」

「ご勝手に」

「おや、あなたは妙な言葉を体得していますね。ふてくされ。ああ、ごめんだ。あなたと仲間になるなんて! とこう言い切るとあなたのほうじゃ、すぐもうこっちをポンチにしているのだからな。かなわんよ」

「それは、君だって僕だってはじめからポンチなのだ。ポンチにするのでもなければ、ポンチになるのでもない」

「私は在る。おおきいふぐりをぶらさげて、さあ、この一物をどうして呉れる。そんな感じだ。困りましたね」

「言いすぎかも知れないけれど、君の言葉はひどくしどろもどろの感じです。どうかしたのですか? ――なんだか、君たちは芸術家の伝記だけを知っていて、芸術家の仕事をまるっきり知っていないような気がします」

「それは非難ですか? それともあなたの研究発表ですか? 答案だろうか。僕に採点しろというのですか?」

「――中傷さ」

「それじゃ言うが、そのしどろもどろは僕の特質だ。たぐい稀な特質だ」

「しどろもどろの看板」

「懐疑説の破綻《はたん》と来るね。ああ、よして呉れ。僕は掛合い万歳[かけあいまんざい、二人で掛け合って行う滑稽もの]は好きでない」

「君は自分の手塩にかけた作品を市場にさらしたあとの突き刺されるような悲しみを知らないようだ。お稲荷さまを拝んでしまったあとの空虚を知らない。君たちは、たったいま、一《いち》の鳥居をくぐっただけだ」

「ちぇっ! また御託宣か。――僕はあなたの小説を読んだことはないが、リリシズム[叙情性]と、ウイットと、ユウモアと、エピグラム[警句]と、ポオズと、そんなものを除き去ったら、跡になんにも残らぬような駄洒落《だじゃれ》小説をお書きになっているような気がするのです。僕はあなたに精神を感ぜずに世間を感ずる。芸術家の気品を感ぜずに、人間の胃腑《いふ》[胃袋のこと]を感ずる」

「わかっています。けれども、僕は生きて行かなくちゃいけないのです。たのみます、といって頭をさげる、それが芸術家の作品のような気さえしているのだ。僕はいま世渡りということについて考えている。僕は趣味で小説を書いているのではない。結構な身分でいて、道楽で書くくらいなら、僕ははじめから何も書きはせん。とりかかれば、一通りはうまくできるのが判っている。けれども、とりかかるまえに、これは何故に今さららしくとりかかる値打ちがあるのか、それを四方八方から眺めて、まあ、まあ、ことごとしくとりかかるにも及ぶまいということに落ちついて、結局、何もしない」

「それほどの心情をお持ちになりながら、なんだって、僕たちと一緒に雑誌をやろうなどと言うのだろう」

「こんどは僕を研究する気ですか? 僕は怒りたくなったからです。なんでもいい、叫びが欲しくなったのだ」

「あ、それは判る。つまり楯を持って恰好をつけたいのですね。けれども、――いや、そむいてみることさえできない」

「君を好きだ。僕なんかも、まだ自分の楯を持っていない。みんな他人の借り物だ。どんなにぼろぼろでも自分専用の楯があったら」

「あります」私は思わず口をはさんだ。「イミテエション![真似、模造品]

「そうだ。佐野次郎にしちゃ大出来だ。一世一代だぞ、これあ。太宰さん。附け鬚模様の銀|鍍金《めっき》の楯があなたによく似合うそうですよ。いや、太宰さんは、もう平気でその楯を持って構えていなさる。僕たちだけがまるはだかだ」

「へんなことを言うようですけれども、君はまるはだかの野苺と着飾った市場の苺とどちらに誇りを感じます。登竜門というものは、ひとを市場へ一直線に送りこむ外面《げめん》如菩薩《にょぼさつ》[「外面如菩薩内心如夜叉」(げめんにょぼさつないしんにょやしゃ)という言葉がある。外面は菩薩の如(ごと)く穏やかだが、内面は夜叉の如く邪悪であるという意味である。つまり登竜門を潜るとその向こうには夜叉の地獄が控えているという意味]の地獄の門だ。けれども僕は着飾った苺の悲しみを知っている。そうしてこのごろ、それを尊く思いはじめた。僕は逃げない。連れて行くところまでは行ってみる」口を曲げて苦しそうに笑った。「そのうちに君、眼がさめて見ると、――」

「おっとそれあ言うな」馬場は右手を鼻の先で力なく振って、太宰の言葉をさえぎった。「眼がさめたら、僕たちは生きて居れない。おい、佐野次郎。よそうよ。面白くねえや。君にはわるいけれども、僕は、やめる。僕はひとの食いものになりたくないのだ。太宰に食わせる油揚げはよそを捜して見つけたらいい。太宰さん。海賊クラブは一日きりで解散だ。そのかわり、――」立ちあがって、つかつか太宰のほうへ歩み寄り、「ばけもの!」

 太宰は右の頬を殴られた。平手で音高く殴られた。太宰は瞬間まったくの小児のような泣きべそを掻《か》いたが、すぐ、どす黒い唇を引きしめて、傲然《ごうぜん》[おごりたかぶった様子]と頭をもたげた。私はふっと、太宰の顔を好きに思った。佐竹は眼をかるくつぶって眠ったふりをしていた。

 雨は晩になってもやまなかった。私は馬場とふたり、本郷の薄暗いおでんやで酒を呑んだ。はじめは、ふたりながら死んだように黙って呑んでいたのであるが、二時間くらいたってから、馬場はそろそろしゃべりはじめた。

「佐竹が太宰を抱き込んだにちがいないのさ。下宿のまえまでふたり一緒に来たのだ。それくらいのことは、やる男だ。君、僕は知っているよ。佐竹は君に何かこっそり相談したことがありはしないか」

「あります」私は馬場に酌をした。なんとかしていたわりたかった。

「佐竹は僕から君をとろうとしたのだ。別に理由はない。あいつは、へんな復讐心《ふくしゅうしん》を持っている。僕よりえらい。いや、僕にはよく判らない。――いや、ひょっとしたら、なんでもない俗な男なのかも知れん。そうだ、あんなのが世間から人並の男と言われるのだろう。だが、もういい。雑誌をよしてさばさばしたよ。今夜は僕、枕を高くしてのうのうと寝るぞ! それに、君、僕はちかく勘当されるかも知れないのだよ。一朝めざむれば、わが身はよるべなき乞食であった。雑誌なんて、はじめから、やる気はなかったのさ。君を好きだから、君を離したくなかったから、海賊なんぞ持ちだしたまでのことだ。君が海賊の空想に胸をふくらめて、様様のプランを言いだすときの潤んだ眼だけが、僕の生き甲斐《がい》だった。この眼を見るために僕はきょうまで生きて来たのだと思った。僕は、ほんとうの愛情というものを君に教わって、はじめて知ったような気がしている。君は透明だ、純粋だ。おまけに、――美少年だ! 僕は君の瞳《ひとみ》のなかにフレキシビリティ[柔軟性。融通性]の極致を見たような気がする。そうだ。知性の井戸の底を覗いたのは、僕でもない太宰でもない佐竹でもない、君だ! 意外にも君であった。――ちぇっ! 僕はなぜこうべらべらしゃべってしまうのだろう。軽薄。狂躁《きょうそう》。ほんとうの愛情というものは死ぬまで黙っているものだ。菊のやつが僕にそう教えたことがある。君、ビッグ・ニュウス。どうしようもない。菊が君に惚《ほ》れているぞ。佐野次郎さんには、死んでも言うものか。死ぬほど好きなひとだもの。そんな逆説めいたことを口走って、サイダアを一瓶、頭から僕にぶっかけて、きゃっきゃっと気ちがいみたいに笑った。ところで君は、誰をいちばん好きなんだ。太宰を好きか? え。佐竹か? まさかねえ。そうだろう? 僕、――」

「僕は」私はぶちまけてしまおうと思った。「誰もみんなきらいです。菊ちゃんだけを好きなんだ。川のむこうにいた女よりさきに菊ちゃんを見て知っていたような気もするのです」

「まあ、いい」馬場はそう呟いて微笑んでみせたが、いきなり左手で顔をひたと覆って、嗚咽《おえつ》をはじめた。芝居の台詞《せりふ》みたいな一種リズミカルな口調でもって、「君、僕は泣いているのじゃないよ。うそ泣きだ。そら涙だ。ちくしょう! みんなそう言って笑うがいい。僕は生れたときから死ぬるきわまで狂言をつづけ了せる。僕は幽霊だ。ああ、僕を忘れないで呉れ! 僕には才分があるのだ。荒城の月を作曲したのは、誰だ。滝廉太郎を僕じゃないという奴がある。それほどまでにひとを疑わなくちゃ、いけないのか。嘘なら嘘でいい。――いや、うそじゃない。正しいことは正しく言い張らなければいけない。絶対に嘘じゃない」

 私はひとりでふらふら外へ出た。雨が降っていた。ちまたに雨が降る。ああ、これは先刻、太宰が呟いた言葉じゃないか。そうだ、私は疲れているんだ。かんにんしてお呉れ。あ! 佐竹の口真似をした。ちぇっ! あああ、舌打ちの音まで馬場に似て来たようだ。そのうちに、私は荒涼たる疑念にとらわれはじめたのである。私はいったい誰だろう、と考えて、慄然《りつぜん》[恐ろしさにぞっとする]とした。私は私の影を盗まれた。何が、フレキシビリティの極致だ! 私は、まっすぐに走りだした。歯医者。小鳥屋。甘栗屋。ベエカリイ。花屋。街路樹。古本屋。洋館。走りながら私は自分が何やらぶつぶつ低く呟いているのに気づいた。――走れ、電車。走れ、佐野次郎。走れ、電車。走れ、佐野次郎。出鱈目な調子をつけて繰り返し繰り返し歌っていたのだ。あ、これが私の創作だ。私の創った唯一の詩だ。なんというだらしなさ! 頭がわるいから駄目なんだ。だらしがないから駄目なんだ。ライト。爆音。星。葉。信号。風。あっ!

「佐竹。ゆうべ佐野次郎が電車にはね飛ばされて死んだのを知っているか」

「知っている。けさ、ラジオのニュウスで聞いた」

「あいつ、うまく災難にかかりやがった。僕なんか、首でも吊らなければおさまりがつきそうもないのに」

「そうして、君がいちばん長生きをするだろう。いや、僕の予言はあたるよ。君、――」

「なんだい」

「ここに二百円だけある。ペリカンの画が売れたのだ。佐野次郎氏と遊びたくてせっせとこれだけこしらえたのだが」

「僕におくれ」

「いいとも」

「菊ちゃん。佐野次郎は死んだよ。ああ、いなくなったのだ。どこを捜してもいないよ。泣くな」

「はい」

「百円あげよう。これで綺麗《きれい》な着物と帯とを買えば、きっと佐野次郎のことを忘れる。水は器にしたがうものだ。おい、おい、佐竹。今晩だけ、ふたりで仲よく遊ぼう。僕がいいところへ案内してやる。日本でいちばん好いところだ。――こうしてお互いに生きているというのは、なんだか、なつかしいことでもあるな」

「人は誰でもみんな死ぬさ」

        (おわり)

[つまり、私こと主人公が小説を登場人物に乗っ取られてしまった形で、語り手であるはずの私が退場させられて、他の登場人物が締めくくる訳である。出だしの私の語り始めと比べてみるのも面白いだろう。さらにここには私を除く登場人物、馬場、佐竹、菊ちゃん、そして執筆者としての太宰は存在しているのである。なぜ作者が太宰治を登場させなければならなかったかの理由は、実はここにある。この小説は始めは語り手としての私が執筆しているのだが、ここにいたって、作者としての太宰治が執筆しているという、かなり通人好みのウェットを込めているからである]

青空文庫ファイルの注

テキスト中に現れる記号について

《》:ルビ
(例)堪《こた》える

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)孤高|狷介《けんかい》

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(例)[#ここから5字下げ、本文よりひとまわり大きい太ゴシック体]

入力校正

底本:「走れメロス」新潮文庫、新潮社
   1967(昭和42)年7月10日発行
   1985(昭和60)年9月15日40刷改版
   1989(平成元)年6月10日50刷
初出:「文藝春秋」
   1935(昭和10)年10月
入力:野口英司
校正:八巻美恵
2004年2月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

ダス・ゲマイネの題名について

ドイツ語の「通俗性・卑俗性」といった意味と、津軽弁の「ん・だすけ・まいね」(それだから駄目なんだ)を掛けているとも言われる。

もの思う葦 (太宰治)(おまけ)

のなかの[ダス・ゲマイネに就いて]

 いまより、まる二年ほどまえ、ケエベル先生の「シルレル論」を読み、否、読まされ、シルレルはその作品に於いて、人の性よりしてダス・ゲマイネ(卑俗)を駆逐し、ウール・シュタンド(本然の状態)に帰らせた。そこにこそ、まことの自由が生れた。そんな所論を見つけたわけだ。ケエベル先生は、かの、きよらなる顔をして、「私たち、なかなかにこのダス・ゲマイネという泥地から足を抜けないもので、――」と嘆じていた。私もまた、かるい溜息をもらした。「ダス・ゲマイネ」「ダス・ゲマイネ」この想念のかなしさが、私の頭の一隅にこびりついて離れなかった。

 いま日本に於いて、多少ともウール・シュタンドに近き文士(ぶんし)は、白樺派の公達(きんだち)、葛西(かさい)善蔵、佐藤春夫。佐藤、葛西、両氏に於いては、自由などというよりは、稀代(きたい)のすねものとでも言ったほうが、よりよく自由という意味を言い得て妙なふうである。ダス・ゲマイネは、菊池寛である。しかも、ウール・シュタンドにせよ、ダス・ゲマイネにせよ、その優劣をいますぐここで審判するなど、もってのほかというべきであろう。人ありて、菊池寛氏のダス・ゲマイネのかなしさを真正面から見つめ、論ずる者なきを私はかなしく思っている。さもあらばあれ、私の小説「ダス・ゲマイネ」発表数日後、つぎの如き全く差出人不明のはがきが一枚まい込んで来たのである。

  うつしみに
  きみのゑがきし
  をとめのゑ
  うらふりしけふ
  こころわびしき

 右、春の花と秋の紅葉といずれ美しきという題にて。
                        よみ人しらず。

 名を名乗れ! 私はこの一首のうたのために、確実に、七八日、ただ、胸を焦がさむほどにわくわくして歩きまわっていた。ウール・シュタンドも、ケエベル先生もあったものでなし。所詮、私は、一箇の感傷家にすぎないのではないのか。

2010/4/1

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