源俊頼 ――歌論、和歌とその朗読

源俊頼 ――歌論、和歌とその朗読

 『俊頼髄脳 (としよりずいなう)』について
………『金葉和歌集』(五代勅撰和歌集)の撰者でもある、源俊頼(みなもとのとしより)の記した歌論書。おそらくは、関白の藤原忠実(ただざね)(1078-1162)の依頼により、娘のために記された和歌の手引き書であると考えられ、その娘は後に鳥羽上皇に入内して、泰子(やすこ)あるいは高陽院の院号を持つ女性であるとされている。執筆は1110年代頃とされる。
………実用的な手引き書であり、和歌の説明や歴史から、季語、言葉遣い、有名な和歌、異名、連歌などさまざまな解説を含むと同時に、豊富な逸話集を兼ねている。一方で、学者の書と解釈すれば、粗忽(そこつ)なミス、誤認が多いことが指摘されている。だからといって、『粗忽髄脳』とは呼ばれない。もっとも当時のちまたに流布していた説、流行話に従ったものも多そうで、それを今日から正当性を云々するのは、幾分馬鹿げた側面を持つことも否めない。
 『俊頼髄脳 (としよりずいなう)』 その朗読について
………原文掲載などわたしには不可能である。自らの助けとして朗読するものではあるが、この朗読は小学館の『新編 日本古典文学全集 87 歌論集』の『俊頼髄脳』を朗読したものであり、下の音声ファイルは、この書籍のページ数や見出しをもって分割するものであるから、これを利用する場合は、書籍の購入と利用が、もっとも簡便である。些細な読み違いは、気づいても時間の都合で、そのままにしてあるので、あしからず。
 『俊頼髄脳 (としよりずいなう)』 直接音声ファイルへ
『俊頼髄脳 一』
………… 序から和歌の種類まで (p15~)
『俊頼髄脳 二』
…………歌の病について (p31~)
『俊頼髄脳 三』
…………歌人の範囲 (みかど、僧、神などの和歌) (p31~)
『俊頼髄脳 四』
…………和歌の効用、詠まれるシチュエーション (p48~)
『俊頼髄脳 五』
…………歌の題と、その詠み方 (p57~)
『俊頼髄脳 六』
…………秀歌の例など (p64~)
『俊頼髄脳 七』
…………和歌の技法 (見立て、本歌取り、歌の返し、思わせたる歌、歌枕) (p78~)
『俊頼髄脳 八』
和歌の技法2 (異名) (p90~)
『俊頼髄脳 九』
…………季語・言葉の由来・逸話など その一 (p94~)
『俊頼髄脳 十』
…………季語・言葉の由来・逸話など その二 (p108~)
『俊頼髄脳 十一』
…………季語・言葉の由来・逸話など その三 (p123~)
『俊頼髄脳 十二』
…………季語・言葉の由来・逸話など その四 (p137~)
『俊頼髄脳 十三』
…………季語・言葉の由来・逸話など その五 (p153~)
『俊頼髄脳 十四』
…………表現の虚構性と歌心について その一 (p169~)
『俊頼髄脳 十五』
…………表現の虚構性と歌心について その二 (p180~)
『俊頼髄脳 十六』
…………連歌について (p189~)
『俊頼髄脳 十七』
…………和歌と故事 その一 (p206~)
『俊頼髄脳 十八』
…………和歌と故事 その二 (p219~)
『俊頼髄脳 十九』
…………和歌と故事 その二 (p233~最後まで)

源俊頼 (1055-1129)

源俊頼 (1055-1129) 生涯略歴
………「うだうだ言ってんじゃねえ」でお馴染みの??? 宇多天皇の息子の一人、敦実親王(あつざねしんのう)(893-967)より流れ下る、宇多源氏の源経信(みなもとのつねのぶ)(1016-1097)。彼は、初期の歌論によって今日にまで名声を博(はく)する藤原公任(ふじわらのきんとう)(966-1041)のライバルとして……かどうかは知らないが……和歌や管弦の巧みとして名を馳せた人物である。その三男こそが源俊頼(みなもとのとしより)である。父が桂大納言と呼ばれ、大納言、正二位まで上り詰めた、しかもその父である源道方(みなもとのみちかた)(968-1044)も正二位・権中納言まで上り詰めた人物であり、さかのぼれば宇多天皇の息子にまでたどり着く血筋としては、従四位上・木工頭(もくのかみ)止まりだった俊頼には、やりきれない思いもあったかもしれないが、好敵手であった?藤原基俊(もととし)と共に、歌壇の中心的存在であった。
………当時の歌人の秀例に漏れず、楽人としてもひちりきの演奏に優れ、当初は堀河天皇のもとで楽人としての活躍を見せるが、やがて父経信(つねのぶ)が、1095年に大宰権帥に任命された時には、四十路の頃をして父に従い大宰府へと赴いた。歌人としての活躍は、1097年に父が亡くなり、みやこへと戻ってからのことで、後の百題の規範となった『堀河院百首(ほりかわいんひゃくしゅ)』(当代の歌人十六人による百首づつの撰集)や、白河院の命により1124年に奏覧(そうらん)された『金葉和歌集(きんようわかしゅう)』のたったひとりの撰者を務めるなどの活躍を見せた。また同時代のライバルとされた、藤原基俊(ふじわらのもととし)とは、1118年には『内大臣忠通家歌合』において共に判者を勤めるなど、火花を散らしていたともされる。
………ウィキペディアからそのまま引用すると、
「『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に201首入集。『金葉和歌集』(35首)・『千載和歌集』(52首)では最多入集歌人となっている。」そうである。また「子に俊重(千載集に入集)・俊恵・祐盛がいる。」ともある。

源俊頼のリンク

ウィキペディア
………「源俊頼」の解説
ウィキクォート
………「源俊頼」の引用
千人万首 源俊頼
………「やまとうた」のなかの「源俊頼」の和歌紹介
なみだの果てを
………有用なるサイトだにあらずて沈みけり

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