芥川龍之介の生涯略歴

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芥川龍之介(1892/3/1-1927/7/24)

 1892年3月1日。東京にて、牛乳販売会社「耕牧舎」を営む新原敏三と妻フクの間に生まれる。生まれて間もなくおっ母さんが発狂常態に陥ってしまい、母の実家で母の兄夫婦と母の姉のふきによって暖かく育てられた。11歳の時にはその母が亡くなり、兄夫婦の養子となっているが、その頃兄夫婦が本当の両親で無いことを知ったという。やがて第一高等学校を経て、東京帝国大学英文科と進み、在学中の1914年に友人の菊池寛や久米正雄、菊池寛、久米正雄、山宮允、松岡譲、成瀬正一、山本有三と共に第3次「新思潮」を刊行。この中で初めての小説「老年」を掲載するが、この頃吉田弥生という女性と意気投合、やがて彼女に縁談が持ちかけられ、自分の気持ちに気が付いた竜之介は慌ててラブレターなど送り付けたところ、母親代わりのフキが「あんな私生児に」とかいろいろ理由をつけて大泣きに泣きだして反対した。なんだか分からない。龍之介もわんわん泣いて、この恋愛は破綻してしまったのである。これとは関係ないが、ついでに同人誌も廃刊となった。1915年には芥川龍之介のペンネームを使って「羅生門」を「帝国文学」に発表。この年夏目漱石邸を訪れ、すすんで漱石山房の一員となった。翌年1916年には第4次「新思潮」を刊行し、「鼻」を掲載すると、漱石先生がなかなかにお褒めの手紙など下さったのだが、先生はこの年に亡くなってしまったのである。

 そのころ海軍機関学校の英語教師を始めた龍之介は、続々と短編を発表し、1918年の3月には漱石先生と同じような道を進む決意をした。すなわち、教職を辞して大阪毎日新聞社に入社したのである。1916年以来約束を交わしていた幼馴染の塚本文(つかもと ふみ)とは1919年に結婚。ところがその直後に色恋沙汰。文壇に出入りする、既婚者だった秀しげ子と知り合い、密会よろしく逢い引きを重ねていたら、深入りしすぎて長年つきまとわれることになった?その辺の事情はよく分からない。1920年には長男が生まれ、1921年には大阪毎日海外視察員として中国を訪れ、「上海遊記」などを発表している。

 長男教育ではフキなどの干渉もあり、次第に神経衰弱やら、腸カタルなどに悩み始めた竜之介だったが、そんなところまで先生の真似をなさらなくてもよさそうなものだ。さまざまあって、彼は次第に睡眠薬など飲むようになっていく。昭和元年を告げる1926年には、胃潰瘍・神経衰弱・不眠症を治療するため2度目の湯河原に療養に出かけるほどだった。しかし1927年始めにさらなる重荷がのし掛かってくる。姉の夫が放火の嫌疑をかけられ自殺してしまったのだ。芥川龍之介の肩には自殺者の借金や、沢山の家族の扶養義務がのしかかる。そんな中、4月には谷崎潤一郎と「文芸的な、余りに文芸的な」論争を繰り広げている。ストーリー性だけが作品の優劣ではないと叫んで、志賀直哉を讃える龍之介だったが、なんだか空しい心持がしたのか、「続西方の人」を書き上げた7月24日の未明、大量の睡眠薬を飲んで自殺してしまった。自ら記した所では、新聞記事はいろいろの動機を書き連ねるだろうが、それが動機の全てではなく、僕の場合は「ただぼんやりした不安である」そうだ。死の8年後、文藝春秋に居た菊池寛によって新人文学賞「芥川龍之介賞」が設立されたので、今では作品を読まない人でも知っているという、良いんだか悪いんだか分からない名声も獲得している。まあ名前が知られていれば、読まれる機会も増えるんだろう。

 なおどうせ自殺するなら昭和元年である1926年にしてくれれば、覚えやすいという年号派の批判があるが、これは死者への冒涜に過ぎるというものだ。(・・・。)

2008/01/05

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