藤原定家 「毎月抄」 原文と朗読

(朗読 1) (朗読 2) [Topへ]

毎月抄 藤原定家

朗読者注

 「毎月抄」は「和歌庭訓」「定家卿消息」などとも呼ばれ、和歌の指導・添削に添えた手紙であり、その相手は、源実朝(みなもとのさねとも)、衣笠家良(きぬがさいえよし)などが写本に名を残しているものの、不明である。定家の息子である藤原為家の奥書を持つ伝本には「承久元年七月二日或人返報」と記されている。それが正しければ、1219年に書かれた手紙である。

・実際は連続した文章である。見出しは、参照書籍に則り、便宜上付けただけのもの。
・いつもながら、[括弧内の薄緑]は朗読者が解説を加えたもの、さらにこのような青色の文字は、意味を補うために、本分に付け加えた落書きに過ぎない。

毎月抄 本文

 毎月の御百首(おんひやくしゆ?)、よく/\拝見せしめ候(さうら)ひぬ[「さぶらふ」ではなく「さうらふ」読みで統一する]。およそこの度(たび)の御歌(みうた)、まことに有難(ありがた)う見申し候へば、年来(としごろ)愚かなる心に、かたじけなき仰せの、否(いな)み難さばかりをかへりみ候とて、わづかに先人(せんじん)[定家の父親、藤原俊成のこと]申し置き候ひし庭訓(ていきん)[[論語(季氏)](孔子の子伯魚が庭を通った時、孔子に呼び止められ、詩と礼の大切さを教えられた故事から)家庭の教訓。家庭教育。にわのおしえ。(広辞苑より引用)]の片端(かたはし)を申し候ひき。定めて、後の世の笑はれ草[「笑い種(ぐさ)」と同様]も茂(しげ)うぞ候らむ。なれども、さすがにその跡やらむと、御歌(みうた)も、殊の外に詠み募らせおはしまして候へば、返す/”\、本意(ほんい)に覚えさせ給(たま)ひて候(さうらふ)。

古体をあつかう事への注意

 そもそも歌はたゞ、日頃しるし申し候ひし如(ごと)く、万葉よりこのかたの勅撰を、静かに御覧(ごらん)ぜられて、変わりゆき候ひける姿どもを、御心得候へ。それにとりて、勅撰の歌なればとて、必ず歌ごとにわたりて学ぶべからず。人に伴(ともな)ひ、世に随(したが)ひて、歌の興廃(こうはい)見え侍(はべ)り。万葉は、げに代(よ)もあがり、人の心もさえて、今の世には学ぶとも、更に及ぶべからず。殊(こと)に初心の時、おのづから古体(こたい)を好むこと、あるべからず。たゞし、稽古年重なり、風骨(ふうこつ)[姿、風采、(和歌に於いて)歌風、スタイル]詠み定まる後は、また、万葉の様(やう)を存ぜざらむ好士(かうし)[風雅を好む人、ここには歌人のこと]は、無下の事とぞ覚え侍る。稽古の後詠むべきにとりても、心あるべきにや。すべて、詠むまじき姿・詞(ことば)といふは、あまりに俗に近く、また、怖ろしげなる類(たぐひ)を申し侍るべし。よろしくそれは、今定め申すに及ばず。この下にて御了見(ごれうけん)候へ。この御百首に、多分、古風のつまりは万葉風の見え侍るから、かやうに申せば、また、御退屈や候はむずらめなれども、しばしは、構えて遊ばすまじきにて候。今一両年ばかりも、せめてもとの体を働かさで、御詠作(ごえいさく)あるべく候。

和歌十体

 もとの姿と申す候は、かんがへ申し候ひし十体(じつてい・じつたい)[「てい」は呉音に対して漢音。以下様式としての体は、「てい」で統一する]の中の、幽玄体(いうげんてい)・事可然体(ことしかるべげきてい)・麗体(うるはしきてい)・有心体(うしんてい)、これらの四つにて候べし。この体どもの中にも、古めかしき歌どもは、まゝ見え候へども、それは古体(こてい)ながらも苦しからぬ姿にて候。たゞ素直(すなほ)にやさしき姿を、まづ自在(じざい)にあそばし認(した)ためて後は、高長体(たけたかきてい)・見体(みるてい)・面白体(おもしろきてい)・有一節体(ひとふしあるてい)・濃体(こまやかなるてい)などやうの体は、いとやすき事にて候。鬼拉の体(きらつのてい)こそ、たやすく学びおほせ難(がた)う候なる。それも錬磨(れんま)の後は、などか詠まれ侍らざらむ。初心の時、詠み難き姿にて侍るなるべし。

 まづ歌は、たゞ和国(わこく)の風(ふう)にて侍るうへ、先哲(せんてつ)のくれ/”\書き置ける物にも、やさしく物あはれに詠むべき事とぞ、見え侍るめる。げに、いかに怖ろしき物なれども、歌に詠みるれば、優に聞きなさるゝ類(たぐひ)ぞ侍る。それに、もとよりやさしき、「花よ」「月よ」などようの物を、怖ろしげに詠めらむは、何の詮(せん)か侍らむ。

基本となるべきは有心体

 さてもこの十体の中に、いづれも有心体に過ぎて、歌の本意(ほんに)と存ずる姿は侍らず。きはめて思ひ得難う候。「とざまかうざま」[あれやらこれやらの意]にては、つや/\[「つやつや」+打ち消し、で「少しも」「いささかも」]続けらるべからず。よく/\心を澄まして、その一境(いつきやう)に入(い)りふしてこそ、稀(まれ)に詠まるる事は侍れ。されば、よろしき歌と申し候は、歌ごとに心の深きのみぞ申しためる[「たるめる」の省略形。詠みは「たんめる」以下同]。あまりに、また深く心を入れむとて、ねぢ過ぐせば、いりほがのいりくり歌[「いりほが」は巧みすぎて嫌みに陥った歌のことで、「いりくり」は入り組んだの意味]とて、堅固ならぬ姿の心得られぬは、心なきよりも、うたてく見苦しき事にて侍る。この境(さかひ)が、ゆゝしき大事にて侍る。なほ/\、よく/\斟酌(しんしゃく)[あれこれ取り合わせて取捨選択すること]あるべきにこそ。

 この道をたしなむ人は、かりそめにも、執(しふ)する心なくて、なほざりに詠み捨つる事侍るべからず。正体(しやうたい)なき歌詠み出(い)だして、人にそしらるゝの難をだに負ひぬれば、退屈の因縁(いんえん)ともなり、道の毀廃(きはい)とも、またなり侍るべきにこそ。

 されば、あるは難を負ひはてゝ、思ひ死(じに)にまかりし類(たぐひ)も聞え侍り。あるは秀歌を丸(まろ)ながら取られて侍るが、没して後その人の夢に見えて、「我が歌かへせ」と、泣く/\哀しみけるによりて、勅撰より切り出だしける事も侍るにや。かかる例(ためし)これに限らず。まことに哀れにぞ覚え侍る。

 相構へて、兼日(けんじつ)[歌会の前日以前に出題しておくもの。兼題(けんだい)。普通はこちらが正統]も当座(とうざ)[その場での出題による。即席のやり方とされた]も、歌をばよく/\詠吟(えいぎん)[当日に自ら歌を詠じるための練習として]して、こしらへ出すべきなり。疎忽(そこつ)[=粗忽、あわただしく行う]の事は必ず後難(こうなん)[後日のそしり]侍るべし。常に心有る体の歌を御心にかけて、あそばし候べく候。

 たゞし、すべて[「すべてにおいて、まったく」だが「どうしても」くらいの意味]、この体の詠まれぬ時の侍るなり。蒙気(もうき)[気分がふさがって、ぼんやりすること]さして、心底みだりがはしき折(をり)は、いかにも詠まむと案ずれども、有心体出で来ず。それを「詠まむ、/\」としのぎ侍れば、いよ/\性骨(せいこつ)[本来持っているうまさ、能力])も弱りて、正体(しやうたい)なき事侍るなり。さらん時は、まづ景気(けいき)の歌[情景をそのまま詠んだような歌]とて、姿・詞のそゝめきたる[「せわしげに騒ぐ、ざわざわする」ここでは「活発な活動のある」くらいの意味か]が、何となく心はなけれども、歌ざまのよろしく聞ゆるやうを、詠むべきにて候。当座の時、殊更(ことさら)心得べき事に候。かゝる歌だにも、四、五首、十首詠み侍りぬれば、蒙昧(もうまい)も散じて、性機(せいき?・しょうき?)もうるはしくなりて、本体(ほんたい)に詠まるゝ事にて候。

 また、恋・述懐(しゆつくわい)などやうの題を得ては、ひとへにたゞ、有心の体をのみ詠むべしと覚えて候。この体ならでは、よろしからぬ事にて候べきか。

 さても、この有心体は、余(あまり)の九体にわたりて侍るべし。その故は、幽玄にも心あるべし、長高(ちやうかう)にもまた侍るべし。残りの体にも、またかくの如し。げに/\、いづれの体にも、まことは心なき歌は悪(わろ)きにて候。今この十体の中に、有心体とてつらね出だし侍るは、余体(よたい)の歌の、心有るにては候はず。一向(いつかう)、有心の体をのみ先として詠めるばかりを、選び出だして侍るなり。いづれの体にても、ただ有心の体を存ずべきにて候。

詞と心について

 また、歌の大事は、詞(ことば)の用捨(ようしや)[用いることと捨てること。取捨]にて侍るべし。詞につきて、強弱、大小候べし。それをよく/\見したためて、強き詞をば、一向(いつかう)にこれを続け、弱き詞をば、また一向にこれを連ね、かくの如く案じ返し/\、太み細みもなく、なびらかに[柔らかく上品な様 or しなっている様。しなやか、なよやか、なびやか]、聞き難(にく)からぬやうに詠みなすが、極めて重事(ちようじ)にて侍るなり。申さば、すべて詞に、悪しきもなく宜(よろ)しきもあるべからず。ただ続けけがらにて、歌詞の勝劣侍るべし。幽玄の詞に、鬼拉(きらつ)の詞などを連ねたらむは、いと見苦しからんにこそ。されば、

「心を本(もと)として、詞(ことば)を取捨せよ」

と、亡父卿(まうぶきやう)も申し置き侍りし。

 ある人、花実(くわじつ)の事を歌にたて申して侍るにとりて、

「古(いにしへ)の歌は皆、実(み)を存して花を忘れ、近代の歌は、花をのみ心にかけて、実には目もかけぬから」

と申しためり[「たんめり」の撥音無表記]。もつともさと覚え侍るうへ、『古今序』にも、その意侍るやらむ。さるにつきて、なほこの下の了簡(れうけん)、愚推をわづかに巡(めぐ)らし見侍れば、心得べき事侍るにや。

 いはゆる、実と申すは心、花と申すは詞なり。かならず古(いにしへ)の詞、強く聞ゆるを、実を申すとは定め難かるべし。古人の詠作にも、心のなからむ歌をば、実なき歌とぞ申すべき。今の人の詠めらんにも、うるはしく正しからんをば、実ある歌とぞ申し侍るべく候。

 さて、「心をさきにせよ」と教ふれば、「詞を次にせよ」と申すに似たり。「詞をこそ詮(せん)とすべけれ」といはば、また、「心はなくとも」といふにて侍り。所詮(しよせん)、心と詞とを兼ねたらむを、よき歌と申すべし。心・詞のふたつは、鳥の左右(さう)の翼(つばさ)の如(ごと)くなるべきにこそ、とぞ思う給へ侍りける。たゞし、心・詞のふたつを共に兼ねたらむは言ふに及ばず、心の欠けたらむよりは、詞のつたなきにこそ侍らめ。

優れたる歌とは

 かやうには注し申し侍れども、また実(まこと)によろしき歌の姿とは、いづれを定め申すべきやらむ。真(まこと)に歌の中道は、たゞ自ら知るべきにて侍り。さらに人の、これこそと申すによるべからず候。家々に伝へたる筋(すぢ)、秀逸の体、まち/\なり。

 俊恵(しゆんゑ)[次に出てくる源俊頼の息子。東大寺の僧。白川の家を『歌林苑』と称して、和歌の拠り所とした。鴨長明の師匠でもあり、『無名抄』にはたびたび彼が登場する]は、「たゞ歌は幼なかれ」と申して、やがて我が歌にも、その姿の歌を、秀逸とは思ひたり気(げ)に候ひけるとかや。その父親である俊頼(としより)は、えもいはず長高(たけたか)きをよろしと申しためり[「たんめり」の撥音無表記]。その外、品々に申しかへてぞ侍る。さらに短慮及び難くぞ覚え侍る。なにも知れば、あながち大事になり侍る習ひなれども、殊にこの道は、さと覚えて侍り。

 我が心の中にて、歌の昔今(むかしいま)を思ひ合はせてみるに、古(いにしへ)よりも当時[現在のこと]は、殊の外に、詠む歌ごとに悪(わろ)くのみ覚えて、それかと思ひて[これこそはと思って、くらいの意味]出(い)だす秀歌は稀(まれ)にぞ侍る。和歌の頂を仰げば、いよ/\高きことに侍るめりと、先賢(せんけん)の遺訓(ゐくん)も、今こそ思ひ知られて侍れ。

 まづ歌に、秀逸の体と申し侍るべき姿は、万機(ばんき)[「(特に政治などで)多くの重要な事柄」ではなく仏教から「万象」くらいの意味か? 再度調べるべし]をも抜けて、物に滞(とゞこほ)らぬが、この十体の中のいづれの体とも見えずして、しかもその十体の姿を、皆差し挟(はさ)めるやうに覚えて、余情(よせい)浮かびて、心直(なほ)く、衣冠(いくわん)正しき人を見る心地するにて侍るべし。

 常に人の、秀逸の体と心得て侍るは、無文(むもん)[=無紋、織り模様・紋のない織物]なる歌の、さは/\と詠みて、心遅れ長(たけ)あるのみ申し習ひて侍る。それは、不覚のことにて候。かゝらむ歌ばかりを秀逸とだに申すべくは、詠むたびの歌ごとにも詠みぬべくぞ侍る。

 詠吟(えいぎん)こと極まり、案性(あんせい)澄み渡れる中より、今とかくもて扱(あつか)ふ風情にてはなくて、にはかに傍(かたは)らより易々(やす/\)として詠み出だしたる中に、いかにも秀逸は侍るべし。

 その歌は、まづ心深く、長高(たけたか)く、巧みに、詞の外(ほか)まで余れるやうにて、姿気高く、詞なべて続け難きが、しかもやすらかに聞ゆるやうにて、面白く、微(かす)かなる景趣(けいしゆ)たち添ひて、面影たゞならず、景色(けしき)はさるから心もそゞろかぬ歌にて侍り。それをば、わざと詠まむとすべからず。稽古(けいこ)だにも入(い)り候へば、自然に詠み出(い)ださるゝ事にて候。

表現上の諸注意

 また、いにしへの歌、今の歌にも、世に言ひおほせられぬやうに聞ゆる事の侍るなり。さ覚ゆる事は、いかにも初心の程なるべし。上手の、わざとこゝまでと、詞(ことば)を言ひさす[言いかけて途中で止める]歌侍るなり。あきらかならず、おぼめかして[ほのめかして]詠む事、これ已達(いたつ)[(仏)悟道を極めた高僧/一流に達した者]の手柄にて侍るべし。それをうらやましと思ひて、学(まな)びも得ぬものから、未練の人の詠めるは、何にもつかぬ片腹痛き事にてぞ侍る。

 大かた、歌にうけられぬは秀句[優れた和歌の意味ではなく、掛詞や縁語などの修飾に秀でた歌のこと]にて候。秀句も、自然に何となく詠み出だせるは、さてもありぬべし。いかゞせむと、とかく技をばかり巡らしてたしなみ[心がける、精を出す]詠める秀句は、極めて見苦しく、見ざめする事にて侍るべし。

 また、本歌取(ほんかど)り侍るやうは、先(さき)[以前に、くらいの意味。あるいは『詠歌大概』の内容を指すかとの説あり]にも記し申し候ひし。花の歌をやがて[=そのまま]花に詠み、月の歌をやがて月にて詠む事は、達者の技るべし。春の歌をば、秋・冬などに詠み替え、恋の歌をば、雑(ざふ)や季(き)の歌などにて、しかもその歌を取れるよと、聞き手に聞ゆるやうに詠みなすべきにて候。

 本歌の詞をあまりに多く取る事は、あるまじきにて候[この部分も『詠歌大概』に類似の記述あり]。その様(やう)は、詮(せん)[「煎じ詰めること、すべ、しるし」などさまざまな意味があるが、ここではつまり「元歌を示す中心的な表現、つまりキーワードであると」覚えること、という意味]と覚ゆる詞、二つばかりにて、今の歌の上下句(かみしものく)に分かち置くべきにや。

 たとへば、

夕ぐれは 雲のはたてに ものぞ思ふ
   天(あま)つ空なる 人を恋ふとて
     [古今和歌集、484番、読み人知らず]

と侍る歌を取らば、「雲のはたて」と「もの思ふ」といふ詞を取りて、上下句に置きて、恋の歌ならざらむ雑・季などに詠むべし。

 この頃も、この歌を取るとて、「夕ぐれ」の詞をも、取り添へて詠めるたぐひも侍り。「夕ぐれは」とは取り添へたるに、などやらむ[「何とやらむ」の短縮。「何があろうか」「何であろうか」つまり、「取り添えたからといってどうという事があろうか」くらいの意味]、悪しくも聞こえず。めづらしく、詮と覚ゆる詞を、さのみ[そのようにむやみ、それほどに]取るが悪(わろ)く侍るなり。

 また、あまりにかすかに取りて、その歌にて詠めるよとも見えざらむような取り方は、何の詮か侍るべきなれば、宜(よろ)しくこれらは、心得るべきにこそ。

 また、題を分かち候事、一字題(いちじだい)[与えられた歌の題で、「月」「花」など一つの意味、一つの漢字からなるもの]をば、いくたび繰り返し詠むとしても、上句ではなく下句(しもく)にあらはすべきにて候。二字[例えば「秋夜」]、三字[例えば「秋夜涙」なら三つの漢字で「秋の夜の涙」となり一つの事象を表す]より後は、題の字を、甲乙(かふおつ)の句[上句と下句の意味かと思われる]にわかちおくべし。結題(むすびだい)[例えば「秋涙」+「濡袖」のように「秋の涙」「濡れる袖」と二つの事象を結びつけたもの]をば、一所(ひとゝころ)に置く事は、無下(むげ)の事[あまりにもひどい事]にて侍るとやらむ。

 また、歌の頭(かしら)に題をいたゞきて出(い)でたる歌、無念の失策であると申すべし。古くの集にも秀逸どもの中に、さやうの例(ため)し侍れども、それを本(もと)にして真似して引くべきにも候はず。構へて/\、あるまじき事にて候。

 たゞし、よく出で来たる歌にとりて、すべて初めの五文字(いつもじ)ならで、題の字の置かれざらむは、制の限りにあらずぞ[意味としては、「優れた歌にとって、すべてが歌のはじめに題を置かないということは、制止すべき絶対条件ではない」つまり優れた和歌には、はじめに題の置かれたものもある、と述べている]、承(うけたま)はりおきて侍りし。

 病(やまひ)のことは、平頭(びやうとう)の病[上の句と下の句の最初の文字同士が同じ文字]は苦しからず。声韻(せいゐん)の病[上の句と下の句の最後の文字同士が同じ文字]は、かならず避(さ)らまほしく候。平頭の病も、なからむには劣りて候。四病・八病[和歌で、避けるべきとされた表現を病と称して定義したもので、諸説ある]などは、人のみな知れることにて候へば、事新しくかんがへ申すに及ばず。天性、病に冒されぬ程の歌になりぬれば、いづれの病も、いたづら事[無益なこと、役に立たないこと]にて候べし。さて、よろしからぬ歌の、しかも病さへ候はむは、またいたづら事にてこそ候はめ。

 三首の歌、五首の歌、十首に至るまでも、同じ詞(ことば)を詠むことは、心あるべきにて候。珍しからぬ詞は、あまた所に詠めるも苦しからず。耳に立つ詞の珍しきは、長詞(ながことば)にて候はねども、二字三字もあまた詠みつれば、あさましき事にて候。

「ぢたい、その詞を好むよと、人に聞きなさるまじきこと」

と、亡父卿(まうぶきやう)も制し候ひしに候。げに、また悪ろくおぼえ候。

 雲・風・夕暮などやうの詞は、いくつ詠めらむも、よも苦しき事は候はじと覚えて候。それも、よからむ歌の捨て難(がた)からむは、いくらも同じ詞を詠みすゑて、さて候ひなむ。無下(むげ)のえせ歌の、みだりがはしく、同じ詞さへ詠みまぜたらむは、いとよからじにて候。

 当時[=この頃]、「曙(あけぼの)の春」「夕暮の秋」などやうの詞続きを、上なる好士(かうし)どもゝ、詠み候とよ。いたく受けられぬ事にて候。やう/\しげに「曙の春」「夕暮の秋」など続けて候へども、たゞ心は「秋の夕暮」「春の曙」を出(い)でずこそ候めれ。げに、心だにも、詞を置きかへたるにつれて、新しくもめでたくもなり侍らば、もつとも神妙(しんべう)なるべく候を、すべて何の詮(せん)ありとも見えず候。殊にをこがましき事にて候。これらぞ、歌のすたるべき体にて候める。かつはいま/\しき事と、返す/\申しおき候ひしに候。

和歌の指導の心得

 さきに記し申しにし十体をば、人の趣(おもむき)を見て、授(さづ)くべきにて候。器量(きりやう)も器(うつは)ならぬも、受けたるその体侍るべし。あるは幽玄の体を受けたらむ人に、鬼拉(きらつ)の体を詠めと教へ、また長高様(たけたかきさま)得たる輩(やから)に、濃体(こまやかなるてい)を詠めと教へむ事は、何かよかるべき。たゞ仏の説き給(たま)へるあまたの御法(みのり)も、衆生(しゆじやう)機に与へ給へるとかや。それに少しも違(たが)ふべからず。我が好む様(やう)、受けたる姿なればとて、「この体を詠め」と得ざらむ人に教へ候はむこと、返す/\道の魔障(ましやう)[仏道の修行を妨げる悪魔のさわり]にて候べし。その人の詠めらむ歌を、よく/\見、したゝめて後に、風体(ふうてい)を授くべきにて候。

 いづれの体を詠むにも、直(なほ)く正しき事は、わたりて心にかくべきにこそ。さればとて、またその一体に入りふして、余体を捨てよとには候はず。得たる体を地盤として、正位(しやうゐ)に詠みすゑて、さて、余(あまり)の体を詠まむは、苦しくは候まじ。たゞ正路(しやうろ)を忘れて、あらぬ方におもむくを、つゝしむべき事とぞ覚え侍る。

 今の世にも、肩を並べて互ひに達者の思ひをなしたる輩も、多分にして、この趣をわきまへかねて、たゞ我が詠むやうを学べとのみ教ふること、無下の道知らぬにて侍るべし。もし我に越(こ)えて、ものをも高く案じ、すぐれたる姿を天骨(てんこつ)[生まれ持った才能]と詠む人のあらむに、かやうに提撕(ていせい)[後進のものを指導すること]せば、何かよろしく侍るべき。俊頼朝臣、清輔(きよすけ)などの庭訓抄(ていきんせう)にも、このよしをば、よく申しためりとぞ見え侍る。かまへて邪(よこしま)におもむく所をぞ、いかにも守り教ふべきにて候。如法(によほふ)[まったく、もとより、といった意味の副詞]器量なる人も、教へを受けずして、雅意(がい)[=「我意」、に「雅と我流に思われる自らの意」をあてたものか]にまかせて詠みゐたれば、口の自然に邪におもむく事の候なる。まして、不器(ふき)の人の、殊に我(われ)とたゞ抑へて詠み習はむとし候へば、悪しくなりゆき候へども、すぐになる道は候はず。

歌の善悪を定めること

 およそ歌を見分けて、善悪を定むることは、殊に大切のことにて候。たゞ、人ごとに推量ばかりにてぞ侍ると見えて候。その故は、上手といはるゝ人の歌をば、いとしもなけれども誉め合ひ、いたく用ゐられぬたぐひの詠作をば、抜群の歌なれども、結句(けつく)[かえって、むしろ、といった意味の副詞]難(なん)をさへ取りつけて、そしり侍るめり。たゞ主(ぬし)によりて、歌の善悪を分かつ人のみぞ侍める。まことに、あさましき事と覚え侍る。これはひとへに、是非(ぜひ)にまどへる故なるべし。おそらくは、寛平(くわんべい)以往(いわう)の先達(せんだつ)の歌にも、善悪思ひ分かたむ人ぞ、歌の趣を存ぜるにては侍るべき。

 かく知れるよしには申し侍れども、愚老(ぐらう)[自分をそう述べたもの]もつや/\わきまへ得たること侍らずこそ[「つやつや+打ち消し」で「まったく~ない」の意味]。さりながら、さしも卑下(ひげ)すべからず。さる元久(げんきう)[1204~1206年頃]ころ、住吉参籠(さんろう)[神社や寺にこもってお祈りすること]の時、「なんぢ月明らかなり」と冥(みやう)の霊夢(れいむ)を感じ侍りしによりて、家風に備へむために明月記(めいげつき)を草し置きて侍ること、身には過分のわざとぞ思う給ふる[「思ひ給ふる」の「ウ音便」]。かやうのそゞろ事(ごと)[つまらないこと]まで申し侍ること、いと片腹痛うぞ覚え侍る。

幾つかの諸注意

 また、古詩[ここには特に漢詩のこと]の心・詞を取りて詠むこと、およそ歌にいましめ侍る習ひと、古くも申したれども、いたく憎からずこそ。しげう好(この)まで、時々まぜたらむは、ひと節ある事にてや侍らむ。

「白氏文集(はくしもんじふ)の第一・第二の帙(ちつ)の中に大要侍り。かれを披見(ひけん)せよ」

とぞ申し置き侍りし。詩は心を気高く澄ますものにて候。もつとも歌詠まむ時、貴人の御前などならば、心中にひそかに吟じ、さらぬ会席ならば、高吟(かうぎん)もすべし。歌にはまづ心をよく澄ますは、ひとつの習ひにて侍るなり。我が心に、日頃おもしろしと思ひ得たらむ詩にても、また歌にても、心に置きて、それを力にて詠むべし。

 初心の程は、あながちに案ずまじきにて候。さやうに歌は、たゞ案ずべき事とのみ思ひて、間断(かんだん)なく案じ候へば、性も惚(ほ)れ[精神もぼんやり鈍り]、かへりて退く心の出(い)でき候にて候。

「口馴れむためには、早らかに詠み習ひ侍るべし。さてまた時々、しめやかに案じて詠め」

と亡父(まうぶ)もいさめ申し候ひし。

 晴がましき会合の時は、あまりに歌数多く詠むこと、然(しか)るべからず候か。稽古も初心も、用意同じことにて候。百首などの続歌(つぎうた)には、四・五首、已達(いたつ)の者は七・八首、よき程にて候べし。

 初心の時は、ひとり歌を常に、早くも遅くも、自在にうち/\詠み習はすべく候。詠み捨てたらむ歌を、左右(さう)なく人に散らし見する事、あるべからず。

 いかにも未練の程は、日ごろ詠み馴れたる題にて詠むべきにて候よし、申すことにて候。あからさまにも座正しからずして詠むべからずと、いさめ申し候ひしに候。

 また、歌の五文字(いつもじ)は、よく思惟(しゐ)して後に置くべきにて候。されば故禅門[亡父と同じ、藤原俊成を指す]も歌ごとに五文字をば、注に付け候ひしに候。披講(ひかう)[歌会で、その歌を詠み上げること。またその役、その式のこと]の時、沙汰(さた)出できて、

「されば、何の心に、歌ごとに初句のそばに書かるらむ」

など、人々不審し侍りし返答に、

「五文字をば、後に詠み書き侍るほどに、注のやうに候」

と申して侍りしに、満座の者ども、ひと節あること聞き得たりと思ひげにて、色めきてこそ候ひしか。

結び

 今にはかに、かんがへ申し候。定めて髣髴(はうふつ)[はっきりしない、あいまいの意]きはまりなうぞ候らむと、あさましきまでに思う給へ[「思ひ給へ」の「ウ音便」、先の「きはまりなうぞ」も「ウ音便」]候ひながら、ひとへに愚訓(ぐゝん) をのみ守(まぼ)る、その仰せかたじけなく候まゝに、左道(さだう)[正しくないこと、謙遜してそう言ったもの]の事ども記しつけ候。相構え/\、他見(たけん)に及ぶべからず候。大体愚老(ぐらう)が年来の修理(しゆり)の道[修行によって得られた和歌の理の道]、たゞこの条々の外、また/\他の用意なく候。随分心底(しんてい)を残さず書きつけ侍り。かならず、この道の眼目(がんもく)[肝心なところ、要点]とおぼしめして、御覧ぜられ候べく候。あなかしこ、あなかしこ。

2013/6/19 朗読
2013/08/18 原文完成

[上層へ] [Topへ]