「伊勢物語」 原文と朗読 その三

(朗読)

『伊勢物語』 その三

四十一 むらさき

 むかし、女はらから二人ありけり。
  ひとりはいやしき男の貧しき、
 ひとりはあてなる[高貴な]男持たりけり。
いやしき男[ここでは六位の貴族]持たる、十二月(しはす)のつごもりに、夫のうへの衣(きぬ)を洗ひて、手づからのり付けをして張りけり。

 心ざし[気持ちを尽くす]はいたしけれど、さるいやしきわざ[=布張りのこと]も習はざりければ、うへの衣(きぬ)の肩を張り破(や)りてけり。せむかたもなくて、ただ泣きに泣きけり。

 これを、かのあてなる男聞きて、いと心ぐるしかりければ、いと清らなる緑衫(ろうさう)のうへの衣(きぬ)[六位貴族用の緑色の正装の表着]を見いでゝやるとて、

むらさきの
   色こき時は めもはるに
 野なる草木ぞ わかれざりける

[紫草の紫色の濃い春には、草木の芽も張るように、目の遥かかなたまで伸び広がり、野原の草木から紫草だけを見分けることなどできません。]

[「むらさき」は「紫草」のこと。その根は「紫根(しこん)」と呼ばれ、紫色の染め物に利用され、漢方薬としても使用されてきた。現在は絶滅危惧種。「むらさき」は妻を暗示するので、「むらさきの色こき時」には、紫草の根っこの紫色が濃い時」の意味と、「妻への愛情が濃い時」の意味を重ねている。「めもはるに」は、「草木の芽も春なので張る」の意味と、「目も遥か遠くまで」の意味を重ねている。「野なる草木」には、紫草以外の草木。女が「張り破って」泣いている緑色の着物を暗示。「わかれざりける」は「紫草」と「野なる草木」を区別して分けることができない。つまりわたしの妻のように思われるから、あなたを助けたいという意味を暗示する。あるいは高貴な男の「紫色」の位階も暗示するか。]

 武蔵野(むさしの)のこゝろなるべし。

[『古今集』雑上(868)が先に上げた和歌で、そのひとつ前に、
    むらさきの
       ひともとゆへに むさし野の
     草はみながら あはれとぞ見る
とあるのを指した言葉。この和歌の意味は、「妻を暗示する紫草という、ひとつの株への愛情があるから、武蔵野の草はすべて親愛なものに眺められる」といったもの。「武蔵野の心である」というのは、その和歌の心であると言っている。つまり、「妻への愛情から、その近縁のものたちまで、親愛なものに思えてくる」と読み取った、あの「武蔵野」の和歌の心で、詠まれた和歌だろうと言っている。]

四十二 誰が通ひ路

 むかし、男、色好みの女であるとと知る知る、その女をあひいへけり[互いに(愛を)語り合った]。されど、憎くはた[「はた」は「また」の意味にも、反意をこめて「そうは言っても」の意味にも使う]、あらざりけり。しば/”\行きけれど、なほいとうしろめたく[女のことが気がかりだ]、さりとて、行かではた、えあるまじかりけり。[「行かでえあるまじかりけり」に「はた」を加えたもの。行かないということにはどうしてもできないで、つまりは「通っていた」ということ]なほはた、行かでえあらざりける仲なりければ、二日三日(ふつかみか)ばかり、さはること[差し障りのあること]ありて、女のもとへえ行かで、かくなむ詠める

いでゝこし
   あとだにいまだ 変わらじを
 たがゝよひ路と 今はなるらむ

[出てきた時の、足跡さえいまだ、変わらないで残されているくらい、短い間なのに、いったいわたし以外の、誰の通うための路へと、あなたの家への道すじは、なってしまったのでしょうか]

ものうたがはしさに、
 詠めるなりけり。

四十三 しでの田をさ

 むかし、賀陽(かや)の親王(みこ)[桓武天皇第七皇子]と申す皇子(みこ)おはしましけり。その親王、女をおぼしめして[ご寵愛なさって]、いとかしこう[恐れ多くも、大変深く]恵みつかうたまひけるを、ある男の人なめきてありける[ようするに色仕掛けで口説こうとしている]を、「我のみと思ひけるを」、また別の男の人聞きつけて文やる。
 ほとゝぎすの形(かた)をかきて、

ほとゝぎす
  汝(な)が鳴く里の あまたあれば
 なほうとまれぬ 思ふものから

[ホトトギスよ、お前が飛び鳴く里が、沢山あるから、愛おしいものだとは思っていても、うとましくも感じられるのだ]

といへり。この女、その別の男のけしき[=機嫌]をとりて、

名のみ立つ
  しでの田をさは けさぞ鳴く
 いほりあまたと うとまれぬれば

[悪名ばかりが知れ渡る、「死出の田長(しでのたおさ)]と呼ばれるホトトギスは、今朝こそ泣いています。飛び歩く小屋が沢山あると、うとまれてしまいましたから。]

[「死出の田長」は、死の国から出てきて、田植えを告げる田んぼの長(おさ)の意味で、ホトトギスの異名。「いほり」は、農作業をするための小屋を指す。]

 時は五月(さつき)になむありける。
  男、返し、

いほり多き
   しでの田をさは なほ頼む
 わがすむ里に 声し絶えずは

[飛び歩く小屋が沢山あるというホトトギスでも、それでも頼みには思います。わたしの住んでいる里にも、その声が絶えないように、おとずれてくれるのなら]

四十四 馬のはなむけ

 むかし、県(あがた)[行政区間としての地方の県]へゆく人に、馬のはなむけ[餞別のこと]せむとて、呼びて、うとき人[疎遠な、親しくない人]にしあらざりければ、家刀自(いへとうじ)[一家の主婦、つまり「あるじ」の妻]さかづきさゝせて、その男に女の装束(さうぞく)かづけむ[肩にかけるだが、与えるくらい]とす。
 あるじの男、歌よみて、
  装束の裳(も)の腰にゆひつけさす。

出でゝゆく
  君がためにと ぬぎつれば
    われさへもなく なりぬべきかな

[ここを出て行くあなたのためにと思って脱いだものですから、わたしさえ「喪(も)」、つまりあなたが消えてしまう事に対する不吉な気持ちが、なくなってしまいました。この贈り物をあなたが持っていると思えば、わたしも安心してあなたを送り出せそうです。]

[「われさへもなく」に「我さへも泣く」や「我さえも無くなりぬ」のような読み取りはなされないものか?]

 この歌は、
  あるがなかにおもしろければ、
   こゝろとゞめてよまず、
  腹にあぢはひて。

[「沢山詠まれたなかで、特におもしろかったので、こころに留めて、口に出して読みまくったりはせず、心のなかで味わって……」という意味とされるが、「よまず」ではなく「よます」と解いて、「心に留めておいて、誰かに詠ませた。腹に味わうように」という説もある。]

四十五 ゆく蛍

 むかし、男ありけり。
  人のむすめのかしづく[大事に育てる]、いかで、この男に愛しているともの言はむと思ひけり。口に出してうち出でむこと、かたくやありけむ、むすめはついにもの病(や)みになりて、死ぬべき時に、
   「かくこそ思ひしか」
      (このようにこそ思っていました)
と言ひけるを、むすめの親聞きつけて、泣く/\男に告げたりければ、男はまどひ[混乱しながら]来たりけれど、むすめは死にければ、男はつれづれとこもりをり[喪にふくして家に籠もる。哀しみだけでなく、けがれを払う儀式]けり。

 時は六月(みなづき)のつごもり、
  いと暑きころほひに、
   宵は管弦の遊びをりて、
  夜ふけて、やや涼しき風吹きけり。
    蛍たかく飛びあがる。
     この男、見ふせりて、
      あのむすめを思いながら、

ゆくほたる
  雲のうへまで いぬべくは
    秋風ふくと
  雁(かり)につげこせ

[飛びゆく蛍よ、消えたたましいの、空へとのぼるように、雲の上までゆくことができるならば、「地上では秋の風の気配がするよ、はやくやってきて、天上のあの人のことを、わたしに伝えておくれ」そう雁たちに伝えておくれよ]

[「つげこせ」の「こせ」は、希望の助動詞である「こす」の命令形。万葉時代に使用された。ただし、「つげおこせ」(告げてよこせ)の「お」が脱落したという説もある。雁と蛍は、人のたましいを暗示する。]

暮れがたき
  夏のひぐらし ながむれば
    そのことゝなく
  ものぞ悲しき

[なかなか暮れない、夏の日を暮らし、ひぐらしでも聞くように、ぼんやり眺めていると、なんということもなく、もの哀しい気分になってきます]

四十六 うるはしき友

 むかし、男、いとうるはしき友[親しい友人]ありけり。かた時さらず[片時も離れず]あひ思ひけるを、その友人の都を離れ国へいきけるを、いとあはれと思ひて、別れにけり。
 月日経(へ)て、おこせたる文(ふみ)に、

「あさましく[思いかけずに、あきれるくらい]対面せで、月日の経(へ)にけること……あなたが私を忘れやしたまひにけむと、いたく思ひわびてなむはべる。世の中の人のこゝろは、目離(めか)るれば[目が離れれば、つまり直接あえなくなれば]忘れぬべきものにこそあめれ[読み「あんめれ」]

と言へりければ、よみてやる。

目離るとも 思ほえなくに
  わすらるゝ 時しなければ
    おもかげに立つ

[目が離れるなんて、思われませんのに。あなたを忘れたときなどありませんから、いつも心のなかに浮かんでいます。そうしていつも目を逢わせているようです。]

四十七 大幣(おほぬさ)

 むかし、男、ねむごろに[心をこめて、心から]、いかでと[どうにかしてと]思ふ女ありけり。されど女の方はこの男をあだなり[心がすぐ変わる]と聞きて、つれなさのみまさりつゝ言へる。

おほぬさの
  引く手あまたに なりぬれば
 思へどえこそ 頼まざりけれ

[まるで大幣のように、沢山の人から引く手あまたのあなたですから、あなたを思う心はありますが、たよりにしたいとは思いません]

返し、男、

おほぬさと
  名にこそ立てれ 流れても
 つひによる瀬は ありといふものを

[引く手あまたの大幣であると、評判が立っていますが、そんな噂が流れても、大幣が川に流されれば、いつかどこかの川瀬に、寄り添う時はあるでしょうに。それこそきっと、あなたのところなのです。]

[大幣は、大祓(おおはらえ)に用いて、祓えが済んだ後、人々がそれを自分に引き寄せて、大幣にけがれを移して、最後には川に流す。その大幣を、人々がそれぞれ引き寄せるように、沢山の女性から思いを引かれまくっているあなたでしょうに、という意味。男の答えは、引く手あまたで、モテモテでも、いつかは一人の女性に、こころを寄せるものですよと言っている。]

四十八 待たむ里

 むかし、男ありけり。
   馬のはなむけせむとて、
  人を待ちけるに、
     来ざりければ、

いまぞ知る 苦しきものと
   人待たむ 里をば離(か)れず
  とふべかりけり

[今こそ知りましたよ、苦しいものであると。恋人を待つ女性の里には、離れてあいだを置くことなく、訪れなければならないことが、今こそ分りましたよ。相手を待ちわびる気持ちが、これほど辛いものだと……]

四十九 若草

 むかし、男、妹(いもうと)[結婚できる母違いの妹かともされる]の、いとをかしげ[かわいらしい]なりけるを見をりて、

うら若み
  ねよげに見ゆる 若草を
 人のむすばむ ことをしぞ思ふ

[葉の末も若々しく、寝るのが快適であるように思われる、若草を、どこかの旅人が結んで、若草を枕に、ねむるように……まだ若々しく、一緒に寝たくなるような若草のあなたを、他の誰かがちぎりを交わして、一緒に寝てしまう。そんなことが心に浮かんでは、思い悩んだりしているのです。]

と聞こえけり。女の返し、

はつ草の
   などめづらしき ことの葉ぞ
 うらなくものを 思ひけるかな

[はじめて顔をのぞかせたような、なんて目新しい言葉なんでしょう。あなたがそんな風に思っていただなんて……なんの隔てもなく、ただ心を通わせた兄と妹として、あなたへの愛情を、感じていましたのに。]

五十 あだくらべ

 むかし、男ありけり。女の方でも自分を薄情であるとうらむる人を男もやはり薄情であるとうらみて、

鳥の子を
  十づつ十は かさぬとも
    思はぬひとを 思ふものかは

[民への負担をかけることは、鳥の玉子を十重ねるより危険なことだ。という中国の故事にならって、わたしの方は、たとえ玉子を百重ねることが可能だとしても、わたしのことを思ってくれないあなたを、思うなんてことが、あるものでしょうか。いいえ、そんなこと、絶対にあってたまるかい。]

[『古今六帖(こきんろくじょう)』に収められた、紀友則(きのとものり)の和歌、
    鳥の子を 十ずつ十は かさぬとも
      人の心を いかゞ頼まむ
にもとづいた和歌ともされる。この章、女性のデリケートな和歌と、男性の幾分デリカシーに欠ける、というか先に理屈ありて、心情の伝わってこない和歌が、対比されているようにも思われる。和歌の姿としては、女の和歌の方がすぐれている。]

といへりければ、女、

あさ露は
  消えのこりても ありぬべし
 たれかこの世を たのみはつべき

[淡く消え去る朝露だとしても、あるいは消え残る姿を見ることはできるかも知れません。そのようなわたしの心に対して、いったい誰があなたとの仲を、頼み通すことができるでしょうか。いいえできません。あなたの方が、朝露のわたしの心よりも、もっとたよりにならないものなのですから。]

 また、男、

ふく風に
  去年のさくらは 散らずとも
    あなたのみがた 人のこゝろは

[吹く風にさらされながら、たとえ去年咲いたさくらの花が、今年まで散らずに残されるようなことがあったとしても……そんな奇跡とは違って、たのみにできないものですね、あなたのこころは。]

[『古今六帖』の在原滋春(ときはる)の和歌に、
    散らずして こぞのさくらは ありぬとも
      人の心を いかゞ頼まむ
による。あり得ないことを詠んで「人の心をいかが頼まむ」と締めくくった紀友則の和歌を、詠み変えて提出したのに呼応して、やはりあり得ないことを詠んで「人の心をいかが頼まむ」と締めくくった在原滋春の和歌を、詠み変えて提出したものと思われる。(裏を返せば、この章の書き手が、おなじ趣向の和歌をもとに、この章を形成したと眺められる)]

 また、女、返し、

ゆく水に
  数かくよるも はかなきは
 思はぬ人を 思ふなりけり

[流れゆく水に数を書くよりも、はなかく空しいことは、思ってくれない人を、思うということなのですね。けれども……]

[『古今和歌集』恋一(522)に収められた和歌を、そのまま引用したもの。もとより、裏に「それでも思っているのです」という心情を含むことは明白で、わたしの方はあなたのことを思っているのに、というニュアンスをわずか込めた、女からのはじめの和歌に対して、こちらはさらに強く、「わたしの方は思っているのに」というニュアンスをにじませている。男の方が理知的な遊びとして、「あだくらべ」の贈答を楽しんでいるのに対して、女性の方は、それをただの遊びとは捉えられず、どうしても自らの思いをにじませてしまう。そんな心理状態を読み取るからこそ、最後の男の和歌が生きてくる。]

 また、男、

ゆく水と
  過ぐるよはひと 散る花と
    いづれ待てゝふ ことを聞くらむ

[流れゆく水と、過ぎ去る年齢と、散りゆく花と、いったいどれが「待つ」ということを、聞き入れてくれるでしょうか。わたしとあなたもおなじことです。いますぐそちらに向かいます。]

[女からの和歌と、ひとつ前の自分の和歌から、「ゆく水」「散る桜」を、さらにさかのぼって二句目の女の和歌の、無情的観念(あるいは仏教的観念か)や、「去年の桜」などから、「ゆく水も、過ぎ去る年齢も、散りゆく花も」という上の句を導き出し、つまりは「どうせはかなく消えてしまうものではないか」もう待ってなどいられない。相手の気持ちに探りを入れているような時ではない、いますぐあなたの元へ行きます。といったニュアンスを込めている。上句の引用から、
  「こんな遊びはもう沢山です」
として、「待つということはないのです」と断定して、すぐにでも行動に移りそうな調子が、いつもの在原業平の和歌にふさわしく、「昔男」を彷彿とさせる。
 互いに無情を比べているように見えて、一連の和歌のやり取りから、実際には女性の気持ちを確認して、最後のこの和歌が導き出されている。]

 あだくらべ[互いに薄情だと比べあうこと]、かたみに[互いに]しける男女の、実際は忍びありきしけることなるべし。

[まとめ:
 冒頭の「うらむる人をうらみて」というのはつまり、和歌でうらみごとを行ってきた女に、同種の和歌で返答して。という意味になり、はじめの和歌の前に、女からの和歌があったことをしめしている。同時に、「うらみに対してうらみで返して」つまり「うらみくらべ」のような贈答をおこなったということでもあり、だからこそ最後の「あだくらべ(=うらみくらべ)」を互いにした男女、というとりまとめになる。一方でそのような和歌の応酬のなかにも、男性が女性の気持ちを確かめるという恋の贈答歌の定型は果たされていて、最後は男は女の元へ、「忍び歩き」して向かうことになる。]

五十一 前裁の菊

 むかし、男、
  ある知人の前裁[(せんざい\せんさい)庭の植え込みのこと]に、プレゼントした菊植ゑけるに、

植ゑし植ゑば
  秋なき時や 咲かざらむ
    花こそ散らめ
  根さへ枯れめや

[こうして植えましたからからには、もし秋が来ないなら、咲かないということもあるでしょうが、たとえ花が散っても、根まで枯れたりすることがあるでしょうか。かならずまた秋になれば、新しい花を咲かせることでしょう。すえながく変わらず、うつくしく。それがわたしの気持ちなのです。]

[『古今集』秋下(268)にそのまま掲載されるが、詞書に「人の前栽に、菊に結びつけて植ゑける歌」とあり。『大和物語』での掲載は、二条の后とのストーリーに潤色されている。「植ゑし植ゑば」の「し」は強調なので、よく植えればくらいの意味。ニュアンス的には、植えながら、あるいは植えた現場で、「こうやって植えましたからには」と語りかけるような効果かと思われる。「秋なき時や咲かざらん」は、「秋がない時であろう、咲かないのは」「もし秋がないときがあれば、咲かないであろうが」といった意味。]

五十二 飾り粽

 むかし、男ありけり。
  人のもとより飾り粽(かざりちまき)[茅(ちがや)の葉などで巻いたお餅を飾りを付けたもの。端午の節句の必需品]おこせたりける返りごと\ことに、

あやめ刈(か)り
  君は沼にぞ まどひける
   われは野に出でゝ 狩るぞわびしき

[あやめを狩りに、あなたは沼を、さまよい求めてくれた。わたしは野に出て、狩りをするのがつらいことだった。(けれどもおかげて、雉を手に入れることができたので、あなたのもとへと送ります。)]

[ここで「あやめ」は菖蒲(しょうぶ)のこと。ちまきに茅の葉のかわりに巻いたか、あるいはお餅の飾りに利用された。ちまき同様、端午の節句によく使用された。この和歌は、贈答のお返しに添えられる和歌のお手本のようで、相手の贈り物である「飾り粽」に対して上の句で謝礼をし、下の句は自らのお返しに添えたものになっている。「あなたは沼」「わたしは野」と二句と四句が対照され、あなたは「刈り」に、わたしは「狩り」に、と掛詞を使用しつつ、言葉のリズムに発音上の統一を与えてもいる。さらに冒頭の「あやめ」に対して、最後の「しき」を逆に読むと「きじ」になるという遊びまで加えてある。]

[一方で、「まどひける」「わびしき」の表現と、二人のいる場所の違いなどから、あまりあえないかなしみを、背後ににじませたようにも思われる。]

とて、和歌と一緒に雉をなむやりける。

五十三 あひがたき女

 むかし、男、
   あひがたき女にあひて、
     物語などするほどに、
   鳥の鳴きければ、

いかでかは とりの鳴くらむ
   人しれず 思ふこゝろは
  まだ夜ぶかきに

[いったいどうして鳥が鳴くのだろうか。人に知られずに、あなたを思っている心は、まだこんなに夜の深くにあって、深く焦がれて、あけることを知らないというのに。]

[あひがたき女であればこそ、「人しれず」は他人に知られるであるとも、そうではなくて、「あなたにさえ知られず」であるとも解釈される。はなからどちらにも解釈されうる表現の幅が、内包されているのだから、答えはないように思われる。]

五十四 つれなかりける女

 むかし、男、
   つれなかりける女に、いひやりける。

ゆきやらぬ
   夢路をたのむ たもとには
 天(あま)つ空なる つゆや置くらむ

[あなたのもとへゆくことさえ出来ない夢のなかの通い路でさえも、現実のあなたに逢うよりは、まだ頼りに出来るのだから……そう期待して眠ったのでしたが、目覚めてみれば、わたしのたもとは、空から置かれたような露で濡れているのでした。それともこれは、わたしのなみだなのでしょうか。]

[『後撰集』恋一(559)に、
    ゆきやらぬ 夢路にまどふ 袂には
      天つ空なる 露ぞ置きける
とある。「夢路をたのむ」ではなく「夢路をたどる」とする諸本あり。そちらが正解かともされている。「たのむ」には、そのような夢路をたよりにするしかない、というニュアンスが込められているが、たもとに露が置かれると続く全体を眺めれば、「たどる」の方がふさわしいようにも思われる。]

五十五 思ひかけたる女

 むかし、男、
    思ひかけたる女の、
  え得(う)まじうなりての世に、

[「まじく」は打ち消しの推量。「え~まじく」で「(とてもではないが)~出来ないであろう」のような意味になる。つまり、女をとてもではないが、得ることが出来ないであろう状況になってから、という意味。「世に」はここでは男女関係の状態をさす。]

思はずは ありもすらめど
  言の葉の をりふしごとに
    たのまるゝかな

[あなたがもはやわたしのことを、なんとも思っていないことは、あるとは思いますが、わたしは時々伝えられるあなたの言葉の、端々にまでなんらかの思いがあるのではないかと、つい頼りにしてしまうのでした。]

五十六 草の庵

 むかし、男、
   臥して思ひ、起きて思ひ、
     思ひあまりて、

わが袖は
  草のいほりに あらねども
 暮るれば露の やどりなりけり

[わたしの袖は、草葉でつくった庵ではありませんが、夕暮れになれば露が宿すように、あなたへの思いあふれて、なみだで濡れてしまうのです。]

[後書がないのは、このあたりの単章の特徴には過ぎないが、思いあまってつい和歌を詠んでしまった、その和歌で終えているところに、余情のような効果が感じられて、なかなかに悪くない。]

五十七 われから

 むかし、男、
   人しれぬ、もの思ひ[=恋]けり。
  つれなき人のもとに、

恋ひわびぬ
  あまのかる藻に やどるてふ
 われから身をも くだきつるかな

[海女の刈る藻に宿るというワレカラは、陸に上げると殻が割れて、自分から身を砕いてしまいますが……激しい恋の悩みから、わたしもまた、自分からこの身が砕けてしまいそうです。]

[序詞と掛詞のよい(かどうかは知らんが)手本になっている。まず和歌の本体は、「恋ひわびぬ我(われ)から身をも砕きつるかな」であり、「海女の刈る藻に宿るという割殻(われから)」という小さな節足動物は、和歌の本体とは(全然ではないが)関係のない文脈である。そうして四句目の「われから」は、節足動物の「ワレカラ」と「我から」という、まったく意味の異なるふたつの対象を、言葉がおなじだという理由だけで重ね合わせてしまっている。
 この、意味は事なり発音がおなじ言葉を、両方の意味のまま使用したり、その言葉を軸にして、意味を切り替えて、次の文脈へと橋渡すようなやり方を、掛詞という。
 一方で、「海女の刈る~」のように、ひとつの文脈のなかで、ある単語だけにかかる、本体の文脈とは関係のない文脈のことを、序詞という。]

五十八 荒れたる宿

 むかし、心つきて[趣味があるくらい(ただし諸説あり。すぐに心付く色好みの意とも)]色好みなる男、長岡(ながをか)といふ所に、家つくりてをりけり。

[八十四段に関連。桓武天皇の皇女であった、在原業平の母親、伊都内親王(いとないしんのう)が、平安遷都後も長岡に住んでいたので、実際に在原業平のことを記しているとも。]

 そこのとなりなりける宮ばら[宮さま方、あるいは「宮腹」として宮から生まれた人]に、こともなき[難点のない⇒すばらしい]女どもの、ゐなかなりければ、田刈らむとて[男が田を刈ろうとしていたの他に、女らが田を刈ろうとしていたとする説あり]、この男のあるを見て、
    「いみじのすき者のしわざや」
     [大変な風流人のなさること(からかい)]
とて、集まりて入り来ければ、
  この男、逃げて、
    奥にかくれにければ、女、

荒れにけり
  あはれいく世の 宿なれや
 住みけむ人の おとづれもせぬ

[こんなに荒れてしまって、いったい幾代を過ぎた宿なんでしょう。住んでいた人さえも、訪れることがないなんて。]

[男が隠れて出てこないので、あるじがいないとからかっている。「あれにけり」には「あれ逃げり」つまり「逃げた」の意が掛け合わされているとも。]

といひて、この宮に集まり来ゐてありければ、この男、

むぐら生(お)ひて
  荒れたる宿の うれたきは
 かりにも鬼の すだくなりけり

[むぐらが生えて、荒れた宿が、嘆かわしく思われるのは、たとえるなら、刈りの時でさえ、鬼たちがわあわあさわぐからなのでしょうよ。(あなたがたみたいにね。)]

[「かりにも」は「仮の話として」「たとえるなら」の意だが、「刈りにも」を掛けている。「すだく」は鳥の群がりさわぐのによく使用される言葉。こんな田舎に住むのが嘆かわしいのは、刈りをしようとしただけで、鬼どもがさわぎ回るからだという意味。]

とてなむ、いだしたりける。
  この女ども「穂(ほ)ひろはむ」
   [穂でも拾ってお手伝いでもしてあげましょうか]  といひければ、

うちわびて
  おち穂ひろふと 聞かませば
 われも田づらに ゆかましものを

[落ちぶれて、落ち穂を拾うのだと聞いていたなら、わたしも逃げたりはせず、田のほとりへと、行ったことでしょうに。]

[「穂ひろはむ」と女らが言うところから、最後の和歌の内容は、むしろ女たちが田刈りをしていたほうが、しっくり来る。しかし「いみじのすき者のしわざや」という表現は、男が刈りをしていた方がしっくり来る。]

五十九 東山

 むかし、男、
   京をいかゞ思ひけむ。
  東山(ひむがしやま)にすまむと思ひ入りて、

[「東山」はつまり京の東側の、賀茂川を隔てた向こう側の山々]

すみわびぬ
   今はかぎりと 山里に
 身をかくすべき 宿もとめてむ

[京には住みずらくなってしまった。もはやこれまでと山里に、我が身を隠す住みかを求めたいものだ。]

 かくて[こうして]、ものいたく病みて、死に入りたりければ、おもてに水そゝき[清音で読む]などして、生きいでゝ、

[「もの病み」は「もの思ひ」と同様、ここでは恋愛を暗示するとも。「死に入る」はここでは「死の方へ入っていく」つまり「死にそうになって」くらい。顔に水をそそいで生き返ったのは、治療法というより、心の病であったということかもしれず。すると「京に住みわびぬ」「身をかくすべき」と言ったのは、恋に関連して、京に住みづらくなった、あるいは住むのが嫌になったのかもしれず。「かくてものいたく病みて」というのは、前のような「住みわびた」状態であったために、病気になって、それがしだいに重くなってしまったということで、「かくて東山へ行き」というのは、不自然な読解かと思われる。最後の和歌を東山で詠んだとするにしても、京での状態が解消されてよみがえる、「おもてに水そそきなどして」がターニングポイントになるだろう。
 そこで、京にいたまま蘇ったならば、次の七夕の和歌に、何らかの恋の悩みを解消する謎が込められているのかも知れず。あるいはまた、東山に来てよみがえったことを暗示するものが、込められているのかも知れず。なかなかに、安易な『古今集』からの借用では無いかと思われるが、わたしの脳みそが灰色すぎて、しっくりと見当が付かないので放置。
 ともかく顔に水をそそいだので、濡れているのを露が置かれたと見立てて、次の和歌。]

わがうへに 露ぞおくなる
   天の河 とわたる船の
 かいのしづくか

[わたしの顔に、露が置かれているようだ。これは天の川を渡る七夕の船の、櫂ののしずくなのだろうか。そうであるならば……]

となむ言ひて、
  生きいでたりける。

六十 花橘

  むかし、男ありけり。
 宮仕へいそがしく、心もまめならざりける[「まめ」つまり 切実」に接しなかった]ほどの家刀自(いへとうじ)[一家の主婦、つまり妻]、まめに思はむといふ人につきて、男の家を飛び出して、人の国[京以外の国、つまり地方]へいにけり。

 この男、宇佐の使[朝廷から宇佐神宮に幣帛(へいはく)を奉ずる]にていきけるに、かつての妻が、ある国の祗承(しぞう)の官人[あるいは読み「しじょう」、接待役の役人]の妻(め)にてなむあると聞きて、

「女あるじにかはらけとらせよ。さらずは飲まじ」

[「かはらけ」は素焼きの杯。つまり官人の妻、つまりかつての自分の妻に、お酌をさせろ。そうしないと飲まないぞ。と言った。]

といひければ、女がかはらけ取りて、男に出だしたりけるに、酒のさかなゝりける橘(たちばな)[古来から自生していたカンキツ類、ここではその実のこと]を取りて、

さつき待つ
  花たちばなの 香をかげば
 むかしの人の そでの香ぞする

[五月(さつき)を待って咲くという、橘の花の香りをかげば、むかし一緒だった人の、袖に使われていた香のかおりがします]

と言ひけるにぞ、女は昔のことを思ひ出でゝ、ついには尼(あま)になりて、山に入りてぞありける。

[単に、男に会ってしまったからではなく、この和歌の何らかの影響で、というような和歌効能の説話なのかもしれず。]

2016/04/05

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