むかし、男女(をとこをんな)、いとかしこく[はなはだしく]思ひかはして、ことごゝろ[「異なる心」他に移るようなこころ]なかりけり。
さるを、いかなることかありけむ、いさゝかなることにつけて、やがて女は、世の中[ここでは男女のなか]を憂し[つまり浮気などがあったか]と思ひて、かゝる歌をなむ詠みて、ものに書きつけゝる。
出でゝいなば
こゝろかるしと いひやせむ
世のありさまを 人は知らねば
[立ち去ったなら、こころの浅はかな女であると、言ったりするのでしょうか。私たちのあいだのことを、他の人は知らないものですから。]
とよみ置きて、出でにけり。
この女、かく書き置きたるを、男の方は、けしう[「異し」は、解せない、変だ、普通と違うなどの意]、心置くべきこともおぼえぬを、何によりてか、かゝらむ[なにによって、こうなったのだろう]と、いといたう泣きて、いづかたに女を求めゆかむと、門に出でゝ、と見かう見[あちらを見、こちらを見]、見けれど、いづこをはかり[目当て、見当]とも覚えざりければ、かへり入りて、
思ふかひ なき世なりけり
としつきを あだにちぎりて
われやすまひし
[相手を思う甲斐なんて、ないのが世のなかだったのです。それを、歳月を、実体もないのに契りだなんて信じて、わたしは彼女と暮らしていたなんて。(なんて浅はかだったのだろう。)]
と言ひて、ながめをり。また男の詠む。
人はいさ
思ひやすらむ たまかづら
おも影にのみ いとゞ見えつゝ
[あの人ははたして、思ったりはするのだろうか。まるでたまかづらの影のような、つかみ取れない面影にだけ、わたしにはあの人の姿がこんなにも見えて苦しいのに。]
[『万葉集』(149)に、
人はよし(昔は「いさ」と読まれた)
思ひやむとも たまかづら
影に見えつつ わすらえぬかも
という類歌あり。]
この女、いとひさしくありて、念じ[こらえる、耐える]わびて[辛く思う、困惑する]にやありけむ。言ひおこせたる。
今はとて
わするゝ草の たねをだに
人のこゝろに まかせずもがな
[「今はもう」と言って、わたしを忘れてしまう。そんな「わすれ草」の種だけでも、せめてあなたのこころに、蒔かないように出来たならよいのですが……]
男の返し、
わすれ草
植(う)うとだに聞く ものならば
思ひけりとは 知りもしなまし
[わたしがわすれ草を、こうして植えている。とだけでもあなたが聞くものなら、あなたを思っているからそんなことをするのだと、知ることも出来るでしょうに……]
[「しなまし」は、
「す」の連用形+完了助動詞「ぬ」の未然形+反実仮想の助動詞「まし」
]
またまた、
ありしよりけに[それまでにあったよりさらに]互いに言ひかはして、男、
わするらむと
おもふこゝろの うたがひに
ありしよりけに ものぞ悲しき
[(さきの和歌のように)わたしのことを忘れただろうか、と考えてしまうようなこころの疑いから、前よりもいっそう、もの悲しい気持ちにとらわれてしまいます。]
[『古今集』(718)に
わすれなむと 思ふこころの つくからに
ありしよりけに まづぞ恋しき
という類歌あり。『新古今集』(1362)に掲載。]
女の返し、
なか空(ぞら)に
たちゐる雲の あともなく
身のはかなくも なりにけるかな
[空の中程にただよう雲があとかたもなく消えるように、この身もはかなくて、心細いような気持ちがするのですけれど……]
[『新古今集』(1370)に掲載。]
とは言ひけれど、おのが世々[それぞれ別々の生き方]になりにければ、うとくなりにけり。
むかし、はかなくて[明確なこともなくて]絶えにける仲、なほや忘れざりけむ、女のもとより、
憂きながら
人をばえしも わすれねば
かつうらみつゝ なほぞ恋しき
[つれないものに思いながら、あなたをどうしても忘れられないので、一方ではうらみながらも、もうそのことが、なおさら恋しいことには違いなくて……]
[『新古今集』(1363)に掲載。]
といへりければ、「さればよ」[「そうであるならば」してやったり的な意味。予想的中の意なら、わざとじらしていたか?]といひて、男、
あひ見ては
こゝろひとつを かはしまの
水のながれて 絶えじとぞおもふ
[互いに瞳で結ばれた、ひとつのこころであればこそ、こうして今、河中の島に隔てられたような二人だけれど、やがては流れに結ばれて、仲が絶えることなどないと思うよ]
[せっぱ詰まった女の和歌に対して、大いにゆとりあり。次の仰々しい和歌も、こころからというよりは、なかなか表層的にわざとらしい]
とはいひけれど、先に結ばれるどころではなく、さっそくその夜(よ)いにけり。いにしへ、ゆくさき[過去、将来]の事どもなどいひて、男が歌ふには、
秋の夜の
千夜をひと夜に なずらへて
八千夜し寝ばや あく時のあらむ
[長いとされる秋の夜。それを千夜あわせて、ひと夜であるとたとえたとして、その千夜ひと夜を、八千夜ともに寝たならば、あなたに飽きるときもあるのでしょうか……そうだとしても、わたしにはとても信じることは出来ません]
女の返し、
秋の夜の
千夜をひと夜に なせりとも
ことば残りて とりや鳴きなむ
[秋の夜の千夜をひと夜にしたからといって、語り尽くせない言葉は残されたまま、鳥は鳴くのでしょう]
いにしへよりも、
あはれにてなむ通ひける。
[遊びくらいの気持ちの女性のまごころに引かれて、前よりも「あはれにて通ひける」ようなシチュエーションか]
むかし、ゐなかわたらひ[田舎に渡って暮らしている]しける人の子ども、井戸のもとにいでゝ二人して遊びけるを、いつしかおとなになりにければ、男も女も互いに恥ぢかはして言葉には出さずにありけれど、心のうちでは男は、この女をこそ得(え)めと思ふ。女はこの男を得めと思ひつつ、親の他の男と会はすれども、嫌だと言って聞かでなむありける。
さて、このとなりの男のもとよりかくなむ歌を送ってくる、
筒井筒(つゝゐつゝ)/筒井つの
井筒(ゐづゝ)にかけし まろがたけ
過ぎにけらしな 妹(いも)見ざるまに
[井戸の筒のところに比べあったおさなき日のわたしの背も、こうして大人になったからには、見ないあいだに、君をすっかり追い抜いたのではないでしょうか。(ちなみに、井筒を追い抜いたの解釈は歌として意味不明)]
女、返し、
くらべこし
ふりわけ髪も 肩過ぎぬ
君ならずして たれかあぐべき
[幼いころは比べあってきたような、わたしの振り分け髪も、今では肩を過ぎました。(もとの髪の高さに比べ戻すみたい……)あなたでなくって、誰のために髪あげをして、婚礼の儀をおこないましょうか]
などいひ/\て、つひに本意(ほい)[読みは「ほんい」]のごとくあひにけり。
さて、年ごろ経(ふ)るほどに、女、親なく、頼りなくなるまゝに、男は、もろともに言ふかひなくてあらむやはとて、河内(かふち)の国、高安(たかやす)の郡(こほり)に、よりふさわしい女のもとへ、行きかよふ所いできにけり。
さりけれど、このもとの女、悪(あ)しと思へるけしきもなくて、男のことを新しい女のもとにいだしやりければ、男、もとの女に対して、「異心(ことごゝろ)ありてかゝるにやあらむ」と思ひうたがひて、前栽(せんざい)[庭先の植え込みの草木]のなかに隠れゐて、河内へいぬる顔にて見れば、この女、いとよう化粧(けさう)じて、うちながめて[どこかを眺めながらもの思いして]、
かぜ吹けば
おきつしら波 たつた山
夜半にや君が ひとり越ゆらむ
[風が吹いたなら、おきの白波が立つような、殺風景な竜田山を、夜半になってでしょうか、あなたがわたしとではなく、ほかの誰かのために、ひとりして越えてゆくのでしょう]
[『古今集』(994)に長編の詞書きと掲載。]
と詠みけるを聞きて、男はかぎりなくかなし[いとおしい、かわいらしい]と思ひて、河内へも行かずなりにけり。
まれ/\、かの高安に来てみれば、はじめこそ、こゝろ憎(にく)も[あるいは「にくくも」。「心憎い演出」といった用法とおなじで、ここでは「興を引かれるような」といった意味]つくりけれ、今はうちとけて[慣れてしまったので気兼ねもなく]、手づから飯がひ[米をよそるもの、しゃもじ]取りて、笥子のうつはもの[今ならお茶碗くらい]に盛りけるを見て、興が冷めて、こゝろ憂(う)がりて、行かずなりにけり。
さりければ、かの高安の女、
大和の方を見やりて、
きみがあたり
見つゝを居らむ いこま山
雲なかくしそ 雨はふるとも
[あなたのあたりを、眺めながら暮らしましょう。あなたの越えてくる生駒山を、どうか雲よ隠さないでくださいね、たとえ雨が降ったとしても]
[『万葉集』(3032)に
君があたり 見つゝも居らむ 生駒山
雲なたなびき 雨はふるとも
という和歌あり。ふる歌を今様に使用したので、男は興をそそられたか。『新古今集』(1369)にも掲載。]
といひて見いだすに、からうじて、大和人[=その男]来むといへり。よろこびて待つに、いつまでも来ずに、たび/”\日数の過ぎぬれば、
きみ来むと
いひし夜ごとに 過ぎぬれば
たのまぬものゝ 恋(こひ)つゝぞ経(ふ)る
[あなたが来ようと言ったのを待つ夜ごとに過ぎてゆけば、頼みにできないとは知りつつも、恋しい思いで時は過ぎてゆきます]
と言ひけれど、
その和歌に興ざめしてか、男すまずなりにけり。
[面白いことに、物語の内部としては、和歌がすぐれているから幼なじみのもとを離れず、和歌が下卑ているから、新しい女には興ざめした、という構図が成り立っている。(もとより、偶然にはあらざるべし)]
むかし、男、
かたゐなかに住みけり。
男、宮仕へしにとて、女にわかれ惜しみて、みやこに行きにけるままに、三年(みとせ)来ざりければ、女は待ちわびたりけるに、いとねむごろに言ひける人[=求婚してきた別の男]に、「今宵あはむ」と契(ちぎ)りたりけるに、このみやこに行った男来たりけり。
「この戸開けたまへ」
とたたきけれど、女は開けで、かわりに歌をなむ、よみて出だしたりける。
あらたまの
としの三年を 待ちわびて
ただ今宵こそ 新枕(にひまくら)すれ
[毎年あらたまるからでしょうか、「あらたまの年」などと枕詞にもある年を、三年も待ちわびて、今はもう今宵こそ、他の男と、新枕をして、一緒に寝ようとしています]
と言ひ出だしたりければ、男、
梓弓(あづさゆみ)
ま弓つき弓 年をへて
わがせしがごと うるはしみせよ
[矢のごとく過ぎるからでしょうか、「あづさ弓ま弓、年月の弓」などとたとえられるような年を過ごしても、わたしがこのようにあなたを愛しているように、せいぜい新しい男に、こころを尽くしてください(じゃあな、あばよ)]
[「あづさ弓ま弓つき弓」はそれぞれ素材による弓の種類だが、つき弓に年月の弓をかけて、序詞のように年を導いたとも、他の和歌の引用かともされる]
と言ひて、往(い)なむとしければ、女、
あづさ弓
引けど引かねど むかしより
こゝろは君に 寄りにしものを
[あづさ弓を引くときも引かないときもたずさえるように、むかしからずっと、こころはあなたにだけ、寄り添っていたのに……]
[「引けど」「引かねど」「寄り」という「あづさ弓」の縁語を使用しつつ、「引けど引かねど寄りしものを」つまりどのような状態でも、常にあなたに寄り添っていたのに、の意味を導き出している。男が立ち去る瞬間に、とっさに男の和歌の冒頭を引き継いで歌いだす効果に注目すべき。即興的な臨場感がある。]
[『万葉集』(2998)に
あづさ弓
末のたづきは しらねども
こゝろは君に 寄りにしものを
とある。また「神楽歌」に、
陸奥のあづさの真弓
わが引かば やうやう寄り来(こ)
しのびしのびに
しのびしのびに
というのがある。]
と言ひけれど、男帰りにけり。
女、いとかなしくて、しりに立ちて追ひゆけど、え追ひつかで[追いつけないで]、清水のあるところに伏して泣きにけり。それから、そこなりける岩に、およびの血[=指の血]して書きつけゝる。
あひ思はで
かれぬる人を とゞめかね
わが身はいまぞ 消えはてぬめる
[互いに思いあえないで、ついには離れてしまったあの人を、とどめることができないので、わたしは今こそ、消えてしまうことでしょう]
[自ら別の男と結ばれようとして、なんのこってすか。と捉えるのは浅はかで、忘れられないのを無理に忘れようとした、よりによって新枕をする刹那に、愛する男が現れたというシチュエーションの果てに、女の激情が生かされていると悟るべきか]
と書きて、
そこにいたづらになりにけり
[=死んでしまった]。
むかし、男ありけり。
あはじとも言はざりける女の、
さすがなりけるがもとに、言ひやりける。
[「会いませんよ」とも言わないで見込みを見せる女ではあるが、さすがに会ってくれない相手に、言ってやったという意味]
秋の野に
さゝわけし朝の 袖よりも
あはで寝(ぬ)る夜ぞ ひちまさりける
[秋の野原で笹を分けるように歩んだ時の、露に濡れた袖よりも、あなたに逢わずに寝る夜の方が、はるかに袖がなみだで濡れているのでした]
[『古今集』(622)に掲載]
色好みなる女[=恋にたけた女]、返し、
みるめなき
わが身をうらと しらねばや
かれなで海人(あま)の 足たゆく来る
[海草の海松(みるめ)のない浦であると知らないのでしょうか、離(か)れないで海女が疲れたような足でやってきます。そんな風にして、人を見る目がないのでしょうか、わたしを「憂ら」つまり無情だとも知らないで、離れもしないで、あなたがふらふらした足取りで、またやってくるとはね]
[「古今和歌集」(623)先の在原業平の和歌の次に置かれた、小野小町の和歌]
むかし、男、
五条わたりなりける女を、え得ずなりにけることゝ、
わびたりける人[=手紙などで嘆いてきた人]の返りごとに、
思ほえず
袖にみなとの さわぐかな
もろこし船の よりしばかりに
[思いがけなく、袖には、水門(みなと)に波が寄せるように、なみだが騒いでいるようです。唐(もろこし)からの船が、立ち寄る時のように……]
[『新古今集』(1358)に掲載。いまいち上の解釈は判然としない。あるいは、「もろこし船」の来たように、思いがけない手紙が来たもののだから、かつて自分も、「五条わたりなりける女を、え得ずなりにけること」があったことを思い出して、袖がかつての涙を思い出すように、こころがざわついています。といった意味か?]
むかし、男、
女のもとに、ひと夜いきて、
またも行かずなりにければ、女の方は、手あらふところに、貫簣(ぬきす)[盥(たらひ)の上にかけておく竹すだれ]をうちやりて[払いのけて]、たらひのかげに自分の顔が見えけるを、みづから、
わればかり
もの思ふ人は またもあらじと
おもへば水の 下にもありけり
[わたしくらい、物思いに沈んでいる人は、ほかにはありません。と思っていたら、盥に映しだされた、水の下にも、物思いに沈んでいるわたしがいて、わたしのことを見つめているのでした]
とよむを、来ざりける男、
いつの間にか来ていて、立ち聞きて、こう詠む、
みなくちに われや見ゆらむ
かはづさへ
水のしたにて もろ声になく
[あなたの眺めた水口に見えたのは、それはわたしではないでしょうか。蛙でさえ、水の下では一緒になって鳴いているのですから、あながた泣いているその姿のうちには、わたしが一緒に泣いているのです]
[この章、全体にひなびているところが魅力か?]
むかし、色好みなりける女、
いでゝいにければ、捨てられた男の詠む、
などてかく
あふごかたみに なりにけむ
水もらさじと むすびしものを
[なんでこのように、朸(おうご)の筐(かたみ)、つまりものを担うための棒に付けられた竹編みのかごのようになってしまったのだろう。水さえもらすまいと、かたく結びあった仲だったのに、竹かごになって、水が全部こぼれてしまったよ……それで、逢う機会が難しくなってしまった。これが本当の、「逢う期難み(あうごかたみ)」ってか。]
むかし、春宮(とうぐう)の女御(にようご)の御方の、花の賀に、めしあづけられたりける[召されて、参加させていただいたの意]に、
花にあかぬ
なげきはいつも せしかども
今日のこよひに 似るときはなし
[花とのわかれが名残惜しいようなかなしみは、花を見るたびにあるものですが、今日の今宵のような深いかなしみに、とらわれたことはありません]
[『新古今集』(105)に掲載。「春宮の女御」は二条后高子(たかいこ)で、在原業平がかつての恋を思いおこしての歌を暗示するともされる]
むかし、男、
はつか[程度が少ない意]なりける女のもとに、
あふことは
玉の緒(を)ばかり おもほえて
つらきこゝろの ながく見ゆらむ
[あなたにお逢いすることは、宝石をつらぬく糸、つまりあい間の短い玉の緒のように思われて、あなたの冷たくするようなこころばかりが、長くみえるのはどうしたことでしょう]
むかし、男が、宮のうちにて、ある御達(ごたち)[ご婦人たちの意だが、ここでは身分の高い特定の女性]の局(つぼね)[上級女房の住まう部屋]の前を渡りけるに、なにのあたにか[害を加えるものであると]思ひけむ、「よしや草葉よ、ならむさが見む」といふ。男、
[男に対して「よしこの草葉に過ぎないものよ、お前の性(さが)を見届けてやるぞ」といったニュアンスか。「良しや」と呼びかけて、葦とよばれる草葉が、悪し(あし)となるのを見届けるような意味もあるか。「忘れゆくつらさはいかに命あらばよしや草葉よならむさが見む」という和歌を引き合いに出したかともされる。]
罪もなき
人をうければ わすれ草
おのが上にぞ 生(お)ふといふなる
[罪もない人を、言葉で呪詛したりすれば、草葉どころではありません。人々から忘れられてしまうわすれ草が、あなたの身の上に多い茂ってしまうことでしょう。もちろんその人々にはわたしも含まれていますが、なにか?]
といふを、
ねたむ女もありけり。
むかし、ものいひける女に、年(とし)ごろ[=何年か、数年来]ありて、
いにしへの
しづのをだまき くりかへし
むかしを今に なすよしもがな
[いにしえに着ていたという「倭文(しず)」を織るための苧環(おだまき)、その糸巻きから糸を紡いで何度も織り込んだなら、時さえ織り込まれて、むかしを今に織りつなぐことができるでしょうか。あなたとの関係もまた、そのように……]
[「倭文(しず、しずり、しどり」は、カジノキや麻などを色染めした古代の織物。「しつおり」がつまって「しつり」になったものが、やがて濁音化したらしい。漢字から分るように「倭(わ)の文(あや)」、つまり倭国の伝統的スタイルと見なされていた。万葉集の和歌にも「いにしへの」という枕詞を冠して登場するくらい、この和歌が詠まれた当時にとっても「いにしえ」の織物。「苧環(をだまき)」は、麻糸などを、真ん中を空洞にしながら、丸く巻いてつくった糸巻き。植物の「おだまき」は、花がそれに似ているので、そう呼ばれているとか。]
[『古今集』(888)にある、
いにしへの
しづのをだまき いやしきも
よきもさかりは ありしものなり
をふまえるか。]
と言へりけれど、
なにとも思はずやありけむ。
むかし、男、津の国[=摂津国]、菟原の郡[兵庫県芦屋市あたり]に通ひける女、このたび男がみやこに行きては、または自分のもとに来じと思へるけしきなれば、男が、
あし辺より
みちくる潮の いやましに
君にこゝろを おもひますかな
[葦(あし、よし)の生えているあたりで、しだいに満ちてくる潮が、ますますつのってくるように、あなたに対する思いも、ますます深くなっていくようです]
[『万葉集』(3617)に、
あしべより
みちくる潮の いやましに
おもへか君が わすれかねつる
とある和歌の改編とされる。]
と和歌を詠んだときに返し、
こもり江(え)に
おもふこゝろを いかでかは
舟さす棹(さを)の さしてしるべき
[ひと目につかない入り江に、隠れるように思い詰める、あなたへのこころを、いったいどうやって、船から差入れる棹のように、しっかりと指さしてそうだと悟ることができるでしょうか]
ゐなか人の言(こと)にては、よしあしや。
[つまり、「舟さす棹の」たとえの、ちょっとだけ唐突な具体性と、その対象物が、はたして洗練された和歌と言えるのだろうか。それとも、なかなかに悪くはないのだろうか。という疑問を呈して終わっているかと思われる。]
むかし、男、
つれなかりける人[心を動かさない、冷淡な人]のもとに、
いへばえに
いはねば胸に さわがれて
こゝろひとつに なげくころかな
[言葉に出して伝えることはできず、でも言葉にしなければ胸がさわぎます……ただこころのうちだけで、いまは嘆いているのです]
[「言へば得(え)に」というのは、「に」が打ち消しになって、「言葉に出して得ることができない」つまり「言い表せない」といった意味。「言葉には出せない、でもなにも言わなければ苦しいのです」と上の句で切って、あらためて「ただこころから嘆いているのです」と下の句で言い直すような感じ]
おもなくて[=厚かましい、臆面もない]言へるなるべし。
[「言葉に出して言えない」と言っておきながら、はっきり和歌にして伝えているから、厚かましいのかと思われる]
むかし、男、心にもあらで[こころで望んでいなかったのにの意]、絶えたる女の人のもとに、
たまの緒(を)を
あわ緒(を)によりて むすべれば
絶えてのゝちも あはむとぞ思ふ
[玉をつなげる糸を「あわ緒」に縒(よ)って結ぶように、魂(たま)をつなぐ糸を、「あわ緒」によって結んだものですから、このように離れた後でさえ、ふたたびお逢いできると信じているのです]
[「あわ緒」は糸の縒りかたの一種だが詳細は不明。「玉の緒」というのは宝石をつなぐ糸の部分。和歌では「たましいの緒」の意味をしばしば内包する。『万葉集』763番の和歌、
玉の緒を
あわ緒によりて 結べらば
ありて後にも 逢はずあらめやも
の改編か]
むかし「忘れぬるなめり[「~でしょうか」「~のようですね」といった意。発音「なんめり」]」と、問ひ言しける女のもとに、
谷せばみ
峰まではへる 玉かづら
たえむと人に わが思はなくに
[狭い谷間から峰まで這い上るような玉葛のつたが、絶えてしまうようなことがあるとは、あなたに対して、わたしは思ってはいないのに]
[『万葉集』(3528/3507)に、
谷せばみ 峰にはひたる 玉かづら
たえむの心 我がもはなくに
とあり。これを借用しつつも引用し、「~玉葛絶えむの心があるとは」「人にわが思はなくに」と読むのもおもしろい。「人に」にはデリケートなニュアンスがこめられているようで「たえむと人に言われましたが……」つまり、あなたはおっしゃいますが……わたしは思ってなどいませんのに。のような、言葉に表現されていない余白のようなものが感じられる。]
むかし、男、色好みなりける女にあへりけり。うしろめたく[気がかりだ、後のことが心配だ]や思ひけむ、和歌を詠み送る
われならで したひも解くな
あさがほの 夕かげまたぬ
花にはありとも
[わたしでないものに、着物の下紐をほどいて、夜を共にしてはなりません。あなたのわたしへの思いが、たとえば朝顔の、夕日をまたずにしおれてしまう、そんな花には過ぎないとしても]
女の、ちょっとぶっきらぼうな返し、
ふたりして
結びし紐を ひとりして
あひ見るまでは 解かじとぞ思ふ
[ふたりで、ふたたび会うまではほどかないと約束をした下紐を、わたしひとりでは……ふたたび会うまでは、解かないと思いますけど]
[『万葉集』(2931/1919)に、
ふたりして むすびし紐を
ひとりして 我は解きみじ ただに逢ふまで
という歌あり。これだと、普通に一人でほどきはしませんよ、となるのだが、「一人して」の後に、四句を「あひ見るまでは」と詠むことによって、「ひとりでは……ふたたび逢うまでは」というような、言いよどみの印象が混入して、つまりは、「たぶん解かないんじゃないかなあ」というような印象が生まれてくる。そこで「色ごのみな女」であることが生きてくる。そこまで読むと、男が「われならで下紐解くな」と命令調なくらい強い歌いかけなのが、心理状態を含めておもしろく読まれてくる。]
むかし、紀有常(きのありつね)[(815-877)娘が在原業平の妻、妹が惟喬親王と伊勢斎宮恬子(やすこ)の母]がり[のところへ]いきたるに、紀有常は出歩(あり)きて遅く帰って来けるに、待つ「昔男」がよみてやりける。
君により 思ひならひぬ
世のなかの
人はこれをや 恋といふらむ
[あなたによって、その心情を理解できましたよ。世の中のひとはこのような気持ちを、恋と言うのであろうということを。]
紀有常の返し、
ならはねば
世の人ごとに なにをかも
恋とはいふと 問ひしわれしも
[習わないからこそ、世の中の人々が、どのようなものが恋であるかと、恋慣れたあなたにたずねたのでしょうし、わたしもまたたずねるでしょうに、それをわたしからおそわっただなんて]
むかし、西院(さいゐん)の帝(みかど)[淳和天皇(在位328-833)]と申すみかど、おはしましけり。そのみかどの皇女(みこ)、たかい子[崇子内親王(たかこないしんのう)]と申す、いまそがり/かりけり。
その皇女(みこ)失せたまひて、御(おほん)はぶり[葬(ほうむ)り、葬儀]の夜、その宮の隣なりける男、御はぶり見むとて、女車[女房が乗る牛車]にあひ乗りて出でたりけり。
いと久しう葬儀の棺を率(ゐ)て出でたてまつらず。うち泣きて、やみぬべかりける[棺の列を見るのを止めて帰ろうかとする]あひだに、天(あめ)のしたの色好み、源至(みなもとのいたる)[嵯峨天皇の皇子、源定の子。歌人の源順の祖父]といふ人、これも物[=御はぶり]見るに、この車を女車と見て、寄り来て、とかくなまめく[色めいたしぐさをする]あひだに、かの至、蛍をとりて、女の車に入れたりけるを、「車なりける女の人、この蛍のともす火にや顔が見ゆらむ。ともし消ちなむずる」とて、共に乗れる男のよめる。
いでゝいなば
かぎりなるべみ ともし消ち
年へぬるかと 泣く声をきけ
[棺が出て行ってしまったら、それ限りだといって、ともし火を消しては、年を経てのいのちだったろうか、いいえあまりにもみじかい命だったと、女車のなかで泣いている声が分らないのか。棺がなかなか来ないので、もう何年も過ごしているような思いで、泣いている声が分らないのか。そこを照らしだそうなんて、とんでもねえ奴だ]
かの至、しれっとした返し、
いとあはれ
泣くぞ聞こゆる ともし消ち
きゆるものとも われは知らずな
[たいへん哀れに思います。ともし火を消して泣くのが聞こえてくるのはね。けれどもともし火が消えるように、簡単に消えてしまう亡き人の面影であるとは、わたしは知りませんでしたよ。]
[ともし火を消すように消えてしまうものではなく、蛍の火のようになんども明滅をくり返しながら、生き続けるのが思いの火なのだから、わたしがその思いの火を放り込んだからといって、失礼にはあたりませんよ。というような切り返しを含むよう]
天のしたの色好みにては、なほぞありける。
至は順が祖父なり。
みこの本意なし。
[「なほ」を直と取ると、率直だ、ありのままだの意味。「猶」と解くと、やっぱり色好みの歌だになる。文脈としては、色好みの歌にしては、色好みらしからぬというとりまとめがふさわしいかと思われる。「至は」以下は、注釈か、後に加えられたものかも知れず。源至は有名な歌人の源順(みなもとのしたごう)の祖父であると言っている。最後のひと言は、諸説あり。ここでは黙殺。]
むかし、若き男、けしうはあらぬ[おかしくはない、悪くはない]女を思ひけり。さかしら[おせっかい]する親ありて、息子が女に対して思ひもぞつくとて、この女をほかへ追ひやらむとす。さこそいへ、まだ追ひやらず。
男はまだ親の人の子なれば、まだ心いきほひ[一人前の心意気くらい]なかりければ、とゞむるいきほひなし。女もいやしければ[あるいは召使いの女くらい]、すまふ力なし。さる間に、思ひは、いやまさりにまさる。
にはかに親、この女を追ひうつ。男、血の涙を流せども、とゞむるよしなし。とうとう女は率て出でゝ往ぬ。男、泣く/\よめる。
いでゝいなば
たれか別れの かたからむ
ありしにまさる
けふは悲しも
[自ら出て行ったのなら、どうしてこれほど別れが辛く思われるだろうか。通い合っていた思いを、無理矢理引き裂かれたからこそ、彼女のいた頃よりもはるかに、消えてしまった今日は哀しみにとらわれてしまうのだ]
と詠みて、絶え入り[息も絶え絶えに、つまり病気、あるいは気絶したか]にけり。
親あわてにけり。なほその子のことを思ひてこそ女に出て行けと言ひしか、いとかくしもあらじと思ふに、真実(しんじち)に絶え入りにければ、まどひて願(ぐわん)立て[神仏に祈願した。あるいは祈祷者などを呼んだか]けり。
今日の入りあひ[日没頃]ばかりに絶え入りて、またの日の戌(いぬ)の時[午後7時~9時頃]ばかりになむ、からうじて生き出で[息を吹き返す]たりける。
昔の若人は、
さる、すける[一途な]もの思ひをなむしける。
今のおきな、まさにしなむや。
[昔の若者はこれほど一途な恋をしたものだが、今の老人たちよ、お前たちが若いときでさえ、どうしてこのような真似ができたであろうか。端末を片手に、エセ情緒をもてあそんでいるのが関の山のお前たちよ。といった意味。]
2016/03/29