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ある教員が、「果たし状が来ました」と大慌てで、わたしの所に駆け込んで来たのである。それから、生徒の離反だの、僕は頑張っているだの、誰も認めてくれ無いだの、この生徒だって寝てばかりいるだの、あれやらこれやらまくし立てるのである。せっかくのほろ酔いが台無しである。そんなことは自分で解決するがいい。近頃の教師は、だらしなさ過ぎだ。
下人は、婆さんの着物をはぎ取りました。でも、死人の服よりも婆さんの服が立派だとは思えません。何しろカツラを作る婆さんですから、どっちもどっちには違いないのです。金にならないことは明らかです。そんな明らかなことを、あえてする時の、こころの変化を、盗人への意思表示だなんて、平気で解説する輩(やから)がいますが、僕は絶対信じません。そうであるなら下人は、明日からは盗人への道を突き進むようなエンディングになるはずですが、とてもそうは思えないからです。そもそも、このお婆さんは、カツラを作ろうとして髪の毛を抜いていたのです。それが金になるからです。本当に盗賊になる意思表示なら、絶対に金になるはずの、カツラだって持って帰らなければ話になりません。それを何でか、婆さんの服だけを奪い取って、しかも感情のコントロールも出来ないで、慌てふためきながら逃げてしまったのは、この下人がいかに盗賊になるという意思表示に失敗した、ただ衝動任せに盗んでみただけの、だらしない男であるかを、証明しているには違いないのです。
つまり、これは盗人になる決意の表明。日常社会からの、善からの境界線を越えるようなお話ではありません。あばたを気にしっぱなしの、雨に降られて途方に暮れるばっかりで、格好いいアクションのひとつも起こせない下人の、その駄目っぷりを表明した、ばかばかしいエピソードに違いないのです。何しろ、よろよろの婆さんから、ただ彼女の服を奪い取って、勝ったのに必至になって逃げる。そのために、よろよろの婆さんと、取っ組み合いすらしてしまう。しかも全身全霊をかけて、まるで鬼と格闘でもするかのようにです。そんな、刀を持った下人の技とも思えない、あまりにも情けない事件を、さも下人の心理活劇であるかのように装って、それによってかえって、下人のあまりにも小っちゃな魂を浮かび上がらせることが、芥川君の本意だったには違いないのです。僕の目は優秀です。教師どもが出鱈目を教えこもうったって、到底騙せっこありません。
つまりこの下人は、
善人から悪人に変わったのではないのです。
はなっから、善とも悪とも曖昧な凡人。明確な思考どころか、自我にさえ乏しい冴えない男であることを、明確に提示しているのです。それだからこそ、ある時は恐ろしいほどの善人に走ったり、かと思えば、途端に悪人の心情に染まったりしながら、どちらにしたところで、結局は自分のポリシーにはならずに、恐らくは無限のどっち付かずの中で、一生を終えるに違いありません。
物語の進行上、善の気持ちが、悪の気持ちへとすり替えられたなんて効果は、駄目だなあ、すぐ欺されるんだから、それは表面上の、一時の心理効果が、偶然に見せた断面図に過ぎないのだ。一端読み取ってから、僕みたいに、もっと良く考察を加えないと、この下人のぐだぐだした性格なんか、みんなを同じ価値観に貶める、教師になんか、見えてこないには決まっています。僕は教師が嫌いです。でも、もっと、僕はこの下人が嫌いなのです。ちっともいいところがありません。きっと作者も嫌いだった筈です。僕の鑑定眼は確かです。
そもそも、婆さんの服装なんて、下人が売りに行くとはとても思えません。もとより何の価値もないものですが、それにしても、このような俗物は、往々にして地道にお金を得るために、アルバイトをするという観念がありません。楽して儲けたい精神が、すぐに博打に走るのです。けれども競馬なんかは怖くって、パチンコでちまちま負けるのが関の山です。僕の父さんとよく似ています。だからなおさら嫌いです。
失礼。僕としたことが、つい取り乱しました。
僕ほどの立派でも、感情が先走ることはあるのです。
けれども……何のお話しでしたっけ?
そうです、お金のお話しです。
お金を得るお話しです。
このような小心者は、思想もプライドも無いくせに、いつもこう思っています。
「もっと大きな仕事をしなくては駄目だ。
ひとかどの仕事をしなくては駄目だ。
悪人でもいい、英雄になりたいのだ」
でも、英雄のように、勇気を出すなんて、小心者に出来るわけありません。それでいて、地道に行動する気力すら無いのだから、婆さんの服なんか奪ったところで、結局またあばたを気にし始めて、雨粒に当たっているうちに、自分のスケールの小っちゃさに堪えられなくなって、奪い取った服を、その辺に放り投げるに決まっています。そうして下人は、こう考えるに違いありません。
「あの婆さんは、これと同じ服装を、あそこで整えることが出来るだろう。つまり、自分は金にもならないぼろ切れを、ここまで持ってきたまでのこと。婆さんから服を盗んだとすら、言えないのではないのか」
まったくその通りです。
全員の死骸が、服さえないなら、
まだしも盗みの意味が行きますが、
芥川君がまた周到に、君たちに変な考えを起こさせないように、
ただ、おぼろげながら、知れるのは、
その中に裸の死骸と、着物を着た死骸とがあるという事である。
と、言い切ってしまいました。
そこに代わりの服があって、着ることが可能であることは証明されているのです。ボロ切れの山で、ボロ切れの乞食から、ボロ切れの服を奪ったって、乞食はボロ切れを着るには決まっています。それって、本当に盗みなのでしょうか。僕は疑います。
現に、婆さんは、「くだらん茶番じゃわい」とつぶやくと、すぐに死体の服をまとって、またカツラ作りを再開しましたし、自分の服のことなんか、すぐに忘れてしまったのです。ただ、斬られなくってラッキーです。しかも、かつらの毛さえ、奪われずに済みました。実は服なんかよりこちらの方が、よほど金になることを、貧乏人の先輩である婆さんは、熟知していたには違いありません。下人は土下座でもして、教えを請うべきでした。そのせっかくのチャンスを、下人は無駄にします。金にならない服を奪って、勝ったなずなのに、転げ落ちて逃げてしまいました。なんだかとってもやれやれです。
下人もその事に気づきます。
彼はいつでもそうです。
終わってから気づくのです。
逃げ出してから気づくのです。
思えば、仕事を失ったときも、
その性質が災いしていたには違いなのだけれど……
下人は頭をふるいます。
手に持った服が憎たらしい。
奪った服に、盗んだと宣言するほどの価値すらないことが、みじめになって心に突き刺さります。第一、自分が本当に盗人であれば、もっと悠然と構えて、あんな婆さんくらい、殺さないにしても踏んづけにして、ありったけの物を、カツラも含めて、もちろんせっかく持っている剣で脅して、奪ってくるくらいでなくっちゃ、まるで盗人の資格なんかない。そう思ってうちひしがれることは間違いありません。まさに、服だけ奪って、大慌てで逃げてしまったのは、作者がそのことをクローズアップさせたからに決まっています。
こんなだらしない下人に、これから盗みで生きていくことなんか出来っこありません。使いっ走りがいいところです。のび太のくせに生意気だと、いじめられるに決まっています。こんなだらしない下人に、これから盗みで生きていくことが出来るのかどうか、こんな馬鹿げた羅城門の猿芝居で、どうして分かるものかと、あの眼鏡の先生とやらを、ぶん殴ってやりたい気持ちです。
ああ本当に情けない。
聞いている僕のほうが、
なんだか泣けてくるような週末です。
あ、すいません。
終末です、終末。
僕は週末の宿題として、
これを落書きしているので、
つい、間違いました。
それにしても……
せっかく、あの婆さんが、餓えをしのいで、生活をしているのだったら、一層のこと婆さんに土下座をして、生きるための教えを乞うなり、婆さんを真似てカツラを作るなり、死人の服装すべてを集めて、シーチキンのおにぎりと交換でもすればよかったんです。
なんです、プライド?
そんなのあははのはです。
生きるか死ぬかの瀬戸際です。
現に服を奪って逃亡です。
土下座と何が違います。
明日の命がすべてです。
あるいは、婆さんをぶった切って、もしかしたら僅かばかりの金銭でも、もっていやしないかと懐を探るくらいの勇気もなく、よりによって、そんな一着なんてゴミ以下の、婆さんの服を奪い取って、「たすけてくれえ」と、すたこら逃げてしまうなんて、あまりにも、あんまりにも情けなくって、父ちゃん情けなくって大泣きです。こんな、親父(おやじ)にもぶたれたことのないあまちゃんでは、明日の未来なんか、ありません。
僕は本当にがっかりです。こんないつわりの盗人の失敗作品が、本物の盗人に出会ったら、一瞬にして瞬殺です。でなければ即座に使いっぱです。へこへこした草履持ちです。それでも生きていれば幸せですが……
僕には見えます。
あるいはのたれ死にか、盗人の仲間に置き去りにされて、一人だけ捕まってしまうのがオチです。悪事に身を染めて、生きていくなんて悪の英雄みたいなことは、出来ないようなひよっ子です。そうして、作者の芥川君は、そのことをこそ、もっともリアルに、僕らに暗示したかったに違いありません。まさか、執筆者の策略に引っかかって、生真面目に下人の一貫した心理状態などを、描き出す阿呆しかいない世の中だなんて、自殺をしたって、思い詰めなかったには違いありません。彼は大いに、見誤ったようであります。
それにしても、
これは本当に、極めて精巧な作品なのですが、
それは僕の大嫌いな、
先生方の説明するものではありませんでした。
一方、髪の毛を取られた、
死骸の女には好感が持てます。
婆さんは語ります。
現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だと云うて、太刀帯の陣へ売りに往んだわ。疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に買っていたそうな。
なるほど。
婆さんが同類と見なすのはもっともです。
婆さんは、彼女の弟子だったのかも知れません。婆さんに、処世術(しょうせいじゅつ)を教えたのはこの人です。風向き変わって、今は死骸です。けれどもそれは時の運。下人よりは、よっぱど世渡り上手です。それにしても、まるで罪の連鎖が死んだ女、婆さん、下人へと、順番にくだってくるように配分されていますが、実はそれはフェイクです。欺されるのは、教師くらいのものです。読者がそう誤って読んでくれるように、わざとそう仕組んでいるのです。本当に芥川龍之介は、やりたい放題のはっちゃけ達人なのですから、僕らは気をつけなくっちゃなりません。まんまと彼の術中に陥らないように、命がけで事に当たらなければならないのです。
むしろこのエピソードは、きわめて効率的に、きわめて大胆にお金の獲得に成功した、サクセスストーリーの女王に対して、この老婆と下人の、あまりにはしたない、金銭感覚の乏しさ、カツラを作ったり、貧困の婆さんの着物を奪ったりと、まるで株にもFXもわきまえないで、パチンコでお金が稼げると思っているような、博打の基本もなっていないような、甘ったれた愚者のたましいを、ものの見事にクローズアップしているに過ぎません。つまりは、この物語に暗示されているものは、(先ほどもお話ししました、僕は用意周到です、)この下人はむしろ無能者に近く、善にしろ悪にしろろくな仕事をこなせない、それが原因で主から解雇されたのではないかという、核心に満ちた疑惑そのものです。
僕は擁護します。
死んだ女こそ広いんです。
ごめんなさい、また間違いました。僕はまだまだ、幼稚です。言葉の間違いはご容赦です。言いたかったのはヒロインです。死んだ女こそヒロインです。
だって、考えても見てください。
蛇の肉は大評判だったのです。
それは、干し魚に似た味であり、それに劣らない美味しさを持っていたのです。だって、おかしいじゃないですか。今だって、食品偽装問題や、スーパーや回転寿司の魚の名称が、法律には触れないからって、変えられて売られているじゃないですか。これはまさに、彼女の子孫たちが、逞しく生きている証じゃありませんか。そうやって売っている者たちは、誰もが勝利者です。百や千でなく、億を儲ける事業家です。下人の子孫なんて運良くあったって、親のすねをかじりながら、パチンコ屋に入り浸りに違いありません。
そもそも、にせ物のお魚だって、
毒が入っているのではありません。
現に買っている人たちは、それだと思って食べているのです。満足しているのです。本物も、にせ物もありません。美味しかったら良いのです。美味しいものだから信任される。信任されるから値がつり上がる。別に名称が違っていたからって、蛇でも干し魚でも、買われた値がすべてです。法律なんかくそ食らえ。なんだか世紀末の気配がします。
現に「太刀帯の陣」では、かかさずに買われているほどの目玉商品だったのです。味のよいものを提供した彼女には、表彰状が与えられる好成績です。飢饉で食料さえも不足気味です。超栄養価の高い、蛇の肉を与えるなんて、女神のような美徳です。
teacher はそれを悪く言います。
悪女だと罵るのです。
僕にはどうしても許せません。
下人の悪の発祥は、死骸に由来すると笑うのです。
いくら何でもあんまりです。懸命に生きた彼女が、もう口をきけないからといって、彼らは精一杯に貶めるのです。貶めれば、貶めるほど、彼らの目的は叶うのです。彼女を悪に仕立てないと、下人の悪は成り立ちません。それを嫌でも教え付けようと、彼らは必死にまくし立てます。僕は嫌だから寝ています。するといきなり起こすのです。僕は寝てなんかいやしません。いや、これは、なんだか、表現がおかしいですが、僕は寝たふりをしただけです。本当は寝て何かいやしません。ああ、けれども僕は卑怯です。所詮は、彼女の仲間にはなれそうもありません。これだけの事を臆面もなく、奴にぶちまけてやる勇気は出ませんでした。へらへら笑って誤魔化します。僕も所詮は、下人と変わらないのかも知れません……
すいません。
なんだかしょげちゃいました。
へこたれている場合ではありません。
探求は僕個人の精神によって、貶められるべきではないからです。ともかく蛇でも美味しいのです。あるいは、蛇だからこそ美味しかったのかも知れないのです。それを悪だと言うならば、先生たちはまず生徒に教える前に、違う名称でお寿司を提供しているお店に押し寄せて、悪人を追い払うべきだと思います。そんな行動力もないくせに、自分が優位に立てる僕らに対してだけは、立派に振る舞うその浅はかさが、やっぱり下人にそっくりです。
ようやく思いつきました。
そうなのです、「太刀帯の陣」の人たちだって、
干し魚と味が違うことくらい、初めから分かっていたのです。加工食品に慣らされて、味覚に乏しくなった teacher どもより、彼らの味覚は優れています。なぜなら、味覚によって、それが毒かを見分けなければなりませんでしたから、鋭敏にならざるを得ないのです。
何ですか。
僕がいつ、古代ローマのお話しをしました。
毒殺の話ではありません。
衛生管理が行き届いていないから、
味覚が命の要だったのです。そんな味覚が、飽食の世の、最先端を行く僕らの国で、存続できる筈もありません。とうとうカビが生えていても、賞味期限なら食べてしまうような、真の末世(まっせ)の当来です。
ああ、僕はまた脱線しました。
なにしろ、言いたいことが山ほどあるのです。
わあって、沸き起こって、あっちやら、こっちやら、つかまえたくって、引き止めようとするうちに、大切なこれが抜け落ちたり、かと思えば、あちらが大きくなって、また僕を悩ませる。
ともかく、「太刀帯の陣」の人たちは、それが「蛇の肉」であることを知っていて、でも味は良いのだし、金を払う価値は十分にあるのだから、「干し魚」という名称で購入していただけかもしれません。むしろ、それがあまりおいしい物だから、まあいいか、蛇には栄養があるのだし、くらいに考えていただけなのかも知れません。そもそもが、「太刀帯の陣」のような、人々の情報が集まるような場所で、婆さんのような告げ口が無いなんて不自然です。それはあり得ないことですから、購入者は、かならずそれが蛇の肉であると、分かって購入していたには違いないのです。
もっとも、さすがの僕も、当時、蛇にタブーがあったのかは分かりません。もしタブーがあって、なおかつ騙された振りをして、蛇の肉を食しているのだとしたら、むしろ真の犯人は、この死んだ女ではなくって、暗黙の了解のもとに、違法の食を楽しんでいた、あなた方、回転寿司の常連……間違いました、違います。むしろ真の犯人は、「太刀帯の陣」側だったということにも、成りかねないのではないでしょうか。
それに対して、下人には、ちっともいいところがありません。
はじめ婆さんを見たときは、正義を振りかざしながら、最後には、悪の心に移り変る分岐点だなんて、あはは、ちゃんちゃらおかしいや、途方もないような出鱈目です。どうも、彼ら教師どもは卑怯です。どこまでも僕らを騙して、その一方では、教科書の出版社と通じて、父さんの切ないようなお小遣いから、金銭を巻き上げる、二十一世紀のビジネスマンのつもりなのでしょうか。だって、それじゃあ、蛇の肉と一緒じゃないですか。純真な精神を、彼らの泥で塗りたくって、早く仲間になれなんて、下人の精神と一緒じゃないですか!
ああ、僕はすっかり、欺されました。
朝と昼、光と闇との境界線だの、秋から冬にかけてのキリギリスとコオロギがどうしたのと、さもギュスターヴ・モローのサロメの象徴でも織り込めたような、魅惑的なことばかり説明するものですから、さぞかし彼らのおっしゃる作品なのだと、錯覚された事もありました。僕は駄馬の見本です。けれども友達が、目を覚まさせました。それは原作の設定に乗っただけと教えてくれましたので、一夜の夢も覚めればガラクタ。本当にがっかりしてしまいました。
だいたい、考えても見てください。いかがわしい婆さんを、デフォルメに提示して、下人の揺れる心をクローズアップするためには、境界線の暗示やらなにやらを言う前に、純粋に、天候の悪い夕暮れを選びたくなるには、決まっているのです。雨によって、外に出にくいという状況が、物語を箱庭に押し込める効果があるからです。
もちろん、季節だって春にはなりません。
それは作者の鋭敏な頭脳の結果ではなく、
日常の感覚から、自然に秋冬へと傾くだけなんだ。
それが、善人と悪人、堅気と悪(わる)の境界線を暗示しているというのは、もっと明確に、証拠がなければ言い切れない話です。僕なんか、到底信用出来ません。小説の中で、一定の間隔で、時節の描写が入るのなんか、当たり前に決まってらい。それくらいで、暗示されているなんて、断言してはならないのが、文明開化の世の中です。それを僕の先生は、こころの境界線と決めつけて、それに疑問を呈した友人の答案用紙に、大きな罰点を付けました。ぷらぷらと示された、巨大な×印が、彼らの意に添わないものを、わざと大げさに糾弾するときの、彼らお得意の、嫌らしい臭気を放っていたのです。
それを目の当たりにして以来、
僕は奴らを信じません。
そこにあるのは生徒への思いやりでも、生徒の羽根を伸ばす願いでも、向上心への渇望でもなんでもありません。ただ優位に立って、教えている状況にあぐらをかいて、そのシチュエーションで、自らのエゴを満足させるだけの、蛇を売ったあの女に聞かせたら、悪人だと震え上がるような、最低最悪のたましいには他なりません。
彼らにうなずいたまま、
のほほんと育ったとしたら、
いったい僕らは、どうなるでしょう。
もちろん、芥川龍之介の警告したように、下人になるには決まっています。そもそも、下人が、婆さんを見たときの正義感、その憎悪は、本質的に正義感とはまるで別のもの、もっとだらしない感覚を含んでいるのです。それを芥川君は、わざと正義的感情に記しているだけなのです。
その正体は、よれよれの婆さんという、自分が絶対に優位に立てる、蟻んこに出くわした時の、勝利の確信です。どうにでも出来るという、心のゆとりそのものです。まるで僕らの先生が、僕らに対する、大人ぶった態度そのものです。もちろん、僕らが束になって掛かったら、あんなヘナチョコいちころです。ただ、僕らが家庭への忠義を重んじて、軽率な行動など出来ないものですから、絶対にそうならない確信があるものですから、ああして優位に立って振る舞えるのです。ですから、そこからかざされる道徳やら正義はにせ物です。優位な立場に酔いしれた、自己欺瞞に過ぎません。出版社などがお財布に贈りものをすれば、「いやはやそのようなこと」などホクホク致し、たちまち化けの皮が剥がれてきます。つまりはそれと一緒です。
そんな絶対的な優位が、たとえば蟻に働きすぎだと、忠告を与えるような、ゆとりとなってにじみ出て来たのが、下人が職にあった頃の、日常的な情緒。正義感であるのは当然です。どだいこの下人には、自分なんて存在しませんから、真面目な環境に投げ込んだら、たちまち真面目になるし、不真面目な環境に投げ込んだら、一瞬で不真面目に決まっています。ただどっちも借り物に過ぎませんから、長続きしませんし、それをもとに一貫した行動も取れません。
だから、いつも心のなかは不満で一杯です。
何かをやろうとしても、すぐに別の気持ちに囚われて、いつまでたっても、うじうじしてます。あんまりうじうじしてたなら、とうとう無能者として、あえなく解雇となりました。
そんな不満が、ようやく動き出したのです。
絶対に勝てる、蟻ならば、気後れすることなく、気変わりする前に、行動に移せるには決まっています。その勇気が、正義に傾くか、不正義に傾くか、そんなの出たとこまかせです。サイコロの目と一緒です。たまたま不正義に傾いただけで、下人の分岐点なんてとんでもない話です。
だから、心の不満が、人も切れない、善とも悪とも定まらない、中途半端な下人の、精一杯の行動力へと移し替えられたとき、刀も使わずに、ただ皮だけになった婆さんを組み伏せて、その服を剥ぐ。でも急にわあっとなって、一目散に逃げ出しちゃう。そんな、情けなくて「父ちゃん涙出てくる」ような失態を、ありったけ精一杯の勇気で行なって、
「ほら見ろ、俺はかつら以上のことが出来るんだ」
と輝いてみせる、つかの間の自己満足へと、昇華させたには決まっています。もちろん、すぐ直後に訪れる、自己反省のみじめさは、喩えようないほど絶望的に、下人を覆い尽くしたには違いありません。
さすがは馬でも越さぬ芥川です。
恐るべき、龍之介です。
おそらく、この下人に蛇女くらいの度胸があったら、こんな偽りの正義感は湧いてこなかったには違いありません。今頃、羅城門で手下を集め、解雇された主へ復讐がてらに、命も物も、奪い去っていたには違い有りません。
ああ、だらしない。
僕は、まるで下人と一緒だ。
先生のいいなりに、
こんな一生懸命になって、
やりたくもない宿題をやらされているなんて、
ともかく、僕の考えに間違いは無い、
僕の正義感は、いつわりには違いないのだ。
いや、間違えた、
これは下人のお話だった。
とにかく奴の正義感も結局は、
僕の体たらくと比べたら、いや、
これは、いったい何のお話だったっけ。
ああ、なんだか、分からなくなってきた。
ともかく、下人はあまりにも小さい。せこせこ雨の下で悩んで、あばたなんか年じゅう気にしていて、しかも何も出来ないのです。これでは使い物になりません。とても飢餓の世の中を渡っていくことなんか出来ません。人生の敗北者です。僕は宣言します。この下人は、ほどなく、せこせこした盗みをしくじって、その時、斬り殺されてしまうに決まっています。
申の刻(さるのこく)の、雨の夕暮れだって同じなんです。もう一度繰り返しますが、晩秋の昼と夜の境、光と闇の境。それが下人の心の境を演出してるなんて、とんでもない嘘っぱちです。作者の策略にひっかかりまくりです。そう思わせておいて、本当はここがターニングポイントとなって、下人が変わっていくのではなくって、実はこの物語は下人にとって、かえってターニングポイントになり損ねてしまった、情けないエピソードに過ぎなかったのです。そうでありながら、それをターニングポイントみたいに、わざと演出してみせたのです。
つまりは心理描写に、わざと指向性を与えておいて、読者が皆さんご一緒に騙されるように仕組んだのです。さすがは龍之介、すごい演出方法です。さすがは、ぼんやりした不安です。けれども僕の瞳は誤魔化せません。僕はそんな技には、決してかからないのです。下人は、婆さんの服なんか盗んで、逃げ出してしまった自分を、すぐに恥じるに違いありません。あるいは、自分のせこせこと暮らした、長い歳月がむなしくて、奪った服をにぎり締めながら、わんわん泣きだして、最後には盗人への道を諦めるかも知れません。いくら何でも、死にかけた老婆の、服装を奪って、全力疾走で逃げ出すなんて、刀を持った人間のプライドが、自分を見つめ直した瞬間に、すんなりと受け入れられるほどには、下人とはいえど、零落(おちぶ)れ切ってはいませんから。
ですから、この物語を通じて、主人公は盗人への踏ん切りが付いた、などという取りまとめは、詠み手の意図を察知できない、詠み手の手のひらの上で躍らされまくった、哀れな読者には違いないのです。もし、そんな馬鹿なことを述べる文学者やら、国語の教師がいたとしたら、僕の前に引きずり出すがいい。僕が正義の鉄槌を下してやる。ああ、駄目だ。そんなこと出来ないや。僕は弱虫だから。下人みたいになってしまうのに違いないや。
しっかりしなければなりません。
まとめをしくじれば、さっそく奴らに笑われます。ともかく、人のこころは、あるエピソードが派生したら、指向性が定まりましたなんて、そんな単純にはいかないものです。そうしてこの下人は、善の方面へ、あるいは悪の方面へと、ステップを踏み始めるほど、明確な精神なんか持ってやしないのです。もともとが、怠惰の無性格には過ぎないのです。
ここまで考えて、僕はなんだかびっくりしました。ようするにこの作家は、結局は盗人になれなかった下人の、ある種のターニングポイントを演出したかったのかも知れないからです。だって、いくら下人とはいえ、小っちゃな脳みそくらいは付いているでしょうから、後になって、
「何で自分はこんなにちっちゃいんだろう。全然いけてない」
と、今の僕がするみたいに、落ち込んだには違いないのです。
しかし盗人になれなかったら、やっぱり社会で自活していくだけの能力のない、このだらしない下人には、盗人の下っ端になるにしろ、盗みの最中に捕まるにせよ、どうしても成功する見込みが、自分で建てられないには決まっています。すると、おそらくもう再就職すら叶わないであろう、この下人を待っているものは、たった一つしかありません。父さん母さんの援助もないのです。つまり、作者が最後に訴えたかったことは、恐らくこの下人が間もなく生きて行かれなくなった、というひと言に尽きるのではないでしょうか。
「下人の行方は、
誰も知らない」
知らないに決まっています。
自らを保てなくて、すぐに死んじゃったに違いありませんから。
それで僕は、こんな下人のような、
せこせこしたねずみの様な死に方だけは、
絶対したくないと思います。
考えを改めなければなりません。
でないと僕の行方も、
だれも知らなくなっちゃうに決まっていますから。
ですから、まずはあなたに、宣戦布告です。
(をはり)
2010/02/13
2010/02/27 改訂
2016/06/14 酔って改訂